ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(ジャンル/プロトタイプ 考)

2015-03-10 21:59:12 | babymetal
SU-METALの語り
「BABYMETALって、アイドルなんですか?メタルなんですか?って訊かれることが多くて。でも、BABYMETALって、アイドルでも、メタルでもない、ベビーメタルだなってずっと思っているので」
(NHK放映『BABYMETAL現象~世界が熱狂する理由~』)


BABYMETALがヘヴィ・メタルなのかどうか論議される際、否定的に「こんなのはメタルじゃない」と貶されたり、反対に、上記の発言を持ち出して、「すぅがこう言ってるんだから、メタルじゃないんだよ」とヘヴィ・メタルではないことを肯定的に言上げしたりすることがあるように見えるのだが、ここには、言葉・概念の混乱(誤用)があるように思う。

野矢茂樹氏の言葉を引こう。
「どの概念のもとに相貌を知覚するかは、その対象に対する知覚主体の関心に応じている。関心があれば、その概念はより詳細なものとなり、関心がなければ大雑把な概念で済ませてしまうだろう。あるいは、言うまでもなく、自分の手持ちの概念でしか対象を捉えることはできない。「ツグミ」という概念を持っていない人は、ツグミを見てもそれを「ツグミとして」見ることはない。相貌は、関心に応じて、そしてまたどの概念をもっているかに応じて、異なりうるのである。」
(『語りえぬものを語る』「23言語が見せる世界」)

「こんなのはメタルじゃない」という誹謗は、じつは、ヘヴィ・メタルを本格的に聴いたことがない(それほど関心がない)からこその「大雑把な概念」「手持ちの概念」による否定であろう。「ヘヴィ・メタル」という概念のもとには実に多様で様々な「相貌」を持つ音楽が存在する、ということは、本格的にヘヴィ・メタルを聴けば聴くほど痛感されることだからだ。「こんなのはメタルじゃない」なんて言ってられないカオスの中で、僕たちは自分にとって好ましいヘヴィ・メタルの楽曲やバンドに出会うのである。自分の好みに合わないから言って、それを「これはメタルじゃない」なんて言いはしないはずだ。
(ここで進行中の『メタル・エヴォリューション』全11回の考察とは、そんなヘヴィ・メタルのもつ多様な「相貌」の確認でもあるのだ。)

では、冒頭のSU-METALの発言を、どのように理解すればよいのか?

SU-METALの、こんなコメントもある。(CDショップ大賞を受けてのインタビューへの回答)。

(今、本格的なメタルファンまでをも唸らせる存在になっています。メタルという音楽ジャンルについてどう思いますか?)
「正直、まだ私たちも「メタル」というものをちゃんと理解できていないと思います。しかし、BABYMETALの活動の中で新しい自分を発見することができるし、それをメタルファンの方に受け入れてもらえていることはとても嬉しいDEATH!」

(今後の目標や野望、挑戦したいことなどを教えてください。)
「私たちの目標は「BABYMETAL」というジャンルを作ることなので、これからも自分たちにしか出来ない事にチャレンジしていきたいDEATH!」


言うまでもないことだが、BABYMETALはヘヴィ・メタルであることを、まさにその名に負うている。「ベイビーメタル」ではなく「ベビーメタル」という発音に(少なくとも国内では)こだわるのも、自らのアイデンティティがヘヴィ・メタルにあることを、韻を踏むことで絶えず宣言している、ということだ。さらには、メンバーの名・スタッフの名にまで、過剰に「~METAL」を押し出している。BABYMETALとは、まぎれもなく、ヘヴィ・メタルの申し子なのであり、ヘヴィ・メタル史の最先端にいることをこれほどありありと体現しているユニットもない。

だから、冒頭の発言も、ヘヴィ・メタルであることは言わずもがなの前提としてのものとして受け取るべきなのだ。SU-METALの言葉を文字面のまま表面的に受け取って、「ヘヴィ・メタルじゃないって、すぅさんが言ってる」などと言ってはいけないのだ。

けれども、では、「こんなのはメタルではない」と貶されたり、SU-METAL自身が「メタルでもない」と発言したりしていること、これはどういうことなのか?

ここで、プロトタイプ(典型)という概念を持ちこむと、このへんのややこしさはときほぐしやすくなる。

「アイドルでも、メタルでもない」とは、「典型的なアイドルでも、典型的なメタルでもない」ということだ(それは、裏返しに言えば、「アイドルの異端、メタルの異端」だということの謂である)。ここには、何の齟齬もない。BABYMETALは、「典型的なアイドルでも、典型的なメタルでもない」、「アイドルの異端、メタルの異端」である。まさにその通りだろう。

「鳥」の特徴と言えば、何と言っても「空を飛ぶ」ことだろう。典型的な「鳥」とは、「空を飛ぶ鳥」だ。だから、ダチョウやペンギンを見て、「こんなの鳥じゃないよ」という言い方はある。しかしもちろん文字通りに「ダチョウは鳥ではない」などと言っているのではない。鳥であることを前提にしながら、ダチョウのようなこんな鳥なんて(自分の知っている、いわゆる)鳥ではない、ということだ。正確にいい直せば、「こんなのは典型的な鳥ではない」ということだ。「~らしさ」と言ってもよいだろう。ダチョウやペンギンは「鳥らしい鳥」ではない。しかし、もちろん、ダチョウもペンギンも鳥なのであり、ダチョウやペンギンをも含むことで、「鳥」というジャンルはより豊饒なものとなっている。


「鳥」という大ジャンル(鳥綱)のなかに、「ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属」というサブジャンルがあるように、ヘヴィ・メタルという大ジャンルの中にBABYMETALというサブジャンルがある。それが、「BABYMETALって、アイドルでも、メタルでもない、ベビーメタルだな」「私たちの目標は「BABYMETAL」というジャンルを作ること」という発言の意味だと、僕は考える。

そして、「BABYMETALというジャンルを作る」とは、それが闘いでもある、ということだ。事実、BABYMETALは、そのありようが典型でないからこそのさまざまな抵抗を受け続け、その抵抗を実力でときふせてきた。その姿に僕(たち)メタル・ヘッズは「メタル魂」を感じるのだ、ということはすでに述べた。

そして、MOAMETALが大賞のインタビューで述べているように、僕たち(The Oneたち)もBABYMETALの一員なのである(こうした発言は、やはりMOAMETALがするのだなあ)とすれば、その役割のひとつは、彼女たちを、唯一無二の斬新なヘヴィ・メタルとして楽しむことだ。「典型ではない、ヘヴィ・メタルの異端」として。当たり前だが、「BABYMETALというジャンル」が作られた、というためには、それをそう認める受け手が存在しなければならないからだ。そして、「異端=突然変異」こそが「進化」の原動力であることを、今、このブログでゆっくりと確認しているのである。

BABYMETALを何が何でも盲信する、ということではない(そういう熱狂的なファンがいてもそれはそれでもちろん構わないのだが)。事実として、彼女たちのパフォーマンスは、恐ろしいほど素晴らしいのだから、それを正当に楽しめばよい、それだけのことだ。それが僕たち「~METAL」を名に負うもののいちばん原初的な役割なのだ。

何をごちゃごちゃ言ってるんだ、BABYMETALはBABYMETALというオンリーワンの存在であり、それをそれとして楽しめばよいのであって、ヘヴィ・メタルかどうかなんてどうでもいいんだよ。
これは、それなりに正論だろう。

しかし、そうした態度は、BABYMETALはヘヴィ・メタルではないという考えをも許容することにつながってゆく。そうなると、BABYMETALとは何か、彼女たちが命がけで何をやろうとしているのか、なぜ僕たちメタルヘッズが(いい年こいて、というか、いい年をこけばこくほど)彼女たちの歌や「振り」に涙を流すのか、が見えなくなってしまう。「メタル・レジスタンス」とは、(プロ野球チームが毎年毎年つけるスローガンのような)単なるメタル風味のカッコつけたキャッチ・コピーなのか?そうではないことを僕たちは知っている。事実として彼女たちが「メタル・レジスタンス」を成し遂げ、また新たにチャレンジしていることを、知っているから、涙する、のではないのか?

些末なことに思えるかもしれないが、「BABYMETALはヘヴィメタルである」、ここを確認しておくことは、BABYMETALの本質に関わる、極めて大切なことであると僕は考える。このブログをしつこく書きつづける原動力は、そこにある。


BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』03の2)

2015-03-09 16:45:00 | babymetal
ヘヴィ・メタルの重要なアイコンである、メロイック・サイン。

BABYMETALのキツネ・サインは、もちろん、このメロイック・サインの変形(オマージュ?パロディ?)なのだが、「メロイックじゃない、キツネさん」「メロイックじゃない、キツネだ」と歌詞にまでして高らかに歌い、自らの存在そのもの・精神そのものの象徴として、さまざまな曲の「振り」としてもたびたび掲げる彼女たちの言動に対して、「俺たちの(神聖なる)メロイック・サインをコケにしやがって!」と憤るメタル原理主義者(たびたび触れているが、その「原理」なるものには確かな根拠はないのだが)も、いるだろう。

しかし、『メタル・エヴォリューション』全11話を通して観ると、まさに実感するのだが、ヘヴィ・メタルとは、轟々と流れる大河のようなもので、一瞬たりとも静止することはない。スタティックに、「これがメタルだ」などというものはなかったし、これからもないのである。あらゆるジャンルの創造物がそうであるように、ヘヴィ・メタルも常に、創造と破壊(破壊と創造)を繰り返してきたのである。「突然変異」と「自然淘汰」によって姿かたちを変えながら続いてきたのだ。その流れ・推進を『エヴォリューション(進化)』と称した緻密なドキュメンタリーが、『M・E』なのだ。

だから、メロイック・サインとて、はじめからメタルに備わっていたものではない。
メロイック・サインの出自は明らかで、もちろん、それは、ロニー・ジェイムズ・ディオである。

メタル・ドキュメンタリーシリーズ第1作『ヘッド・バンガーズ・ジャーニー』では、
「ロニーはメロイックサインを作った。ヘヴィ・メタルのシンボルだ」というサム・ダンの語りの後で、ロニーが次のように語っている。

「祖父母ともイタリア出身だ。祖国の迷信を持って渡米した。子供の頃、祖母に手を引かれ町を歩くと、人にこうしてた。(と、メロイックサインを突き出し)後で知ったがそれはメロイックというもので、悪魔の目で見られた時身を守るものだ。攻撃もできる。だから”発明”はしていないが、世間に広めた。サバスなど偉大なバンドに言及する時、いつもメロイック・サインを作っていたら、僕のサインとして、いつのまにか世間に浸透しただけだ。」

故ロニーが、今のBABYMETALのキツネサインを目にしたら、むしろ、喜ぶだろうなあと(見せてあげたかった、とさえ)思う。祖母のメロイックサインが、日本の可愛い少女たちにキツネサインとして変形されながら引き継がれ、大切なアイコンとして活躍しているのだから。
(BABYMETALの「世界征服」という目標は、<世界中の人がキツネ・サインを掲げる姿>という絵図としてビジュアライズできる。本日のCD大賞受賞は、それに拍車をかけてくれるだろうということで、実におめでたい!たまたまリアルに中継をPCで見ていて、「椎名林檎かな…」なんて思っていたので、「大賞は…」の後のギミ・チョコには鳥肌が立ちました。)


さて、話を『M・E』第3話に戻そう。

UKにおいて、ヘヴィ・メタルの源泉になったZEP、サバス、パープルが、自らをヘヴィ・メタルと呼ばれることを忌避したのに対し、積極的に自らをヘヴィ・メタルと高らかに宣言したのが、ジューダス・プリーストである。(番組では、「初めてブルーズから離れた新しいスタイルのメタル」と紹介されていた。)

ロブ・ハルフォード
「プリーストは、メタルの旗をふることを誇りに思ったよ。」

(この「メタル旗をふる」発言で、僕は、BABYMETALのBrxtonでのアンコールを思いました。)

メタル・ゴッドとは誰が言いだしたのか、僕は知らないが、実績だけではなくこうした精神的態度・姿勢が、彼(ら)をメタル・ゴッドと呼ぶにふさわしい存在にしているのだ、と改めて思った。

ジューダス・プリーストを通してBABYMETALについて考えたことが二点ある。

①ツイン・リード
②ヴィジュアル

だ。

①について、番組では「ステレオ効果」などと形容されていたが、それまでのギター2本とは異なる、ツイン・ギターのシンクロする魅力は、現在までのヘヴィ・メタルにとてつもない影響を与えた「遺伝子」だ。
(しつこいが、これも、「突然変異」として登場し「自然淘汰の過程での生き残り」を経て今に至っているのだ)が、BABYMETALについてここで語りたいのは、神バンドの構成ではなく、やはり三姫の舞踊=「振り」についてである。
(似たような感想は多くの方が持たれていると思うが)、三姫の、とりわけYUI・MOAの、「振り」=舞踊は、まさにジューダス・プリーストが持ち込んだ質のツイン・ギターの魅力を、その身体の動きでヴィジュアルそして空気感として、観客に感じさせるものではないか。(もちろん、それだけではなく、考察途中の『イジメ、ダメ、ゼッタイ』で詳しく分析したいと思っているが、リフとしての役割や、楽器ではなく「振り」であることによる歌詞との関係や感情表現など、さまざまな「演」奏効果を果たしているはずだ)。

KKダウニングとグレン・リプトンは、ウィッシュボーン・アッシュの名を挙げ、彼らのスタイルからインスパイアされたことを番組内で語っていた(『百眼の巨人』は僕も今も愛聴しています)が、ウィッシュボーンのツイン・リードからジューダス・プリーストのツインリードへの「変容」が、ジューダス・プリーストのツインリード・ギターからBABYMETALのツインリード舞踊へと、同じ質の「変容」として行なわれているのではないか。
舞踊で、しかもとんでもない美少女ふたりの「演」奏で、というところが、眩暈がするような「変容」ぶりだが、しかし、それが観客に与えるカッコよさ・昂揚感にはジューダス・プリーストのツイン・リードと同質のものが流れているのだ。

②について、それまではそれほど重要視されていなかった
(音楽の本質とは直接関わらないものと考えられていた)
ルックスを、
ヘヴィ・メタル(に似合うというよりも)を体現するものとして
(例えばレザー・パンツとか、「黒」をまとう、とか)
観客に見せることを持ち込んだのもジューダス・プリーストだった。

ロブ・ハルフォードの語り。
「サウンドを象徴するルックスだ」


そう、この延長線上にありながら、今までにない斬新な最新形態が、BABYMETALだ。

UKで、高らかに自分たちがヘヴィ・メタルであることを宣言したジューダス・プリーストの系譜のうえに、明らかにBABYMETALはある。

逆に言えば、ヘヴィ・メタル史は、その創発期のUKにおいてすでに、やがてBABYMETALを生みだす遺伝子を蔵していたのだ。

そのことを、『M・E』第3回で確認したのでした。


BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』03の1)

2015-03-08 16:24:49 | babymetal
『メタル・エヴォリューション』の第3回は、「アーリー・メタル・UK」についてであった。つまり、ヘヴィ・メタルを生んだ本流である、ブリティッシュ・ミュージック・シーンについての考察である。

そして、この回も、BABYMETALとは何かを考えるための刺激・問題提起・ヒントが満載であった。以下、その中からいくつかとりあげて、BABYMETALについて考えてみたい。

番組の前半は、ヘヴィ・メタルを生む原動力となった3つのUKのバンド、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルについて語られた。

レッド・ツェッペリン(番組内では誰もが「ゼッペリン」と発音していたのだが、なぜ日本では「ツェッペリン」と表記するのだろう?)はサム・ダンのインタビューには応えてくれなかったが、サバスやパープルのメンバー数人が登場し、色々と興味深い話を聞かせてくれた。その中で、まず興味を惹かれたのが、ジョン・ロードの次のような語りだ。

「初めてハモンド・オルガンで何が出来るかって気がついたのが、「ハード・ラヴィン・マン」のソロさ。スタジオで何も考えずに感情に任せたら、あの楽器はどんな風に応えてくれるか試したんだ。ハモンドで一番好きなのは順応性かな。元々教会の楽器だったものがジャズやブルースのミュージシャンに対応し、そして私がハード・ロック・バンドにねじ込んだようなものだ。ただ単なる飾りの楽器としてじゃなく、自由に解き放ってやりたかったんだ。」

今では、「ハモンド・オルガン」の入った曲は、いかにもヘヴィ・メタル(ハード・ロック)らしいものとして受け取られるはずだ(近年では、僕的には、ハロウィンの「バーニング・サン」のボーナストラック・ヴァージョンが滅茶苦茶かっこいいハモンド・オルガン入りの曲だ)が、これすら、ヘヴィ・メタルの進化の過程の中で、新しく生まれてきたものなのだ。
(以下、しつこくこのブログで繰り返していることだが)BABYMETALの「振り」=舞踊は、いわば、2010年代のハモンド・オルガン(ヘヴィ・メタルの進化における新たな発現形態)なのだ、と僕は考えるのである。これから30年後、「へえ、昔はメタルで舞踊する「演」奏なんてなかったんだって…!」なんて語られる日が来るのかもしれない、と。

また、イアン・ペイスが、「史上最も有名なギター・リフ」、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフの部分の演奏が出来上がったときのことを語っているのも面白かった。

「用意していたのか、その場で思いついたのか、リッチ―が突然リフを弾きだしたんだ。それに皆でアレンジをしていった。たった4分程の出来事さ。」

へえー!と感嘆しながら、ここで僕は、BABYMETALの「4の歌」の成立過程を思ったのである。とりわけYUI・MOAに対して「やらされている感がハンパない」なんて揶揄する書き込みを眼にしたこともあるのだが、「4の歌」についてよくよく考えてみたら、YUI・MOAの自分たちのアイディアが曲・振りとして具現化されて、それを自分たちがライヴで「演」奏すると、それに呼応して国内・国外のメタラーたちが狂喜する、というのは、凄い経験ですよね。これを「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にダブらせるのは、さすがに贔屓の引き倒しだと自分でも思いつつ、それでも、構造としては同じなのではないか、と思ったのです。
彼女たちの「振り」(もちろん完成させたのはMIKIKOMETALの力もあってなのだけれど)も、30年後には、「史上最も有名な「振り」リフ」なんて呼ばれていたりして…。

話を『M・E』に戻すと、
そうした、ヘヴィ・メタルのいわば源泉となった3バンドだが、どのバンドも「俺たちはヘヴィ・メタルではない」という強い態度を示している。

例えば、
ブルース・ディッキンソンは、
「もし1つのバンドと1枚のアルバムがヘヴィ・メタルというムーヴメントを推し進めたとしたのだとしたら、それは間違いなくブラック・サバスの1stアルバムだ。」
と語っていて
、確かに、
特に楽曲「黒い安息日」の、それまでにない不吉でダークなサウンド(『M・E』第1話で、ホルストの「惑星」の「火星」に触発されてあのリフが生まれたことがすでに語られていた)が、間違いなくヘヴィ・メタルというジャンルの先駆であったはずなのだが、
インタビューに答えて、ギーザー・バトラーは、
「俺たちはハード・ロック・バンドだ。ヘヴィ・メタルというのは、俺たちを理解できない評論家による蔑称だったんだ」
という主旨のことを語っている。

ツェッペリンも(番組では伝聞のかたちでの報告だが)、パープルのメンバーも同様だ。

まあ、当時のシーンにはまだヘヴィ・メタルという概念はなかったのだから、これは当然だろう。聴き手の僕(ら)からしても、この3バンドはとりわけブルーズ色が濃く感じられる(現状のヘヴィ・メタルからすると)という点で、やはり、ヘヴィ・メタルではなくハード・ロックと言ったほうがしっくりくる。

そして、70年代以降、上記3バンドはそれまでのヘヴィ・ロックから次第に離れていき、UKでも、グラム・ロック等が全盛になっていく(と、番組では語られている)。「世界を変えたい」という欲動を根底にしたシリアスなロックから、パーティーを楽しもうぜ、という音楽へとシーンの主潮がうつってゆくのだ。

そんななか、今のヘヴィ・メタルへとつながる大きな影響力を与えるバンドが登場する(と、番組でも語られているし、僕の実感からもその通りだと思う)。

レインボー、だ。

バッハや16世紀の中世音楽とハードロックとの融合という側面は、ディープ・パープル時代からのリッチー・ブラックモアの音楽的志向(嗜好)が大きいのだろうが、そこにさらに、ロニー・ジェイムス・ディオの歌詞が、「ファンタジーとハード・ロックの融合」をもたらした。(レインボー自体は(とりわけロニー時代は)、まだヘヴィ・メタルではなく、ハード・ロックと呼ぶべきだろうが)。

これも、例えば「ドラゴン」や「騎士」は、ヘヴィ・メタルの進化史のなかで「突然変異」として登場し、「自然淘汰のなかで生き残り」、今に至っている、ということを改めて確認した。

「本来のヘヴィ・メタル」などというものは存在しない、のである。
(ただし「典型」的なヘヴィ・メタルというものはある。「ジャンルとサブ・ジャンル」ということと絡めて、できるだけ近いうちに考えてみたい)。

ロニー・ジェイムス・ディオの語り
「人が皆、イマジネーションを使って自分の龍を作り出して欲しいんだ」


この、「イマジネーション」についてのフロントマンの発言は、『M・E』01の考察でも紹介した、ブルース・ディッキンソンやロブ・ハルフォードの語り(まさに「典型」的なヘヴィ・メタルのフロントマン)へとつながる。

そして、ロニーといえば、看過できないのが、メロイック・サインである。
これは、ヘヴィ・メタル進化史におけるBABYMETALを考えるうえで極めて重要なトピックなので、『M・E』第3回の考察の途中にやや脱線をはさむかたちになるが、回を改めたいと思う。


BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』02)

2015-03-06 22:25:24 | babymetal
『メタル・エヴォリューション』の第2話のテーマは、「アメリカン・メタルがどのように生まれたのか?」についてであった。

アメリカン・メタル(ブラック・サバスやジューダス・プリーストのようなブリテン発祥ではない、アメリカ発のヘヴィ・メタル)などとBABYMETALとは、無関係にも思えるが、アメリカにおいてももちろんさまざまなポピュラー音楽はずーっとあり続けてきたわけで、その中で、どのような性質をもった音楽が「これはヘヴィ・メタルだ」と見なされるのか、ということは、BABYMETALがヘヴィ・メタルであること、の核心にも関わっているのだなあ、と、視聴した後では思うようになった。

つまり、ヘヴィ・メタルのいわば「必要条件」とは何か?について改めて考えさせられたのである。

ステッペン・ウルフのあの「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」の中に、「ヘヴィ・メタル」という歌詞が初めて使われた(「ヘヴィ・メタル・サンダー」という詞だったようだ)、という「へ~!」ネタもあったが(ご存じでしたか?)、それよりも、この番組の冒頭でアメリカン・メタルのルーツとしてサム・ダンが訪ねたのが、サーフ・ミュージックであった、ということには驚いた。

なぜ、サーフ・ミュージックがヘヴィ・メタルのルーツなのか?

番組で紹介されていたのはディック・デイルの弾く、リフの激しさである。映画『パルプ・フィクション』でもお馴染みのああしたサウンドについて、ディック・デイル自身が
「激しさ(LOUD)」を強調していた。

(へヴィ・メタルの父と呼ばれましたね?と問われて)
ディック・デイル
「評論家は、俺の音楽を、まるで2つの列車が突っ走ってきてぶつかり合う時の音みたいだというのさ。
自分のことをギタリストだと思わない。オーギュメント・ナインスやサーティーンなんて何だか知らないし、そんなのどうでもいい。痛めつけるようにして弾いた結果自然に音が生まれたんだ。」



ここは極めて興味深いポイントだ。
すでにできあがった「ヘヴィ・メタルの典型」を基準にすれば、BABYMETALはヘヴィ・メタルではないのかもしれないが、そもそもヘヴィ・メタルのルーツにまで立ち返り、その根源的なモチーフ(のひとつ)を探れば、「激しさ(LOUD)」がヘヴィ・メタルの核心(のひとつ)である、ということ。
必ずしもギターの演奏らしい演奏ではなく、「痛めつけるようにして弾いた」サウンドがヘヴィ・メタルの核(のひとつ)だということ。
『M・E』第1回にもマーシャルの話が出て来たが、今回のこのディック・デイルの話はフェンダーの話へとつながる。それらは、単なる付加的な装置なのではなく、「大きな音(LOUD)」というヘヴィ・メタルの本質に関わるのだ。

BABYMETALのライヴでの「爆音」(僕は残念ながらまだ未体験だ。祈・幕張・当選!)は、単なる「量」ではなく、それがヘヴィ・メタルだという「質」に関わるのである。(もちろん「必要条件」であるだけで「十分条件」ではないが)。

「ヘヴィ・メタルの典型」のみを盲信・信奉する人(そんな人いるのかな?いるなあ…)からすれば、サーフ・ミュージックなどヘヴィ・メタルではない、ということになるのだろうが、しかし、その「ヘヴィ・メタルの典型」はその信奉者が否定するサーフミュージックから(も)生まれたものだ、というねじれは、何だかとても可笑しい。

また、番組内で、やはり、アメリカン・メタルの前史として紹介されている、例えばブルー・チアーなどの楽曲・演奏の特徴として、

aダウン・チューニング
b音量
c激情
d反抗のしるし

などが挙げられている。

bは上に書いたことと重なるし、
aは、この前史よりも、『M・E』の後の回に出てくる、ヘヴィ・メタルの進化のひとつの顕著な発現形態と捉えるべきなので後の回にまわしたいが、
cやdも、BABYMETALを僕たちがヘヴィ・メタルとして(目に涙を滲ませながら)楽しむ重要な本質だ、と僕は考える。

cは、YUI・MOAの「振り」とも関わる(例えば、今考察中の『イジメ、ダメ、ゼッタイ』のいわゆる「駄々っ子ヘドバン」とは、まさにこの「激情」の「演」奏だろう)から、ここでは詳述しないが、dについてここで少し詳しく考えてみたい。

もちろん、ヘヴィ・メタルだけではなく、ロックの基本的な姿勢が「反抗」であるだろう。が、そのなかでもとりわけ、ヘヴィ・メタルは、その「反抗」を鋭く・激しく表現・享受する音楽だ。

ところが、この表現・享受の仕方が、世界じゅうのメタル・ヘッズのなかでも日本人は特殊であるらしい。らしいと付け加えるのは、当事者である僕(たち)にはそのへんは気がつきにくいからだ。この「日本人のヘヴィ・メタルの表現・享受の仕方の特殊性」については、サム・ダンの前二作、とりわけ、2作目の『グローバル・メタル』で描かれていた。その特典映像の伊藤政則氏との鼎談でも、話題の中心がまさにここにあった。BABYMETALとはそのような特殊な日本でしか生まれえない形態だったのだなあ、と、『M・E』の後で前二作まで遡って視聴して感じたのだが、ここはとてもとても重要なテーマなので、また後日考えることにしたい。(ずいぶん宿題が山積してきたなあ…。まあ、BABYMETALを考える・語る愉しみ、です。)

今ここで僕が考えたいのは、もちろん、BABYMETALにおける「メタル・レジスタンス」という設定についてである。

この「メタル・レジスタンス」という設定を精神的な支柱として三姫が「演」奏する、そこに、僕(たち)はヘヴィ・メタルの精神、いわば「メタル魂」を感じているのではないか。

例えば、乃木坂46に「コウモリよ」という楽曲がある。聴いてみて、率直にカッコよい曲だと思った。しかし、この曲には、僕は「メタル魂」は感じない。メタル風のカッコよいアイドルソングだ。貶しているのではなく、BABYMETALの楽曲とは決定的にありようが異なる、と言っているのである。

その差、は、「レジスタンス」の有・無だ。

これは直感だが、BABYMETALの曲は、アンセムである『イジメ、ダメ、ゼッタイ』『Road of Resistance』は言うまでもなく、公式リリースされている曲すべてが、この「レジスタンス」=「メタル魂」の表現になっている。ストレートなものも、屈折したものも、反転したものもあるが、さまざまな「レジスタンス」を歌や「振り」で表出したものが、BABYMETALの楽曲だ。『おねだり大作戦』や『4の歌』なんて、この「メタル魂」の異形の権化だ。(逆に、「レジスタンス」でない、つまり「メタル魂」のない曲は、「公式」化はされない、のではないか、と思う)。


『グローバル・メタル』を観て実感したのだが、僕たちには、イスラエルや中国やインドのメタル・ヘッズのように社会体制のなかでの「レジスタンス」の表現としてヘヴィ・メタルを捉えることはできない(これが前述した日本のヘヴィ・メタルの特殊性だが、後日詳考する)。ましてやアイドル畑から生まれたBABYMETALが、ヘヴィ・メタルたるためには、「メタル・レジスタンス」という設定が精神的支柱、「魂」として(あるいは「構造」として)必要だった。そして、毎回毎回のステージで見せる、彼女たちの「演」奏は「レジスタンス」の表現、「闘い」である。いわば「命を賭けて闘い」ながら彼女たちは歌い踊る。「レジスタンス」には、闘う相手が前提として必要である。それが、アイドル界であったり、アンチメタラーであったり、観客だったり、あるいは、自分たちだったり、自分だったり、とりまく状況だったり。

「メタル・レジスタンス」なんて設定がなくっても、SU-・YUI・MOAの三姫は、真摯に・必死に、歌に踊りに取り組むはずだが、そうした彼女たちのひたむきさを、「レジスタンス」という構造として位置づけ・変換することによって、彼女たちのパフォーマンスはヘヴィ・メタルの「演」奏となりえているのだ。

(そう、だから、神バンドをバックに、さくら学院がキレのよいダンス・熱唱を聞かせても、それはヘヴィ・メタルではない。たとえ、中元すず香が歌っても、だ。たとえ、一昨年度のさくら学院から、中元すず香、水野由結、菊地最愛の三人だけを選んで、神バンドをバックに、BABYMETALの曲をカバーさせたとしても、それは、先の「コウモリよ」と同次元のパフォーマンスであり、ヘヴィ・メタルではない。繰り返すが、優劣の評価ではない。「性質」「構造」「本質」の違いとして、そうなる、という話である。たいへん微妙だが、決定的に重要なポイントだと僕は思う)。

2014年のワールド・ツアー、とりわけソニスフェアでのパフォーマンスが感動的なのは、彼女たちが「闘っている」姿を見せてくれているからだ。「メタル・レジスタンス」の実行である。事実、「レジスタンス」を行ったのだ。という意味で、「本物のメタルを見せた」のだ。
(カットされていなければもうすぐ視聴できる「新春キツネ祭」の冒頭のフィルムでこのへんがどのようにまとめられていたのか、しっかり確認したい。)

僕は、例えば、マイケル・シェンカーが心身ボロボロの状態から「神」というアルバムをひっさげて帰ってきた時の凄みのような、僕にとってのメタルの原体験、「メタル魂」を、彼女たちのパフォーマンスに感じている。たぶん、その触感のようなものが、BABYMETALはヘヴィ・メタルだという、何の曇りもない確信・信頼・満足感につながっているのだと思う。
2015年度の、ワールドツアーの「過酷な」日程にも、それを感じる。彼女たちは(三姫が自覚しているかどうかは別にして)「闘っている」。そうした精神的なアティテュードこそ、BABYMETALがヘヴィ・メタルであるひとつの極めて本質的な核なのだ、ということを、『M・E』の第2回を観て、再認識したのであった。

そして、この回は、ヴァン・ヘイレンの登場で閉じられる。
「ナザレスやスティクスではなく、ヴァン・ヘイレンさ…狂騒的なフィーリングを取り戻してくれた。」と語られていた。
そう、ヘヴィ・メタルの「狂騒的なフィーリング」の、最新形態が、BABYMETALなのだ。「レジスタンス」を、「狂騒的なフィーリング」を感じさせる唯一無二のかたちで表現する。BABYMETALのヘヴィ・メタルとしての本質はそこにある。


BABYMETAL探究(舞踊考3~イジメ、ダメ、ゼッタイ2)

2015-03-05 11:49:32 | babymetal
2014年度末の、MUSIC STATION の『イジメ、ダメ、ゼッタイ』を観直してみた。
率直に言って、やはり「イタ」イ。端的に言って、この曲の感動POINTが蒸発している、という気がする。

前回の区分に即し、この夜「演」奏された部分を確認してみよう。
当夜、カットされたところを消線表示してみた。


パートⅠ イントロ
01:Intro1 はじめから「ルルルー」の後のタメまで(16小節+αタメ)
02:Intro2 激しいリフ、SU-の「X」ポーズYOI・MOAクラウチング・スタンバイ(8小節 → 4小節)、「アー」でYUI・MOAの疾走:2度交差して中央へ(8小節)→1度だけ交差(4小節) 
03:Intro3 ターラ・ラーラというギターに合わせて片手を挙げてジャンプ(8小節)、「X」ポーズでとまり、手を戻す(2小節)


もともと42小節+α(タメ)あったイントロが、18小節に。
Intro1は完全にカット。結果、静→動のダイナミズム、様式美が全く感じられない。ここがメロ・スピのひとつのキモなのに…。
Intro2のYUI・MOAの疾走による交差が一回しかない分、はじめからYUIが右(向かって)MOAが左という変則的スタートになっていた。
観直してみて収穫がひとつ。「ア~」の前に、クラウチングスタートの姿勢のMOA・YUI(この夜はこの順)が、共に、SU-に向かって「OK」「やるぞ」的な腕の振り上げを見せているのがはっきり見える。「赤い夜」ではYUIのみが確認できるが、他の映像ではふたりとも暗くて見えなかったところだ。これがこの曲の「振り」のデフォルトなのだろうか?
Intro3は、そのまま残っている。


パートⅡ いわゆる「一番」の歌詞
04:A 「ゆめをみること~みつめつづけてくれたあなた~」(16小節)前半がいわゆる「駄々っ子ヘドバン」&筆記体の「X」描き、後半がなめらかに腕や手首の交差等で様々な「X」を描く。最後にピッキング・ハーモニクスに合わせて「投げキス」
05:B 「(じし)ん持てずに~じぶんさよならー」YUI・MOAの合いの手。歌詞を「振り」で表現しつつ、カニ歩きで左右チェンジ(8小節)、「ばいばーい」お立ち台へ(1小節)
06:C「(イジ)メ~、ダメ、…」(8小節)いわゆる「×(ダメ)」ジャンプ。「ダメダメダメダメ」のところも腕でつくった「×」を押す。「(キツ)ネ、トベ、…」も、全身で「×」のカタチをつくる(8小節)+「(きみ)をまもる~か~」(2小節


06C、「イジメ、ダメ、イジメ、ダメ、カッコわるいよ~(4小節)」から、
「くるしみも、かなしみも」と、12:C’の終わり(4小節+2小節)にショート・カット。
極めて残念なのが、
04Aの「投げキス」も映像では映っていない(SU-のアップ)のは残念。ピッキング・ハーモニクスと、ふたりの小悪魔の「振り」のユニゾンが再現されていない。
歌詞も「キツネ、とべ、キツネ、とべ」と、「イジメ、ダメ」と韻を踏みつつ、意味を無化する、極めて重要な詞が省略されてしまい、「くそまじめにイジメ撲滅を願うAC的な歌」になりさがっている。いったいこの娘たち何なの?という気味悪さを感じた視聴者も多いだろう。
なお、この夜はお立ち台はなかったので、「お立ち台へ」は「お立ち台がいつもある方へ」ということになる。

ショート・カットの結果として、

パートⅢ 間奏その1
07:D「(か~)らー」(4小節)サム・アップで三姫見つめ合い、敬礼+その場で疾走再現、左右からSU-に手を向ける
08:E ミニ・バトル (4小節)YUI・MOA左右入れ替わり→「×」→組んだ両腕をつきあげる祈り(2小節)


であり(涙…)、

パートⅣ いわゆる「二番」の歌詞
09:F「なみだみせずに~…ひ~と~り~」祈りのポーズ→左右で直角をつくり傾ける(8小節)
10:G「きずつけたのは~…な~か~ま~」「駄々っ子」向き合う(4小節)+「駄々っ子」正面(4小節)
11:H 「(なに)も~いえずに~」YUI・MOAの合いの手→壇上へ「ポイ捨て禁止」「イエスタデイ」(8小節)「バイバ~イ」(2小節)
12:C’「(イジ)メ~、ダメ、…」(8小節)「(キツ)ネ、トベ、…」(8小節)
+「(きみ)をまもる~か~」(2小節)
13:I「(か~)らー」台から降りて歩みよる、サム・アップ「いたみ、かんじて…」で中央へ(8小節)「もう~」「イジメ、ダメ、ゼッタイ」(8小節)


となってしまっている。「駄々っ子ヘドバン」の<変化しつつの繰り返し>が消えている。
13Iはそのままで、

パートⅤ 間奏その2
14:J バトル(8小節)左右入れ替わる(8小節)(8小節)くるくる(2小節)
15:K「(いと)し~くて~」腕の振りでやわらかく「X」を描く(4小節)「(これ)以上~」(4小節)三人が外を向く祈りのポーズ(1小節)


ここもバッサリ、カット(大涙…)、

パートⅥ エンディング
16:C''「(イジ)メ~、ダメ、…」(8小節)「(キツ)ネ、トベ、…」(8小節)+「(きみ)をまもる~か~」(4小節)


ここはそのまま。ようやく「キツネ、とべ」が出て来たが、時もう遅し、という感じだ。

17:L「(イジ)メ―ダ~メ―、ゼッタイ~」(8小節)首を振りながら(弱駄々っ子)前へ「(イジ)メ~ダ~メ~」お立ち台へ(8小節)台を下りて、三姫が天に組んだ手を伸ばす祈りのポーズで終わる(3小節)


YUI・MOAの「振り」を見ると、「弱駄々っ子」の振りがないから、17Lの前半がカットされて、後半(8小節+3小節)のみが「演」奏された、というかたちになっている。

こうしてみると、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、主モチーフのごく一部が披露された(だけでしかない)、ということだった。もちろん、地上波にBABYMETALが出ることの意味、は大いにあったはずだが、この曲のよさ、はほとんど伝わらない。
極めて限定された目的のための、メディア出演、ということだったのだろう。

前回述べたような<繰り返しのいわば安心感と、非繰り返しの緊張感とが複雑に組み合わされている>この曲のダイナミズムが失われているし、歌詞とも連動した世界観の広がりが失われ、「いじめは絶対だめだよ」というメッセージソングに堕している。

メロ・スピ、パワーメタル(僕はジャーマン・メタルという呼称になじんできたが)と呼ばれるこの曲だが、実は、その魅力は、プログレ的展開・構成の妙に(も)多くを負っていたのだ、ということが、MUSIC STATION版から逆照射される。

それにしても、YUI・MOAは何をしてるのか?この「演」奏からはわからないだろうなあ。そういうマイナスの意味での「何じゃこりゃ?」を抱いた視聴者は多いと思う。これでは、よく意味のわからない合いの手・ダンス、でしかないもんなあ。
逆に言えば、消線表示したところの、YUI・MOA(SU-)の「振り」が僕たちに与えるものとは何か、ということがBABYMETALの魅力を考えるうえで、決定的に重要だ、ということだ。