ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(20171203 LEGEND − S − 洗礼の儀 − 探究③)

2017-12-16 15:52:15 | babymetal
あの日、YUIMETALの姿をステージ上に見ることはできなかった。

ステージ上に存在したのは、SU-METAL、MOAMETALの2人(+神バンド)だけだった。
そうした状況において、僕たちは確かに(たいへん歪なかたちではあるが)BABYMETALの前代未聞の「伝説」的なライヴを体験したのだった。

なのだが、しかし、YUIMETALは本当にステージ上にいなかった、のだろうか?

YUIMETALは、いわば<空欄=虚在>というかたちで、あの夜、ありありとステージの上にいた(いない、という形で強烈に存在していた)のではないか。

単に屁理屈をこね回しているのではなく、ライヴの現場にいた僕(たち)の実感として、あの日、僕たちは、BABYMETALにおけるYUIMETALの存在を、「この3人だからBABYMETAL」ということを、いつものライヴ以上にひりひりと切実に意識しながら狂乱の100分間を過ごしたのだ(少なくとも僕自身はそうだった)。

哲学者大森荘蔵は、「虚想」という概念を提唱している(中期の思索において)。
僕たちが何かを知覚するとき、いまこの時点では知覚されていない「想い」が裏打ちとなり、いまの知覚を支えている、という考え方だ。

例えば、いま目の前に見えている机は、いま現在の網膜に映る光学情報としては2次元のものであり、奥行きも厚みもないぺらぺらのものに過ぎない。しかし、僕たちは目の前の机をそのようなぺらぺらのものとしては見ない。机は決してそのようには見えない。
厚みも奥行きも備えた、引き出しに中身が詰まった、自分自身との長年のつきあいという来歴を背負ったものとして、僕たちは目の前の机を、いま見るのである。机は(こちらが病的な精神状態ではない限り)必ずそのようなものとして見える。

あるいは、目の前にいる人物を知覚する際も同じだ。光学情報としては、表面的な表情や輪郭、服装しか見えないはずのその人物を、僕たちは、内面・心を備えた人物として(それは原理的には絶対に知覚することはできないにも関わらず)いつも必ず知覚するのである(これができない状態が例えば「離人症」と呼ばれる病的な状態だ)。

これが、僕たちのありのままの現実の成り立ち、知覚のありようである。
決してロマンチックな意味ではなく、事実として僕たちの知覚には「想い(記憶、印象、想像、好悪、等々)」が籠もっているのだ。「想い」が知覚を知覚たらしめているのだ。

12月3日の、ステージ上のBABYMETALもそうだった。

ステージ上に実在するのは、SU-METAL、MOAMETALの2人であり、だからこそ、「いつもいるYUIMETALが今夜はいない」こと(想い)を僕たちは、強烈に意識させられ続けた

いつもいるYUIMETALのいない「この3人だからBABYMETAL」の、とんでもないライヴを、いま体験しつつある。いつもにましての、なんじゃ、こりゃ!!!

それが、当日の会場に集結し、唖然・狂喜している僕たちの心理状態だったはずだ。

そういう、いわば<空欄=虚在>としてのYUIMETALを一角にした、あくまでも三角形としてのBABYMETALのライヴ、だった。

当たり前のことをくどくどと繰り返しているような書き方になってしまうが、書いておきたいのは、あの日のライヴが決して、SU-&MOAの2人だけ(+神バンド)によるライヴではなかった、ということなのだ。
センチメンタルな意味ではなく、事実として、実在するSU-&MOA<虚在>するYUI、という「この3人だからBABYMETAL」のライヴを僕たちは体験していた、ということだ。

例えば、1曲目の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の、セリフの箇所。
あれ、普段は生セリフではないSEだと思うのだが、ならば、YUIMETALのセリフも録音で流すこともできたはずだ。
その方が「いつものライヴ」に少なくとも音響としては近づくから、「問題」は小さくなるかもしれない。
しかし、あの夜は、YUIMETALのセリフは無音のままだった。いつも聞き慣れた「・・・感じて・・・」「・・・逃げない・・・」等のセリフ(ある意味、慣れ過ぎてしまってきちんと聞き取ろうとはしなくなっていた)が、無音の「間」として「演」じられる、あのヒヤリとする感じは、今までに経験したことのないものだった。
よく言えば新鮮ということになるのだが、実際の印象はもっと切実な、「取り返しがつかない」、という感じのものだった。「ああ、YUIMETALは本当にいないのだ」という欠落感を会場にいるすべての人がひりひりと感じたはずだ。

あるいは、「メタ太郎」。YUIMETALのソロではじまるこの歌も、神バンドのバッキングが響くだけで、歌は流れない。
これとて、YUIMETALの歌を音源としてかぶせて、少なくとも音響としてはいつものライヴに近づける、そんな演出もできたはずである。
しかし、そうはしなかった。胸が痛くなるような、YUIMETALの不在を音でありありと指し示す、そんなステージが繰り広げられた。

「GJ!」や「4の歌」では、MOAMETALのひとり二役のBLACK BABYMETALが、
「BABYMETAL DEATH」ではSU-METALとMOAMETALの声を合わせての「YUIMETAL DEATH!」が(これはさすがに言わないわけにはいかない「この3人だからBABYMETAL」なのだ)、
YUIMETALの不在をカバーしたが、
ライヴ全般が、「YUIMETALはいない」ということを痛感させる瞬間に満ち満ちていた

じゃあ、僕たち観客は、そんな歪な演出に「金返せ!」と怒りを覚えたかと言えば、
そんなことは全くなく、
だみ声を張り上げながら、懸命に、YUIMETALのパートを叫び・歌い、涙ぐんでいたのだ。

この、圧倒的なホーム感よ!!

ホーム中のホームというべきSU-METALの故郷広島だったからこそ、
でもあろうし、
洗礼の儀(聖誕祭)という特別な祭儀の時空間であり、
そのギミックが予想の天上を突き破るとんでもないライヴだったからこそ、でもあろう、
観客がYUIMETALの<虚在>とともに燃えに燃えた2日間。

そして、これは、単に「2万円も払って広島に来たのだから、楽しまないわけにはいかないだろう」というような
さもしい思いによるものでは全くない。

僕たちファンに、今までBABYMETALが見せ続けてくれた<奇跡>の大きさ、
それに対する僕たちの全身全霊の共感・帰依。
そんな演者とファンとの絶対的な信頼関係によるもの
だ。

そこにはいつでもYUIMETALがいたのだ。

これまでの7年間(!!!)、
YUIMETALが「この3人だからBABYMETAL」の一員として積み重ねてきた、
数々の奇跡的なパフォーマンス。
その絶対的な愛らしさ。

例えば、
ソニスフィアでの、衣装のほつれを縫いながらの熱演。
新春キツネ祭りでの、MOAMETALを飛び越えた仰天パフォーマンス。
数々のインタビューでの、ユイ・ラグ等の天使ぶり。
海外でのライヴでの、ケロケロイングリッシュでのコール&レスポンス。
等、
ステージ上での格好良さと、それとは対極の、ぷにぷにぶり。

それらすべてのこれまでの積み重ねが、
あの2日間のYUIMETALの<不在>
単なる無ではなく、確かな<虚在>だと僕たちに感じさせ
感動のライヴの<裏打ち>となったのだ。

恐らく、ライヴに参加された多くの方が同じ思いだったはずだ。

以下、余談。

ライヴ会場に入場する前、僕は2800番台だったので、ずいぶん待った。
BABYMETALのライヴには珍しくぽかぽか陽気の小春日和の下、公園に腰をおろしながら、
自分同様、三種の神器を身にまとった数多くの”BABYMETAL馬鹿たち”をほのぼのと眺めていた。
入場待機の列に並ぶ前に、公園のトイレの長い列に並んだのだが、すると、必然的に
前にならんでいる方(やはりおっさんだった)の首の後ろに垂れ下がったフード部が目に入る。
見るとはなしに眺めていると、「あ!」と気がついたのだ。
YUIMETALの名が記されている!
ルーン文字?風にデザインされ、しかも、文字順が天地逆になっているので、ぱっと見わからないし、
自分では自分が羽織ったこの部分は見えようがないから、それまで気づいていなかったのだが、フード部に、YUIMETALの名が確かにあった。
今日は、全員でこれを着てライヴに参加するのである。
ステージ上にはYUIMETALはいないけれど、
僕たち全員がYUIMETALの名を羽織って、(代わりに)ライヴに参加するのだ。
そのことに気づいてジーンとしてしまった。

・・・この時点で、ちょろっと涙ぐんでしまった。
そして、「よし!」といっそう気合いを入れたのである。
これは、センチメンタルなおっさんの、ライヴ前の感慨。


さらに、全くの余談をもう一つ。

最近発売された『音楽スタア’70-’80』という雑誌の創刊号。
ぱらぱらとめくってみると、キャンディーズ→Perfume→BABYMETALを冒頭に、
3人娘の系譜、といった連載の一回目が載っていた。
筆者は、筋金入りのキャンディーズ・ファンで、大里会長とも面識がある、とのこと。
今後の記事が楽しみである。
僕は購入したが、今回のBABYMETALについては紹介が不正解でもあった
(筆者はドーム公演に初めて参加されたらしい)ので、
気になる方は立ち読みでもされるとよいと思う。
ただ、こうやって音楽誌に「普通に紹介」されるようになったこと、
認知度はずいぶん高まったのだなあ、と感慨ひとしおであった。


BABYMETAL探究(20171203 LEGEND − S − 洗礼の儀 − 探究②)

2017-12-06 01:28:32 | babymetal
なぜ、広島の「LEGEND − S − 洗礼の儀 − 」では、神バンドのソロ回しが演じられなかったのか?

すでに伝説と化しつつある「LEGEND − S − 洗礼の儀 − 」について、今回はこの問いを切り口に「探究」を深めよう。

2014年の武道館公演以降、神バンド常駐になったBABYMETALのライヴにおいて、神バンドのソロ回しが演じられなかったのは初めて、ではないか。

「悪夢の輪舞曲」の(東京ドームでは「紅月」の)前の「神々の悪戯」はおろか、CMIYC(や、そのヴァリエーションの「あわだまフィーバー」「ヤバッ!」)での長いソロ回しも演奏されなかった。

海外・国内フェスの、たとえ持ち時間30分のライヴであっても、神バンドのソロ回しは必ず披露されてきたはず(フェスにおいては、3人の休憩、という意味合いもあるだろう)だが、それが、今回はなかった。

それはなぜか?それをどう考えればよいのか?

もちろん、YUIMETAL欠演という緊急事態によって、事前には演目に入っていた神バンドソロが、無しへと変更された、のかもしれない。そのへんの事情は僕にはわかりようもないので「探究」からは外す。

では、こんな答えはどうだろうか?

SU-METAL主役の聖誕祭だから、神バンドはあくまでも「脇役」に徹した
と。

なるほど、それなりに筋の通った解釈のように思えるが、よく考えるとこの答えは的外れであることに気づく。

だって、それならば、BLACK BABYMETALの「演」奏だって、オミットされたはずだからだ。

実は、僕は、12月1日までは、今回のライヴでSU-METALのソロ4曲はすべて披露される代わりに、YUI・MOAのデュオの「演」奏は全くないんじゃないか、と思っていた。(同じような予想を立てていた方は、僕だけではないはず・・・)。

なのに、YUIMETAL欠席という非常事態でありながらも、BLACK BABYMETALの「演」奏は2曲も演じられたのだから、先に記した「SU-METALが主役の聖誕祭だから神バンドは引っ込んだ説」は成り立たないのだ。

だいいち、「神々の悪戯~悪夢の輪舞曲(あるいは紅月)」という様式美は、これこそまさに(BABYMETALの)SU-METALのステージの真骨頂・白眉のひとつと言うべきものであって、むしろ今回の「LEGEND − S − 洗礼の儀 − 」では、積極的に演じられて当然の、代表的な演目の一つ、だったはずなのだ。

では、なぜ神バンドソロ回しは演じられなかったのか?

僕は、こう考える。

つまり、今回は神バンドもギミック化されていたのだ、と。

徹底的にギミックにこだわり、その荘厳さ、重厚さ、異様さ、美しさによって、
現場にいた観客はもちろん、その後のネットを通じた情報によって、全世界に衝撃を与えている、今回の「洗礼の儀」。
その荘厳なギミックの一部として神バンドは機能したのだ、と。

そのいちばんわかりやすい典型例が、最後の演目「THE ONE」だ。
その前の「BABYMETAL DEATH」でステージ上で火炙りにされたSU-METALが、しばらくの静寂の後、長い紙芝居に続き、会場後方のキツネ岩に姿を現す。
(ここでみんなのマスクが点灯した。マスクだが、ほとんどの人はおでこに当てていたので、結果的には僕の予想の「王冠」風にもなっていた、とも言えよう。予想は半当たり、であった。)
黄金の衣装をまとい、アタマには女神の印の王冠をかぶり。
SU-METALは、女神として生まれ変わったのだ。

静謐なリリカルなピアノのイントロ、ストリングスが流れはじめ、「THE ONE~Unfinished Ver.」がはじまる。
ゆっくり移動するキツネ岩の上で、ひとことひとこと心をこめて会場に染み渡るように歌うSU-METAL。
ただただ美しく、静謐な気品が会場中に広がる。
ピアノの美音、余韻。
そして・・・

いきなりの、神バンドによるギターソロの爆発
アリーナにいた僕たちは、その強烈な音圧を爆風のように受けた
静から動への、これ以上にない劇的な転換
・・・泣いた。瞬間顔はぐしゃぐしゃ。
これは、泣く。
こんなドラマチックな「THE ONE」は、空前(絶後)だった。

このキャッチーなギターソロ(以前にも記したが、このギターソロには松田聖子の「チェリーブラッサム」をいつも想うのだ。「青春」を思い起こさせる大好きなソロだ)が、前半の静謐さとの対照によって、何とも凶暴さを讃えた雷鳴として観客席に襲いかかったのだ。

前半は音源(SE)で、曲の途中(後半)から神バンド、というこのダイナミックな転換。
もちろん、意図的な仕掛けである。

・・・いや、ここまで書いて思い出したのだが、この、強烈なコントラストによる衝撃は、確かに僕はBABYMETALを観ながらかつて体験したことがあったはず・・・。

そう、本格的にライヴをフルに視聴体験した最初の映像作品、
『LEGEND I・D・Z』の、LEGEND I でのアンコール1曲目、『ヘドバンギャー』での最初期神バンドの出だしの衝撃である。
とりわけドラムスの音のその生々しさは、映像を通してであっても、今でも鳥肌の立つ格好良さ、である。
会場にいたら悶絶しただろう。

あれに匹敵する衝撃を、今回の広島グリーンアリーナの「THE ONE」で僕は体験したのだった。

ただ、『LEGEND I』時点と大きく異なるのは、LEGEND Iでは、それまでのギミック(骨バンドのカラオケ音源、YUI・MOAは口パク)の皮が破れ、「本物」が肉から血を滴らせながら姿を見せた、という衝撃だったのに対し、

今回は、すでに疑いようもなく「本物」であるBABYMETALが、
その上にさらにギミックの装いを被った、その「厚み」の衝撃であった
、ということだ。

神バンドの衣装も、三種の神器のケープ風のものだったが、これも、「あれ、いつもと違う」というインパクトを会場のみんなに与え続けた。

BABYMETALは本物だという証明に寄与し続けた神バンドが、
今回の「洗礼の儀」では、
BABYMETALは本物を超えたギミック(「超本物=シュルレアル」)なユニットである
それを具現化・音響化する機能を果たしたのだ。

それが、今僕が思っている、なぜ神バンドは「LEGEND − S − 洗礼の儀 − 」でソロ回しを演じなかったのか?という問いに対する答えである。

ヘンな言い方になるが、もしも神バンドソロがあったらあの夜のBABYMETALはいつもの「本物」に成り下がってしまった(何という贅沢よ!)、それを避けるために、神バンドソロは封印されたのだ。

それほど、恐ろしく高次元のパフォーマンスだった。
参加したほとんどの方が口を揃えて「別次元だった」ということの正体(のひとつ)は、
こういうことだったのだ、と僕は考えている。

もちろん、こうした、「本物」を超えた「超本物=シュルレアル」としてのギミックという演出を、
観客の誰も予想できない次元において音楽ライヴとして成立させてしまったのは、
SU-METALの天才(容姿、声、をはじめ、その存在そのものが天賦の才能)のとんでもなさ、であり、
それを演劇的なかたちで極限的に増幅するとああなる、という実験的な儀式が、「洗礼の儀」だったのだ。

BABYMETAL探究(20171203 LEGEND − S − 洗礼の儀 − 探究①)

2017-12-04 01:12:07 | babymetal
いま、広島から帰宅し、風呂を浴びたところ。

帰りの広島駅で、ビール500㎖(ザ・プレミアム・モルツ スパークリングゴールド)を買い、
21:03発の(京都着は)最終の新幹線に乗り込み、
「瀬戸内揚げ ねぎたこ」等のつまみをつまみつつ、グビグビ。
岡山で、ビールが空になり、車内販売で赤ワインを購入し、飲み続けた。

もちろん祝杯である。

京都で降りて、トイレで鏡を見ると顔が真っ赤になっていた。
二時間弱のライヴで汗だくになり、
その空きっ腹に、ビール・ワインを注ぎ込んだ所為だろう。

で、今また、風呂上がりに赤ワインを飲みながら、
帰途セブン・イレブンで購入したサラダ数種をつまんでいる。

もちろん祝杯である。

今回のライヴに参加された皆さんならば、異口同音に同じ感想を語られるだろうが、
凄かった、凄まじかった。

もちろん、今まで僕が参加した全てのBABYMETALのライヴ、
それぞれに思い出があり、どれも大切なライヴだが、
今までのどのライヴとも次元が違った

いちばんわかりやすい言い方が、
(これも皆さん異口同音に語っているが)
2万円が安いと感じられるライヴ、だった。
(ライヴ、なのだろうか?全く別の何かを体験した、そんな気がしている。これは後日「探究」しよう)

ちなみに、帰りの新幹線のなかで、
ああ、だから、2万円と2千円なのか!
ようやく気付いた僕は、何とまあ鈍いのでしょうね。

で、すでに酔っ払っているので、今夜は、2点だけ、
帰りの新幹線の中で、今日のとんでもない体験をあれこれ考えたうえでの、
特に「柱」になるものを挙げておこう。
(後日の自分自身のために)。

①”ギミックの凄み”
「BABYMETALは本物かギミックか、そんな論争が巻き起こる」とき、
BABYMETALは本物だ、ということを前面に打ち出し続けてきたのが、
2014年のワールドツアー以降の主軸だったはずだ。
僕(たち)も、そう思おうと、そう主張しようとし続けてきた。

その集大成が、先日の「巨大キツネ祭り」であった。
その冠された名のギミック臭さに反し、ライヴの内容は、
実にシンプルに、真っ当に、愚直に、
ライヴバンド(ユニット)としてのBABYMETALの「実力」
を知らしめるものだった。
(サマソニ等のフェスは、もちろんこちら側に主軸がある)

しかし、この2日間の「LEGEND − S − 洗礼の儀 −」は、
これでもか、とばかりに、外連味たっぷりのギミック的な仕掛けを盛ってきた。

詳しくは後日「探究」していくけれども、
冒頭からラストまで、徹底的に「なんじゃ、こりゃ!」「凄いものをみた・・・」という衝撃を与える
このとんでもなさは、「BABYMETALは本物のメタルだ(ライヴバンドだ)!」という
ベクトルとは相反するものであるだろう。

そして、昨夜・今夜、BABYMETALは自らの持つ、ギミック性の”凄み”を、
とんでもなく崇高でカッコよいかたちで、改めて知らしめた
のではないか。
(例えば、「メタルを司るキツネ神」という設定の”凄み”を)

僕も、初めてBABYMETALに出会った日(「メギツネ」PV)や、最初に視聴した映像作品(「LEGEND I・D・Z」)の
衝撃を、今日のライヴで久々に感じた気がする。

ギミックって実は「本物」以上に凄いものなんじゃないか?

今日のライヴを体験し、そんな風に思ったのである。

もちろん、これは、BABYMETALが「本物」であるからこそ、
その「ギミック」性が単なるギミックではなく「凄み」へと止揚する、
というダイナミクスがある、
という複雑な機微によるものであろうが、それはまた後日「探究」しよう。


片翼飛行の「完璧」さ

YUIMETALなしの2daysライヴ、などというものは、もちろんBABYMETAL史上初めてである。

それは、たいへん歪(いびつ)なものだった。

冒頭の「イジメ、ダメ、ゼッタイ」から、ラストの「THE ONE」まで、
この2日間のライヴは、二等辺三角形の一辺・一角が欠けた不完全なライヴだった。

しかし、それでも完璧だった、というのが、正直な感想である。

片翼飛行であったからこそ、本体と片翼の、その有能さを、僕たちは改めて認識させられたのだ。

MOAMETALの凄さ。

しかし、それはまた、YUIMETALの凄さを、僕たちに再認識させもしたはずだ。

もしも、今回とは逆に、MOAMETAL不在であれば、
今回と同じように、SU-METALとYUIMETALの二人で(多少、醸し出す空気感は異なるだろうが、それでもやはり)
完璧なライヴを見せてくれただろう、ということは、想像に難くない。

率直に言って、僕は今日のライヴ中ずっと、いつものようにYUIMETALが居たら彼女に注ぐはずのまなざしを、
MOAMETALに注いでいた。
そして、その完璧さに、改めて打たれたのである。
いや、この娘は(という呼び方は失礼だが、今日はあえてこう書いておく)、ホンマに出来る娘やなあ。と。
容貌も、表情も、立ち居振る舞いも「完璧」である。

ラストの、「THE ONE」で、主役のQUEEN SU-METALが(大変いい意味で小林幸子然とした衣裳をまとい)朗朗と歌い上げた後で、同じような王冠を被り出てくるのだが、もう「完璧」としか言いようがなかった。
主役のSU-METALを食うのでもなく、あくまでも妹分的でありながら、しかし、漫画か映画かにしかありえないような「完璧」な美少女・美女ぶりである。
これだけで涙が出て来た。

そう、そして、普段は、その上にさらに「舞踊の天使」であり「YMY」であるYUIMETALがそこにいるのだ。

僕たちは、あまりにも贅沢な3人のパフォーマンスに馴れ過ぎて、
(口では「みんなプロだ」「みんな凄い」と言いながら)
実は、本当にはYUI・MOAの凄さを認識し(足り)ていなかったのではないのか。

数日前まで、たった一人での「GJ!」や「4の歌」が、完璧なパフォーマンスとして成立するなんて、
誰も想像すらしていなかったはずだ。
おそらくもう二度とないであろう(あってほしくない)MOAMETALのソロは、
「この3人だからBABYMETAL」の、「この3人」の凄さを、
YUIMETAL不在という極めてイレギュラーな事態(ドラマ)になった今回の
「LEGEND − S − 洗礼の儀 −」だからこそ、痛感させたのであった。


とりあえず、今日は、以上。
しつこく何回にも渡って「探究」するだろう。