BABYMETALを観るのに慣れると、他のヘヴィ・メタルのライヴ映像が物足りなくなる、という想いを持つことが多くなる。例えば、ドリーム・シアターの「Braking the Forth Wall」。購入後、まだ最後まで観通せていない。とりわけ、ジェイムズ・ラブリエのパフォーマンスが、何ともだらだらしたものに感じられて、耐えられなくなり、途中でディスクを止める、というのを繰り返してしまっている。
(ヘヴィ・メタルにおける)ヴォーカリストとは何なのか?ということを、BABYMETALに出会ってから改めて考えるようになってしまった。
もちろん、ヴォーカリストは、歌を唄うのである。
でも、それだけなのか?
『メタル・エヴォリューション』でも触れられていたが、例えば、ブルース・ディッキンソンや、ロブ・ハルフォードは、単に歌を唄うだけでなく、ヴィジュアルを含めたもっと多次元の情報を観客に与え、観客の想像力を刺激・解放・搖動しようとしているのであったはずである。
あるいは、こういう言い方もできるだろう。
マイクスタンドの前でずーっと直立不動の姿勢を撮り続け、歌のみを唄うヴォーカリストなどはいない。どんなヴォーカリストでも、歌を唄う際には、必ず身振り手振りをまじえつつそうするのだ。
それは、僕たち人間の本性だ。僕たちが話すときには、表情や身振り手振りを交えながら話すのであり、言葉のみを発するということは、通常は、ない。
『言葉は身振りから進化した』(マイケル・コーバリス著)には次のような、(BABYMETALを考える上で)示唆的な記述がある。
「心理学者のデビット・マクニールは…ジェスチャーが常に音声言語と同期することを示していた。つまり、音声言語とジェスチャーは一つの統合されたシステムを作りあげていることを示唆している。彼はジェスチャーを二種類に区別した。一つは、「区切りジェスチャー」あるいは拍子やバトンと呼ばれる、特定の意味はないが強調のためのものだ。…一方、アイコン的ジェスチャーは、指示的ジェスチャーとも呼ばれるもので、しっかりと意味を伝達する。」
「音声言語が進化したのは音声と手の動きが異なる目的で使われるようになり、しかも補完的に働くようになったからだ。音声言語は統語情報の伝達に極めて適している。アイコン的、あるいは模倣的要素がないからだ。しかもこの役目を手や腕に任せてしまうことが可能だ。手と腕は当然ながら言語の模倣的な側面を表現することに適応している。かたちや大きさをアナログ的に伝えることにも向いているし、移動の方向を示すことも得意だ。「あいつはそっちに行ったよ」というときの指さしジェスチャーが典型的な例だ。声に文法的な要素を担ってもらうことで、手は自由を獲得し、模倣的な表現を担うようになったのだ。」
書名にもあるように、マイケル・コーバリスは、言葉の添え物として身振りがある、という見解を否定し、まず(時に声を伴う)身振りによる意思伝達があり、そこから音声言語がいわば引き剥がれて独立した、という見解に立っている。
BABYMETALで言えば、YUIMETAL・MOAMETALの「振り」=舞踊とSU-METALの唄とははじめから一体化したBABYMETALの「演」奏であり、そこから引き剥がれて独立したのが、例えば「紅月」などのSU-METALのソロだ、ということになる。
これは極めて僕たちの実感に近い説明だと思う。
つまり、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、抑揚・感情表現をまじえながら発声する」ことがヴォーカリストの役割だ、と僕たちは思いがちだが、それは実は抽象化(すなわち捨象化)した認識であって、
実際には、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、身振り・手振り・表情、とりわけ発声によって抑揚・感情表現をまじえながら観客に届ける」のが、ヴォーカリストの(本人の意識・無意識に関わらず、実際におこなっている)役割なのである。
BABYMETALはそのヴォーカリストの役割を、3人の美少女によるとんでもない超絶技巧「演」奏において実現しているのだ(MOAMETALのあの表情(顔芸)も、だから、本来のヴォーカリストの役割の増幅なのだ)から、他のヘヴィ・メタル・バンドの、とりわけヴォーカリストのパフォーマンスが物足りなく見えてしまうのも仕方がないのだろう。しかも、BABYMETALは、単なるトリプル・ボーカルなどでは全くなく、Vocal&DanceとScream&Dance×2、という立体的な構成である。とんでもない次元へ飛翔した真の意味でのヴォーカル・ユニットが、ヘヴィメタル界に降臨したのだ。
歌詞について考えるうえでも、『言葉は身振りから進化した』は示唆的だ。
「われわれの会話に出てくる対象物、行為、そしてそれらの性質の圧倒的多数は音と全く関係がない。」
「声を組み合わせてできる音はそもそも、世界にあるものや、そこで起きる出来事をそのままに表現できない…。音声言語は本質的に線形なもので三次元空間を表現することはほとんどできない。」
「音声言語にはもともとアイコン的な部分が全くない。つまり、抽象的な意味を伝達するために存在するシステムなのだ。」
例えば、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』を、SU-METALの歌だけで聴いたとしたならば、そこにあるのは、抽象的な歌詞による、道徳的な(?)メッセージだ。そこには、(まだ考察途中だが)僕たちが愛聴する『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、あの眩暈をおぼえるような多次元の輻輳する魅力はない。それが、他のヘヴィ・メタル・バンドの映像ディスクに感じるようになってしまった平板さ、なのかもしれない。
『言葉は身振りから進化した』から、さらに二つ、面白い箇所を引く。
「音声言語は…音のジェスチャーの組み合わせだと考える方が適切だ。声道にある六つの独立した調音器官生み出される音のジェスチャーである。この六つの調音器官とは唇、舌の先端(舌端)、舌全体、舌の付け根、軟口蓋、咽頭である。これらをさまざまに組み合わせて使うことで単語を発声できる。」
そもそも言葉もジェスチャーであり、それを極端なかたちで「増幅」して見せ(&聴かせて)ているのがBABYMETALだ、とも言える。(彼女たちの「演」奏を、ダンスと呼ぶことへの僕の違和感は、このへんに大きく関係しているようだ)。
「霊長類の進化それ自体、視覚世界を第一に進化してきた。これには数限りない証拠もある。実際われわれも猿も非常に洗練された視覚システムを有している。そのおかげで世界をフルカラーの三次元で見ることができるのだ。運動や操作を通して世界を探索する複雑なシステムが備わったのもこのおかげだ。」
かつて、ほとんど音盤のみでしか音楽に触れられない時代が長くあった。もちろん、ライヴ会場にいけば、必ず「視覚世界」がそこにはあるのだが、しかし、それはむしろ例外的な視聴形態であり、根本は、まず聴く、ことだ。これは、現在にも引き継がれているところはあるだろう。
しかし、今や、ネット経由で、音だけではなく「視覚世界」までも簡単に届く時代になった。(今までも、ビジュアルをめぐるヘヴィ・メタル史のさまざまな「事件」はあった。『メタル・エヴォリューション』考察でも今後触れることになる…)。
そういう意味で、BABYMETALの出現は、ヘヴィ・メタル史の必然だったのかもしれないし(もちろん、出現した後だからこう言えるのであって、真に革新的な存在は、衝撃・驚愕・なんじゃこりゃ感を伴って出現するのである)
そして、BABYMETALは、また、人間の、ジェスチャーと言葉をめぐる関係の、根源への回帰、を僕たちに観せてくれているのかもしれない。
(ヘヴィ・メタルにおける)ヴォーカリストとは何なのか?ということを、BABYMETALに出会ってから改めて考えるようになってしまった。
もちろん、ヴォーカリストは、歌を唄うのである。
でも、それだけなのか?
『メタル・エヴォリューション』でも触れられていたが、例えば、ブルース・ディッキンソンや、ロブ・ハルフォードは、単に歌を唄うだけでなく、ヴィジュアルを含めたもっと多次元の情報を観客に与え、観客の想像力を刺激・解放・搖動しようとしているのであったはずである。
あるいは、こういう言い方もできるだろう。
マイクスタンドの前でずーっと直立不動の姿勢を撮り続け、歌のみを唄うヴォーカリストなどはいない。どんなヴォーカリストでも、歌を唄う際には、必ず身振り手振りをまじえつつそうするのだ。
それは、僕たち人間の本性だ。僕たちが話すときには、表情や身振り手振りを交えながら話すのであり、言葉のみを発するということは、通常は、ない。
『言葉は身振りから進化した』(マイケル・コーバリス著)には次のような、(BABYMETALを考える上で)示唆的な記述がある。
「心理学者のデビット・マクニールは…ジェスチャーが常に音声言語と同期することを示していた。つまり、音声言語とジェスチャーは一つの統合されたシステムを作りあげていることを示唆している。彼はジェスチャーを二種類に区別した。一つは、「区切りジェスチャー」あるいは拍子やバトンと呼ばれる、特定の意味はないが強調のためのものだ。…一方、アイコン的ジェスチャーは、指示的ジェスチャーとも呼ばれるもので、しっかりと意味を伝達する。」
「音声言語が進化したのは音声と手の動きが異なる目的で使われるようになり、しかも補完的に働くようになったからだ。音声言語は統語情報の伝達に極めて適している。アイコン的、あるいは模倣的要素がないからだ。しかもこの役目を手や腕に任せてしまうことが可能だ。手と腕は当然ながら言語の模倣的な側面を表現することに適応している。かたちや大きさをアナログ的に伝えることにも向いているし、移動の方向を示すことも得意だ。「あいつはそっちに行ったよ」というときの指さしジェスチャーが典型的な例だ。声に文法的な要素を担ってもらうことで、手は自由を獲得し、模倣的な表現を担うようになったのだ。」
書名にもあるように、マイケル・コーバリスは、言葉の添え物として身振りがある、という見解を否定し、まず(時に声を伴う)身振りによる意思伝達があり、そこから音声言語がいわば引き剥がれて独立した、という見解に立っている。
BABYMETALで言えば、YUIMETAL・MOAMETALの「振り」=舞踊とSU-METALの唄とははじめから一体化したBABYMETALの「演」奏であり、そこから引き剥がれて独立したのが、例えば「紅月」などのSU-METALのソロだ、ということになる。
これは極めて僕たちの実感に近い説明だと思う。
つまり、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、抑揚・感情表現をまじえながら発声する」ことがヴォーカリストの役割だ、と僕たちは思いがちだが、それは実は抽象化(すなわち捨象化)した認識であって、
実際には、「歌詞を楽器隊の演奏に載せて、身振り・手振り・表情、とりわけ発声によって抑揚・感情表現をまじえながら観客に届ける」のが、ヴォーカリストの(本人の意識・無意識に関わらず、実際におこなっている)役割なのである。
BABYMETALはそのヴォーカリストの役割を、3人の美少女によるとんでもない超絶技巧「演」奏において実現しているのだ(MOAMETALのあの表情(顔芸)も、だから、本来のヴォーカリストの役割の増幅なのだ)から、他のヘヴィ・メタル・バンドの、とりわけヴォーカリストのパフォーマンスが物足りなく見えてしまうのも仕方がないのだろう。しかも、BABYMETALは、単なるトリプル・ボーカルなどでは全くなく、Vocal&DanceとScream&Dance×2、という立体的な構成である。とんでもない次元へ飛翔した真の意味でのヴォーカル・ユニットが、ヘヴィメタル界に降臨したのだ。
歌詞について考えるうえでも、『言葉は身振りから進化した』は示唆的だ。
「われわれの会話に出てくる対象物、行為、そしてそれらの性質の圧倒的多数は音と全く関係がない。」
「声を組み合わせてできる音はそもそも、世界にあるものや、そこで起きる出来事をそのままに表現できない…。音声言語は本質的に線形なもので三次元空間を表現することはほとんどできない。」
「音声言語にはもともとアイコン的な部分が全くない。つまり、抽象的な意味を伝達するために存在するシステムなのだ。」
例えば、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』を、SU-METALの歌だけで聴いたとしたならば、そこにあるのは、抽象的な歌詞による、道徳的な(?)メッセージだ。そこには、(まだ考察途中だが)僕たちが愛聴する『イジメ、ダメ、ゼッタイ』の、あの眩暈をおぼえるような多次元の輻輳する魅力はない。それが、他のヘヴィ・メタル・バンドの映像ディスクに感じるようになってしまった平板さ、なのかもしれない。
『言葉は身振りから進化した』から、さらに二つ、面白い箇所を引く。
「音声言語は…音のジェスチャーの組み合わせだと考える方が適切だ。声道にある六つの独立した調音器官生み出される音のジェスチャーである。この六つの調音器官とは唇、舌の先端(舌端)、舌全体、舌の付け根、軟口蓋、咽頭である。これらをさまざまに組み合わせて使うことで単語を発声できる。」
そもそも言葉もジェスチャーであり、それを極端なかたちで「増幅」して見せ(&聴かせて)ているのがBABYMETALだ、とも言える。(彼女たちの「演」奏を、ダンスと呼ぶことへの僕の違和感は、このへんに大きく関係しているようだ)。
「霊長類の進化それ自体、視覚世界を第一に進化してきた。これには数限りない証拠もある。実際われわれも猿も非常に洗練された視覚システムを有している。そのおかげで世界をフルカラーの三次元で見ることができるのだ。運動や操作を通して世界を探索する複雑なシステムが備わったのもこのおかげだ。」
かつて、ほとんど音盤のみでしか音楽に触れられない時代が長くあった。もちろん、ライヴ会場にいけば、必ず「視覚世界」がそこにはあるのだが、しかし、それはむしろ例外的な視聴形態であり、根本は、まず聴く、ことだ。これは、現在にも引き継がれているところはあるだろう。
しかし、今や、ネット経由で、音だけではなく「視覚世界」までも簡単に届く時代になった。(今までも、ビジュアルをめぐるヘヴィ・メタル史のさまざまな「事件」はあった。『メタル・エヴォリューション』考察でも今後触れることになる…)。
そういう意味で、BABYMETALの出現は、ヘヴィ・メタル史の必然だったのかもしれないし(もちろん、出現した後だからこう言えるのであって、真に革新的な存在は、衝撃・驚愕・なんじゃこりゃ感を伴って出現するのである)
そして、BABYMETALは、また、人間の、ジェスチャーと言葉をめぐる関係の、根源への回帰、を僕たちに観せてくれているのかもしれない。
素晴らしい表現ですね。成る程な~と、目からうろこです。