ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(ヴァージョン考~イジメ、ダメ、ゼッタイ5)

2015-05-28 11:57:53 | babymetal
限定盤『Live In London』を堪能している。
とりわけ、CDの「O2 ACADEMY BRIXTON ライヴ」には何度も鳥肌を立てた(この言い回しもこのブログで何度も出てくるが、事実そうなのだから仕方がない)。
ライヴ版とはいえ、当然ミックス作業がされているのだが、それが、僕の予想を遙かに超えた、精密で丹念で、いうならば色っぽい、仕上がりなのだ。
BABYMETALのライヴ音源を使って、完成された新たな音響世界を構築しようという強い意志を感じるミックスだ。
SU-METALの声は、「RED NIGHT」「BLACK NIGHT」に比べてもやや薄いのだが、その分、楽器隊の凶暴な音の割合が増え、SEの含有率も実に効果的であり、改めて楽曲の素晴らしさをたっぷり味わうことができる。
さんざん聴き込んだはずなのに、まったく新しい音がそこかしこに聴こえる、そんな音像世界が実現されている。

例えば、「メギツネ」だ。(電車の中でこのCDを、驚嘆しながら一曲一曲聴きすすめていき、「メギツネ」でついに涙ぐんでしまった。)
イントロ前の「キ~ツ~ネ~」のSEが終わり、
リフがはじまるのだが、「ジャ・ジャッ・ジャッ・ジャッ・ジャ・ジャン」の耳慣れたリフが、大げさにいえばすべての弦の鳴りが聴こえるほど音が一本一本際立って聴こえてくるのだ。
聴く環境が悪ければ、音が割れている、と感じられるかもしれないが、そうではなく、ディストーションの効いた音が鮮やかに聴こえるのである。ここまできちんとギターの弦の音が立体的に聴こえるのはこの曲でははじめてである。それでいてきちんとバランスはとれている。
もちろん、ベース、ドラムスの重音部も、迫力がありながら、過度にブーストされてははいず、底から湧きあがってくる明確な音像として、聴くことができる。

「O2 ACADEMY BRIXTON」の映像の方は、Amazonのレビューなどでも、酷評なさる方もいらっしゃるようだが、このCDの音像世界は、家宝レベルの「至高」ヴァージョンである。

と、このように、BABYMETALの楽曲は、同じ曲目であっても、実に数多くのヴァージョン違いが存在し、それぞれに独自の魅力がある

このことの意味を、(考察の途中である、というか、永遠に完結はしないだろう考察のひとつの途上にある)「イジメ、ダメ、ゼッタイ」に即して具体的に検討してみよう。

僕自身が所有しているライヴ映像のヴァージョン(音源のみの、Air Version や Nemesis Versionは除く)を、この文章を書くために数えてみると、全部で15種類あった。

演奏年代順に並べてみると、次のようになる。

0.アルバム(=シングル)版 = 公式MV版

1.LEGEND I 版                 2012・10・06
2.LEGEND D 版                 2012・12・20
3.LEGEND Z オープニング版           2013・02・01
4.LEGEND Z ラスト版               2013・02・01
5.LEGEND 1999版                2013・06・30
6.サマソニ13版(アルバム初回特典映像)      2013・08・10
7.ラウドパーク13版(WOWOW放映)       2013・10・20
8.LEGEND 1997版                2013・12・21
9.RED NIGHT 版                    2014・03・01
10.BLACK NIGHIT 版                2014・03・02
11.The Forum 版                   2014・07・07
12.幕張メッセ(「London」特典ディスク)版     2014・09・14
13.O2 ACADEMY BRIXTON 版          2014・11・08
  (含む『BABYMETAL現象』テレビ放映版)
14.2014年末 MUSIC STATION 版(テレビ放映) 2014・12・25
15.新春キツネ祭 版(WOWOW放映)      2015・01・10

こうして並べてみると壮観だが、僕が異常なマニアなのではなく、このブログをご覧の皆さんもお持ちであろう、ごく普通のヴァージョン・ラインナップだ。
(あのSonisphereでのパフォーマンスは、僕は所有はしていないので、勘定には入れていない。ネット上で見られる数多くのファンカムを加えれば、さらに膨大なヴァージョンが存在することは言うまでもない。)

いちばん時間が空いているのが、4と5の間、約5カ月である。(この間の、五月革命4公演、もしも盤化されたら絶対に入手したい!)。あとは、2~4カ月ごとの「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を僕たちは観ることができるのだ。

前々回に書いたが、この15公演を、あれこれ繰り返し楽しむとは「アイドル商法」の商品を「消費」することなどでは全くない。

ライヴでの「実力」を発揮するBABYMETALを楽しむとは、例えば、こうした15のヴァージョンの違いを味わい分ける、ということでもある。(30年以上聴きつづけてきたヘヴィ・メタルにおいても、こんなこと、つまり同じ曲目の15のライヴ・ヴァージョンを味わい分けるなんてことは、少なくとも僕には、全くなかった。)
よそから見れば、まさに「宗教」とも見えるかもしれない、BABYMETAL独自の鑑賞のあり方だ。

もちろん、「CMIYC」「メギツネ」「ギミチョコ」「輪舞曲」など初期にはまだレパートリーになっていなかった曲に比べて、BABYMETAL発足時からあった楽曲「イジメ、ダメ、ゼッタイ」は、BABYMETALのアイデンティティを体現した楽曲でもあり、いちばんヴァージョンが多い、という事情もあるのだが、こうして改めて並べてみると、よくぞきちんと出し続けてくれた、という思いを新たにする。だって、それぞれ違うんだから。

そして、驚くべきことに、僕は(たぶんほとんどの皆さんも)これだけのヴァージョンを繰り返し視聴しても、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を「消化」しきれてなどいない、ということだ。
それどころか、先日(このブログを書くためもあって)ヴァージョン1を久しぶりに観なおし、あらためて鳥肌を立ててしまった、なんてことさえあるのだ。

なぜ「消化」できないのか?未だに新鮮な衝撃を受けるのか、といえば、もちろん、まず、BABYMETALのライヴの「実力」の凄さ、がある。

スタジオ盤よりもライヴの方が歌や楽曲の演奏が凄いアイドル、なんて、おそらくこの世に他に存在しないだろうし(もちろん、会場で「生」の姿や声に触れる喜び、はスタジオ盤にはないライヴならではの楽しみなのだろうが)、アイドルではなくヘヴィメタルバンドであっても、眼の前で演奏しているという「生」の迫力を加味しない限り、スタジオ盤を凌駕するライヴを見せるバンドはまずいない。ギターソロが粗かったり、ヴォーカルがフェイクをまじえたり、楽曲・演奏の質としては減衰するのが、ごく当たり前の姿だ。それはそういうものとして、僕たちはライヴに足を運ぶ。スタジオ盤以上の名演を期待して会場に行くのではない。
(ごく稀にスタジオ盤を超える「生」のパフォーマンスができた際の音盤が、ライヴアルバムの名盤として語り継がるのだろう)

しかし、BABYMETALのライヴとは(これを読んでいただいている皆さんには釈迦に説法だと思うけれど)、緻密さ・完成度、つまり、細部の美しさが際立ち、それに、ライヴであるという「生」の生命感がはじけ力感が躍動する、という「至高」のものである。これはもう、とんでもないレベルだ。

しかも、楽器演奏や歌だけでなく、YUI・MOAの舞踊や表情という「演」奏の「情報」の質や量までも体験しようとすれば、上記のすべてのヴァージョンを何度視聴しても、まだ全貌がつかめないのは当然だ。

また、YUI・MOAの舞踊自体も、変化(進化)してゆくから、観るたびに、驚かされる、ということもある。その典型が、ヴァージョン15での、YUIMETALのMOA飛び越えキック!だ。

そうしたことが相まって、どのヴァージョンにも、それぞれ独自の魅力があるのだ。

例えば、間奏部の、YUI・MOAのバトル。

ヴァージョンによって「演」奏の表情が(かなり大きく)変わるのだが、初期と最近とでいちばん変わったと僕が感じているのが、間奏に入る前の「痛み感じて…」と3姫がサムアップしながら中央に歩み寄るパートが「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のポーズで終わった後の、バトル部に入る直前の、「チャラッタ、ラタ」というキメのところだ。

今では(たぶんヴァージョン9以降)、YUIMETALがキツネサインを胸の前でクロス(つまりダメ・サイン)をしてピタッとキメ(いわば、ギター・ベース・ドラムス・YUIのユニゾンのキメ)を見せるのだが、これは、初期のヴァージョンではこのタイミングでは演じられなかったポーズだ。

ヴァージョン6では、楽器隊キメの後、ギターソロがはじまった2小節目に、SU-と揃ってダメサインをしている。(これはこれで悪くないが、最近の方がやはりカッコいいと僕は感じる)。
ところが、ヴァージョン7では、(映像が引きの画になってはっきり確認しにくいのだが)現状のキメになっているように見える。
サマソニ2013が8月、ラウドパーク2013が10月だから、この間2か月、その間での変化(進化)であったのだろうか。
と思いながら、ヴァージョン8を確認してみると、ここには、上記のタイミングでのキメのポーズは、ない。
えっ?
単純に、ある時期から今のキメのポーズに変化した、というわけでもないようだ。

そうしたことを確認するために、ヴァージョン5(LEGEND 1999)とヴァージョン8(LEGEND 1997)とを見比べてみると、それにしても、毎回、汗だくになっているSU-METALの顔はいつもそれぞれに美しい、と感じつつ、1999のあどけなさから、1997の凛々しさへと表情がまったく変わっていることに改めて気づく。骨バンドだしヴォーカルが引っ込んでいるのでそれほど頻繁には観ていなかったヴァージョン8の「イジメ」だが、ヴァージョン5と見比べてみて、マリア像を背景にした「演」奏の神々しい凛々しさに、また鳥肌が立つ。なんて経験をしてしまうのだ。

ヴァージョン1をいま視聴して鳥肌が立つのは、この最初のライヴバージョンが(意外にも)骨バンドではなく神バンド(現行の神バンドとは構成メンバーは異なるが)によるものであり、とりわけドラムスの生音の凶悪さが、この最初期においても今日のBABYMETALにつながる凶暴さを醸し出していた、そんなことを改めていま確認できるからである。

で、結局、何が言いたいのか、といえば、前々回の繰り返しになるが、BABYMETALが出す同じ曲目の異なるヴァージョンの映像は、(少なくとも僕には)出す意味(買って観る意味)がある、ということだ。
BABYMETALの「レパートリーの少なさ」、同じ曲目の異なる数多くのヴァージョンは、演じる3姫だけでなく、視聴する僕たちにも一つの楽曲を深く深く味わう「熟成」を可能にしてくれているのではないか。神バンドの演奏やSU-METALの唄声だけでなく、YUI・MOAの舞踊や笑顔までもが「演」奏であるBABYMETALのパフォーマンスは、上に挙げたようなヴァージョンをすべて繰り返し視聴しても、「消化」しきれない深みを持つのだから。

控え目にいっても、こうしたありようは、「アイドル商法」などと非難されるようなものでは全くないし、声高らかに揚言するならばむしろ、、日本の音楽シーンにあざやかに登場した「良心」であり、誇るべき質の高さと言うべきだろう。

もう一つだけ、付言したい。

間奏(ギターバトル)におけるYUI・MOAのバトルの「演」奏を「小恥ずかしい」のようにコメントするのを目にすることもあるが、あれは、武道でいう「演武」だと僕は感じている。それは単なる演技(お遊戯)ではなく、精神性を含む武術の核心を「型」として表出する、というものだ。
YUI・MOAのバトルは(本気の「演」奏として彼女たちは「闘って」いる)、息を呑むほど素晴らしいものだと思うし、この「イジメ、ダメ、ゼッタイ」がBABYMETALの少ないレパートリーの中でも格別に意味深い曲であることのひとつの象徴が、あの、YUI・MOAバトルであるのだ(だから、それの見られないあのヴァージョンは僕にとってダントツのワーストである)。

で、このバトルが、実に様々なヴァージョンで演じられていて、これを見比べ、感じ較べる愉しみも、BABYMETALが与えてくれるヘヴィメタルとしての楽しみのひとつだ。「イジメ、ダメ、ゼッタイ」は、おそらくBABYMETALが活動を続ける限り、最も「演」奏し続けられる楽曲だろうから、今後も、演者も僕たち観客も、さらに数多くのヴァージョンに触れて、「熟成」を続けるのだ。

で、現段階でのMyベストのヴァージョンはどれ?なんて皆さんに訊いてみたい気もする。
ソニスフェア・ヴァージョンが入っていれば、それが一番人気だろうか。
今年は、これに、レディング・ヴァージョン、リース・ヴァージョンが加わるだろうし。

ワーストは残念ながら決まっているが、後は、ホント、それぞれに味があって悩ましい。

骨バンドながらも、ヴァージョン3はオープニングの紙芝居→「ナウシカ・レクイエム」からの壮大なカッコよさでは際立っているし、「復活」後の、白いふりふりのヴァージョン4も貴重である。

ヴァージョン9ももちろん心に沁みる。このヴァージョンについては、YUIMETALに言及されることが多いが、むしろ、MOAMETALが他のヴァージョンにはない信じられない苦しそうな表情を見せるのが本当に印象的で、限界を超えていたのだな、ということがありありとわかる。SU-METALの「夢」であった武道館という晴れの場の、最後の最後で、とんでもない状態に陥ったこと、それを乗り越えて、今のBABYMETALがある、ということが、三姫がサムアップしながら歩み寄るところのMOAMETALの表情・しぐさを目にすると実感できる。言うまでもなく、とんでもなく過酷な「演」奏を彼女たちは行なっているのだ。「ライヴは闘い」を表わす象徴的な映像である。

でも、YUI・MOAの舞踊を中心に考察するこのブログ主としては、最新のヴァージョン15を現段階のMyベストにしておく。
また詳しくは(時間があるときに)比較したいが、このヴァージョンのバトルには、YUIMETALの空中飛翔だけではなく、弓矢を射る動きも一瞬あって、ロード・オブ・ザ・リングのレゴラスか?なんて思う楽しみもあるし。

だから、どの曲が好き?という質問は、BABYMETALの場合は、きわめて粗い質問になってしまうのだ。むしろ、各楽曲ごとに、どのヴァージョンが好き?と問うのが、正当な質問なのではないだろうか
だから、例えば、武道館ライヴを購入したから同じ曲目のロンドンライヴは要らないとか、その逆とか、は、BABYMETALの視聴の仕方としては粗っぽいのではないか、と思ってしまう(全くもって余計なお世話、おせっかいだが)。
同じ曲目のヴァージョン違いを楽しむ、それだけの情報量と質の高さを彼女たちのライヴはもっているのだから。
オンリーワンの存在BABYMETALは、その受容のされ方もオンリーワンであってよいし(そうあるのが正当だし)、BABYMETALの比類のない「中毒」性のひとつの様相が、このヴァージョンそれぞれの魅力、であるのだろうから。






BABYMETAL探究(「笑顔」考)

2015-05-24 22:46:03 | babymetal
とりわけMOAMETALは「微笑の天使」と称されるが、彼女だけでなく、YUIMETALも、もちろん時にはSU-METALも、楽曲の「演」奏としての魅力的な「笑顔」を見せる。
「笑顔」は、他のヘヴィメタルバンドにはない、BABYMETALの「演」奏の独自性の重要なひとつだ。

その「笑顔」の、ヘヴィメタル(の「演」奏)としての意味とは何なのだろうか?

というのは、(毎度の繰り返しになるが)BABYMETALの「演」奏は、激しいヘヴィメタル音楽に載せて可愛い女の子たちが笑顔を振りまきながら歌い踊る、などというものとは全く質を異にするものであり、MOAMETALを筆頭とする彼女たちの「笑顔」も、その「演」奏としての重要な役割を果たしていると思われるからだ。
「笑顔」によってBABYMETALのヘヴィメタル楽曲世界は比類のないチャーミングな相貌を伴って、僕たち観客に届けられる。
「笑顔」も、BABYMETALの「演」奏の、極めて大切な一要素なのだ。

実際に、彼女たちは、気分任せに「笑顔」を浮かべているのではなく、「笑顔」をもいわば「演」奏しているのだ。

わかりやすい一例が、「BABYMETAL DEATH」だ。
この楽曲において三姫はほとんど「笑顔」を見せない。それがこの曲の神々しさを引き立てているのだが、そのなかで、ときおり浮かべる「笑顔」、とりわけMOAMETALの「MOAMETAL DEATH!」でのはっきりした「笑顔」が、この楽曲における「演」奏のうえでの絶妙のスパイスになっている。まさに小粒でぴりりと辛い「笑顔」だ。この楽曲の世界観においては、三姫がずっと真顔であり続ける方が自然だし、そうであっても問題ないのだろうが、ほんの少しの(とびっきりの)「笑顔」が交じることで楽曲の味わいの深さがぐんと増す。
(他の楽曲ではYUIMETALもMOAMETALと同じくらいの、時にはそれ以上の笑顔を見せているのだけれど、「笑顔」といえばMOAMETAL、という印象があるのは、この「BABYMETAL DEATH」での「演」奏が大きな要因のひとつだ、と思う)。

また、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」では、SU-METALは「笑顔」を見せない(希望に満ちた明るい表情を浮かべることは時おりあるが)。それは、歌詞からも曲調からも必然だ。しかし、そこに、YUIMETAL・MOAMETALの合いの手の愛くるしい(あえて言えば「狂気」さえ感じさせる)「笑顔」が交錯されることで、表情世界が立体的な複雑さとして立ち上がり、観ている僕たちに眩暈に似た感情をおぼえさせる、楽曲のプログレッシヴな構成をビジュアルとしても表現する「演」奏になっている。

「笑顔」には(ミラー・ニューロンの回で考察したように)、僕たちの肉体・無意識を直接揺り動かす効果がある(僕たちはミラーニューロンの働きによって、MOA・YUIの「笑」顔を僕たちのなかに「写」している)のだが、そうした次元とはまた別の意味が、彼女たちの「笑」顔にはあるように思える。BABYMETALというユニットの成り立ちの構造そのものに関わる秘密、だ。

それは、何か?

それを考えるヒントになるのが、白川静の漢字についての考察である。
「文字は呪能を持つ」(文庫版『漢字百話』の帯)と、太古中国の呪術的な世界に立ち戻り、文字の原義を鮮やかに浮かび上がらせる彼の解釈は、しばしば鳥肌が立つほどスリリングなものだ。

その白川静が、「笑」について次のような講釈をしているのだ。(『常用字解』)

「笑」
巫女(ふじょ。神に仕えて神のお告げを人に告げる女。みこ)が両手をあげ、身をくねらせて舞いおどる形神に訴えようとするとき、笑いながらおどり、神を楽しませようとする様子を笑といい、「わらう、ほほえむ」の意味となる
若は巫女が両手をふりかざして舞い、神託(神のお告げ)を求めている形で、笑とちがってサイ(表示できませんが、口に似た記号です)がそえられている。ふりかざしている両手が、若では草かんむりの形に、笑では竹かんむりの形に字形化されている。
その下の夭(よう。くねらすこと)は、人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形である。


傍線を付したところ、これはまさにBABYMETALのことではないか。
つまり、「笑」とは、漢字の成り立ちとしては、うれしいからアハハとかニコリとか笑う、ということではなく、巫女が身をくねらせて舞いおどる形、を言うのだ。
笑いながら踊る、のではなく、巫女の舞踊そのものが「笑」なのである

以前から、何度も、彼女たちの舞踊を「ダンス」と呼ぶことへの違和感を示してきたが(英訳すればどちらもDanceなのだろうけれど)、どうも、このへんにも原因があるようだ。つまり、彼女たちの「舞踊」は単なる「ダンス」とは異なるもっと深い意味をもつ、それこそ古代中国において漢字が生まれたころにまで遡る、歌や舞の始原的な意味をも、最新の激しく重いサウンドや楽器演奏とともに実現しているように見えるのだ。
よく、「宗教だ」という言葉が、ニコニコ動画の書き込みにも見られるが、それは正しいと思う。つまり、歌や舞の始原が宗教的なものであり、彼女たちの「演」奏は、そうした原始の狂乱を現代に甦らせるものでもあるのである。
今はやりのJpopのダンスユニットとは、その匂いや気配が全く異なるのだ。そして、原始的な宗教的な狂乱をも帯びたBABYMETALのそれは、ヘヴィメタルという凶悪なサウンドにふさわしいものだと(BABYMETALに出逢ってしまったうえで)感じるのだ。

ちなみに、上に出てきた
「若」を『常用字解』で引くと、こう書かれている。
「若」
巫女が長髪をなびかせ、両手をあげて舞いながら神に祈り、神託を求めている形。…神託を求めて祈る巫女に神が乗り移って神意が伝えられ、うっとりとした状態にあることを示すのが若である。伝えられた神意をそのまま伝達することを「若(かく)のごとし」といい、神意に従うことから、「したがう」の意味となる。神託を求める巫女が若い巫女であったので、「わかい」の意味にも用いられるようになったのであろう。


「若」=BABY という等式を応用するならば、これもほとんどそのままBABYMETALの「設定」の説明であるかのように読めてしまう。
(白川静氏がもしも存命だったら、彼もまたBABYMETALに嵌まったのではないだろうか?)

自分たちで作曲をしない、自分たちで楽器を弾かない、作られたユニットの上で与えられた役割をお仕事としてこなしている、という、BABYMETALを批判するひとつの定型的な文言があるが、考えてみるまでもなく、ローティーンの女の子たち三人が自発的にヘヴィメタルを(しかも二人は舞踊というかたちで)やろう、などと思うはずがないのであって、BABYMETALというユニットの革新性(僕たちにとっての奇跡)は、ヘヴィメタル史に今までなかった(考えすらしなかった)三人の美少女たちの「演」奏を、いわば「神託」というかたちによって実現したことにある。

紙芝居でも語られるように、「The Metal God」によって「Three Girls were Chosen」なのであり、そうした彼女たちの巫女としての舞踊が「笑」であり「若」である、のだ。

音楽的に言えば、(前回考察したように)この神託にあたるのが、聖典『BABYMETAL(1stアルバム)』ということになろう。必ずしも、KOBAMETALが神託を下す、のではない。彼自身も、いわば「The Metal God」の僕(しもべ)なのであり、三姫と「The Metal God」とをつなぐ役割をストイックに果たしているのだ。

自分たちの感情を歌にし、演奏する、という、通常のバンドのありようが、<近代的な自己表現>だとすれば、BABYMETALのありようとは、もっと原始的なありよう、それこそ歌や踊りや「笑」や「若」の始原まで立ち返るような原始的なもの、なのではないか。

三姫の、(最新形態の美少女であるはずなのに)どこか懐かしくゆかしいたたずまいは、そうした「演」奏をなりわいとしていることからくるのかもしれない。

僕は、「メギツネ」のPVでBABYMETALに一発ドハマりしたのだが、それは、上に書いたことをあのPVは強く感じさせるものだった、ということなのかもしれない。もちろん、こんなことは今思いついたことなのだが、僕自身の(これを読んでいる皆さんの何割かの)BABYMETALとの遭遇の核心を衝いているような気がする。

それにしても、BABYMETALのコンサートでどこで誰がどのような「笑顔」を見せているのか、きちんと確認しようとするだけでも大変な(とても楽しい)作業だ。
(逆に、例えば「4の歌」でもとんでもない「真」顔をも二人は見せる)。

YUI・MOAの「演」奏を中心にした、このBABYMETAL探究は、まだまだどこまでも底の深い作業になりそうである。

BABYMETAL探究(レパートリーの少なさ考)

2015-05-21 11:37:35 | babymetal
BABYMETALの独自性、その重要な特質のひとつとして、
「レパートリーの少なさ」が挙げられる。

その点について、不満を示すファンも少なからずいるようだ。
発売前の、「Live in London」の円盤のアマゾンでのレビューにも、そうした不審・不信・不満を述べるものがいくつか見られた。

「同じ曲目で、いったい何枚映像商品を発売するのだ?これは、悪しきアイドル商法だ、と。」

そう言いたくなる気持はわからないでもないのだが、しかし、「アイドル商法」という文言、これは全くの見当違いだ、と言わなければならない。
BABYMETALの「少ないレパートリーで何枚も映像作品を出す」あり方は、アイドル商法とは、まるで異なる、というか、むしろ、まさに180度対極にあると言うべきだと僕は思う。

アイドル商法とは、(人気のある間に稼げるだけ稼ごうと)数か月単位でどんどん新曲や映像を出しては買わせる、という、「消費」のさせ方をいうのではないか。
今のアイドルたちのアルバム、とは、どのようなものなのか、全く知らないが、ひょっとしたら、アイドルのアルバムの楽曲には、一度耳を通しただけで繰り返し聴くことはほとんどない、そんな楽曲も少なからずあるのではないか。

コンサートはどうか?これも今のアイドルのコンサートに行ったことなどないのでわからないが、大ヒット曲数曲で大盛り上がりして、残りはアイドルの生の姿や声が聴こえればよい、というようなものではないのか(完全な憶測ですし、これはこれで、商品として成立するのであれば、商法としてもちろん何の問題もないのですが。それにアイドルに限らず、本当に好きな聴きたい曲は数曲で、あとは生を体験したくてコンサートに行く、というのは普通にあることでしょうが)。

しかし、BABYMETALがほとんど同じ楽曲で何枚も映像盤を出すのは、そういう「消費」を狙った「商法」ではない。
これは、BABYMETALのアイデンティティ(存在意義、あるいは使命)の根幹に関わることだ。

前回の「実力」考で改めて確認できたのは、BABYMETALのいちばんの「実力」とは、SU-METALの歌(声)でも、YUI・MOAの舞踊でも、神バンドの超絶演奏でもなく(もちろんそれらすべてがとんでもない「実力」なのだが、まずはそれらではなく)、何といってもまず第一に、楽曲のすばらしさ、だということだ。

比喩的に言えば、BABYMETALの核には聖典『BABYMETAL(1stアルバム)』があり、それを肉化してこの世に体現するいわば巫女の役割を果たすものとして、3姫と神バンドで構成された演者集団BABYMETALの唄や舞踊がある
ワンマンのフルコンサートでは、正規のレパートリー(聖典『BABYMETAL』)は必ず全て「演」奏する(しかも多くはそれだけしか「演」奏しない)のである。
今は、「RoR」が加わったし、アニメ、やNO Rainや、あわや、カヴァー曲など、多少増えたりすることはあっても、聖典『BABYMETAL』をこの世に届ける、というスタイルの基本は揺るがない。揺るぎようがない。

「消費」のための粗製乱造ではなく、愚直に聖典『BABYMETAL』をこの世に肉化(音響化・映像化)し続ける、その様々な記録が、同じ曲目による多数の映像作品という必然の結果なのだ。だから、今後も、ほとんど同じ曲目で映像作品は出され続けるのである。こういう点で、ロングランのミュージカル等に喩えるのは正しいと思う。僕は、落語等の日本の古典芸能の「ネタ」に近い気がする。古典落語の高座に行くお客さんは、「早く新作を!」とは言わないだろう。
こんなアイドル商法などあるはずがない。
(あえて喩えるなら、宗教商法だろう。そのように指摘されれば、う、うん、…確かに、と頷くしかないような気がする。)


さらにいえば、同じ曲目を毎回「演」奏するからこそ、観客の僕たちが体験できる楽しさ・音楽的な深み、そうしたものをBABYMETALは実現している、のではないか。

つまり、BABYMETALの楽曲は、同じ曲目であっても「演」奏のされ方の異なりによって、実に数多くのヴァージョンが存在する。

例えば、先日届いた限定盤『Live In London』のボーナスディスク収録の幕張メッセのコンサート。これも『BABYMETAL』に「君とアニメが見たい」が加わった全14曲で、レパートリーはいつものものだ。
しかし、ここにあるのは、今まで一度も見たことのない、新たなヴァージョンである。
とりわけ印象的だったのが、
「君とアニメが見たい」の、むしろ男っぽい筋肉質の「演」奏。
「CMIYC」の真っ赤なディスプレイを背に影絵のように動く三姫の幻想的なシルエット。
「4の歌」、モニターに映し出された巨大YUI・MOAの前で、リアルYUI・MOAがよんよんする、まるでウルトラQの「1/8計画」のような眩暈を覚えさせる映像。
等等、全く見たことのないヴァージョンが実現されている。

あるいは、セットリストごとに、曲順が異なるのも楽しい。(中高生の時に、ハードロックMyベスト10、というのを曲順や組み合わせを考えてカセットテープで作っていたことを思いだす。)
この幕張でのラストは「ギミ・チョコ」だったが、他の映像盤にはない、2014年ワールドツアーの日本公演にふさわしいトリだ、と思う。凱旋であり、まだ終わらないよ、という余韻を残して終わる。

「Live In London」では神バンドのメンバーが異なるので、これを聴き比べ・感じ較べるのも楽しい。
これは、まるで、クラシックの「名盤」選定にも似た楽しさだ。

もちろん、こうしたことが商品として成立するのは、BABYMETALの「実力」の凄さ、があってのことだ。
というか、レパートリーが少ないからこそ、さまざまなヴァージョンを、音や映像のすみずみまで味わうことができ、その「実力」の凄さをありありと実感する、という構造になっているのではないか。(いくら味わっても味わい尽くせない情報量の質・量なのだが。)


BABYMETAL探究(「実力」考)

2015-05-18 18:26:21 | babymetal
少なからず心配もあった、ROCK on the Range も、大好評だったようで、またまた彼女たちの「実力」の高さが証明された、そんな感がある。

前回も書いたが、ある意味、それは僕たちにとってもはや「当然」なのだが、しかし、
僕たちメタルヘッズは、世間で評判だからといってすんなりとBABYMETALを聴くようになったのではない、はずだ。

そうした風評が何らかのきっかけになったとしても、僕たちが彼女たちを受容するには、「アイドル」といういわば高い高い壁があったはずなのだ。

その高い壁を超えたうえで、ヘヴィメタルとして(あるいはそれを超えた魅力的な音楽として)自分がこれまで愛聴してきたバンドに匹敵する、あるいはそれを超えるものとして認め、彼女たちに魅せられ、やがて中毒になった、のである。
(古き良き青春ドラマの典型的なパターン、殴り合いの大喧嘩のすえに無二の親友となる、にも似た心理の変化なのかもしれない)

いわば、すべてのメタルヘッズを潜在的なヘイターとして初期設定している、それが、BABYMETALという存在のありようの異形さ(これも彼女たちのオンリーワン)なのではないのか

そういう意味で、例えば他の、女性ヴォーカルをフィーチャーしたバンドや、メタル系ガールズ・バンドとは全くスタートの立ち位置が違うのだ。

そうした壁を乗り越えさせるのは、まぎれもなく、BABYMETALの「実力」だ。
しかし、それは、いったいどのような「実力」なのだろうか?

神バンドの超絶的な演奏力。
SU-METALの歌声の唯一無二(この言葉を僕はこのブログで何度使うのだろう?)の歌声の魅力。

これらはわかりやすい(語りやすい)のだが、しかし
やはりBABYMETALを語るには、
YUIMETAL・MOAMETALの「実力」をこそ語らねばならないはずだ。

2人のパフォーマンスは(少なくともヘヴィメタルにおいては)他に比較対象がないから語ることが難しい(したがって語られ難い)のだが、ヘヴィメタルとしてのYUI・MOAの「演」奏の「実力」、を語らねば、BABYMETALの「実力」を真に語ったことにはならないはずだ。
(このブログは、その、ささやかな積み重ねである)

そして、そうした作業こそが、BABYMETAL(のみ)が体現する、ヘヴィメタルにおける「カワイイ」の意味、を探ることになるはずだ。

それを考えるうえでのうってつけの素材が、「BABYMETALにハマっていく視聴者たち」という、現在ニコニコ動画にアップロードされている映像だ。

ご覧になったことのある方も多いだろうが、
サマーソニック13に出演する前の演者紹介の映像(約50分間)である。
「サマソニ2013特集より、BABYMETALの映像が流れた時の視聴者の反応」と
はじめにテロップされるが、投稿者(b-metalさん)のコメントにあるように「ほとんどの視聴者の方が初見だったと思われます」ということで、メタルヘッズがBABYMETALに初遭遇した時の、いわば「葛藤」が如実に見える、実に興味深い映像だ。
(後日書き込まれたコメントも少なからずあるようだが、その内容から、かなりの確度で初見のコメントはそれと把握できるように思われる)。

僕自身は、「メギツネ」の公式MV一発で、受容可能の閾値を超えてしまった(その瞬間にはここまで「中毒」になるとは思わなかったけれど、あっという間に「夢中」になった)ので、こうした「葛藤」が意識の表面に出てくる経験はしなかったが、この映像に付された批判的なコメントも「身につまされて」わかる、のだ。

そして、50分の映像を観終わったメタルヘッズの多くが、「音盤が欲しい、きちんとした映像盤が観たい、ライヴに行きたい」と思ってしまうという意味で、まさにBABYMETALの「実力」を垣間見ることのできる映像だと思う。

現在のメンバーでの神バンドの演奏はまだ紹介されてないから、その分、BABYMETALの「実力」の原型を考える上で、焦点を絞りやすい資料でもある。

流れる映像は、以下の、9本である。

印象的なコメントを(かなり恣意的にではあるが)ピックアップしてみよう。

まずは、前半(約28分間)。

1.ヘドバンギャー(鹿鳴館コルセット祭り)
 「うわ。」「アイドル?」「モモクロと同じ」「カラオケか~」「曲はいいな」
 「横の二人何してるの?」

2.イジメ、ダメ、ゼッタイ 公式MV
 「曲がガチすぎて笑うw」「曲かっけーな」「演奏がよい」
 「これライブできるのかw」「歌詞www」「合いの手www」
 「ボーカルがメタルしてないなあ」
 (間奏のYUI・MOAのツイン・リードでネタとして盛り上がる)
 「声伸びるね」

3.メギツネ 公式MV
 「これはいい曲」「キツネ!」「かわええ!」「詳しい人、設定を」
 「メタラーにはたまらん重さよ」「ブレイクダウンきたあああ」「おおお」
 「そいや」「曲はほんとええな」「音源いいな」「声いいね」

「なかなかいいな」「たしかに衝撃だった」「バックが生だったら最高やな」

4.ドキドキ・モーニング(Legend”I”)
 「ライブだ」 
 (紙芝居に)「www」「いい設定だなw」「キツネ様w」
 (楽曲がはじまり)「えっ?」「はあ?」「メタルか?」
 「これ生じゃないやー」「この曲はきつい」「アイドルやんwww」
 「声が揺れてないあたり、歌も生じゃなさそう」
 (しーゆー を観て)「台本通りって感じだな」
 「これが生歌だったらボーカル何者w」
 「真ん中以外歌わんの?」「ファンモンの後の奴みたいな感じ」

5.ヘドバンギャー(Legend”I”)
 「儀式?」「儀式キター」
 「こんどこそ生演奏?」「生くるのか?」「生だよ~」「カラオケっしょ」
 (神バンド第一期の「生」演奏がはじまると)
 「がちかよおおお」「お?」「おおお」「生演奏キターーー」
 「バンドって感じだな」「どらむかっけー」
 「ボーカルすばらしい」「音圧すごくね?」
 「歌うまいなw」「歌うめー」「いいね」「かっけえー」
 「ダンス要員も時々ハモるのだろうか」
 「こりゃファンになるわ」
 「ダンス要員にハモるスキルはないと見た」
 「なんだか好きになりそうだw」「もう好きだわ」「はまりそう」

ここまでの、メタルヘッズの心の動きは、
・曲はよい(歌詞w)
・でもアイドルだし
・あれ?ボーカルえらくうまいんじゃない?
・生バンドはすごい(5での視聴者の喰いつきはすごい。僕もBDで初めて出会ったとき、ドラムの生の音の迫力に、鳥肌が立った。まさに、ヘヴィメタルだ、と実感した)

しかし、まだ、ここまで、YUI・MOAに対する積極的・肯定的なコメントはほとんど見られない。
むしろ、「何やってるの?」「なければなー」「大人にやらされている」という印象を多くの視聴者が抱いているようだ。

SU-の唄声や楽器隊の演奏に比べて、暗い映像が、YUI・MOAの舞踊を鮮明に描きだしていないことも要因だろうが、率直に言って「どう観ればよいのかわからない」という印象だろう。気持ちの持っていきようがないのだ。
こんなものはヘヴィメタルでは観たことがないのだから。
言葉にできない、不思議なざわざわ感を、曲や、楽器隊の演奏や、SU-のボーカルにコメントしながら、持て余している、というところではないか。

後半(約22分間)

6.BABYMETAL DEATH(Legend”D”)
 (ふたたび、冒頭の紙芝居で「設定w」「キツネ様」とざわつく)
 (イントロのリフがはじまると)
 「おおおおお」「メタル様式美」「曲かっけー」「神々しいなおいw」
 「ガチメタルw」「普通にかっこいいww」「これは首振るわ」「やっべえな」
 (SU-METAL DEATH、~ を聴いて)
 「え?」「www」「はいw」「です!」「お、おうw」
 「これはハマるわwww」「かわいいw」「これがほんとのデスメタルか」
 「歌詞がこれだけ、だ、と」「客がすげえ」「こんなんハマってまうやん」
 「MCとか観てみたい」「MCいっさいないから」「MCないのかー」
 「かっけー」「たのしそうw」「謎の中毒性」

7.君とアニメがみたい(Legend”D”)
 「ズッコケた」「お、おう」「歌詞w」「これはひどい」
 「一周まわってはまったわ」「かわいいwwww」
 「バック凄いし歌も下手じゃないが違和感ハンパ無い」
 「両サイド子供やないか」「歌うめーなw」「確かに歌は上手いわなあ」
 「かっこいかったり可愛かったりすごいな」
 「よくこんなの作ったな」
 「合いの手がなければなあ」

8.イジメ、ダメ、ゼッタイ(Legend”Z”)
 (紙芝居に)
 「またかよwwww」「設定キタ」「ナウシカ キター」
 「おい」「wwwww」
 (メタルアレンジの「ナウシカ・レクイエム」がはじまると)
 「かっけーなー」「きたああああ」「だいぶアウトwww」「入りやべえwww」
 「壮大w」「かっけー」「おおおおお」
 (イジメ、ダメ、ゼッタイ がはじまる)
 「これか」「イジメ、キター」「きたあああ」
 「X」「X」「女版Xやな」「かっけー」「声やばいな」
 「演奏やばい」「かっこすぎやろw」「この曲だけ異常にかっこいいな」
 「メロスピやなwwww」「よく見るとふりもめちゃ切れいいんだな」
 「ギャップがwwwww」「合いの手ww」
 「これ体力いるなw」「曲たまらん」
 「初めてアイドルでいいなって思えたわ」
 「いやいやいいよこれまじで」「アイドルにしては歌上手いなー」

9.Catch Me If You Can(Legend”Z”)
 (イントロがはじまると)
 「おおおお」「じゅうおん!」「ええ曲きたああああ」「またかっこいい」
 「体力もたいへんやな」「よく踊るね」
 「かわええ」「かわええわ」「まーだだよってかわいいわ」
 「かっこよかったり可愛かったり忙しいアイドルだな」
 「かっけーw」「歌が上手いのが意外だったな これはいい」
 「いい」「一体感がいいよね」
 「ダンスも雰囲気出てるよな スクールにでもいたのか?」
 「なんていうかマジだな、この子たち」
 「すごいもの見せてもらってる気がするわ」
 「優秀な子たちだな」「応援します」「最高」「おわりかよ…」

(紹介映像が終り)
 「見入ってしまった」「よかった」「いいもん見させてもらったわ」
 「おもしろかった」「がっつりみちゃったわ」

この曲順、構成が、何とも絶妙である。

初めて見るメタルヘッズにも何とか受容されるような配慮もされつつ、4や7の「アイドル」楽曲も挟みこまれているところなど、メタラーの頭を心を撹拌する構成だ。
(というか、これがBABYMETALの楽曲レパートリーの本質だが)
そうした「アイドル」への心理的な障壁をところどころで体験しつつ、8、9まで来たころには、すでに自らのメタル魂を鷲づかみにされている(それを自分自身で素直に認めるかどうかは別として)といったところではないか。

多くのコメントに(w)が付されているのも、興味ぶかい。どうしても(w)をつけたくなるのだ。
眼の前の映像に魅せられつつある、自分自身への戸惑い、照れ笑い、苦笑も多く含まれているのだろう。

「ヘドバンギャー」「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が、2回ずつ入っているが、どちらも、後の方がより(メタルヘッズをひきつける)カッコ良さ・強さを持っている。
逆に言えば、わずか50分の紹介の中に同じ楽曲が2曲ずつ入っていても、それが減点にならないどころか、彼女たちの、ヘヴィメタルとしての「本物」ぶりを訴えるものになる。これは、まさに彼女たちの「ライブ」の魅力(魔力?)を明らかにしているようだ。

こうして見てみると(わかっていたことではあるが、あらためて確認できたこととして)
BABYMETALの「実力」とは、

① 楽曲の、ヘヴィメタルとしてのよさ。
  メタル風のアイドルソング、ではなく、異形ではあっても本物のヘヴィメタルである、という高い・深い志、メタル魂を感じさせる、魅力的な楽曲。

② 演奏のガチ度。特に、生バンドの説得力。
 とりわけ、この映像での、「生」ドラムスの異常ともいえる充実度は、これはメタル風のアイドルではなく、本物のヘヴィメタルだ、と僕たちに感じさせる最大の要因のひとつだ。

③ SU-METALの歌、声、の魅力。
 決して「メタル風」ではないが、ヘヴィメタルの楽曲・演奏を率いる不思議な力・魅力を持った声。音圧。伸び。踊りながら唄うにしては、信じられない安定度。

と、ここまでが、いわば必要条件、あるいは、安心材料、だ。
このへんを以前「魂」と書いたことがあるが、①②③の質の高さ、力強さ、安定度、が、これはヘヴィメタルである、と僕たちが認めることのできる核心である。

しかし、BABYMETALの凄さは、ここで終わらない、ということだ。
例えば、9での印象的なコメント、

「すごいもの見せてもらってる気がするわ」

とは、まさに、僕たち全員の感想を集約したひと言だろうが、
これは、①②③だけでは決して出てこないコメントだろう。

④ YUIMETAL・MOAMETALの舞踊
 CMIYCという楽曲の魅力、というだけではなく、ここまで約50分間観つづけてきた、ふたりの舞踊が、ボディブローのように、サブリミナルに、僕たちのカラダをハートを揺さぶりつづけていた、ということを、(①②③によって、このBABYMETALという存在を肯定できたからこそ)改めて意識した、ということではないか。
(「ミラー・ニューロン」の回で書いたが、科学的な事実として、実際にそうした効果をYUI・MOAは僕たちに与えているのである。)

「なんていうかマジだな、この子たち」

このコメントも、BABYMETALがメタルヘッズに与える印象を、象徴するひと言だろう。この「マジ」は、単に「一所懸命だ」ということではなく、裏返せば「なんじゃこりゃ」でもあるような魔力を持っている、という畏怖にも似た思いをあらわすひと言でもあろう。これも、(①②③を前提として、そのうえでの)④の「実力」による感想だろう。


それにしても、この映像が流されてから、まだ2年にも満たないのだが、
今ならば、

・赤い夜、黒い夜
・2014年のワールドツアーのファンカム(含ソニスフェア)
・新春キツネ祭

等の映像で、現行「神バンド」と絡み合う、さらに成長した3姫の超絶的な「演」奏も観られるわけで、そりゃあ快進撃は続くはずだ、と納得するしかない。

ただ、この初期(?)の映像においてさえ、すでにBABYMETALのヘヴィメタルとしての「実力」はとんでもないものだったのだ、とわかる。
そういう意味で(消されない限り)折に触れて見返す価値のある、貴重な資料だと僕は考えている。

初見のメタルヘッズたちによるコメントの流れの変化は、感動的でさえある。

さあ、明日は、「Live in London」のフラゲ日だ。
数日中には、特典ディスク、音盤も入手できるはずだし、
みなさん、一緒に楽しみましょう!










BABYMETAL探究(カワイイ(kawaii)考2)

2015-05-10 22:32:42 | babymetal
ついに、2015年のワールドツアーがはじまった。
メキシコ公演も、詰めかけたファンを魅了し、ヘヴィメタルの激しさ・楽しさを満喫させ、笑顔で帰途につかせるものになったようだ。
(そのことにはもう誰も驚かないはずだ。彼女たちの「実力」からして当然の結果だから。でも、これって、僕たちは慣れっこになってしまっているけれど、もの凄いことですよね。)

それに先立ち、「Road of Resistance」の公式MVが公開されたが、この曲に対しては、昨年のO2 Academy Brixtonでのお披露目の時から、「かわいい成分が足りない」といった不満も、ちょくちょく目にした。(対になるコメントが、「あわあわ」早よ公式化を!、だ)。
そう言いたくなる気持ちもわからなくもないのだが、BABYMETALにおける「カワイイ(Kawaii)」とは、「RoR」にはそれが足りない、と言われるようなものではないのではないか

つまり、例えば「ドキドキモーニング」のMVに露わなような、<ヘヴィメタルに合わせてダンスするいたいけな幼女達>という質の「かわいい」からは、いまのBABYMETALの「カワイイ」は明らかに変質している。
僕はそれを、「カワイイ」の「進化」あるいは「深化」(学術的な意味でのレボリューション=突然変異&自然淘汰ではなく、一般的な意味でのレベルアップ)だと捉える。
それは、彼女たちが歌で舞踊でヘヴィメタルを「演」奏しているのだ、という、このブログでも執拗にこだわる考え方からして、彼女たちにおける「カワイイ」のヘヴィメタルとしての説得力(「演」奏としての観客に与える効果)は、どう見ても、格段に向上している、としかいえないからだ。

つまり、(これも繰り返しになるが)、「重音部」時代にはあった(幼女的な)「かわいい」につきまとっていた「まがいもの」の感じ(あくまでも、現在と比較したときの僕の印象です)は、今のBABYMETALにはみじんも感じられない。
「RoR」のMVには、風格さえ感じさせる、本物(ただし、きわめて異形の本物)のパフォーマンスが繰り広げられている。
「RoR」の公式MVを観てのほとんどの人の率直な感想は、「カッコいい」だろう。
それを、BABYMETALはかつての「カワイイ」から「カッコいい」に変わった(変わってしまった)のではなく、またひとつ新たな「カワイイ」の次元・位相が増えたのだ、と僕は感じている。

あえて、図式的に「かわいい」(非BABYMETAL)と「カワイイ」(BABYMETAL)とを分けるならば、次のようになるはずだ。

a「かわいい」→「カッコいい」「凶暴」等と対置されるような幼なさ・プリティさ。
(ドキドキモーニングのころは、かわいかったのに…。RoRには、かわいさが足りない…)

b「カワイイ」→「カッコいい」「凶暴」をも含む、激しく美しいチャーミングさ。

b「カワイイ」はa「かわいい」をも含みながら、それを大きく超えた概念だ。

そんな都合のよい「カワイイ」などあるのか、と言えば、BABYMETALこそ、それを体現している唯一無二の存在だ、ということになる。

日本語のひらがな表記とカタカナ表記の文字面の印象の差は、BABYMETALにおけるKawaiiが、「かわいい」ではなく「カワイイ」なのだ、ということを象徴的に表現しているように僕は感じる。

「かわいいは正義」ではない。
「メタルは正義、カワイイも正義」なのだ。
僕たちは、BABYMETALによって、こんな「カワイイ」(含:カッコいい、凶暴、激しい、美しい)があったのか!という認識の革新を味わってもいるのだ。


個体発生は系統発生を繰り返す、という言い方があるが、それを借りるなら、BABYMETALというユニット個体の、デビュー以来5年の「カワイイ」の「進化」は、またBABYMETALが体現する「カワイイ」METALというジャンル(サブジャンル)の「進化」「深化」でもある。
(まあ、今のところこのジャンル(サブジャンル)にはBABYMETALしかいないのだから、ほとんど同義反復なのだが。)

デビュー時の「かわいい」が全くなくなった訳ではない。それを含みつつ、BABYMETALの「カワイイ」は、より多様に、より激しく、より美しく、よりヘヴィに、よりメタルに(も)なりつつある、のだ。
(もちろん、それを、初期の「かわいい」を失った、アイドルとしての堕落だ、と感じる人もいるかもしれないが)。

そういう意味で、公式MVの「RoR」は超孥級の新しい「カワイイ」である。いまのBABYMETALのみが実現できる、唯一無二の「カワイイ(kawaii)」だ。
(それでいて、メキシコ公演での、「RoR」の「演」奏後の「シーユ―!」ならぬ「アミーゴ!」は、「かわいい」を求めるファンをもニンマリさせるものだったろう)。


BABYMETALは、「カワイイ」においても、道なき道を突き進んでいる、のだ

BABYMETALの「カワイイ(kawaii)」とは、かくも、凄絶にレベルアップしてゆくものである。
すでに成長が止まってしまった僕たちおっさん達とは異なり、まるで人間の新生児が誕生後とんでもない速度で日々成長するように、BABYMETALは信じられない速度でレベルアップする。
「BABY」という名にはそうした凄みがあることを、彼女たちのパフォーマンスを見ていると痛感する。

だから、「カワイイ」という言葉の響きの甘さに目をくらまされてはいけないのだ。

「カワイイ」とは、すでにカワイイを失った僕たちおっさんには持ち得ない、凄み・高みを持ったものなのである。
それを、歌で、舞踊で、「演」奏して見せることで、BABYMETALのパフォーマンスは、凶暴な「カワイイ」という唯一無二の極上のヘヴィメタルたりえているのである。