ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』06)

2015-08-28 23:25:32 | babymetal
さあ、いよいよ、レディング、リーズ!!!

仕事帰りに、この土・日のことを考えて、やはりドキドキしてました。
明日、明後日の日本時間の夜8時、遙か英国では、日本人女子高生3人が、レディング・リーズのメインステージに立ち、異国の数万人(?)の観客の前で懸命に歌い、踊っている!
そう思っただけで、鳥肌が立ち、涙腺が熱くなります。
皆さんも同じ思いでしょうが、こうしてBABYMETALと(ありえない)ドラマを共有できる、幸せですよね。

そんな思いを馳せながら、明日・明後日の夜8時からは、胸の中でWODをしつつ、過ごすつもりです。

さて、久しぶりに、『メタル・エヴォリューション』について。
(以下、論文調で)

「激速!スラッシュ・メタル」という、(笑える、しかし本質をついた)邦題の付された「メタル・レヴォリューション」第6回だが、この回も、BABYMETALの根幹について考えさせられる内容であった。

「この回も」と書いたが、ヘヴィメタルの進化史を追うこの番組についての考察も(ブログ開設当初の勢いに反して、チビチビとしか進んでいず、まだ6回目だが…)ようやく折り返し点に来たところなのだが、第1回から今回まで、どの回を観てもBABYMETALを考える上で決定的に重要な要素をいくつも確認することができた。

ということは、やはり、BABYMETALはヘヴィメタルの進化史の最先端にいる、ということなのだ。

単に、メタル風のアイドルとか、アイドルという飛び道具を巧みに取り入れたヘヴィメタル市場向けのあざとい商品とか、ではなく、ヘヴィ・メタルの進化の流れの果てに(奇跡的に)誕生した突然変異の個体なのだ。
そして、それは、決して幸せ一色に染まったものではない。BABYMETALがヘヴィメタルであるとは、BABYMETALはヘヴィメタルの光も影も、功も罪も負っている、ということなのだから。これもこの回を観てしみじみと感じたことである。

この第6回の冒頭に、サム・ダンのこんな語りが入る。

メタルのサブ・ジャンルの中でも最も速くアグレッシヴなスラッシュ。メタル・ファンにとっても音楽に聴こえないほどヘヴィだ。
何故これほど極端なスタイルが人気を得たのか?メタリカ、メガデス、スレイヤーといったメジャー・バンドを生み、どのようにしてそのポジションを保ってきたのか?


さて、この文言はBABYMETALにあてはまるだろうか?

もちろん、BABYMETALは、スラッシュ・メタル・バンド(ユニット)ではない。(あえて言えば、「BABYMETAL DEATH」1曲のみが、スラッシュメタルのエリア内にかろうじてある楽曲だ、と言ってもよい、だろうか?)

BABYMETALにいちばん欠けているスラッシュ的な要素(逆に言えば、BABYMETALの楽曲の中では相対的に「BABYMETAL DEATH」にのみほんのわずかかもしれないが見られる要素)とは、「邪悪さ」であろう。
サム・ダンも「スラッシュメタルは、それまでのどのスタイルよりも、過激で、戦争、苦しみ、そして大量殺人を歌にしてきた。」と語るとおり、スラッシュとは、ヘヴィメタルの持っている「邪悪さ」を極端に先鋭化し、歌詞として・サウンドとして・演奏として、具現化したものだ。

例えば、スレイヤーのケリー・キングはこう語る。
「いつもは俺ほどお気楽な奴はいないけど、一度渋滞にハマろうものならまるで死刑囚さ。その怒りをスレイヤーの歌詞に反映させてるんだよ。変な風にね。」
(全くの余談だが、このケリー・キングに対しての「髪の力を使ってないヘドバンがかっこいい!」という、YUIMETALの表現力には、驚嘆した。自らの体感からチャーミングな言辞を紡ぎ出す、極めて優れた詩人の才能、を感じた。トマトくん、と振られてのとっさの「トマトくん語り」にも露呈していたが、舞踊に匹敵する、ことばの才能、も持っている。天才、なのだ。改めて。)

こうした「怒り」の発散、といったものは、BABYMETALとは異質なもの、いちばん遠いもの、と言ってよいはずだ。

この部分は(異論もありえようが)、サム・ダンが言うように、スラッシュメタルの「パンクの魂、エネルギー」と共通する精神的姿勢だろう。
パンクはフラストレーションから生まれた。世界がどこに行くのかわからない不安と不信から生まれた。
スラッシュメタルを生む発露となったこうした精神的態度を、パンク(的)と呼ぶのは不当ではあるまい。実際に、番組内で、何組ものスラッシュ・バンドが、自分たちの姿勢が、パンクの精神を曳いていることをはっきり述べているのだし。

スラッシュメタルは、しかし、また、パンクではない。
何が違うのか?

アレックス・スコルニック(テスタメントのギタリスト)は、こう語る。
(パンクが好きだったんなら、何故パンクをやらずに、スラッシュ・メタルのギタリストになったの?)
「俺にとっては音楽性が凄く大事だった。パンクにはいいギタリストがいなかった。いい曲はあったけど、いいミュージシャンはパンクにはいなかった。ミュージシャンとしては物足りなかった。スラッシュだと、パンクの姿勢に、自分の音楽家としての才能を足して表現できると感じたんだ。」


さらに、パンク以外にスラッシュ・メタルに影響を与えたもう一つのもの、それは、N.W.O.B.H.M.、だ(と番組では語られる)。その内実とは何か?
ラーズ・ウルリッヒは語る。
「アイアン・メイデンやジューダス・プリーストなど、何人かのメタル野郎がパンクのエネルギーとスピリットにヘヴィで入り組んだリフを加えた。」

ここに、BABYMETALの重要な本質のひとつをくっきりと見ることができる。
パンクとの違いであり、また、N.W.O.B.H.M.から継承したもの、とは、「高い音楽性」「複雑な楽曲構成」「卓越した演奏テクニック」だ
超絶テクニックこそは、パンクとスラッシュの分水嶺であり、神バンドの各々の手足から高速の超絶テクニックが繰り出されるBABYMETALのステージは、(表面的にはそれがスラッシュの楽曲ではないにせよ)スラッシュの血の生動を観客である僕たちに体感させている、のだ。
つまり、BABYMETALがヘヴィメタルの進化史の最先端にいる、本物のヘヴィ・メタル(ユニット)だ、と、僕たちメタルヘッズに感じさせるのは、何と言ってもまず、その圧倒的な演奏の、正確さ・激しさ・キレ、だ

神バンドの演奏ほど露骨ではないが、YUIMETAL・MOAMETALの、(表情も含めた)舞踊も、そうした圧倒的な、高速・正確・過激な「演」奏である。僕たちがそこに観るのはパンクの放埒さではなく、スラッシュの過激さ・精緻さだ。(ここはこのブログの前回の<アイドルダンス>で考えた、BABYMETALの、他のアイドルユニットとの際立った差異、でもある)。

エクソダスのギタリスト、ゲイリー・ホルトの、こんな興味深い発言もあった。
(どうしてそれらの影響で新しい何かを作ろうと思ったのかな?)
「新しいことをやっていたなんて思わなかった。アイアン・メイデンやジューダス・プリーストといった偉大な先人達に続けとばかりに、彼らの代表作を真似て、人殺しについて歌って、ちょっと歪んだベイエリア・バージョンをやっていただけさ。」


『メタル・エヴォリューション』を通して見ていると、時代だけでなく地域性が、メタルのサブ・ジャンルを生む際に(メタルのある進化において)重要だったことがわかる。

BABYMETALは、まさに日本で生まれたヘヴィメタル、日本だからこそ生まれた、日本でしか生まれえなかったヘヴィメタルだ。
例えば、代表作「ギミ・チョコ」は、ゲイリー・ホルトの言葉を借りるならば、「チョコレートについて歌った、ちょっと歪んだJポップ・バージョン」だろう。

突然変異と自然淘汰、という「進化」論の概念は、このブログに当初から掲げているものだが、あらゆる創作物・芸術作品が、伝統の継承とその革新という力学のなかから生まれてくる。BABYMETALも、例えばアイアン・メイデンやジューダス・プリーストを淵源とするヘヴィメタルの流れの上にあり、それは数々の引用・オマージュであきらかなのだが、それを”いかにもそれ風”に処理・継承するのではなく、そこに「日本語アイドル歌唱」や「合いの手」という日本独特の”歪み”が加わっているところが”新しい””本物”なのだ。

これは、『M・E』で語られる、スラッシュメタルの核心においてもあてはまる。

スラッシュの、最も速くアグレッシヴな、ヘヴィな、サウンドや演奏。
その中でもとりわけ、スラッシュのアイデンティティともいえるのが、ドラムスの<高速ツー・バス>である。


スラッシュは単なるパンクとN.W.O.B.H.M.のミックスではなかった。その甲高いヴォーカルと超速いリズム・ギターで独自の音楽スタイルを確立していた。その中でもひと際独特だったのがツー・バスの容赦ないビート
それは一体どこからきたのか?そして何故スラッシュに欠かせないものになったのか?


ここをめぐる裏話がたいへん興味深かった。

何人ものスラッシュのドラマー達がモーターヘッドのフィル・テイラーの名を挙げる。
もちろん、ツー・バスを用いた楽曲はそれまでにもあったのだが、スラッシュを生む原動力になった<高速ツー・バス>は、モーターヘッドの、とりわけ「オーヴァーキル」が嚆矢だと言うのだ。
そしてそして、高速ツー・バスというスラッシュのアイデンティティの祖とも言うべきこの「オーヴァーキル」は、ドラムの練習中に偶然に生まれた、というのだ。

(「オーヴァーキル」で叩いていたツー・バスはどのように思いついたのかな?)
フィル・テイラー
「新しいドラム・セットを買ったばかりでツー・バスの練習をしてたんだ。(足をパタパタ踏みならし)こんな風にね。ちょうどその時にエディとレミーが来てね、彼ら曰くドアの向こうで「これはヤバイぞ」ってお互い思ったらしい」
レミー
「奴がツー・バスの練習をしている時に俺とエディが部屋に入ってそのまま「オーヴァーキル」を作ったのさ」


ヘヴィメタルの黎明期のブラック・サバスの「黒い安息日」のリフ(ホルストの「惑星」を弾いていたことから生まれた)や、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のあのリフも、偶然の賜物であったことは、『M・E』の以前の回にも紹介されていた。

BABYMETALの場合、そうした偶然による決定的な鍵の誕生、といえば、もちろん、何と言ってもキツネ・サインだ。(それが「いつ?」なのかは詳細には検証していないのだが、)紙芝居の設定にも影響を与えたこのシンボルサインは、具体的には例えば、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の「キツネ飛べ!」という歌詞を生み、「メギツネ」という楽曲(ライヴの「波動砲」!)を生み、METAL HAMMERにお面の付録をつけさせる、等等の数多の派生物を生んでいる。
BABYMETALの世界観・その表象を、決定的にかたちづくっているキツネ・サイン。
これなしに、今のBABYMETALはありえない、それほどのものが、3姫の勘違いによって生まれた、というこの構図は、「オーヴァーキル」に端を発する<高速ツー・バス>の偶然の発祥と同じ構図だ。
(プロデューサーKOBAMETALによって作られたユニット、もちろんそうなのだが、この構造は、BABYMETALは3姫自身が生んだものでもある、とも言える(極めて大きな)側面であろう。)

<高速ツー・バス>の話に戻れば、BABYMETALの楽曲はスラッシュメタルではないにせよ、<高速ツー・バス>というスラッシュのアイデンティティは、ほとんどすべての楽曲に引き継がれている
例えば、デビュー曲の「ド・キ・ド・キ☆モーニング」。
一聴して、この曲は「メタルじゃなくね?」とも感じられる曲だ。まして、全くスラッシュなどではない。他の、例えば、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」「紅月」「Road of Resistance」等に比べても、ガチメタル度の低い、相対的にアイドル寄りの楽曲だ。
しかし、この曲にも、サビで、高速ツー・バスのドコドコドコドコが極めて印象的に入る。スタジオ盤でもそうだし、とりわけ、「Live in London」なかでも、「O2 BRIXTON」の音像は、これはもうスラッシュといってもよいくらい凶悪なガチメタルである。
このことから見ても、BABYMETALはスラッシュの洗礼を受け、ヘヴィメタルが高速ツーバス化という「進化」を辿ったその最先端の「正嫡子」として、誕生したユニットなのだ
(<高速ツー・バス>をふんだんにフューチャーしたアイドルグループなど他に存在しない)

次に、印象的だったのが、メタリカ誕生の頃の雰囲気が語られるところだ。これは、アイアンメイデンのデビュー当時とも共通するものを感じた。「画期的」なバンドが通る必然、なのだろう。
つまり、それが新しい音楽性をもっていればいるほど、必然的に”道なき道を切りひらく”ことが必要になる、ということだ。
だからこそ、BABYMETALが、今までのヘヴィメタルとは異なる「なんじゃこりゃ感」満載であること(それでいて、楽曲も演奏も確かなものであること)は、自らもその当時の「なんじゃこりゃ」であった先人バンド達には、好ましく・微笑ましく受け取れられるに違いないということでもある。

メタリカのデビュー当時は、
「80年代初頭のLAでグラム・メタルの全盛。一体どのようにしてこの異なるメタルのスタイルが共存できたのだろうか?」

ラーズ・ウルリッヒは語る。
モトリー・クルー、ラット、スティーラー等、彼らは俺たちが忌み嫌うものすべてだった。奴らが牛耳っていたサンセットに俺たちが入り込むのは至難の業だった。・・・凄く心細かったよ1982年のLAでメタリカとして生きていくのは凄く寂しかったよ。俺たちのやっていることはなかなか受け入れられなかったから。3、4週間に一回ぐらいサンフランシスコに行ってライヴをやった。そこですぐに火が付いたからとっとと荷物をたたんでサンフランシスコに移り住んだのが1983年2月初めさ

サンフランシスコ。
ここで、パンクとメタルが融合した、と語られる。

デス・エンジェルのマーク・オセグエダの語り。
どんなライヴをやってようが皆がルーシーズ・インに集まって、パンクだろうがメタルだろうがメタル小僧とパンク野郎で常にいっぱいだった。そこで2つのジャンルが融合したのさ。

ロブ・カヴェスタニイ。
1回俺たちが出た時なんてチラシに異文化交流イベントって書いてあったんだ(笑)。俺たちの他にはパンクバンドが出ていた。

音楽雑誌リヴォルヴァー・マガジンのブランドン・ガイスト。
スラッシュ・メタルとパンクの融合によって起った最大のことといえば、メタルのライヴでの空気感が変わったこと。メタルがモッシュに遭遇して生まれたのがスラッシュ。スレイヤーのライヴに行くとまるで監獄での暴動だよ。それまでのメタル・ショーといえば、ヘッドバンギングして拳を突き上げる。スラッシュのライヴに行くんなら、まず、これ(眼鏡をつまんで)はしてはいけないこと。真っ先に壊されるからね。

まさに、これはBABYMETALではないか!(「アタマゆらせ、メガネはずせ…」)

ここでも、(楽曲がスラッシュではないにせよ)スラッシュメタルの流れの果てにBABYMETALがある、ことがありありと現われている!
それは、もちろん、モッシュの流れを汲むモッシュッシュ、でもあるし、また、もう少し抽象的な次元でいえば、「2つのジャンルが融合した」「異文化交流」ということでもある。
BABYMETALの、超絶的に楽しいライヴ、その観客のノリは、パンクのモッシュ、メタルファンのノリ、アイドルファンの合いの手、それらの融合なのだ(「合いの手」は<アイドルダンス>考3で詳しく考えるつもりです)。

BABYMETALのみが、アイドルとメタルを融合したキワモノだ、というのではなく、ヘヴィメタルのある意味ど真ん中、典型的なヘヴィメタルともいえるスラッシュメタルが、メタルとパンクの融合だった、ということは、BABYMETALを語る上では常識としておさえておきたいところだ。(だから、例えばメタリカを基準にして、BABYMETALは本当のメタルではない、などというのは笑止なのである)。

番組のその後は、どんどんムーブメントが大きくなり、メジャーレーベルからレコードが出るようになり、金回りがよくなり、でも飽和状態が来て、・・・というスラッシュメタルの栄枯盛衰が語られる。
ここは、ヘア・メタル(グラム・メタル、LAメタル)の回でも描かれていたのと全く同じ構図だ。
ああ、まさに、諸行無常…。盛者必衰の理…。

「消費されたくない」とKOBAMETALが語っているが、BABYMETALはそうした意味で実に危うい存在だろう。これほど消費されやすい可能性をもったメタルユニットはない、と言ってもよい。
冒頭に述べた、光と影、功と罪、とは、まずこのことである。

ヒットを狙う、ファン拡大を狙う、のは当然である。しかし、ヒットすればするほど死へと向かう、ということも、ヘヴィメタルの進化史を見ていれば明らかなのだ。
ヘア・メタル(LAメタル)は言うまでもなく、そうした商業主義からいちばん遠そうなスラッシュメタルといえどもそうであった。
BABYMETALがこの轍を踏まない、ということはできるのだろうか?

新春キツネ祭りのライヴCDのリリース、もちろん即ポチった。
通勤途中、休日、僕がBABYMETALに触れるのは、何と言ってもウォークマン経由であり、「RedNight」「BlackNight」「Forum」「Brixton」と、四種のライヴ盤も交互に堪能している。とりわけ「Brixton」のど迫力、「メギツネ」のイントロで涙が出たことには以前にも触れたが、「キツネ祭り」のCDもそうした意味で純粋に楽しみである。
と同時に、ライヴCDリリースの告知に「なんじゃこりゃ」感を感じたことも事実だ。(ほとんど)同じ楽曲で、またまたまたライヴ盤発売とは!

しかし、これがBABYMETALなのだ
こんなヘヴィメタルバンドもアイドルユニットも、おそらくなかったはずで、それはBABYMETALの特異なありようの、また一つの典型的なかたちである。ここまでしつこいと、痛快である。
それに、現在のワールドツアーを映像盤や音盤にしたとしても、レパートリーは(ほとんど)変わらない。こうしたしつこさは来年もずっと続くのである。これがBABYMETALなのだ。

1stアルバム(聖典『BABYMETAL』)と、それを演奏した数多くのライヴ盤とライヴ映像、それにほんのちょこっとずつ新曲が加わる、というこのかたち
それは、決して消費されない、という強い決意、そしてもちろん、自らの圧倒的なパフォーマンスに対する絶対的な自信、から来るものだ。同じ曲目であっても、すべてのヴァージョンはそれぞれ異なる。それは一つ一つじっくり味わうに足るそれぞれの輝きを帯びている、のだ。
それが、”ダンスメタルユニット”BABYMETALの、リリースのあり方なのだ。
(ここはまた探究すべきテーマである。”バンド”ではない”ダンス・ユニット”であるBABYMETALにとって、ニュー・アルバムとは何なのか?を)
僕たちファンは、(今までの自分の「常識」、”バンドのニューアルバム”という概念から離れて)こうした「異常な」リリースの仕方に慣れなければならない。
もちろん、「さすがに、もう、飽きたよ」と離れるのは、自由である。
(飽きる?・・・とても考えられないが…。)

繰り返すが、拡大路線、大ヒットとは、また「死」への突進でもある。それは『メタル・エヴォリューション』という歴史を見れば明らかなのだ。

(といいながら、もちろん、セカンドアルバム発表の告知があれば、大快哉を叫ぶ。当然だ!・・・でも、それは、それとして。)



と、ここまで書いて気がついたのですが、前回の<アイドルダンス>と今回の<スラッシュ・メタル>。
BABYMETALを考えるために、これら両方を交互に探究するって、よくよく冷静に考えれば、「なんじゃ、こりゃ!」の極みですよね。とてもありえない組み合わせ。
でも、BABYMETALを語るためには、これは「当然」であり、「必然」である、のだ、と。

アイドルでもメタルでもなくBABYMETALだ、ということは、
BABYMETALはとんでもないアイドルでありとんでもないメタルでもある、ということなのだ

改めてそれを感じた次第です。

(…いつもにも増して、グダグダの長文になってしまいましたね。ごめんなさい。)

がんばれ、チームBABYMETAL!

BABYMETAL探究(「アイドルダンス」考2)

2015-08-27 11:45:47 | babymetal
いやあ、大ニュースが駆け巡りましたね。ウェンブリー・アリーナ単独って!!
たまたま昨夜、仕事からの帰りに電車の中で「LEGEND I」の映像を久しぶりに観て、帰宅してからニュースを知ったので、感慨ひとしおでした。
「LEGEND I」の「BABYMETAL DEATH」なんて、ほんと今見ると、幼い・拙い・本人達も楽曲をなぞっているだけ、という感じがしますもん。(それでも、初めて観て、虜になってしまいましたが)それが、堂々たる世界的アーティスト(少なくとも英国では)ですものね。
この成長ぶりは、しかし、実際の能力向上からすると、「妥当」ともいえるところが凄い。
単に「人気が出ちゃった」じゃなく、「実力で人気を獲得しつつある」ところが、本当に凄い。

ドイツ公演や、レディング・リーズ・フェスの最中なのにそれが霞んでしまうほどのニュース。いやいや、それはそれとして、いざレディング、いざリーズ!
僕も週末にはベビメタTシャツを着て、「We are BABYMETAL」の一員として心の中で応援します。

さて、以下が、今回の本論DEATH。

竹中夏海が語る<アイドルダンス>の2つの特徴に基づいて、BABYMETALをめぐって考えてみる回、その続き。

その1.歌詞と振付のリンク について。

歌詞と振付のリンク、と言っても、単に歌詞を振付で表現する、ということではない。古いところではキャンディーズの「年下の男の子」の振付などを例に挙げながら、竹中夏海は、以下のように述べる。

このように歌詞と連動した振りを付けることで、その曲の世界観を視覚で伝えやすくすることが出来ます。更には、歌詞と振付がリンクするだけではなく、歌詞カード以上の物語を”振付によって広げる”ことも可能なのです。
『IDOL DANCE!!!』

この「歌詞カード以上の物語を”振付によって広げる”こと」は、BABYMETALでもその舞踊=「演」奏の基本になっているものだ。

(どの曲でもよいのだが)例えば、このブログで執拗に探究し続けている「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のYUI・MOAの「バトル」という振付。
冒頭の紙芝居でも語られるようにこの楽曲の歌詞カードの物語・世界観とは、まさに「イジメ、ダメ、ゼッタイ」というメッセージであろう。
ところが、YUI・MOAのバトルを初めて目にすると、その意味の摑めなさに戸惑ってしまう。
「イジメ、ダメ」って言いながら、ケンカしてるやん…。
で、SU-がYUI・MOAに蹴りを入れる(初期には、MOAにはパンチ(肘打ち?)をくらわしていた)と、ああ、これが「ダメ、ゼッタイ」か、と一応腑には落ちるのだが、じゃあ、YUI・MOAはいじめっ子か?ということになる。
さっきまで「ダメダメダメダメ」と合いの手を入れ、悲しげに首を振ったりするのと、「バトル」とは、矛盾するのだ。歌詞カードの世界観・物語のみにこだわれば、そういう感想にならざるをえない。

この楽曲のYUI・MOAの「バトル」という振付によって表現されている「歌詞カード以上の物語」とは、もちろん、”闘い”の視覚化・描出だ。

「イジメ、ダメ、ゼッタイ」がメタルの復権を(も)意味しているのは、公式MVでも、紙芝居でも明らかだが、「復権」とか「イジメ、ダメ」と口で唱えるだけじゃあ「ダメ、ゼッタイ」なのだ。
理想とする何かを獲得するためには、必死に闘って、勝ち取らなければならない。
そうした「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を具現するための闘い(しかも、それをSU-が蹴り飛ばして止める)という、メタな(メタ・メタな)構造が、この楽曲の歌詞と振付との間にはある。

また、YUI・MOAの「バトル」はさらにBABYMETALという存在そのものの生き方・あり方の象徴的・凝縮的な体現でもあろう。インタビューでは、いつも礼儀正しく楚々とした笑みを浮かべている美少女たちだが、過酷な闘いの日々が今までも、そして、今後も続くのだ。彼女達がBABYMETALである限り永遠に。
つまり、闘う美少女達、それがBABYMETALの本質なのであり、YUI・MOA(そしてSU-の)「バトル」はそれを(も)象徴的に形象化し表現しているのだ。

(黒ミサでは(赤ミサでも)、ラストにこの曲が演じられた。大納得である。もちろん、「Road of Resistance」もラストにふさわしい、”闘い”を形象化した素晴らしい楽曲だが、究極的なBABYMETALを象徴する一曲とは、やはり何と言っても「イジメ、ダメ、ゼッタイ」だと僕は思っているので。)

こうした「闘い」はBABYMETALの他の楽曲の振付でも、その基調にある。
だって、それがBABYMETALだから。”METAL”の名を負う、とはそういうことだから。

SU-METALの、ステージ上でのとんでもなく鋭い眼光・険しいとさえ言うべき凛々しい表情も、そうした”闘い”の描出だ。
いくら可愛い容姿を備えていても、いつもニコニコ・モジモジ・ウッフンしているようなステージングを見せるユニットならば、僕たちメタルヘッズは見向きもしなかった(当たり前だ)。僕たちはステージ上の3人の振付や表情に「メタル魂」の(今まで全く見たことのないカワイイ・美しい・凛々しい)実現を見るからこそ、BABYMETALに魅せられているのである。

このように、「歌詞と振付のリンク」を基調にしつつ、さらに「歌詞カードに書かれていない世界観を振付によって表現する」という意味で、BABYMETALの舞踊は本質的に(現代型の)<アイドルダンス>なのだ(こんなヘヴィメタルバンドはいない)
が、しかし、
その中で、徹底的に闘い続ける舞踊を見せ続けている、という点で(おそらく)他のアイドル達とは全く異なる(こんなアイドルグループはない)
のではないか。

(おそらく)と留保をつけたのは、僕は他の<アイドルダンス>をきちんと見て確認していないからであるが、他のアイドルユニットがほとんど全ての楽曲の振付において”闘い”を表現している、なんてありえないから、ここは断言してもよいところだろう。
具体的な動き、というレベルにおいても、ヘッドバンギングをはじめ、ジャンプ、パンチ、キック、地べたへの崩れ落ち、などなど、楽器の音色でいえばディストーションやダウンチューニングにも喩えることのできるSU-・YUI・MOAの激しく・キレのよい振付の数々は、他のアイドルユニットには見ることのできない、「視覚的なメタル」成分なのだ。
というよりも、本来的に、3姫の振付は、楽曲・楽器演奏とシンクロしながら、リフやブリッジやソロとしての機能を果たしているのだ。それが”ダンス・メタル・ユニット”の本質的内実だろう。

「メタルでも、アイドルでも、なく、BABYMETALだ」という文言の内実を、彼女達の舞踊に即して語るならば、こういうことになる。

こうした表現の全てが観ている人達に伝わるわけではないと思いますが、楽曲の世界観を細かく想像しダンスで表現することは、演者であるアイドル自身の表情や表現力を豊かにするための大切な一工程だと考えています。本人達とは、こうした楽曲についての歌詞カードに書かれていない部分までをあれこれと話して、彼女達それぞれの解釈の仕方で表現して貰うようにしています。いくら振付師が色々と想定して作ったところで、ステージに立つのは彼女達である以上、それぞれが思い浮かべている世界がないと表現は出来ないと思うからです。
また、楽曲が物語性の高い歌詞の場合は1曲の振り付けを通して起承転結を付け、楽曲の世界観と共に時間軸を意識しています

『IDOL DANCE!!!』

この説明も、全体的にはああBABYMETALの振付もそうしたものだな、と、肯くことができるものであるように思える。
ただ、傍線を付した2ヶ所をそのままBABYMETALに当て嵌めることには、少しひっかかりを感じるのだ。
そして、(些細な違和感であるように思えて)実は、ここに他のアイドルとは異なるBABYMETALの決定的な独自性がある、と感じるのである。

どういうことか?

a.演者であるアイドル自身の表情や表現力を豊かにするための大切な一工程 か?

もちろん、BABYMETALの3姫にもこれは当てはまるのだろうが、それ以上に、SU-・YUI・MOAは、「彼女達自身の」というよりも「楽曲の・ヘヴィメタルの表情や表現力を豊かにするため」に踊っている、という印象を受けるのだ。
僕がこだわっている”「演」奏”という言い回しは、そのことの表現である。
よく”命を削って”という形容がBABYMETALの3姫のステージングに使われるが、極めて的を射た表現だと思う。
結果として、観客に、ヘヴィメタルの(全く新しい)楽しさ・激しさ・美しさを届ける、そのための舞踊を、自らの身を呈して、丁寧に・懸命に・そして楽しく「演」じているのだ。
決して「演者であるアイドル自身」を魅力的に見せるためではない、と。
(もともと3人が持っている「超絶的な魅力」のポテンシャルが、「豊かにする」という演出が必要ではないレヴェルで横溢していて、振付に溢れている、とも言える。どんなダサい・激しい、凶悪な振付を「演」じていても、とんでもないカワイさは全く損なわれないのだから。)

極めて微妙な感触の違いだが、本物なのか単なるギミックなのか、の根本に関わる、と僕は思う。今これ以上うまく言葉にできないので、ここをさらにきちんと語ることは、今後の宿題にしておこう。

初期のステージの多くでは、骨バンドが演奏のあて振りをしていたが、それも、BABYMETALの3姫の振付が「演」奏であることの、いわば「影」の役割を果たしていたのではないか。

b.楽曲が物語性の高い歌詞の場合は1曲の振り付けを通して起承転結を付け、楽曲の世界観と共に時間軸を意識しています  か?

「起承転結」「時間軸」とは、今回の、竹中夏海に触れて初めて考えさせられた切口である。
で、(現段階での考えとしては)BABYMETALの楽曲・「演」奏においては「起承転結」「時間軸」が整っていない(整えることを志向してはいない)、と考えるのだ。
ここも、いわゆる他のアイドル達の<アイドルダンス>とは異なっているはずだと思うのだが、他のアイドルをほとんどまったく知らないので、確証するかたちでは書けない。
ただ、はじめに書いた、「歌詞カード以上の物語を”振付によって広げる”こと」とは、逆に言えば、直線的な「歌詞カードの物語」の具現ではなく、もっとカオスな次元での「演」奏が、”メタルダンスユニット”BABYMETALの本質だ、ということだろう。そこから、bではない、という時間軸の他のアイドルとの相違が生まれてきているように思うのだが、これも、探究すべき大きなテーマとして宿題にしておきたい。

と、ここまで書いて、さすがに気がひけるので、他の<アイドルダンス>をYOUTUBEで観て、確認してみた。
『MdN』振り付け☆愛号の「アイドル楽曲のこの振付に注目!」に紹介されていた
 
 モーニング娘。’15「青春小僧が泣いている」
 でんぱ組.inc  「おつかれさまー!」
 乃木坂46     「おいでシャンプー」
 アンジュルム    「七転び八起き」
 lyrical school   「ワンダーグラウンド」
 清滝人25     「Mr.PLAY BOY…♡」
 PASSPO☆   「HONEY DISH」

の7本である。

いやあ…、苦行であった(笑)。
(これらのグループや楽曲(及びそのファン)をディスるつもりは全くない。)

一言で言えば、”メタルじゃない”からだ。
当たり前だが、やはり、これは僕にとっては根本的に重要なのである。ヘヴィメタルではない<アイドルダンス>は僕には見てられない、僕には耐えられない、のだ。
それぞれ初めの20秒ほどでもう止めたくなる。「何でこんなものを観なきゃいけないんだ」という思いがふつふつと湧いてくる(滝清人25は、もちろんメタルじゃないが、面白かった。初めから最後まで魅入ってしまった。)

で、我慢して観てみて、
「演者であるアイドル自身の表情や表現力を豊かにするための大切な一工程」
「1曲の振り付けを通して起承転結を付け、楽曲の世界観と共に時間軸を意識」
が、なるほど、こういうことか、と確認できた。

最大のポイントは、端的に言えば、(当然だが)視聴者・観客が何を求めているか?ということだろう。

いつかどこかで聴いたことのあるような、甘酸っぱい・それでいて元気溌剌な楽曲に乗った<アイドルダンス>を観たいのか、
ヘヴィメタルの激しく重厚な狂乱を(今までに見たこともないし、想像すらしたことのない、3人の美少女が歌い踊りまくるというかたちで)体験したいのか。

BABYMETALは、後者を<アイドルダンス>によって実現する、そうしたユニットなのだ。

こんなことは(理屈としては)初めからわかっていることだが、今回の考察を通して、その内実が(僕には)より実感できた。


竹中夏海の語る<アイドルダンス>の特徴 その2.振りコピ も、とりわけライヴにおいてBABYMETALの極めて重要な要素だが、これについては、稿を改めたい。

BABYMETAL探究(いざ黒ミサ編2)

2015-08-22 11:32:01 | babymetal
「黒ミサ、もう一回行く?」

もちろん、行く!
むしろ、黒ミサにこそ行きたい!!

(三善のグリースペイント(白)もまだまだたっぷり余ってるし)。

黒ミサⅡに参加されたほとんどの方がそう答えるのではないか。
もちろん、僕もそうである。

いやはや、なんとも、超絶に楽しかった。
何度も泣きそうになった(会場に入って「えっ、こんな近くで見れるの?」と思っただけで、危なかった)。
そして、ライヴ後のいま、何ともいえない多幸感に包まれた疲労感のなかにいるのだ。

ドレスコードが極めてハードルが高そうに思える黒ミサ。
「BABYMETALのライヴにはもちろん行きたいけれど、コープスペイントするって、この俺が?まさか…。」
なんて、抽選に応募するのを控えた方もひょっとしたらいるかもしれない。
僕も、応募するときは、恐る恐る、「まさか当たるはずはないから、応募するだけ」なんて訳の分からない言い訳を自分に用意しつつ応募し、そして、思いがけなく当選した(当選してしまった)のである。

昨日も、物販に30分くらい並び、タオルとTシャツを買い、ホテルに戻り、ホテルの部屋でメイクをしてから、いざ部屋を出る時にはさすがにドキドキしたのだが、しかし、こんなドキドキは、去年のSONISPHEREや今年のREADING・LEEDSに出演する3姫のドキドキに比べたら、ぜんぜん大したことはない(実際、そうだ)と思い直し、会場へと向かうべく部屋を出たのであった。

たまたまチェックインした部屋が最上階だったので、部屋を出てからホテルの1階までエレベーターで降りるのが結構長かったのである。
途中で、小学校3~4年生くらいの男の子と優しそうな雰囲気のお母さんが、僕の乗ったエレベーターに乗り込んできたのだ。僕の顔を見て明らかにハッとする小学生、お母さんも乗り込みながら気づき、「見てはいけない」という風に少年を自分の身に寄せる。
でも、もう(見てはいけないものを)見てしまった男の子は、すぐに母の影に隠れる。そんな少年をかばうように、僕に背をむけるお母さん。そんな沈黙のままエレベーターは一階へ。
少年には本当に悪いことをした(坊や、大人の世界には黒ミサ、というのがあってな…)。お母さんも、ごめんなさい。寿命を縮めてしまったかもしれません。

ホテルからJRの駅まで歩き、改札を抜け、ホームで電車を待つ。
遠慮なく顔を眺めてくるのは、やはり子供たち(中学生、高校生)だ。
大人はさすがに経験を積んでいるから、世の中にはいろんな人がいること、触れてはいけないこと、触れない方がいいことがわかっているから、車中、ちらっと僕の顔を見る人もいなかった(ように感じた)。

新木場の駅に降り立ってしまえば、(6月の幕張でも経験したので予想できた)そこには”仲間”が大勢いて、何も怖くない(日本人気質の悪いところでもあろうが、やはり「We are BABYMETAL」は心強い)。
The One コープスメイクの街となった新木場を、会社等から退ける人たちに逆流しながら、会場までぞろぞろぞろとみんなで歩く。小箱といっても2000人以上もいるわけで、それはもう凄い光景だ。これはもう楽しい。何の不安もない。

心の中では、あいつには勝った、これは負けた、ああこんなのもありだな、これはないだろ、などとそれぞれのメイクの比較・品評をしていたはずだ。
BABYMETALに出会わなかったら、一生行うはずのなかったメイク、それもコープスメイクをして、自分が大勢の「仲間」と一緒にBABYMETALのライヴに向っている、そのことの昂揚感たるや!

幕張ライヴ以来、BABYMETALの黒Tシャツを着て外出することに抵抗がなくなった。というか、好んで着ている。イチオシはRITUAL-Tシャツだが、戦国WOD-Tシャツもいい。休日には必ずどれかを着ている(黒ミサⅡ-Tシャツ入手で、7枚になったので、これからは毎日日替わりでも行けるのだ)。
メタルTシャツを(例えばロキノン系が好きな若者から「ダサい」と思われようが)着るのがメタル魂であり、「We are BABYMETAL」の具現(日々の実践)がベビメタTシャツの着用なのだ。
さらに昨日はそれにコープスメイクまで施した「猛者」達が大挙してSTUDIO COASTへと向かう。まさに「ベビーメタル魂」全開の群集の奔流である。

会場につき、ドキドキの顔認証にパスし、会場へ。
番号が400番台前半と、かなり早かったので、入場後、なんとドセンのPAの真後ろの柵にへばりつくことができた、ステージからやや距離はあるが、ステージの端から端までも客席も全てが見渡せる、ライヴを観るには最高の場所のひとつに陣取れた!
モッシュ等はできないが、観るには最高の場所だ!
入場後、50分ほどあったが、曲名も演奏者もしらないデスメタルのカッコいい曲に身体を揺らしながら、(先述したように)「こんな近くで、わお、ステージも客席も全部きれいに見える!」と思って目もとをじわっとさせたりしていたら、あっという間に紙芝居”黒ミサヴァージョン”が流れはじめる。そして、「BABYMETAL DEATH」の轟音がはじまった。
幕張で耳がイカれたので、耳栓を買って持参したのだが、開演前の曲の時に試しに嵌めてみるとあまり聴こえなくなった(それが耳栓だから当たり前だが)ので、生耳で開演を迎えたのである。
とんでもない轟音だった。1.5倍増しの轟音が身体じゅうに襲って来る。
やっぱり「BABYMETAL DEATH」の凶悪さ、一気に血が滾りますね!
「やっぱ耳栓してた方が…」と一瞬思ったが、もうライヴが始まっている。ヴォイ!ヴォイ!と叫ぶ。目の前に、BABYMETALの7人が、くっきりと姿を現して演奏している!耳栓を取り出すヒマなどない。(いつものように)両手を掲げて「B!」「A!」「B!」「Y!」「M!」「E!」「T!」「A!」「L!」を、会場じゅうで叫ぶ。
これが、アイドルとメタルの融合、だ!こんなものはBABYMETALのライヴでしか味わえないのだ。
それにしても、「BABYMETAL DEATH」の全貌を初めてしっかり観ることができた。映像作品とかでは、アップになったりカメラが切り替わったりするので、全貌は観えなかったのだ。
激しく、凶悪で、カッコよく、美しく、そして、楽しい。
この一曲にBABYMETALの魅力が凝縮されている。
それがよくわかった。すげえ曲だ。改めて感動する。

続いて「メギツネ」!この曲は僕がPVでBABYMETALにドハマリするきっかけになった曲だが、ライヴでは会場を一気に燃え上がらせる神曲である。これは幕張ライヴ(大箱)であろうが黒ミサ(小箱)であろうが何ら変わらなかった。波動砲だ。映像作品でもうかがい知ることができるが、ライヴの現場ではそれを会場全体と一体化した身体で感じることができる。”お祭りメタル”。すげえ曲だ。改めて感動する。SU-METALの「なめたらいかんぜよ!」では狂乱のさなかでありながらも、会場中がその聖なる御言葉を聴きとろうと耳を澄ます、その一体感が楽しい。

以下、セットリストをすべてあげたりはしないが、キラー・チューンしかないBABYMETALのライヴだから、盛り上がる一方である。

大好きな、「ウ・キ・ウ・キ★ミッドナイト」の舞踊も見られたし、
「あわだまフィーバー」と”新たな調べ(「ちがう」)”の二曲が披露された、ということで、会場すべてが歓喜!であったはずだ。運よく”新たな調べ”の二回の降臨に立ち会えた、というのは、世界中のファンからすれば垂涎の体験だろう。

何と言っても、3姫が見える。言うまでもなく、とんでもなく、カワイイし、カッコいい。動きも高速だが、一瞬一瞬のキメがぴたっと決まる。その動と静のダイナミズムがすばらしい。で、ず~っとキラキラし続けているのだ。その吸引力というか放射力というか、やはり「アイドル」だ。これは誰も勝てない。
BDの映像や「ヘドバン」誌の美しいグラビアでの、あの美しい姿がそのまま(当たり前だが)目の前で、激しく踊り、歌っているのである。

「Road of Resistance」も、「全てを観る」ことができた。
イントロの終わりでは、3姫が揃って旗で顔を半分隠しつつ静止する。
SSAの映像とかでは、ここの”3人が揃って”というところがきちんと見えていなかったのだが、この「静」の美しさを昨夜のライヴでしっかりと体感することができた。
何しろ、3人の旗の角度も、顔を隠す分量も、綺麗に揃っているのだ!
”嵐の前の静けさ”を見事に表現する振り付けである。そのことを昨夜、初めて肉眼で確認したのだ。

これが、(SSAや幕張メッセやに比べて)小箱でBABYMETALのライヴを体験する幸せだ。会場全体の一体感。肉眼でSU-、YUI、MOAの3人の輝くような姿を見ることのできる喜び。
これは、もう、何にも代えがたいものだ。生きていてよかった、という感想は、大げさではない

ただし、あんなに楽しかったライヴの記憶(映像)はもうほとんど残っていない。
残っているのは、ただただ楽しかったという感慨、そして、初めてBABYMETALを見た!という昂揚感、もうひとつ、(またまた)難聴ぎみの両耳、だけだ。
(ただし、SSAライヴを流し観しながらこれを書いているのだが、脳内補完によって、昨日のライヴと重ね合わせて再生されるのだ。3姫の表情のひとつひとつが「リアル」に感じられ、鳥肌が立ち涙が滲む、という例の症状が際立つ。黒ミサⅡのお土産である)

しかし、この、疲労(わずか1時間余りのライヴなのに)感の多幸な味わいは、何だ?
幕張ライヴ後にも感じたのだが、それは”楽しさ”の濃さ・激しさを身体で感じ続けたからだろう。
ありえない仮定だが、BABYMETALのライヴがもしも2時間半もあったとしたら死者が出るだろう、それだけの濃度の”楽しさ”がどの瞬間にも詰まったライヴなのである。

実は、PA席の真後ろだったので、生のKOBAMETALを見ることができた。というか、「CMIYC」ではKOBAMETALが邪魔でステージがよく見えなかった(笑)。これも贅沢と言えば物凄く贅沢な体験である。垣間見た「仕事ぶり」の印象については、近いうちに書くかもしれない。

ということで、本当に最高・至高のライヴでした。
ZEPPツアーは仕事の日ばかりなので初めから応募せず、可能性があるのは12月の横浜アリーナだけれど、幕張→黒ミサⅡ、と参加できたので、落選でも仕方ないと満足しています。
ただ、できれば次は中学生の娘も連れて参加したいので、当然チケットは狙いに行きます。
同士であり(チケット争奪戦の)ライバルでもある皆さん、お互いに頑張りましょう。
キツネ神のご加護がありますように!


BABYMETAL探究(「アイドルダンス」考1)

2015-08-21 13:42:11 | babymetal
このBABYMETAL探究のブログを始めた際、どこからどのように分析して行ったらいいのか、途方に暮れていた。
「振り付け」が、"メタルダンスユニット"BABYMETALの核心にある、ということは疑いようがないのだが、それに対して、どんな角度からどのように手をつけていったらいいのか、わからなかったのである。
何しろ(僕たち)メタルヘッズにとって、”ダンス””振り付け”などというものと真剣に対峙する機会などなかったのだから。いや、むしろ、(全くの偏見から)”ダンス””振り付け”なるものを嫌悪・忌避さえしていたかもしれない。ちゃらちゃらしやがって。シャウトせんかい!リフを刻まんかい!というような。

そんな自分が、BABYMETALにぐいぐい(というか、ある日突然あっという間に)魅せられ、その魅力を(書いたことのなかったブログなるものの上で)語り綴ってみよう、と思いたち、とりあえず最寄りの図書館等で、「ダンス」「舞踊」などの文献を漁りながら、気がついたことを少しずつ書き進めて行った。
その成果(?)が、このブログの初期のいくつかの記事、とりわけ「舞踊」考数編である。

手さぐりで、おそらくは大きな回り道をしながらも、BABYMETALの舞踊=「演」奏について頭を絞って考えたことは、僕自身のBABYMETAL理解を深め・広げるうえで意味があった。
明らかに、BABYMETALの魅力とは何なのか、についての見識は、半年前よりもずっと深まっている。(それにどんな意味があるのか、と問われたら、特に何もないと答えるしかないのだが、しかし、格段に人生が楽しくなった、深みが増した、日々が色鮮やかになった、のは間違いない。とすれば、無意味なようでいて実はたいへん意味のある作業だったのだろう)。

このブログの機軸にあるのは、<ヘヴィメタルの進化史>においてBABYMETALを考える、ということであり、今後もそれは変わらない。30年以上ヘヴィメタルを聴き続けてきた僕が、その経験のうえにBABYMETALの魅力を語ろうとするのだから、必然的にそうなるしかないのだ。

そんな僕が、BABYMETALの(とりわけYUI・MOAの)舞踊・振り付けの魅力を語ろうとすれば、それはヘヴィメタルの「演」奏なのだ、という言い方になる。
もちろん、それは僕にとってのBABYMETALの核心ではあるのだが、しかしやはり、その文言は何か大切なものを欠いている、一面的だなあ、という感触はぬぐえない。

僕の蒙を啓いてくれる、僕の持っていないパースペクティヴを差し出してくれる、そんな言説はないものか?このブログを書きすすめながら、絶えずそれを追い求めてもいたのだ。

あった、のだ。

竹中夏海の著書『IDOL DANCE!!! ~歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい』『アイドル=ヒロイン ~歌って踊る女の子がいる限り、世界は美しい』の二冊である。

BABYMETAL以外にまともに(近年の)アイドルを視聴した経験はないので、楽曲やダンスの固有名詞とか、著者が実際に振り付けをしているアイドルグループについての詳細などは、「ふう~ん」と言うしかできないのだが、BABYMETALの舞踊を考えるうえで、実に参考になる記述がいくつも散見される。参考・刺激になる。

アイドル好き、アイドルに詳しい方には、異論があるかもしれない(これらの著書に書かれていることに対して、そうじゃない、とか、そんなことは常識だ、とか)が、ヘヴィメタルの入口からBABYMETALに入った僕のようなおっさんには、いろいろと「考えるヒント」を与えてくれる書物であることは間違いない。
以下、いくつか引用しつつ、考えてみたい。例によって長くなるので、何回かに分けて。
(ちなみに、この書に行きついた契機は、先日の『MdN』のMIKIKO(METAL)の記事であった)

このようにアイドルのダンスでは、曲の歌詞と振付がリンクしている瞬間が度々あります。言い換えると、ダンスはただの動きの連続ではなく、歌詞の世界観や女の子のキャラクターを表現した、意味を持った動きとなっているのです。
毎回新作を発表していく他ジャンルのダンスと比べて、アイドルのダンスは、同じ振付を繰り返し見て貰うことが圧倒的に多いものです。そのため、このような仕掛けを凝らす傾向があるのではないでしょうか。違う角度から見た時や何度も見た後、ふとした時に、「こんなことしてたんだ」という発見が散りばめられているのです。勿論、情報量が多過ぎて複雑なだけになっても良くはないのですが、あまりにも単調な動きの連続は同じ曲を何度も見て貰うという特徴がある以上、直ぐに飽きられてしまう可能性があります。
(『IDOL DANCE!!!』)


とりわけ、傍線を付したところに、「なるほど!」と唸る。
他ジャンルのダンスと比べて、というのは、僕にはわからないところで、この著書のありがたさのひとつだ。

なぜ、僕(たち)は、憑りつかれたようにBABYMETALの映像を観つづけるのか?

その秘密の一つが、<アイドルのダンス>そのものがもつ(他ジャンルのダンスとは異なる)<繰り返し見て貰う>ためにつくられている、ということにあるのだ。
そう、僕自身も、例えば、『LIVE IN LONDON』の、BRIXTONの映像を観ていて、初めて「あれ、ここでSU-METALは、こんな動きをしていたんだ!」と驚いたことがあった。「メギツネ」の冒頭の、キツネの仕種で右を向き、またキツネの姿態で左を向く、というところ。「メギツネ」の世界観の根幹を現わす振り付けなので、多くの皆さんは初めから”見えて”いたに違いないが、僕には、今年の6月になってようやく”見えた”振り付けである。
まあ、これは僕の迂闊さなのだが、こだわって書いている「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の「バトル」にしても、その面白さ・凄味は、<繰り返し見て貰う>ことによっていっそう露呈する、これがBABYMETALの振り付けの味わいであり、それは、<アイドルのダンス>が本質的に持つ属性なのだ。

そして、これって、他のヘヴィメタル・バンドとの最大の違いの一つ、ではないのか?

<繰り返し見て貰う>ことを意識して、ステージングを練り上げるバンドというのは、おそらくいないだろう。むしろ、一回・一回のライヴでいかに観客を燃え上がらせるか、それが勝負のはずだ。
バンドの本懐とはそういうものだろうし、できうるなら、毎回違う、という印象を与えたいのではないか。
マンネリズム、とは、ロック魂の真反対、だろう。
もちろん、BABYMETALであっても、マンネリズムをよしとしてなどいない。当たり前だ。
(今夜の黒ミサⅡで、どの曲をどの順で行うのか?ひょっとして、サプライズがあるのか?シークレットでやったから「ナウシカ・レクイエム」始まりはまさかもうないだろうなぁ、でもひょっとして…。葉加瀬太郎はいつ?…ワクワク・ドキドキがとまらない。)
毎回毎回、細部に(あるいは大枠に)工夫を凝らし、一回一回が異なるライヴ、観客に新鮮な体験を与えてくれる。極上の絶品。
しかし、一曲一曲は、基本的に「いつもの振り付け」であり、僕たちもそれを楽しもうと(「合いの手」を一緒に入れるためには「いつもの振り付け」でなくては困る)ライヴに馳せ参じるのである。

差異と反復。

そのダイナミズムのありようが、BABYMETALはその核にある<アイドルのダンス>によって、他のヘヴィメタルバンドとは全く異なる、ということだ。(BABYMETALはもちろん、他のアイドルユニットと全く異なる面も持っている、それは後に考えよう)。

アイドルのステージは、他ジャンルのダンスの中ではチアダンスとよく似た特徴があります。それはお客さんと演者の立場がはっきり分かれているのではなく、客席も一体となって盛り上がるという点です。
(略)
アイドルの客層はダンスステージとして括った場合、同じ人が同じパフォーマンスを複数回見る可能性が高いという特殊なジャンルです。クラシックバレエやロングラン公演のミュージカル、テーマパークでのショー等も同じ演目を繰り返し行いますが、それらと比べても圧倒的に同じ人が同じ曲を見る回数が多いのがアイドルのステージなのです
この繰り返し見て貰うという特徴があるからこそ、いわゆる「振りコピ」やコールも存在するのです。他ジャンルのダンスと同じように毎回別のお客さんに入れ替わっていたら、アイドルのステージのスタイルは全く違うものとなっていたでしょう。
(『IDOL DANCE!!!』)


図書館でコンテンポラリーダンスの本を借りて、ざっと読んでみたものの、取りつく島がない、という印象しか持たなかったのは、竹中夏海が上で述べるように、そうした他ジャンルのダンスとは全く性質が異なるからだ。「情熱大陸」でダンサー菅原小春を見て、「なんか違う」と感じたことも書いたが、その秘密の核は、上のようなところにもあったのだ。
傍線を付したところは、まさにBABYMETALであり、ということは<アイドルのダンス>がその「演」奏の本質(の一翼)である、という意味で、BABYMETALは正真正銘のアイドルで(も)ある、ということだ。言うまでもないことだが。
よく、BABYMETALのライヴは(曲目がほとんど同じことから)ロングランのミュージカルに喩えられる(KOBAMETAL自身がそういう趣旨を語っている)が、「圧倒的に同じ人が同じ曲を見る回数が多い」という根源的なミュージカルとの違いの指摘は、なるほど、と思うしかない。たぶん、ここに決定的な秘密があるのだ。
<差異と反復>で言えば、観客が毎回変わるならば、<反復>のみでよいのである(極論だが)。公演自体は毎日行っていても、観客にすれば、一生に一回の体験なのだから。しかし、「圧倒的に同じ人が同じ曲を見る回数が多い」アイドルのダンスでは、<差異と反復>のより精緻なあるいは大胆なダイナミズムが必要になる、ということだ。そうでないと、「客席も一体となって盛り上がる」という結果がもたらされない。
さすがに、アイドルの振り付けの現場にいる筆者の言、参考になる。

エンタテインメント。
一回ぽっきりの芸術作品を静かに鑑賞する、のではなく、同じ曲を何度も(何度も何度も何度も…)見る、そんな観客を(毎回、あるいはむしろ、繰り返し見るに従ってよりいっそう強く)楽しませる、ステージと一体になって盛り上がってもらう。
そうした「仕掛け」としての<アイドルの振り付け>。

BABYMETALの超絶的な楽しさを構成する要素は、もちろんこれ以外にもたくさんあるが、その核心にこうした<アイドルの振り付け>の性質があることは間違いない。

<アイドルダンス>の2大特徴として、竹中夏海は、「歌詞と振付のリンク」と「振りコピ」をあげている。BABYMETALの舞踊=「演」奏を考えるうえで非常に有効な切口だと思うのだが、これは次の回に考えたい。

以下、雑感です。

今夜の黒ミサⅡ、幕張ライヴからちょうど2カ月だが、今夜は前回のライヴとは全然違う体験になる。
ステージの上も肉眼で見えるだろうし、観客席の2千人超の theOne Tシャツにコープスメイクをしたおっさんの熱狂の一員となる、のも、おそらく(僕にとっては)一生のうちの最初で最後のカオスな体験になるだろう。
でも、たぶん泣かないはずだ。泣くひまはないはずだ。だいいち、黒ミサ、って、泣くものではないのだ。楽しくて楽しくて、という1時間の全力疾走になるはずだ。存分に楽しみたい。

昨夜フラゲした『ヘドバン スピンオフ』は実によかった。前号が、個人的にはいまひとつ(薄味)に感じられたが、今号は、特に「ミュンヘン事変」のレポなど、BABYMETALを真摯に取材・報道してきた『ヘドバン』だからこそ書ける内容だった。勤務先からの帰路の1時間、読み耽ってしまった。(扉の3姫の写真と、右の熱い文章には、涙がにじんだ)。

「ワールドツアーと言えば華やかだが、実際は、いわばドサ回りである」
という趣旨の記述があった。その通りであろう。(このへんについては「成功」考で考えたこともある)。
しかし、一歩一歩、BABYMETALが世界各地に爪跡を残しつつあるのは確かで、そんな中の、赤ミサ、黒ミサ、という「お祭り」は、まず演者であるBABYMETALが楽しむものであってほしいし、そのためのいわば「供犠」の一員となるべく、僕も間もなくコープスメイクで新木場に向かうのである(まあまあ日射しはマシそうで、よかった)。






BABYMETAL探究(いざ黒ミサ編1)

2015-08-18 01:14:05 | babymetal
尾崎放哉の句に、

漬物桶に塩ふれと母は産んだか

というのがある。
東大を出た自分が、紆余曲折の果てに、今は須磨寺の寺男として漬物桶に塩をふっている。母は息子の自分がこんなことをするなんて思って自分を産んだのだろうか…
という感慨を詠んだ句だが、

それになぞらえれば僕の場合は、

夜中にコープスメイクせよと母は産んだか

というところだろうか。

昨夜、生まれて初めて顔を白塗りにし、黒で邪悪なペイントをほどこしてみたのである。もちろん、今度の黒ミサに備えて、であるが、顔が真っ白になった段階ではあまりにも情けない面(眉がない印象は強烈ですね)で、鏡を見ながら笑えてきたのだが、何やかやと、ペイントを施してみると、まあまあそれなりに行けるのではないか、と、安心したのであった。書き加えているうちに、デビルマン風になった。
もちろん、このメイクで電車に乗り、街中を歩いて会場まで行くのは、ドキドキが止まらない、たいへんな「苦行」である。

しかし、一度きりの人生、こんなことができるのもBABYMETALに魅せられた(そして運よく抽選に当たった)からであり、こんな年になってから、夜中に化粧している人生、なんて、楽しいとしかいいようがない。

仕事が詰まっていて、なかなか更新ができません。
ご覧いただいている皆さん、ごめんなさい。
黒ミサⅡが終ったら、少し時間ができるので、また更新していきます。

「メタル・レヴォリューション」も、いよいよスラッシュメタルの回、このブログを書くために観て、いろいろ書くべきことを確認したのですが、時間がなく。
『BABYMETAL LEGEND "2015" ~新春キツネ祭り~』も、個人的には堪能していて、いろいろ書くべきことがあるのですが、集中する時間がなく。
明日は、「NEWS23」で特集があるそうで、楽しみDEATH!

黒ミサⅡに参戦される皆さん、よろしくお願いします。
また、感想など、綴るつもりです。