静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

科学と思い込みは違うのか?

2009-11-10 19:06:36 | Weblog
こういう非難があります。

因果の道理を宇宙の真理だとか言うけど、そう考えればつじつまが合うってだけの話で、科学的に立証したわけでも何でもなかろう。そもそも反証しようもない理論なんだから、少しも科学的とは言えない。「真理」と言ったって「ただの思い込み」だよ。そんなもん信じたい奴だけが信じていればいいのさ。

こんな言葉遣いをするかどうかは別として、言わんとしているのはこういうことのようです。


こういう意見は、素朴に「科学=真理」と信じている人たちには、説得力を持つのかもしれませんが、科学の現場においては、実はもうかなり古めかしい主張になっています。


あるサイトには、

 反証される可能性がある状態で行われるテストに耐えてはじめて、一つの理論が事実によって裏付けられたと言えるのです。その点、因果の道理はそういう科学の方法で裏付けられないから、ただの思い込みにすぎないことになります。

というようなことが書かれていました。

「反証」とは簡単に言えば、ある理論に対して、観察や実験を行い、それが間違っている証拠を突きつけることです。この人に主張によれば、「反証される可能性がある状態で行われるテストに耐えてはじめて」科学的真理のお墨付きが得られるということです。これはカール・ポパーという科学者の説に基づいて言っているのだと思います。

このサイトの主によれば、反証される可能性のないものは、例えば、「神が存在する」というような主張は、実験による証明も、反証もしようがありません。こういう科学的な裏づけの取りようのないものは、ただの思い込みとみなそう。こういうことなのです。
反証される可能性があるかどうかが、科学的な主張か、ただの思い込みか、を峻別する確実な物差しということです。


このサイトが書かれた時代?は、これで結構、通用したのかもしれせんが、科学理論というのは、次から次と変わっていきます。

科学をして真理たらしめてきた大前提、すなわち「客観的存在」とか「論理的思考」というもの自体に疑惑の目が向けられているのが昨今の哲学や科学の状況であります。(これについてはあとで詳述します)
つまり、客観的存在、論理的思考というもの自体が、「ただの思い込み」の所産。そう看破されて以来、観察や実験によって成り立つ一切の科学理論が、思い込みの上に成立した不確かなもの、という事態に陥ってしまったのです。

ということは、先述のサイトの人の言葉でいえば、「事実によって裏付けられたと言えるのです」という部分が、今やほとんど意味をなさなくなってしまったのです。              

どんな権威あると思われてきた科学理論も、「ただのの思い込み」の上に成り立っていることが暴露されたわけですから、もはや「ただの思い込み」という言葉自体が不要になったともいえます。

なぜなら「ただの思い込み」の対極にあるはずの、「一切の思い込みを排除した科学理論」なるものが消滅してしまったのですから。

これからは、「ただの思い込み」などという言葉は使わず、普通に「信ずる」と言えばいいのです。

科学も、因果の道理も「信ずる」ものなのです。「信ずる」という点において、科学者と仏法者の間に、明確な違いはありません。

因果の道理は信ずるものです。そして信ずべきものなのです。

(つづく)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。