ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(舞踊考4~イジメ、ダメ、ゼッタイ3)

2015-03-12 15:59:25 | babymetal
『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、
舞踊=「振り」と、歌詞との、関係を考えてみたい。


その関係は、大別して、次の三種類に分けることができそうだ。
(考察を進めて行くなかで、さらに細分化が必要であれば、その都度行っていくことにする。特に何か目的があって書いているわけでもなく、楽しみでやっているだけなのだから、じっくり丁寧に考えていこう)。

<「振り」の歌詞との関係>

a.歌詞の表現(「イコール」の振り)
b.歌詞と立体的に関係(歌詞との「掛け算」)
c.歌詞とは無関係(「リフ」「リード」などの役割)

aとは、いわば、歌とのユニゾンだ。あるいは、五度上の完全音程を重ねるパワーコード的な構造によって、耳で聴く歌詞を増幅する役割をはたす「振り」だ。

bとは、歌詞とは異なる表現による「振り」によって、「演」奏をより立体的にするものだ。例えば、歌詞として「悲しみ」を歌っていても、それをYUI・MOAが笑顔をふりまく「振り」で「演」奏していたら、その「掛け算」によって複雑なニュアンスが発生する。

cは、イントロや間奏、アウトロでの「演」奏であり、また、歌詞が歌われている箇所であっても、歌詞の表現する世界とは無関係に、例えば、楽器隊と連動したり、リズムをビジュアルで増強する「振り」だ。とりわけ、この曲の「演」奏における「X(ダメ)」はまた、あの「X(エックス)」へのオマージュであろうから、歌詞の世界から離れた分析視点は必要である。

もちろん、ある「振り」が、a・b・cのどれなのかは、観る側の主観的な判断によるところがあることは言うまでもないし、必ずしもきれいに区分できない「振り」もあるだろう。ただ、微細な線引きは別として、かなりのところまでは客観的な区分ができそうに思う。

その前にひとつ、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の歌詞自体の持つ複雑さ・多次元性について軽く解きほぐしておく必要があるだろう。

BABYMETALの楽曲のなかでも、一般世間の目に曝される機会(地上波TVでの演奏など)がいちばん多い曲であるのだが、タイトルを見て・楽曲をざっと聴いたら、「イジメ撲滅を訴える倫理的な歌」だと思われるだろうし、しかし、本当に真剣にそれを訴えている曲だとも思えない(とりわけ、YUI・MOAの合いの手や「振り」)から、イジメをネタにした歌詞やダンスをメタル風の曲に載せた話題性狙いの(あざとい)アイドル楽曲だ、と思われてしまうかもしれない。

そうした危険性をもはらんだ多層構造としてこの曲の歌詞自体が作られているのだ、と僕は考える。

<『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の歌詞の構造>
(あ)イジメはゼッタイだめだ、というメッセージ
(い)BABYMETALのメタル・レジスタンスの宣言
(う)意味性を超えた、音「楽」としてのリズム・音・声の媒体

いちばん表層にある(あ)においても歌詞にかなりのねじれがあるので、それは、この後詳しく考えたいが、この曲を聴いて普通にまず理解されるのがこの次元であることは言うまでもない。実際に、ライヴの演奏でも紙芝居では「いじめ、だめ、ぜったい」を意味する(あ)の次元のメッセージが流される。本当は(い)であって(あ)ではないのだ、という言い方は、したがって間違いだ。明らかに(あ)の層の意味をこの曲の歌詞は孕んでいるのである。

(い)については、PVに象徴的に表わされている。いじめられている(抑圧・スポイルされている)のは、「燃やされるフライングV」に象徴されるメタル・メタラー(ロンゲのひげのおっさん)なのであるし、ライヴではウォール・オヴ・デスが煽られる。ある意味では抑圧されたメタラーたちへの一体化の呼びかけ(つまり、アンセム)でもあるのだ。

(う)「きつね(飛べ)きつね(飛べ)きっと飛べるさ」という歌詞は、もちろん、(い)の次元にあるのだと捉えることもできるが、実際に僕らがこの曲を聴くときには、そうした意味を理解することなく、音やリズムや声を味わっているのだ、と言った方が実体験に即しているのではないだろうか。
歌「詞」は、歌「詩」でもあり、散文的な意味を伝えることを超えた、(例えば中原中也の「ゆあーんゆよーんゆよやよーん」のような)”言葉のダンス”でもある。フォックスサインを作った三姫が飛びながらこの歌詞を歌う(a)楽しさは、(い)(う)にあるのであり、もっと言えば、(あ)として歌詞を聴いてきた聴き手のアタマが「?」となる仕掛けの面白さでもあろう。

(あ)のねじれについて。

歌詞の冒頭A「夢を見ること それさえも持てなくて~見つづけてくれた あなた」は、イジメを受けている側からの歌詞だと理解できるが、B「自信(持って)持てずに(負けないで)~自分サヨナラ(バイバイ!)」のパートでは、それが二重化される、SU-の歌は冒頭からのいじめられている側による歌とも理解できるが、YUI・MOAの合の手は発話主体の外にある。そして、C「イジメ(ダメ!)イジメ(ダメ!)カッコわるいよ(ダメ!ダメ!ダメ!ダメ!)」とは、SU-の歌もいじめられている側からは離れている(いじめられている本人が「イジメはカッコ悪いからダメ!」などとは言わないだろう)し、続く「傷ついて傷つけて傷だらけになるのさ」も、視点が混在している。それがC終わりの「君を守るから」にまで至る。ここは明らかに外からの視点になっている。

歌「詞」が「詩」であるとは、単線的な意味に回収されない、ということである。英語の歌詞を聴きながら、(もちろんところどころ意味はうっすらと理解はしながらも)僕たちはその歌詞そのものの音やリズムや声を楽しんでいるのであって、(「Kill the King」は「王を殺せ」であるよりも「キル・ザ・キング」であり、「Rock Bottom」は「どん底」であるよりも「ロック・ボトム」であろう。)僕たちメタルヘッズは、そのようにしてヘヴィ・メタルの楽曲を受容してきたはずなのだ。BABYMETALの歌詞も、そのように受け取られるように作られている。
ただし、BABYMETALの歌詞が日本語であるということは、僕たち日本人にとっては、「意味」による理解が強くなってしまう(意味がわかってしまう)ということであり、それを無化・二重化・転覆させるために、YUI・MOAの「振り」(のひとつの役割)があり、歌詞そのものに、多重化・ねじれた構造が埋め込まれているのだ。

ということをふまえて、a・b・cを分析してみよう。
(つづく)




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