静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

コンビニ人間

2016-08-24 14:22:09 | Weblog
『文芸春秋』9月号に芥川賞受賞作「コンビニ人間」が掲載されていたので読んでみました。

 これはコンビニを舞台にした短編小説です。コンビニにはコンビニの掟(マニュアル)があり、その掟を受け入れ、従う者はその世界に組み込まれますが、従わない者はコンビニという小世界から自然と排除されていきます。

 主人公は、いわゆる社会的不適合者で、子供の頃から奇行が目立つ女性です。
 例えば、派手に喧嘩をしている男の子たちに、周囲の女子が「喧嘩やめてー!」と叫んでいると、スコップを持ってきて男の子の頭を後ろから思い切り叩き、手っ取り早く、喧嘩をやめさせる。
当然、一斉に悲鳴が起きますが、本人は皆が「やめて」というから「やめさせた」だけなのに、なぜ自分が責められるのか理解できないでいます。

 こうした、社会からは受け入れられないズレた感性の持ち主なのですが、コンビニの世界ではマニュアル通りにやるので、有能な店員として一目置かれています。
 
 主人公は、社会の常識という成文化されていない暗黙の決まり事が苦手で理解できず、周囲を引かせてしまう行動をするのですが、コンビニのように細かく指定されたマニュアルがあると、ほぼ完璧にやり遂げます。
 
 世間の常識からみれば、主人公はただの変人なのですが、主人公の目から社会を見ると、社会の方が変わったものにみえます。

 なぜならば、
 コンビニの「マニュアル」を普遍の真理のように絶対視し、それに適合しない店員の、存在意義まで否定すれば、それが行き過ぎであることは誰しも分かります。
 しかし社会というものも、極論すれば、コンビニ世界を拡大したものに他なりません。

 しかし、 
 社会を支配する掟である「常識」というものは、本質はコンビニのマニュアルのようなものにもかかわらず、これには絶対的な力があります。

 それは、
 コンビニなら、マニュアルに従えなくても、ほかに生きる世界がありますが、社会となると、宇宙にでも逃れる以外、出て行ける場所がないからです。
 それ故、世間の常識に反すれば、たちまち不適合者の烙印が押され、刑務所や病棟などに入れて隔離したうえ、人格改造が迫られます。
 その改造が無事済めば、「まともになった」と言われます。
 しかし、この「まとも」とは、一体、どういうことなのでしょうか?
 
 こうした「世の中」のおかしさ、残酷さが、ユーモラスに描かれていました。

 人が従っているのは真理ではなく、その世界、その世界のローカルルールであって、それに従わないからと言って、人の存在意義まで踏みにじられていいものだろうか?という疑問が、筆者にはあるのだろうと思います。

 いろんな考え方、いろんな人があるのだから、お互いを認め合おうという着地になっているように思われましたが、筆者が仏法を知っていれば、もう一つ踏み込めたと思います。

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