ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(BABYMETALと『考える身体』①)

2016-10-23 14:59:42 | babymetal
仕事に追われているうちに、気がつけばもう10月後半になってしまった。
ほぼ一ヶ月もこのブログを更新できなかったことになる・・・。

今さら「RED NIGHT参戦記」を綴るというのも間が抜けているので、あの夜を振り返ったりしながらも、いつもの「探究」へと歩を進めていこう、そんなふうに思っている。

今回のメンター役に選んだのが、三浦雅士著『考える身体』である。
1999年12月に(SU-METAL、2歳!YUI・MOA、0歳!)発刊された、決して新しくはない本だが、ふとした縁で最近入手し、読み始めた本だ。
三浦雅士の著書は『身体の零度』をはじめ何冊か持っているし、いろいろ啓発された記憶はあるが、この本に出逢う機会がこれまでなかったのだ。

帯には、
人類の起源から現代に至る歴史的文脈のなかに「身体」を位置づけ、身体と精神・言葉・文学・思考・芸術・舞踊・・・との関係を縦横に論じる。
とある。

これは、BABYMETALとは何かをめぐって、考えるヒントをいくつも与えてくれる本である(まだ読みはじめたところだが、すでに傍線ひきまくりである)。

さて、9月19日のRED NIGHTとは何だったのだろうのか?
もちろん、BABYMETALのライヴ、東京ドーム公演2Daysの初日公演だっのだが、それは、僕(たち)にとって、いったい何だったのか?

あらゆる芸術は、事件として以外に、出来事として以外に、存在しえないのである。
(「芸術の身体」)


そう、「事件」だったのだ。
とんでもない「出来事」だった。
そしてこのことが、芸術というものの本来の性質なのだ、ということを『考える身体』によって改めて確認すると、BABYMETALというユニットが僕(たち)にとって何なのか、ということが鮮明になる気がする。

BABYMETALに出会って、人生が変わった。

僕を含め、そんなおっさんは多いはずだ。

単に、お気に入りのカッコイイバンドとか、全力で応援したくなる可愛くひたむきなアイドルグループとか、ではない、もっととんでもない「事件」「出来事」、それがBABYMETALだ。

台風の最中、新幹線で日帰り往復(娘と2人連れ)で、東京ドームにライヴに馳せ参じる、それも、黒Tシャツにブーツを履いて、なんてことをこの歳になってやっているなんて、3年前にはまったく想像もつかなかった。それを、そうさせるのがBABYMETALなのだ。

そして、それは、BABYMETALがメタルダンスユニットだ、ということにおおいに因っている。

これは、このブログで繰り返し書いていることだが、おそらく、これは、何度繰り返し確認しても無駄ではない、僕たちが何となく感じている以上に、とんでもない「発明」「発見」「革新」そして裏返せば「芸術の根源・本質への回帰、その清新な表現」なのである。

芸術の身体と宗教の身体はほんらい近接している。そして舞踊の身体はその両者を結ぶ地点に位置しているのである。あるいは儀式の身体と言ったほうがいいかもしれない。
(「芸術の身体」)


RED NIGHTを振り返って、余韻としての印象として真っ先に出てくるのが「神々しさ」なのだが、それは、単に照明・パイロ・舞台装置・魔方陣やコスチュームなどの演出だけによるのではなく、BABYMETALが「舞踊」をみせるユニットだ、ということからもたらされる本質的な帰結なのである。

ここのところは、未だ、きちんと認識されていない。
メタルダンスユニット?自分たちで演奏しないの?・・・じゃあ、操り人形じゃん。と。

あるガールズ・バンドが、BABYMETALとの違いを問われて「私たちは演奏します」と答えていたが、そのことが自分たちを正当化する文言たりうる、というのが、2016年の僕たちの「常識」だ。
「私たちはダンスはしないんです(できないんです)」なんて口にされることはない。

楽器の演奏=正統。
ダンス=付加価値・装飾的演出。

というのが、メタルは言うまでもなく、ロックのステージでの価値基準の基軸である。

舞踊はいまなお侮られていると言うほかない(略)。
「芸術の身体」

これは、まさにBABYMETALを語ったものだ!!!
BABYMETALを「単なるギミック」「紛い物」「操り人形」「単なるアイドル」と見てしまう心性は、僕たち近代・現代人に染みついた価値観なのだ。
ステージ上で可愛い女の子が歌い踊るのは所詮「アイドル」に過ぎない、という認知の枠組みができあがってしまっているのだから。

しかし、三浦雅士は次のようにも語る。

芸術といえば、人は美術、音楽をまず考える。前者は視覚芸術と言われ、後者は聴覚芸術と言われる。だが、絵画でも彫刻でもいい、美術の感動はむしろその律動から、旋律から、調和から来るのである。逆に音楽の場合は、魅力の核心は音の広がりがもたらす空間の豊かさから来ると言っていい。いずれも目のみに奉仕するものでもなければ、耳に奉仕するものでもない。舞踊と同じように、全身に奉仕するのである。いや、さらに分かりやすく言ってしまえば、美術も音楽も、広大な舞踊の富のその一部を肥大させたにすぎない。舞踊の混沌を強引に細分化したにすぎないのである。「芸術の身体」


今となっては(BABYMETALのライヴ後はいつでもそう感じるが)夢のようだった、RED NIGHT
そこで僕(たち)が体験・遭遇したものは、激しく・美しく・底抜けに楽しい「舞踊の混沌」だった
美術の感動も音楽の感動も一緒くたになった「舞踊の富=混沌」の、これ以上にないデラックスな祭典、それがRED NIGHTだったのだ(BLACK NIGHTは未体験なので語れませんが、とんでもなかっただろうことはわかります)。

舞踊の魔力

とも三浦雅士は言う。
これ、今後も使わせていただこう。
アイアンメイデンのアルバムタイトルっぽくもあるし。

最後にもう一カ所、やや長文になるが『考える身体』から引用する。
これぞ、本物、BABYMETALのことだ!!!
(「私たちは演奏します」とか、余裕をかましている場合じゃないはず、なのだ。)

感動とは身体的なものだ。人によっては、理論的な何かがまずあって、その理論に近いものに出会って感動するということがあるのかもしれない。だが、それはたぶん偽物である。ほんものの感動はそんな余裕を与えない。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り、打ちのめされるのである。
感動は相対的なものではない。絶対的なものだ。嵐が過ぎ去って、これはいったい何だったのかと、人は考える。感動する身体とはいったい何か。そしてまた、感動させる身体とはいったい何か、と。だが、考えているそのそばから、さらにまた新しい感動が襲ってくる。身体が震えるのである。こうして、なかば陶酔し、なかば覚醒しているという不思議な状態に置かれる。これこそ舞踊の醍醐味なのだ。


(つづく)