ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究~わ・は・は!メタルゴッドと共演決定!!

2016-05-30 22:18:07 | babymetal
わ・は・は!

いやあ、僕たちファンが何かBABYMETALに貢献するような有意義なことをしているわけではないのだけれど(もちろん、献身的にアルバムや関連書籍やライヴ会場でのグッズ等はせっせと購入し、毎日毎日音源や映像は聴きまくり観まくりしてはいるけれど)、BABYMETALのファンだ、というだけでこんなに幸せに、それも、とてもとても尋常ではない、もはや狂気の沙汰と呼んでもよい、目をうつろにしつつニヤニヤするしかない、こんな天にものぼる心地を味わえるなんて!

ロブ・ハルフォードとの共演決定!
わ・は・は!


ヘヴィ・メタルのファンではない人には「ふうーん、何か凄い人なんだろうな・・・」という程度のニュースでしかないのかもしれないが、僕たちメタルヘッズおっさん達には、もう、笑うしかない、そんな驚天動地のニュースだ。
何しろ、ある意味では、ハードロックではないヘヴィメタルのアイコン、それがまさにジューダス・プリーストであり、ロブ・ハルフォードなのだから。

すでにズッ友写真はアップされているし、このブログでも最近引用したが、

(メタルのレジェンドたちからもらったメッセージで一番印象的なのは?)
 ジューダス・プリーストさんが「ギミチョコ!!」を歌ってくれて「この曲好きなんだ!」と言っていただいたことDEATH!
by SU-METAL 『ぴあ MUSIC COMPLEX』

という証言もありはしたのだが、
「共演」、は、それらとはレベルが全く異なる衝撃だ。
ステージ上で一緒に歌う!!!
それはミュージシャンとしての本領発揮であり、ロブ・ハルフォードのそれが、我らがBABYMETALのそれとステージ上で邂逅し火花を散らすのだ!!!
そんなことがありうるなんて想像したこともなかった(ですよね?)。

ネットの書き込みには、「ジューダス・プリースト(あるいはファイト、ハルフォード)の楽曲にBABYMETALの3人が歌(コーラス)やダンスで参加」、なんていう推測も見られるが、それはないだろう。

そんなことをやっても誰の得にもならない。

もちろん、「THE HELLION~ELECTRIC EYE」とか「FREE WHEEL BURNING」とか「THE SENTINEL」とかの神曲に合わせて3人が超絶ダンスを繰り出す、という絵はぜひぜひぜひ見てみたいけれど、それはありえない。
というか、さすがにそれはジューダス・プリースト(とそのファン)を冒涜することになるだろう。
仮に、それをしたとして、ちぐはぐなミスマッチだったらジューダスプリーストの楽曲を汚すパフォーマンスだし、逆に、見たこともない楽しさ・美しさが加わった素晴らしいパフォーマンスであったとしたら、これはこれで、通常のジューダスプリーストのパフォーマンスの価値を貶めることになるだろうし。

また、BABYMETALじしんにとっても、3姫がジューダスプリースト(あるいはファイト、ハルフォード)の楽曲をダンスするなんてことは、「紅白歌合戦での他の大物歌手のバックダンサー役での出演」にも似た、BABYMETALのアイデンティティの根幹を自ら揺るがす愚挙である。
これをやったらまさに「キワモノ」「まがい物」だ。
そんなことをやるはずがない、やる意味は全くない。

今回のアナウンスが、「ジューダス・プリーストとのコラボ」ではなく、「ロブ・ハルフォードとの共演」、ということからも、BABYMETALの楽曲にロブが、余裕綽々で、美味しい参加の仕方をする、ということで間違いないはずだ。
USツアーの締めくくり、ということで、神バンドも一緒のパフォーマンスだろうから、通常のBABYMETALのライヴパフォーマンスに、メタル・ゴッドが華を添える、という、本当に夢のようなステージになるはずだ。

わ・は・は!

で、せっかくなので、何の楽曲か?
4曲、予想される楽曲を考えてみた。皆さんはどうお考えになるだろうか?

① 違和感ナシ
BABYMETAL DEATH
曲調として、メタル・ゴッドが加わっても全く違和感がない。
デス・ボイスのところにロブの声がのる。
(さすがに「ROBMETAL DEATH!」なんてやるはずがない、そもそもそんなフレーズを入れるところはない)
もちろんロブがダンスするはずはない。
ステージ上で鷹揚とした仕種を見せながら「B!」「A!」・・・とか、「DEATH!DEATH!」とかを、楽しそうにシリアスに歌うのである。
その周りを大騒ぎしながら走りまわる3姫、という絵図は、ロブ・ハルフォードの威厳を損なうことなく、ジューダスプリーストが切り開いてきたと言ってもよいヘヴィメタルのかっこよさの最新形態の見事な「演」奏になっている。かつて、ロブが3人にかけたという「STAY METAL!」というひと言の美しくも激しい形象化だ。
で、曲の最後の最後、〆の「BABYMETAL DEA~TH!」は、メタル・ゴッドの御喉から、超絶なシャウトが放たれるのだ!
もう、鳥肌・感涙である。


② タイムリー(大本命)
「KARATE」
70%、これ、だろう(・・・って、微妙な数字だが)。
知名度から言っても、WWEの件の話題性から言っても、まずこの曲だ。
この楽曲のモダンなグルーヴ感は、①とは違う意味で、またロブに似つかわしい。
・・・ただ、これ、ロブがどのような「歌」を聴かせてくれるのか、①とは違ってまったくハマらないのだ。
「セイヤ!セッセッセセイヤ!」「ソイヤ!ソッソッソソイヤ!」「押忍!」をロブがシャウトする?
想像しただけでニヤけてしまうが、さらにその後のSU-METALの日本語の歌のところをロブが歌うなんてありえないし・・・。
と考えると、意外にこの曲は実現が難しいのかもしれない。

となると、

③ 当然(準本命)
「ギミ・チョコ!!」
まあ、これ、かな。
前述した、「ジューダス・プリーストさんが歌ってくれた」というSU-METALの証言もあるのだから、ロブ・ハルフォードの側からノリノリで誘いがあったんだろうな、ということが、この曲が選ばれるならば実に腑に落ちるのだ。
また、「The Late Show」でのあの爆発力を見ても、この曲が、USのこうした場での任に耐えうる「できる子」であることはもう誰もが認めるところだ。
ただ、特に大きな懸念材料が、1点ある。
昨年も、ドラゴン・フォースとのコラボをこの曲でやった、ということだ。
安定優先の「二番煎じ」は、”BABYMETAL道”に反するのではないか、と。
まあ、「BABYMETALとのコラボは、やっぱこの曲!」という「定番」になるのなら、それはそれでいいのだし、ロブの側から今回のオファーがあったのなら、この曲である可能性はきわめて高い。
やっぱり、こっちが70%かな・・・?

で、

④ 大穴(衝撃度No.1)
「メギツネ」
確率的にはほとんどありえないが、これは、「せっかくロブが加わるという千載一遇の機会なのならば、ぜひこの曲を」、という個人的切望である。
この楽曲の歌詞の世界観に、ロブ・ハルフォードが参入する、そのシュルレアルな感触は、まさに一度限りの夢の共演にふさわしい
出だしの「ソレ!」「ソレソレソレソレ!」からロブも歌い、SU-METALの歌のところはカウンターラインをロブが声で奏でるのだ。
そして、SU-METALの「なめたらいかんぜよ!」のところは、ロブが代わりに(あるいは自由なセリフを)シャウトするのである。
わ・は・は!
これも、想像するだけで、鳥肌・感涙ものだ。

と、ここまで書いてきて自分で気づくのは、ロブ・ハルフォードがSU-METALの歌のパートを歌うということを僕は全く考えていない、ということだ。
だって、そんなことをしても誰の得にもならない。
BABYMETALのよさも、ロブのかっこよさ・貫禄も、それでは発揮できない。
ロブに日本語歌詞を覚えてもらいさらに不慣れな(未熟な)発音で歌ってもらうなんてことは、失礼だし、そんなことを仕掛けるはずがない(ロブ自身が前のめりな「ギミ・チョコ!!」は別として)。

あと、「THE ONE」が英語詞だからこの曲だ、という書き込みもいくつか目にしたが、これはありえない。
だって、知名度も低いし、曲調もノリノリではないから今回のお祭り企画に合わないし、メタル・ゴッドにこれを歌ってもらう意味もない。「英語歌詞だから」という理由でこの曲を選ぶなんて、そもそもこの「なんとも風狂なプロジェクト」の趣旨にまったくそぐわないのである。

まあ、②か③かだろう。
でも、①、④もぜひ見てみたい。

いずれにしても、実際に観るまでどんなステージになるのか、まったく予想もつかない。
だからこそ、当分の間、僕たちはいろんな景色を妄想し、ニヤニヤしてしまうのである。
いや、ひょっとして、ロブが「アタタタタータ!」と叫ぶんじゃないか・・・
「KARATE」の敵役としてロブが登場するんじゃないか・・・
「メギツネ」の1コーラスを、たどたどしい日本語ながらさすがの貫禄のハイトーンヴォイスで歌い上げ、「さすがメタル・ゴッド!」と僕たちを歓喜させるんじゃないか・・・
なんて。

そして、動画が公開された、
メタル・ゴッドとフォックス・ゴッド、どっちが勝つかは……
( 全員で Only the FOX GOD knows )
でもきっと本番のアワードで勝負が決まるんじゃないかと思います。

という、訳のわからない「萌え台詞」を、YUIMETALに言わせている、あれ。

わ・は・は!

チームBABYMETALの、今回の件に関する確信犯ぶり、悪ノリは相当なものだ。
そりゃそうだ。

だって、こんなこと、夢に見さえするはずのない出来事だもの。

BABYMETALの、マンガをはるかに超えた「物語」の数々。
例えば、この2ヶ月だけでも、
 日本人初の英国ウェンブリーアリーナでの単独公演、ほぼ満員の、ほぼ大絶賛の成功。
 全英チャート、とりわけ全米チャートトップ40ランクイン。
 ダウンロード・フェス、メインステージへの招聘。
などなど、笑ってしまうような「ありえない」「物語」の数々の連続なのだが、
「ありえなさ」の「質」においては、今回の、ロブ・ハルフォードとの共演こそが、ベビメタ史上No.1のものだ、と僕は感じている。
(上の3つは、BABYMETALならばいつかは、と想像することはできなくもないが、このニュースを実際に聞くまでは、「ロブとの共演」なんて考えが浮かぶことは微塵もなかったし、あるはずもなかった)

いやほんと、
生きていてよかった!
BABYMETALのファンになることができてよかった!

考えてみると、僕が初めて、神曲「THE HELLION~ELECTRIC EYE」に出会い、鳥肌を立て、涙を浮かべていたのは、高2の時だ(まさに、今のYUI・MOAと同学年だった・・・)

「30数年後、カワイイ日本人の女子、ちょうどお前と同年代の3人が、このロブ・ハルフォードと共演するんだぜ!」
なんて言われても、その言葉の意味がわからなかったはずだ。わかるはずがない。
(いや、実は、今でも、BABYMETALって、本当にいるのだろうか、今僕が遭遇しているこの出来事って、本当なのだろうか、と、仕事の合間とかに、ふっと思うことがあるのだ。いったい、今、自分がこんなにも夢中になって日々追いかけているのは、何なのだろうか?と。そのあまりのとんでもなさゆえに・・・)

そうそう、これも以前このブログにちらっと書いたが、生まれて初めて行ったライヴが、大学生として関西に来た6月のジューダス・プリーストだったのだった(大阪の厚生年金会館だったか・・・)。
いやほんと、単にレジェンド級のビッグ・ネームとの共演、ということではなく、「わがメタル人生」の核心にいる、まさにメタル・ゴッドとの、融合なのである。

メタルを愛して生きてきた、おっさん、としてもう一度宣言しておこう。
生きていてよかった!
BABYMETALのファンになることができてよかった!

わ・は・は!





BABYMETAL探究(BABYMETALの「神話的構造」考④)

2016-05-22 21:56:22 | babymetal
またまたベビメタ・ロスの季節がやってきてしまった、のかな・・・。
(いったい、巨大天下一武道会の映像版リリースはいつなんだ!!)
・・・でも、(今のところ)YOUTUBE等で数多く視聴できる、最近の全米ツアーやWEMBLEY公演の様々なファンカムの映像、それを観ながら、時に涙を滲ませたりしつつ、何とか渇きを癒やす、そんな日々である。

とりわけ「Amore」と「GJ!」
この2曲は、まだ「公式」の映像としては視聴できないこともあり、とりわけ魅力的・感動的なファンカム体験である。いやほんと、何度観ても、鳥肌が立ち、涙が滲む。(「META!メタ太郎」の楽しさも言うまでもないが)。

これらのBABYMETALの「演」奏がファンカム越しにでもこれほどの感動をもたらすのはなぜだろう?
もちろん、BABYMETALの歌・楽器演奏・ダンスというステージ上でのパフォーマンスがとんでもなく質の高いものだ、ということがいちばんなのだが、そうしたライヴバンドとしての質の高さとは別の次元の魅力も、僕(たち)の魅了・興奮・鳥肌・感涙を誘う大きな鍵になっているのだと僕は考える。

BABYMETALのとんでもない中毒性

例えば、他のバンド・ミュージシャンのライヴ映像作品は、多くても数回通して観れば、あとは(お気に入りの曲や場面のみをたまに観ることはあっても)丸ごと観返すなんてことはほとんどないのではないか。
我が家のDVDの棚にも、例えば、RUSH、DREAM THEATER、ARCH ENEMY、IRON MAIDEN、RAINBOW、JUDAS PRIEST、MAGMA、MICHAEL SCHENKER、OPETH、DARK TRNQUILLITY、等々、それぞれ視聴した際には鳥肌を立てた素晴らしい映像作品が並んでいるが、3回以上通しで観た作品はない(「RUSH IN RIO」はひょっとしたら3回は通して観たかもしれないが・・・)。
昨年秋にリマスター・リイシュー盤が発売されたSCORPIONSの特典盤付きのディスク、喜び勇んで購入し音盤はウォークマンで聴いているものの、数枚の特典映像ディスクにはほとんど目を通してもいない(もちろん、ほとんどBABYMETALの所為、だ)。

それにひきかえ、(おそらく皆さんも同様だろうが)、BABYMETALの映像作品を、僕(たち)は、いったい何回、何十回、何百回、観返しているのだろうか?

2014年の9月のある夜、BABYMETALを知り・魅せられて、すぐに、正規リリース映像盤として発売されていた『LEGEND I・D・Z』を購入し、取り憑かれたように観、10月末には『LEGEND 1999&1997 APOCALYPSE』を発売日に購入。音質・画質の悪さには辟易しながらも、これも何度も何度も観た。

2015年1月には『LIVE AT BUDOKAN』、5月には『LIVE IN LONDON』が正規リリース。
この2枚は(当然)発売前日にフラゲし、自宅鑑賞用のブルーレイだけでなく、通勤の車中のパソコンでも観られるように初めからDVDも買ったから、自宅で、電車の中で、喫茶店で、ほんとうにもう数えきれないほど繰り返し観た。

さらに、THE ONE 限定版の『2014幕張』や『新春キツネ祭り』、WOWOWで放映されたサマソニやラウドパークでの「演」奏や『巨大天下一武道会』『横アリ THE FINAL CHAPTER OF TRILOGY』などなど、改めて考えると、実に数多くの映像を、どれもどれも繰り返し繰り返し観つづけている。
最近では、『黒ミサ&赤ミサ』『METROCK』『Road to WEMBLEY』等々、どれもこれも楽しく素晴らしく、堪能している。

これは、いったいどういうことなのだろうか?
なぜ、こんなにもBABYMETALのライヴ映像に僕(たち)は嵌まっているのか?

「ライヴの実力」においてBABYMETALが世界最高峰である、などとはさすがに熱狂的なファンである僕でも口にはできない(し、実際にさすがにそうは思わない)。
が、少なくともライヴの楽しさ・中毒性」においてBABYMETALは世界最高峰である、というのは、僕にとっては真実であるし、かなり多くの方にも賛同してもらえる見解であるはずだ。

その秘密は何なのか?

それは、BABYMETALが「対極的なものの衝突、その高次元での融合すなわち止揚(しよう)・アウフヘーベンをまさに体現しているからだ。

『神話の力』を再び引こう。

キャンベル 生命の神秘はあらゆる人間の観念を超えています。私たちが知っているあらゆるものは存在と非存在、多と一、真理と誤謬といった観念用語の範囲内にあります。私たちはいつも対立した諸観念のなかでものを考えるしかし、究極者である神はあらゆる対立観念を超越している。そうだとしか言えません。

モイヤーズ なぜ私たちは対立項のなかでものを考えるのでしょう。

キャンベル それ以外には考えようがないからです。

モイヤーズ それは、私たちの時間のなかでの真実の本性なのですね。

キャンベル それは真実に関する私たちの経験の本性なのです。

モイヤーズ 男と女、生と死、善と悪・・・・・・

キャンベル ・・・・・・私とあなた、これとあれ、真実と虚偽――あらゆるものにその反対物がある。しかし神話は、二元的世界のかなたに一元的な世界があり、二元性はその上で演じているシャドー・ゲームに過ぎないということを暗示しています。


ヘヴィメタルとJーPOP。
ヘヴィメタルとダンス。
ヘヴィメタルと日本語。
ヘヴィメタルとかわいい日本人の美少女3人組。

BABYMETALの魅力を、こうした相対立する要素の「ギャップ」とか「融合」とかいうふうに評することも多いのだが、もちろんそれは決して間違いでもないのだけれど、「ギャップ」や「融合」という言い方では、BABYMETALのとんでもない中毒性までもを言い当ててることはできない、と僕は感じる。

例えば、<ヘヴィメタルとJーPOP>に関しては、Amore~蒼月を考えるとわかりやすいはずだ。
(何度でも言うのだが)僕にとってこの曲は、今年の3月29日に出会った瞬間から、鳥肌&感涙の神曲なのだが(同じ感想をお持ちの方も大勢いらっしゃるはずだ)、この曲の魅力は、ヘヴィメタルとJーPOPの「ギャップ」にあるのでも、単にヘヴィメタルとJーPOPの「融合」にあるのでもなく、J-POPとしてはあまりにもメロ・スピ過ぎ(ドラムなどは「国内最速」と断言してもよいはずだ)、ヘヴィメタルとしてはあまりにもJ-POP過ぎる(コード進行・歌詞など。そのことに嫌悪を抱きこの曲を唾棄する感想もまた散見される)、過剰な両極が、SU-METALの歌声によって、<ヘヴィメタルとJーPOP>という(対極的)二元的世界のかなたにある一元的な世界として顕現している、その神話的な高みにある、のだ。これが「止揚」だ。
いわば、BABYMETALだからこそ開示できる桃源郷、そんな崇高な一曲だと僕は感じている。
(こんな理屈抜きに、聴くたびにただただ涙が滲んでくる神曲なのだが、あえて理屈を剔出するとこういう言い方になる)。

<ヘヴィメタルとダンス>についても、このブログで当初から言い続けていることだが、単に、ヘヴィメタルの楽曲のバックの演奏に、三人が合わせてダンスするという「融合」を、BABYMETALは見せているのではない。
ヘヴィメタルをダンスで「演」奏する、という、いまだかつて誰もやったことのない次元の高み、それが、BABYMETALが”メタル・ダンス・ユニット”だということの内実だ。
例えば「GJ!」。
ファンカム越しにも伝わってくるこの楽曲の”超絶的にカワイイグルーヴ感”は、他のどんなバンドにもない、唯一無二の至高のものだ。YUI・MOAのダンスによってヘヴィメタルがこんなにも溌剌としたカワイイエネルギーを発散するものでありえ、それが激しく重いヘヴィメタルだからこそYUI・MOAのダンスが国籍や言語の壁や年齢性別を超えた多くの人を笑顔にする力をもつ。これが<ヘヴィメタルとダンス>の「止揚」だ。

それにしても、<ヘヴィメタルとJーPOP>の「止揚」にしても、<ヘヴィメタルとダンス>の「止揚」にしても、他の誰も成し遂げていない(そもそも考えもしない)ことを一挙に成し遂げたのだが、さらに、<ヘヴィメタルと日本語>の「止揚」<ヘヴィメタルとかわいい日本人の美少女3人組>の「止揚」をもBABYMETALは「一挙に」おこなった
何という豪華さ!

しかし、それが「一挙に」だったからこそ「止揚」しえたのだ、というこの重量感は、まさに「神話的」と呼ぶべきものだ。
そんな「一挙に」に耐えた3人は、単なる美少女ではなく、やはりとんでもない天才あるいはモンスターなのだ。

ステージ上では、
<神バンドと3姫>の「止揚」が行われている。
これも、「ギャップ」とか単なる「融合」ではない。
神バンドだからこそ3姫の歌・舞踊の魅力が超絶的なものとしてひきだされ、フロントがSU-・YUI・MOAだからこそ神バンドの演奏が僕たちにとって超絶的にチャーミングなものになっているのだ。

それにしても、神バンドの演奏と「止揚」し合える3人の少女(SU-METALはもう少女と呼ぶべきではないだろうが、ふさわしい呼称が浮かばないので、とりあえずこう呼んでおく)の「実力」って、改めて考えてみると、背筋がぞっとする。

何やかんや書いてきたが、結局、SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETAL、この3人の凄さ、それが僕(たち)をこれほどまで中毒にさせ、来る日も来る日も、繰り返し繰り返し映像を観る羽目にしているのだ。
と、何のひねりもない結論だが、しかし、このことが「神話的高み」を持つものでもあるのだ、という点は、BABYMETALの比類のない魅力を考える上で心にとめておいてもよいことだと思う。

3人の凄さ。

もちろんそれは、ヘヴィメタルの「演」奏としての舞踊、それを高い次元で可能にする身体能力・リズム感であり、何よりもSU-METALの神々しく・力強く・魂のこもった、そしてYUI・MOAのチャーミングな、歌声だ。

しかし、3人が、これほどチャーミングな容姿・性格でなかったら、そのヘヴィメタルとしてのパフォーマンスがこれほどまでに”殺人的な魅力”を発揮することはなかったはずだ。

詮無い仮定だが、3人の歌やダンスは全くいま同様の実力で、でも、ルックスが今よりも少し落ちる3人組であったとしたら、これほどの「ライヴの楽しさ・中毒性」は持たなかったはずだ。
ヘヴィメタルのミュージシャンにも、イケメンや美女もそれなりにいる(かな?)だろうが、それはあくまでも付加価値というか副次的なものであり、イケメンがいるから美女がいるからそのバンドを聴くとかライヴに行く(あるいは、その真逆)とかはない。

しかし、BABYMETALの場合は、3人があのようにカワイイということがヘヴィメタルの「演」奏・表現として絶対的な意味を持って機能しているのだ。

「メタルは正義」。「カワイイも正義」。その高い次元での融合的な統一。

つまり、「カワイイメタル」とはこれもまた、カワイイからこそメタルであり、メタルだからこそ至高にカワイイ、という高次での統一すなわち「止揚」なのだ。「ギミチョコ!!」などは、まさにそれを凝縮し爆発的に表出した楽曲、と言えるだろう。

最後に、『神話の力』より。

モイヤーズ 人間は創造神話のひとつ、あるいはそれ以上に格別の興味を示しますね。私たちがそういう神話のひとつを特に好むのは、いったいなにを求めているからでしょうか。

キャンベル 私たちが求めているのは、世界を経験するひとつの方法だと思います。つまり、世界を形づくり、またそのなかに私たち人間を形づくった超越者が見えてくるような経験。それこそ人間が求めているもの、魂が探し求めているものでしょう。

モイヤーズ つまり、われわれは万物を形づくった神秘の力への、われわれすべてが共有しているあの巨大な沈黙の場というべきものへの接近や、それとの和合を求めているというわけですか。

キャンベル そうですが、ただそれを見いだしたいというだけでなく、それを自分たちの環境のなかに、自分たちの世界のなかに見いだしたい、認めたい、と願っているのです。神聖な存在を経験することを可能にしてくれるような、そういう教示を得たいと思っているのです

モイヤーズ 世界のなかで、また自分のなかで経験する。


たぶん、BABYMETALは、単に世界で最も成功した(しつつある)日本人ミュージシャンというような「実績」とは別の次元においても、僕たちにとんでもない「経験」をさせてくれているのだ。
過去、さまざまな世界で「神話」や「儀式」が人間に与えてきたものと同質の「経験」を。

日々、僕たちがBABYMETALの映像漬けになりながら喜びを感じている、その秘密はそこに(も)あるのだと思う。







BABYMETAL探究(BABYMETALの「神話的構造」考③)

2016-05-15 11:31:25 | babymetal
いや~、全米ツアー東海岸編、無事終了しましたね。
ファンカム天国、満喫しています。
仕事に追われて、なかなかこのブログも更新できていないのですが、深夜帰宅後に、軽く晩酌をしながら、新しくアップされた動画をひとつふたつ観て、癒やされ、励まされながら、高揚した気分で床に就く。
そんな、BABYMETAL様様の日々を重ねています。


常に精進・努力を続け、新しいことに挑戦していきながら、その超絶的な魅力をぞんぶんに発揮する(これ、よく考えてみたら、とんでもなく凄いことだ。そのパフォーマンスのアベレージの絶対的な安定度、ライヴの楽しさの「品質保証」の高さよ!)ことで、異国の(半信半疑の)観客達をつぎつぎと「陥落」させているその姿は、ほんとうに神々しい。
(全く彼女たちとはレベルが違う僕でも)「よし、俺も、明日もがんばろう!」と鼓舞される。

つい先日の、シカゴのライヴでも、やや上手側のステージ近距離からの高品質高音質のファンカムが上がっていたが、観客席の熱さ、ステージ上の3人の凄さ&カワイさ、それがありありと伝わってくる。
「GJ!」でYUIMETALが一瞬つんのめったりも目にしたが、この曲の振り付けも日々高精度なものへと進化しているのを目の当たりにして、ジーンとしてしまった。
実際に会場に押しかけて、「KARATE」で、SU-METALの「Everybody Jump!」の煽りを受けて、一緒にジャンプした、なんて経験は、「一生の思い出」として刻まれるだろうなあ。
などなど、いろんな感動をファンカム経由のライヴ疑似体験で感じてしまう。

やっぱり、BABYMETALはすごい!
「完璧」以上、だ!!!
改めて、そんなことを痛感してしまう。

そう、
音源だけでは、BABYMETALのほんとうの魅力はわからない、
何と言っても映像を観なければ。


”メタル・ダンス・ユニット”BABYMETALとは、言うまでもなくそうしたユニットだ。
それは、まさにBABYMETALが、YOUTUBEの時代の申し子だ、ということなのかもしれない。10年前では、今のBABYMETALの快進撃はありえなかったのだろう。

しかし、どうだろうか。
映像だけでは、BABYMETALのほんとうの魅力はわからない、
何と言っても実際にライヴに参加しなければ。

この「事実」は、どう説明すればよいのだろうか?

何しろ、実際にライヴに参加したとしても、ステージの3人の表情どころか”ダンス”さえ、まともに見えないことがほとんどなのである。
だから、”メタル・ダンス・ユニット”BABYMETALを堪能するには、映像版こそ至高、という考え方もありうるはずなのだ。

音声とて、会場の場所によってはまともに聞えないところもあるはずだし、そうでなくてそれなりに聞こえる場所で会っても、全体の音声をバランス良く「聴いて楽しむ」のであれば、やはり映像版の音声(あるいはライヴ音盤)をしっかりした再生環境で楽しむのがいちばんだ、という見解もありうるはずだ。

しかし、もちろんBABYMETALのライヴに一度でも参加された方ならばご存じの通り、
BABYMETALのライヴは特別である。
至高である。
唯一無二である。
絶対である。


生きていてよかった!

ライヴ中にはそんなことを感じる精神的余裕すらないが、ライヴ後に感じている何とも言えない多幸感・その醍醐味を、端的な言葉で表わすならば、こう言うしかないだろう。
まさに、「生きている幸せ」を体験・実感できるのがBABYMETALのライヴであり、これは、映像版で味わえる「最高の感動」ともまた全く別の次元の、高み・深みなのだ。

そうした「BABYMETALのライヴ体験」の内実とは、いったい何なのか?

演者BABYMETALと、そして多くのBABYMETALファンという同胞たちと、ナマな時空間を共有している、というそのリアルさの「実感」もあるだろうし、とりわけSU-METALの歌声を生身の身体に浴びる、その至福もあるだろう。
これらは、(残念ながら)映像版では味わえない質の感動だ。

しかし、BABYMETALのライヴが、他に替えることのできない”至高”なものであり、一度参加してしまうと、また次に・また次に、というとんでもない中毒(蟻地獄のような極楽)性を持つ、その秘密の核には、これまた「神話的構造」が根底にあるように僕には思えるのだ。

今回のシリーズを書き綴りながら、いま、そんなことに考えが至っている。

ということで、今回は、BABYMETALの「物語」からはいったん離れ、BABYMETALのライヴに蔵されている「神話的構造」を剔出してみる、そんな回になる。


BABYMETALが神話論的な意味において「英雄」である、ということ。
前2回では主にそのことを探究した。

しかし、そうした「(自己を超えた大きなものへの)服従の達成」や「旅」が、神話的な「英雄」としての意味を持つためには、3人が凡人ではない資質を備え、それを我々に見せつける必要があったはずだ。
単に「服従の達成」や「旅」をしただけでは、「英雄」などと呼べるはずもない。

圧倒的な卓越性

言うまでもなく、BABYMETALの3人は、舞台上で(とりわけ文字通りの「大舞台」の上で)、それを見せつけ続けてきた。予想をはるかに超えた、「圧倒的」と呼ぶしかない「卓越性」を。

横アリ2日目の、あの真っ赤なトライアングルに載っての天上の一周は、まさに、それを象徴的に現わす「絵姿」であったと言えるだろう。
神々しい、と率直に感じさせる、彼女たちの卓越した「たたずまい」・「挙措」。
ステージ上で彼女たちがそれを徹底的に見せつけ続けている(しかも、常に「最新こそは最高」を実現し続けている!)からこそ、”BABYMETALの物語”における「服従の達成」や「旅」が神話的な意味を持ち、彼女たちが「英雄」たりえている、のだ。

『神話の力』に次のような対話がある。


キャンベル 神話は生かされるべきです。それを生かすことのできる人は、なんらかの種類の芸術家です。芸術家の役割は環境と世界の神話化です。
モイヤーズ 芸術家は現代の神話作家だとおっしゃる?
キャンベル 昔の神話作家は現代の芸術家に当たるわけです。
モイヤーズ 彼らは壁に絵を描く、儀式を演じる。
キャンベル ええ。ドイツにはダス・フォルク・ディヒットという古いロマンチックな考えがあります。伝統的な文化社会の思想や詩は民衆から出ているという考えです。でもそれは違います。それらはエリートの経験が来ている格別の才能を与えられ、宇宙の歌に耳を開いている人々の経験からです。そういうエリートが民衆に語りかけると、民衆から応答がある。それが相互作用として受け入れられる。けれども、民衆の伝統を形成する最初の衝動は、下からではなく、上から来るのです。


これって、まさにBABYMETALだ!(またまたまた)。
とりわけライヴにおける、BABYMETALと僕たち観客との関係性を語ったものだ。

神バンドもサポートにつけて、ステージ上でのBABYMETALは、圧倒的な「エリート」ぶりを見せつける

「いわゆる今までのメタル」として眺める、という固定観念のままでBABYMETALのステージを観たならば見過ごしてしまうのかもしれない(「横の2人楽器弾いてないの・・・?」とか)けれど、まともな目でステージ上での彼女たちの歌・合いの手・舞踊を観れば、それが、空前絶後・唯一無二の・至高のものであることは明らかである。

しかも、彼女たちのそれは、自分たちの肉声ではなく、いわば宇宙の歌」の体現・演奏である。
ここ最近の3人のインタビューには、彼女たちなりの「メタル観・メタル感」を語ったものが目立つが、それは、いわば、天から与えられたメタル、その奥深さ・気高さ・凄み・高み彼女たち自身が、歌や舞踊を通じて、そして、そこからひきおこされる観客たちの熱狂(「エリートが民衆に語りかけると、民衆から応答がある」)を通じて、体感しその意味を噛みしめつつある、ということだ。
(いわゆる自発的なバンドではなく、プロデュースされたものだ、ということが、「神話」的な深い意味をもつ、というこのBABYMETALの物語の「奇跡」のメカニズムに関しては、前回・前々回に述べたものだ。)

メタルって、こんなにも楽しいものなのだ。
メタルだからこそ、言葉を超えて、年齢を超えて、身体に響くことができ、こんなに多くの人たちと身体で会話ができるのだ。


これは、まさに歴戦で大勝利をおさめ(続けて)てきたエリート」BABYMETALの3人だからこそ醸成されたメタル観・感だろう。
どう考えても、「メタルだからダメなんだ(ダサい、うるさい、キワモノ・マガイモノ扱いされる、という負の側面が大きい)」という反面の危険性を、メタルというジャンルは持っているのだから。
「メタルなんかじゃなくて、もっと普通の音楽(ロック、ポップ、・・・)だったらなあ」なんてメンバーが思う可能性も大いにある(あった)はずなのだ。
(経営コンサルタントたちの、「メタルというニッチなジャンルだからBABYMETALは成功した」などという「成功の方程式」は、こうしたメタルの属性がまるで見えていないという点だけでも失笑するしかない妄言だ。ある意味、成功するはずがなかったのである、BABYMETALなんて。そんな「失敗の方程式」からなぜこんな結果が生れたのか、そこを出発点にしない限り、”BABYMETALの凄さ”を語ることはできないはずなのだ)

上述したBABYMETALの3人のメタル感は、「エリート」だからこそ引き起こした「結果」を受けての「エリート」の感慨、なのであろう。
もちろん、それでよいのだ。
僕たちおっさんたちは、ステージ上の「エリート」BABYMETALによって至福を分け与えられている、下々のものたちなのだから。

h(gのつづき)
モイヤーズ 先生がおっしゃるそういう原初的な文化社会において、今日の詩人に当たるのはどういう人だったのでしょう。
キャンベル シャーマンです。シャーマンは、男であれ女であれ、少年期の終わりから青年期の初めに圧倒的な心理体験をしており、そのおかげで完全に内面に向いている人です一種の精神分裂的な衝撃です。無意識のすべてがパックリと口を開き、シャーマンはそこに落ち込む。このシャーマン体験はずいぶん多くの人によって記録されています。それはシベリアから南北アメリカ、そして南米の南端のティエラ・デル・フエゴに至る全域で起こっています。
モイヤーズ そしてエクスタシーがその体験の一部である。
キャンベル そうです。
モイヤーズ 例えば、ブッシュマン社会の神がかり的なダンスですね。


またまたこれも、BABYMETALそのものの謂ではないか。

ここでいうエクスタシーとは、もちろん性的な意味のそれではなく、「脱自」「忘我」と訳されるような「我を忘れる体験」のことだ。
「ステージ上では神が降臨しているので、ライヴをしている時の記憶はないんです」というのは、もちろん「設定」でもあるのだろうが、しかし、掛け値のない「事実」でもあるだろう。
あれだけ極限のダンスを休む暇なく繰り出す動きは、いちいち「意識」していたらできない。
まさに「考えるな・感じろ」とは、ステージでの3人の意識状態の「真実」なのだろう。
もちろん、それでいて段取りを間違えてはいけないのだから冷静でもある、いわば”白熱した”精神状態にあるのだろう。

それにしても、「少年期の終わりから青年期の初めに圧倒的な心理体験をしており」とは、まさにBABYMETALの3人の、現在進行形の状態のことでもあろう。
3人がまだ(他のメタラーたちに比べて、とんでもなく)幼い少女である、ということの大きな意味のひとつが、神話論的には、こうした「シャーマン」性にある、ということは深く頷けることだ。

もちろん、彼女たちは、本当のシャーマンの「完全に内面に向いている人」「一種の精神分裂的な衝撃」「無意識のすべてがパックリと口を開き・・・そこに落ち込む」という病的な精神状態にあるわけではない。
むしろ、そうした内向的・病的なもの(ある種、ヘヴィ・メタルが増幅して表現してきた「メタルらしさ」の大きな属性のひとつ)と全く対極にある、向日性、天国的な明るさ、「絶対的な肯定性」を徹底的に・強烈に表現しきっているのが、「メタルは正義、カワイイも正義」BABYMETALなのだから。

しかし、これも最近のインタビュー(とりわけ『ロッキング・オン・ジャパン』でのそれ)に明らかなように、3人とも「一種の精神分裂的な衝撃」を体験しつづけていることは間違いない。

そうしたエクスタシー(脱自・忘我)は、歌や楽器の演奏ではなく、「ダンス」であることによっていっそう増幅されるであろうことは、僕たちの経験からもたやすく想像できることだし、「ブッシュマン社会の神がかり的なダンス」という典型例もある。
さらに、あらゆる音楽のうちでも最も激しく・重く・速い、といってよい「ヘヴィメタル」であることによってよりいっそうエクスタシーがもたらされる(激しいヘッド・バンギングなんて、まさにそうしたエクスタシーを象徴する所作、だ)ということも確かだ。

”メタル・ダンス・ユニット”とは、「メタル」と「ダンス」というエクスタシーをもたらす両極の、掛け算なのだ。
おそらく、並大抵の身体・精神では耐えられないものだろう。

「成功例」BABYMETALに倣って、新たな”メタル・ダンス・ユニット”を生み出そうと企画したとして(楽曲をほとんど”狂気のこだわり”の高みにおいて差配するKOBAMETAL、激しさとカワイさとをほとんど狂気の高みで融合した振り付けを創作するMIKIKOMETAL、まずそれらの天才が揃うなんてことが考えられないのだが、もし仮にそれがクリアできたとして・・・)、その任に耐えるメンバーがいるだろうか?
年齢がもっと上の女性ダンサーや、身体能力に優れた男性であれば、現状のBABYMETALのダンスを再現する、さらにはそれを超えた”メタルダンス”を「演」じることはできるだろう。
しかし、そこにはこれまでBABYMETALが見せてきた(そして今見せつつある)「少年期の終わりから青年期の初め」の女の子であることによる「シャーマン」ぶりは見られない。

SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALが、さくら学院という「少年期の終わりから青年期の初め」=成長期限定ユニットのメンバーであり、それが「重音部」でヘヴィメタルに出会ったということ。それが、ステージ上の「シャーマン」ぶりにつながっている、というこの細い細い奇跡の道には、あらためて神秘的なものを感じる。

しかも、3人がこれほど「タフ」「強い」のは、3人みずからが語っているように「この3人だからBABYMETAL」なのだ。企画のためにオーディションをして、金の卵を3人選出しても、BABYMETALの「この3人だから」というケミストリー・以心伝心・一心異体まで真似できるはずがない。

ここの誕生の機微、は、何度考えても慄然とする。あらゆる小説や映画、マンガを超えた劇的な「出会い」と「ともに成長」だったのだ。
YUIMETAL(水野由結)とSU-METAL(中元すず香)の関係性だけでも、誰も意図して作ることができないものだ。
可憐ガールズに励まされ・憧れてさくら学院で、天才歌姫SU-METAL(中元すず香)と一緒に活動できる喜びを持ち、中元すず香の卒業式ではステージ上で泣き崩れたYUIMETAL(水野由結)が、”メタル・ダンス・ユニット”においては、あんなに可愛らしい容姿・魅力をふりまきながら超絶的なダンスの天才であった、ということだけでも「ありえない」設定(事実)だし、
そこに、入学以来まるで双子のように(背の高さを競い合いながら)育ってきた、あかるくていたずら好きのコミュニケーションの達人・超絶美少女アイドルのMOAMETALが、トライアングルを形成する、ここの「この3人だから」という「関係性の強さ・必然性・絶対性」は、ステージ上でのおそらくは異常なほどの「磁場の強さ」に3人それぞれが耐え、「シャーマン」と化すことができている、その深淵なのだ。

i(hのつづき)
モイヤーズ 例えば、ブッシュマン社会の神がかり的なダンスですね。
キャンベル そこには、あるもののすばらしい例が見られます。ブッシュマンは砂漠の世界に生きています。それは非常に厳しい生活、大きな、途方もなく大きな緊張を強いられる生活です。男性と女性とは厳然と区別されて生きています。両性はダンスのときだけいっしょになれる。こうやって彼らは近づきます。女たちは輪になって、あるいは小さくかたまって座り、自分たちの腿をはたき、周囲で踊っている男たちのために調子を取る女たちは男たちが踊る輪の中心の位置を占め、歌うことと腿をたたくことによってダンスと男たちの成り行きをコントロールします
モイヤーズ どういう意味があるのでしょう、女性がダンスをコントロールするというのは?
キャンベル そうですね、女は生命であり、男は生命に奉仕する者だと言いますか。それがこういうものの基本理念です。彼らは輪になってひと晩じゅう踊りつづけるのですが、そのあいだに男のひとりが突然失神する。私たちなら神がかりとでも呼ぶものを経験するのです。しかし、これは閃光だと表現されています。一種の雷光、つまり稲妻が骨盤のあたりから脊椎を抜けて頭に走るというのです。
(略)
いやはや、この男は全く別の意識領域を経験したわけです!こういう経験を通じて、彼らはいわば空中を飛んでいるのです。
モイヤーズ その結果シャーマンになる?
キャンベル いや、この社会では違います。その男は恍惚ダンサーになる。そして、あらゆる男は神がかりの状態に入る可能性を持っているのです。
モイヤーズ われわれの社会のなかにも、これと同じような日常的経験があるのでしょうか。(略)
キャンベル きっとあるでしょう。それはこの大地から神話的想像領域への、神への、力の座への、転移の経験にほかなりません。(略)
モイヤーズ その経験のなかには、恍惚感というものがあるのでしょうね。
キャンベル 報告されているかぎりでは、いつも恍惚境に入っているようです


これこそまさに、BABYMETALのライヴの、あの「至上の楽しさ」の秘密の核を語っているようだ。

僕たちは、BABYMETALのライヴに参加することで(さすがに失神はしないが)まさに「恍惚ダンサー」と化すのである。これは、極めて、BABYMETALのライヴに参加した実感に近い。

なぜ、BABYMETALのライヴは、とんでもなく楽しかった、という印象は濃厚なのに、記憶が飛んでいるのか?
例えば、僕は、横アリでSU-METALが銅鑼を鳴らしたことは、WOWOWの放映を観るまで完全に頭から飛んでいたのだが、それはなぜなのか?

それは、僕が、ライヴ中は「恍惚ダンサー」と化していたからだ。
そして、少なくとも僕には、他にそのような経験のできる場はない。
だからこそ、時間・手間をかけて「遠征」してでも、BABYMETALのライヴに参加したい、と熱望するのだ。一度参加してしまえば、また次も、その次も、と、中毒になるのである。

しかし、例えば、男性(少年)3人のダンスユニットでは、観客の僕たちをこれほどまで「恍惚ダンサー」たらしめることはできない。
神話論的には、「女は生命であり、男は生命に奉仕する者」という関係性があり、だから「女たちは男たちが踊る輪の中心の位置を占め、歌うことと腿をたたくことによってダンスと男たちの成り行きをコントロール」する、のだから。

そして、さらに、それがヘヴィメタルだからこそ、その爆音・轟音・重音・激速によって、僕たちはトランス状態へと導かれ、「恍惚ダンサー」と化す。
例えば、「BABYMETAL DEATH」なんて、まさにそのための楽曲だろう。
いやほんと、ライヴのオープニングで、それこそ「B!」と両手をキツネサインにして掲げた瞬間から、一気に僕たちは「恍惚ダンサー」と化しているものなあ。

もちろん、ステージ上の3人と神バンドのパフォーマンスが超絶的に素晴らしいことが、BABYMETALのライヴの魅力の核なのだが、それだけではなく、ここで書いてきた神話的な構造が、唯一無二・空前絶後の「BABYMETALのライヴの魅力」の根底にあるのだ、と思う。

こう考えると、「アイドルとメタルの融合」「成長期限定ユニットさくら学院の派生ユニット重音部」「メタルダンスユニット」という設定・由緒・履歴が、そのままステージ上のパフォーマンスの唯一無二のクオリティにつながっている、それがBABYMETALの恐ろしさ、なのだ。

にしても、恍惚ダンサーって、いい言葉ですね。
まさにライヴ中の僕たちおっさんを的確に形容する言葉だもの。





BABYMETAL探究(BABYMETALの「神話的構造」考②)

2016-05-06 22:55:54 | babymetal
”BABYMETALの物語”の「神話的構造」についての探究。
そのつづきであるが、念のためにひと言前置きしておきたい。

前回・今回(以降)ここに書くような「神話的構造」を、BABYMETAL(KOBAMETAL)が意図・計算・計画して「物語」として紡いできた、などということを述べているつもりは全くない。

意図的なものか偶然のなりゆきの積み重ねなのかそんなことは別にして、”BABYMETALの物語”には、古今東西において人間の魂をゆさぶってきた数々の「神話」に見られるのと同質の構造が見られる(僕たちはこれまでも今もたぶんこれからも、それに((も))魂を揺さぶられつづけているのだ)ということ。
それを改めて剔出してみよう、という(だけの)試みなのである。

『神話の力』には、こんな対話がある。

モイヤーズ ジョン・レノンが死んだときの大騒ぎをどう思われましたか。彼は英雄だったんでしょうか。
キャンベル それはもう、まさしく英雄でしたよ。
モイヤーズ そのことを神話学的な立場から説明していただきたいのですが。
キャンベル 神話的な意味では、ジョン・レノンは改革者でした。ビートルズは、すでにその下地が整っていたところからひとつの芸術形式を導き出した。時代とぴったり息が合っていたんですね。もう三十年早かったら、彼らの音楽は線香花火のように終わってしまったでしょう。民衆の英雄は、時代の欲求に対して敏感です。ビートルズはポピュラー音楽に新しい内面的な深みをもたらした。そしてそこから、瞑想や東洋音楽の大流行と言えそうなものが起こった。東洋音楽はそれ以前からこの国にも入っていたんです――単に珍しいものとして。ところが、ビートルズ以後のいま、わが国の若者は東洋音楽の本質を理解しているようです。私たちはますます多くの東洋音楽を聴いています。それに、瞑想を助けるという本来の役目で用いられることも多くなっています。それはビートルズが始めたことです。


言うまでもなく、ジョン・レノン自身が、ビートルズ自身が、神話的な意味での「英雄」になろうとした、などということがあるはずがない。しかし、結果として、ジョン・レノンは「英雄」であった(とキャンベルは語る。僕はたいへん納得できる見解だと思う)。

それと同質の「構造」がBABYMETALにもあり、それが、僕たちをこれほど中毒にする秘密の核の大きなひとつになっている、それを確認しよう、ということなのだ。

上に出てきた「英雄」とは何なのか?
前回の補遺も兼ねて、『神話の力』からさらにいくつか抜粋する(前回の『千の顔をもつ英雄』引用a・bに続いてcから記号を付す)。

c 伝説的な英雄はたいていなにかを創造したひとです――新しい時代の創始者、新しい宗教の教祖、新しい都市の建設者、新しい生活スタイルの発明者など。なにか新しいものの基盤を築くには、古い世界を出て、新しいものの萌芽を秘めた種子とも言うべき思想を探しに行かねばなりません

d 
モイヤーズ 近ごろは、英雄ではなくて、有名人が崇拝されているようですね。
キャンベル そう。非常に残念なことです。以前、ブルックリンのあるハイスクールで、「将来なにになりたいか」というアンケートが配られたそうです。そうしたら、生徒の三分の二が「有名人になりたい」と答えた。なにかを成し遂げるためには自分を捧げなくてはならないなんて考えは、彼らにはないんですね。
モイヤーズ ただ有名になればいい。
キャンベル ただ有名になって、もてはやされればいい――名前と評判ですか。情けないですね。
モイヤーズ しかし、社会には英雄が必要なのですか。
キャンベル 私は必要だと思います。
モイヤーズ どういうわけで?
キャンベル この分離分散の傾向に歯止めをかけて、みんなをひとつにまとめ、全体の意志が生まれるようにするためには、社会は凝縮したイメージを持たねばならないからです。


e 求婚者たちを拒絶する、境界線を越える、そこから冒険が始まるということです。守られていない、新しい領域へ入って行くのです。限られた場所、固定された生活習慣、決められたルールなどを後にしなければ、創造性を発揮することはできません

f 彼らは自分を守ってくれるはずの社会から抜け出して、オリジナルな経験という暗い森に、炎の世界に入ったのですオリジナルな経験というものはかつて説明されたことのないものだから、本人が独力で自分の生活を組み立てていくしかない。それに耐えられるか否か、道は二つにひとつしかない。すでに知られている道から離れると、それほど進まないうちにもう非常に困難な状況にぶつかる。そういう試練に直面する勇気、そしてほかの人々にも経験してもらうために説明のついている経験分野に新しい可能性のかずかずを導入する勇気。それが英雄の行動です。

どうだろうか?
(例によって)これって、まさにBABYMETALのことだ!
(そう思いませんか?)

例えば、fの末尾の「説明のついている経験分野に新しい可能性のかずかずを導入する勇気」など、まさにアルバム『METAL RESISTANCE』(の凄み)を指摘しているもの、としても読める。

「説明のついている経験分野=メタル」に新しい可能性のかずかずを導入する、
だけではなく、
「説明のついている経験分野=(これまでの)BABYMETAL」に新しい可能性のかずかず(例えば、バイキングメタル、プログレメタル、ブラックメタル((デスメタル))等々)を導入する、その「勇気」、だ。
実際、例えば、国内のアマゾンのレビューにも、「1stのBABYMETALらしさが失われた」と失望・不満を述べるコメントが数多く見られるが、”慣れ親しんだBABYMETALらしさ”の再生産ではない、”新しい可能性のかずかず”を世に送り出すこと。
BABYMETALの「ニュー・アルバム」とは、そうした「英雄」としての「冒険」のひとつなのだ。

今やすっかり堂々としたリード・トラック、代表曲になった「KARATE」だが、この楽曲とて、昨年12月の横アリでの初披露時の印象は、「なんじゃこりゃ!」感・キワモノ感満載の曲だったはずだ。
しかし、そんな”新しい可能性”を濃厚にもった楽曲だからこそ、この曲をニューアルバムのリード・トラックとして送り込んだ(まあ、どの曲もそれなりにあるいは大いに「なんじゃこりゃ!」感・キワモノ感をもっているのがBABYMETALなのだが・・・)。
この「勇気」、「冒険」。これが、BABYMETALなのだ。
いや、もちろん、「KARATE」というこの楽曲(の演奏)が世界に「刺さる」「響く」はずだ、という見込み・判断があったからこその選定なのだろうが、”慣れ親しんだBABYMETALらしさ”の「安全・安定・馴染み」、ではなく、常に「冒険・刷新・予想の斜め上」の手を繰り出すBABYMETALのありようは、ロック魂・メタル魂を体現する、潔さ・カッコよさがあり、さらには、神話論的な意味の「英雄」の行動として、僕たちを揺さぶっている、のである。

で、ここからが今回の本論なのだが、BABYMETALが海外に向かったこと、これこそが、まさにBABYMETALの「英雄」性の典型的な表象であることを改めて痛感している。

上に引いた、「神話」における「英雄」を語る、キャンベルの言葉cefに共通する要素。
それは、英雄の「旅」の意味について、だ。

前回引いた、この記述も同趣旨のものだった。

b.つまり、英雄の一番の仕事とは、二次的な意味しか持たない表舞台の世界から身を引いて困難を生む精神(プシケ)の領域(実際に困難が巣くう領域)へもぐりこんで、そこで何が問題かをはっきりさせて自分自身の困難を解消し、C・G・ユングが「元型イメージ」と呼んだものを歪曲せずに直接経験して、それと同化するまで、突き進むことである。

結果として、BABYMETALは、英国そして米国で「ウケ」て、その「実績」を基にした衝撃もあり、日本のファンも増やしつつある(ような勢いを感じるのだが、実態はどうなのか・・・?)。

しかし、2014年の3月の時点でそんなことは誰も予測できるはずもない。

そうした時点での、武道館2Daysによって「メタルレジスタンス第1章」を終え、「第2章」として海外へと向かう、という活動の方向性の決断は、まさにd「表舞台の世界から身を引いて」というべきものだろう。

「海外で大人気」が喧伝されるようになった今でも、CDの売り上げや、ライヴに押しかけるファンの数は、何と言っても日本が圧倒的なのであって(5万5千人の東京ドーム公演を前にしての落選祭って、どういうことだ?!)、マーケティング的な費用対効果で言えば、2014年に国内活動をほぼ休止し6月からの海外ツアーをメインに活動する、なんて判断は、「悪手」以外の何物でもなかったはずだ

しかも、その時点で(2014年4月から)は、SU-METALが高校2年生、YUIMETAL、MOAMETALは中学3年生という義務教育期間中であり、なおかつ、菊地最愛・水野由結としては「さくら学院」の最高学年、主力メンバー、菊地最愛は生徒会長でもあったのだから、海外各地を巡りながら、とりわけガチのメタル・フェスに参加するなどというのは、半ば狂気の所行だろうし、メンバーにとってもたいへん過酷な「試練」だったに違いない。
(例えば、今でも普通に読むことが可能だが(アミューズ、GJ!)2014年7月30日付の、さくら学院「学院日誌」には、BABYMETALのガガのサポートアクトの活動のためにTIFに参加できない菊地最愛の赤裸々な悲しみ・苦悩が記されている。水野由結も、当然同様の悲しみ・苦悩を感じていたはずだ)

それでも、(ここで「さくら学院」が「二次的な意味しか持たない表舞台」だなどと述べるのは、「さくら学院」の父兄どころかYUI・MOAからも叱られてしまいそうなとんでもない蛮行だが)”いわゆるアイドル”的な、例えば地上波テレビやアイドル・フェスへの出演が(結果的に)「二次的な意味しか持たない表舞台」だった、というのは、今のBABYMETALの姿を見ると、認めざるを得ない事実であろう

あの時、c「限られた場所、固定された生活習慣、決められたルールなどを」大切にするという判断(もちろんこれも十分ありえるし、これはこれで「正しい」といえるはずの判断だ)をしていたら、今の僕たち「THE ONE」の、国内だけでなく世界に広がる、こんな至福というべきとてつもなく幸せな日々はもたらされなかったのだ。
(僕は、2014年の9月からの「新参者」なので、おそらくBABYMETALに出会うことすらなかっただろう・・・今となっては想像もできないが・・・)。

これが、BABYMETALが「英雄」としての「旅」の結果として成し遂げた(成し遂げつつある)こと、なのだ。

そして、最近の3人のインタビューでの発言にはつくづく瞠目させられっぱなしである。

自分たちBABYMETALの「意義」を語る(ようになった)、SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの言葉は(たとえその何割かが「台本」に即したものであったとしても)、fの「困難を生む精神(プシケ)の領域(実際に困難が巣くう領域)へもぐりこんで」「自分自身の困難を解消し」「(原型的イメージを)直接経験して」「それと同化するまで、突き進む」という、「英雄」が経験すべきことを経験してきた、その鮮明な表白になっている、と僕には感じられるのだ。

例えば、前回引用した、MOAMETALのMTVでの、
メタルを知らない人たちにも、BABYMETALなら、メタルのよさを伝えられる、って思うから、この音楽を通じて世界をひとつにしたいし、この音楽を通じて、みんなで成長したいな、って、思います。
など、まさにそれをありありと感じさせるセリフだ。
(当たり前の話だが、2014年度のツアー中には、まだMOAMETALはこんなことは語れるはずがなかった。まだ「旅」をはじめたばかり、「英雄」になる途上だったのだから。)

さらに、fの「自分を守ってくれるはずの社会から抜け出して、オリジナルな経験という暗い森に、炎の世界に入ったのです。」というキャンベルの見解も、BABYMETALのステージを考える上でも、極めて示唆的である。

暗い森。
炎の世界。


BABYMETALのステージのライティングに、不満を漏らす方もよく見かけられる。
まあ、明るい方が、たしかに3人の動きも表情もはっきり見えるから、ステージのライティングを例えば「商品写真を撮影するための照明」のようなものだと考えるならば、BABYMETALのライヴ現場での数々の照明は、論外、なのかもしれない。
しかし、まさに彼女たちがfのような意味での神話的「英雄」であるとすれば(実際にそうなのだが)、その象徴的な表現が、「暗い森」「炎の世界」を現出させるようなライティングや舞台演出だ(意図的な演出、というのではなく、結果的にそうなっている)とも言えるのではないか。

あるいは、BABYMETALのシンボルカラーとしての黒&赤がステージのライティング等の基調になっている、ということかもしれないが、そうだとしても、やはり「暗い森」「炎の世界」のイメージがステージ上に現出することで、”BABYMETALという物語”の視覚的・象徴的な映像効果となり、僕たち観客が「神話」的な体験をしている、ということもあるのではないか。

先日のWOWOWのWEMBLEYライヴ、曲数は少なかったが、(言うまでもなく)素晴らしいものであった。
(「拡大版」の予告からは、あの「紅月」も、あの「META! メタ太郎」も、あの「CMIYC」も放映されるようで、もう楽しみで楽しみで仕方ない)
このステージのライティングや演出も、BABYMETALが「自分を守ってくれるはずの社会から抜け出して、オリジナルな経験という暗い森に、炎の世界に入った」ことを可視化するものであったように僕は感じる。
対照的に、『BABYMETAL革命』は、端的にいって、「炎」の赤味が足りなかった・「暗い森」の暗さが足りなかったのかな、なんて思っている(あ、関西でも「完全版」いつか観られるようで、よかった!)。
まあ、でも、「METROCK」という全くの別種の、天日の明るさに満ちた素晴らしいライヴ映像作品もあるのだから、このへんは僕の心理的なこじつけなのだろうが。

あ、ここまで書いて今気づいたが、前々回の「名言集①」で触れた、SU-METALの「偉人になりたい」という発言
あれ、あの時は、SU-METAL(中元すず香)の人柄の大きさ、というニュアンスでコメントを記したが、自身が神話的な意味で「英雄」である(あろうとし続ける)こと、それを言語化したものではないのか。

SU-METALの(神話論的な意味での)「英雄」としての自覚

そう理解するのが、おそらく正しいのだろう。

やや脱線したが、とにかく、BABYMETALは、1stアルバムをリリースし、武道館2daysを終え、海外へと「旅」に出た

KOBAMETAL曰く、
武道館まで行っちゃうと国内でやる事がだんだんなくなってくるんですよね。じゃあ外へ出て行くのがいいだろうと。
通常だったら武道館の次はアリーナツアー。その流れには乗らないほうがいいなと思って。中身にこだわってやってるのに届かないうちに消費されて終わっちゃう感じがしたので。
という、「らしい」こだわりのなせる判断、だったのだろうし、そうしたこだわりがビジネス的な判断として認められうる(もちろん、様々な角度からの厳しい経営判断の末に、ではあろうが)アミューズという会社だったから、という事情もあったのだろうが、ともかく、このことによって、BABYMETALは「英雄」になりうる資格を手に入れたのだ。

もちろん、その後の「試練」に立ち向かい、戦って勝つ、それを成し遂げることが必要だったのだが。

(それにしても、dの末尾って、まさに「THE ONE」というコンセプトそのものの謂ですよね・・・。ジョーゼフ・キャンベルに((も))BABYMETALを見せてあげたかったなあ・・・)


BABYMETAL探究(BABYMETALの「神話的構造」考①)

2016-05-03 00:44:55 | babymetal
こんなの見たことがなかったわ。何もかもが違うの。初めて見た瞬間に、ウチの雑誌でとりあげなきゃ!って思ったの。誰もが夢中になれるはずだわ。まず、歌や踊りがすごく上手ルックスも超キュート曲もキャッチー。でも何よりもライヴが本当に楽しいの

皆さんご存じの、(このブログで既に何度かとりあげた)NHK『BABYMETAL現象』内での「ケラング!」誌の新人発掘担当、ジェニファーさんのコメントである。
このコメントは、実に端的に、BABYMETALの魅力を過不足なく言い当てている
(まあ、すべての褒め言葉に「最高に」「至上に」「空前絶後の」「唯一無二の」という枕詞を被せて、実感にちょうどよくあてはまる感じ、ではあるのだが・・・)

しかし、BABYMETALがこれほどまでに僕(たち)を魅了するのは、上のコメントで讃えられている魅力とはまた別の領域・次元の、より深遠なあるいは崇高な要素が関わっているのではないか。

日本人アーティストで初めてのWEMBLEY ARENAでのライヴ。1万2000人を魅了。
ビルボードチャートTOP40に、日本人アーティストとして53年ぶりにチャートイン。

そうした「快挙」の数々の達成、そうした偉業も、もちろんBABYMETALを応援しているから味わえる贅沢な醍醐味である。
こんなバンドは、おそらく僕(たち、おっさん)が生きている間にはもう二度と出てこないだろう(それとも、BABYMETALをきっかけにして日本の音楽シーンの潮目が変わり・・・なんてことがあるのだろうか?でも、こんなとんでもない才能が集結するという「奇跡」は、確率的には二度とありえない)。

さらには、国境を超え、言葉の壁を超え「日本人」の「少女」3人が各国の老若男女を魅了していることへの共感・感激、誇り、といった、オリンピックやワールド・カップ等の国際大会に手に汗にぎるのと同質の感情も、確かにあるだろう。
(これらは、国内ファンならでは、であって、海外ファンは僕たちほどには、これは感じていないのだろう・・・)。

しかし、BABYMETALが、僕(たち)をこれほどまでに魅了するのは、こうした魅力を超えた、さらに根源的な「神話的な構造」によるものでもあるのではないか。
僕はいまそれを痛烈に感じているのだ(・・・って、星飛雄馬か!?)。

このブログではここしばらく、身辺雑記や小ネタが続いていたので、久しぶりに、「BABYMETALの魅力とは何か?」に本格的に切り込む「探究」を試みてみたい
もちろん、いつものような、素人の拙考・妄言の羅列でしかないのだが、気合いだけは、久しぶりに「本格的な考察」をめざす意気込みである。
皆さんがBABYMETALを楽しむ際の、ほんのわずかではあっても刺激・参考になるようなことも、綴れるかもしれない、と、そんなことを期待しながら、考察を試みよう。

まだうまく整理できていないので、似たようなことを、角度を変えて何度もくどくどと書いてしまうことになってしまいそうだが、よければおつきあいください。

今回のシリーズの考察で、主に参考にする(はずの)文献が、ジョーゼフ・キャンベルの神話学の諸著作である。
入手しやすいのは、ハヤカワ文庫NFの、『神話の力』、『千の顔をもつ英雄(上・下)』だ。
とりわけ前者は、問答形式になっているせいもあってたいへんに読みやすく、刺激的・啓発的な名著、と言ってよいと思う。

そうした知見を援用するならば、BABYMETALの、他のバンドともアイドル・ユニットとも大きく異なる魅力、その鍵の一つがBABYMETALの「神話的構造」にある、と言えるのだと思う。

古来、神話が人間の心を揺さぶり、人生のさまざまな局面を意味づけて・意義づけてきたこと、これは確かなことだ。(むしろ逆に、人間の心を揺さぶり人生を意義づけ・意味づけする「物語」を、「神話」と呼ぶ、と定義すべきなのだろう)。
そうした「神話」のエッセンスを設定・構造としてとりいれた映画(例えば「スター・ウォーズ」や「マトリックス」)は、実際に多くの人を魅了しているし、「神話的な構造を強く意識せよ」という趣旨のシナリオ作法の本も多数あるようだし、「神話的構造」は、(ファンタジー等はもちろんのこと)さまざまな小説やマンガにも、そのエッセンスは(意識的に・無意識的に)とりいれられている。

そうした要素を、”BABYMETALという物語”は、濃厚にはらんでいる、のではないか、ということだ。

こんな音楽ユニットなんて、それこそ、空前(絶後?)、唯一無二、なのではないか。

ここが、以前に考察した「なぜ泣いてしまうのか?考」や「聖性考」にも深く関わるはずの、BABYMETALが単なる音楽ユニットではない、麻薬的な「中毒」性をもった、ほとんど宗教的な熱狂・陶酔をもたらす、その鍵のひとつなのだと思う。

今回は、その端緒としてまず、「英雄」について考えてみたい。

BABYMETALは、英雄である。

断言してみたが、これは、神話論としてはどういう意味なのか?

『千の顔を持つ英雄』のなかでジョーゼフ・キャンベルはこのようなことを述べている。

a.英雄とは、自らの力によって服従を達成する人である。

b.つまり、英雄の一番の仕事とは、二次的な意味しか持たない表舞台の世界から身を引いて困難を生む精神(プシケ)の領域(実際に困難が巣くう領域)へもぐりこんで、そこで何が問題かをはっきりさせて自分自身の困難を解消し、C・G・ユングが「元型イメージ」と呼んだものを歪曲せずに直接経験して、それと同化するまで、突き進むことである


これって、まさに、BABYMETALだ!!
(と思いませんか?)

aについて。
BABYMETALの場合の「服従」とは、もちろん、「メタルへの服従」である。

メタルなんて全く知らなかった(知るはずもなかった)アイドル・ユニット「さくら学院」のメンバー3人が、その派生的な課外活動「重音部」のメンバーに選ばれ、そこでヘヴィ・メタルという未知の音楽を「やらされ」て(=服従)ゆく。
(このへんの立ち上がりの事情は、今ひとつ明確ではない。初めからBABYMETAL(的なアイディア)を含みつつ「さくら学院」が立ち上がった、といった情報も目にすることもある。まあ、「公式」なストーリーの概要は上記で間違いないだろうし、3人が「やらされ」たものであったことは疑いようがない)

デビューアクトの「ド・キ・ド・キ☆モーニング」の(とりわけMOAMETALの)初々しいというか、ぎこちない「演」奏を今でもネットで目にすることができるが、自分たちの好みや志向とは全く関係のない、そうした「やらされ」たメタルにおいて、彼女たちは、しかしすぐに、とんでもない「自らの力」を発揮しはじめる。

持って生まれた才能と人柄を最大に発揮しながら(もちろんそこには、文字通りの((誰しもがそのステージから想像できるように))血と汗と涙の滲む努力・修行・精進を重ねる日々があった)「ソニスフェア」や「レディング&リーズ」フェスを代表とする大舞台で次々と観客を魅了し、いまや、各国の大きなメタル・フェスにメイン・アクトのひとつとして堂々と名を連ねるようになった。

「自らの力によって服従を達成する」とは実に逆説的な難解な(だからこそ深遠な)定義だが、「BABYMETALの3人を見よ」と言えば、端的に理解できる。
(ヘーゲルの「弁証法」という概念も、「BABYMETALを見よ」で一発即解だ)

3人にとって、ヘヴィ・メタルはやりたい音楽でもなんでもなかった。
やらされた音楽だ。
しかし、彼女たちは、自らの力で、今までのヘヴィ・メタルではない、BABYMETALというメタルを確立し、今や世界中の人たちを魅了しつつある
逆に言えば、BABYMETALという彼女たちにしかできないメタルを確立できたからこそ、彼女たちは今、それを自分の「使命」として引き受け、人生を懸けて(楽しみ・苦しみながら)臨むことができるようになったのだ。

これは、例えば、「マトリックス」等と極めてよく似た構造だろう。

だから、この3人が、はじめは全くメタルを知らなかったこと、自発的にメタルをやろうと思ったのでははないこと、この「事実」は、BABYMETALの「アキレス腱」などでは全くないのである。

むしろ、だからこそ、BABYMETALは英雄たりえている、のだ。

神話的構造からは、そうなるし、事実、僕(たち)はそこに感動して(も)いるのだ。

賛否両論あるように見受けられる、『ロッキング・オン・ジャパン』の別冊だが、SU-METALへのインタビューの
「SU-METALが何かに導かれる感覚を持っているのはとても重要なことで、「自分という人間の表現なんだ」という欲目が出た瞬間にプロジェクト自体がすごくつまらないものになってしまう」
という文言は、彼がどのような趣旨で発言していたかは不明だが、こうした「神話的構造」という観点からは正しい指摘だ、と僕は感じた。

英雄とは、私利私欲のために、戦ったり冒険したりする人物ではない。
もっと大きなもののために、命を懸けて戦う存在だ。

それが「自らの力によって服従(を達成)する」ということだ。

僕(たち)は、確かに、BABYMETALにそれを感じている。
彼女たちのステージが、僕(たち)を感動させるのは、冒頭のジェニファーさんの指摘にある魅力に加え、さらにこうした「崇高さ」を感じさせるから、なのだ、と僕は思う。

そして、BABYMETALにとっての、その大きなものとは、そう、メタル、なのだ。

これはもう、おっさんメタルヘッズたちが、泣かずにいられるわけがない。

こうした構造をわかりやすく象徴的に表現しているのが、
メタルの神様、キツネ様。そのお告げにしたがって、BABYMETALの3人は次々と困難な課題(どんどん大きくなる)にぶつかっていく
という「設定」だ。

キツネ様イコールKOBAMETAL、ではない。
KOBAMETALはあくまでも預言者であり、(もちろん舵取りや決断は彼が主にしているはずだが)BABYMETALにくる「お告げ」は、BABYMETALの3人が、ヘヴィ・メタル界(あるいは音楽界)から引き寄せたものでもある。

メタルで世界をひとつにする。
こんな(一見、狂気の沙汰でしかない)「お告げ」が、徐々に「現実」のものになりつつあるのを僕たちは実際に目にしている。
最終的に「ひとつ」になることはありえないが、しかし、この「お告げ」がまるっきり実現不可能なものでもないのだ、ということを、僕たちは確かに体験しつつあるのだ。
メタルで世界をひとつにする、って、具体的にはどういうこと?」という問いには、「BABYMETALを見よ」とひと言答えればよい。

例えば、WEMBLEY ARENAでの光景、まさに「答えはここにある!」のだ。

このように、メタルの神の(ムチャ振りの)「お告げ」を真摯に受取り、愚直に・懸命に取り組む、という「服従」を、「自らの力によって達成」しつつある、BABYMETAL。
(彼女たち以外に誰もこんなことはできない、できる可能性があるのはBABYMETALだけだ、と世界中の多くの人が心から感じているはずだ。ヒットチャートや観客動員云々にも増して、これって、凄いことだ。まさに「神話」と呼ぶべき事態だ。)

こうした意味において、BABYMETALは、まさに「英雄」と呼ぶべき存在なのだ。

先日のMTVのインタビューの終わりに、MOAMETALがこう発言していた。

メタルを知らない人たちにも、BABYMETALなら、メタルのよさを伝えられる、って思うから、この音楽を通じて世界をひとつにしたいし、この音楽を通じて、みんなで成長したいな、って、思います。
(と、満足そうな、凜々しい、とても大きな笑顔を見せる)


この発言も、僕が書いてきた文言も、もしも5年前に目にしたとしたら、「こいつ(ら)阿呆か?」と誰もが思うだろう、下手なファンタジー作家志望の非現実すぎる残念至極のプロット、でしかなかったはずだ。

しかし、実際に彼女たちはそれを「自らの力によって達成」しつつある。
こんな物凄い「物語」=「事実」を見せられて、感動しないわけがない。
で、その上に、ジェニファーさんの語る”とんでもない魅力”が、音楽・演劇の楽しさとして乗っかっている、のである。
最高のエンターテインメントである以上に、真に「生の深淵」に届く深い意味を、BABYMETALは僕たちに与えてくれているのだ。

BABYMETALが海外へ向かったことの意味も、キャンベルのbの発言と絡めると、極めて「神話的構造」をもったものだということがよく見えてくる。
まさに「英雄」の旅、なのである。

次回はこのことから考察を続けていきたい。