静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

アジャセと六師外道

2009-10-08 18:24:21 | Weblog
父王を殺害し、その深刻な罪悪観から業病に取り付かれたアジャセ王に、見舞いに来た大臣たちが六師外道と呼ばれる悪思想家の教説を勧めたことは、昨日書きました。(このことは『教行信証』に詳しく書かれてあります)

ちなみに『岩波仏教辞典』で「六師外道」を調べると、

プーラナ・カッサパ(道徳否定論) 
マッカリ・ゴーサーラ(宿命論的自然論)
アジタ・ケーサカンバラ(唯物論、快楽論)
パクダ・カッチャーヤナ(無因論的感覚論、七要素説)
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論、不可知論)
ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教開祖)

と出ています。彼らは当時を代表する思想家たちでした。
思想内容は資料によって錯綜しますが、言っていることを大まかにくくれば、

・この世には善も悪もない。だから善の報いも悪の報いもない。因果応報など認められない。
・いくつかの物質元素だけで人間は成り立ち、死ねばそれがバラバラになるだけ。だから死後の世界など存在しない。
・人間の幸不幸は、宿命としてあらかじめ決まっている。だから如何なる行為をしようと、すべて宿命ゆえにやったことで、その人自身に責任はない。
・これが絶対的な真理と言い切れるようなものは何もない。

というような主張になります。

それらは、三世(過去世・現在世・未来世)を貫く因果の道理を根幹とする仏教に反します。だから仏教では彼らの思想を「外道」と呼ぶのです。

親鸞会が親鸞聖人のみ教えを一人でも多くお伝えしようとしていることを、執拗に妨げてくる人たちの中に、因果の道理など真理ではないと公言している人がいます。そうだとするなら、その人は仏教徒ではなく、六師外道の徒なのでしょう。

釈尊と六師外道らとの対立は、大昔の話であり、自分と関係ない話に思えるかもしれませんが、何と何が対立しているのか、その思想の対立軸をシンプルに整理すれば、極めて今日的な問題なのです。
つまり、
因果の道理は「真理である」のか、「真理ではない」のか。
そこが問われているともいえます。

さて、アジャセ王は六師の邪説に惑わされず、深い慚愧の心をおこしたので、釈尊にお会いすることができました。その経緯も『教行信証』に書かれてありますので、簡単に紹介しておきます。


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最後に来たのが侍医のギバである。
病苦にやつれはて、前非を悔いるいじらしいアジャセ王を見て、
「王よ、貴方は、大変前非を後悔していられるが、人間に最も尊いのはこの慚愧(ざんき)の心です。大王よ、世尊は常に説きたまう。二つの善法があると。一つは慚であり、二つは愧である。慚とは、自ずからに恥ずる心であり、愧は他人に対して恥ずる心である。この慚愧の心のない人は人でなくて畜生である。貴方はこの
病はこの世で誰も治してくれぬと仰せられるが今、カピラ城に浄飯王のシッタルタという方があります。この方は真実の仏であり最尊の方です。この仏陀世尊こそ必ず、その病気を治して下さる方です。急いで参りましょう」

「ギバよ、お前はそんなに言うてくれるが、世尊のような尊い方のところへ自分のような極悪非道の者がどうして行かれようぞ」
と悲痛に歎くと、この時、空中のどこからともなく不思議な声がして
「行け行け、決して邪見な六大臣の言葉に迷うてはならないぞ。如来が涅槃に入られたらお前はもっと苦悩に沈んで、永劫に浮かぶ瀬がないぞ。早く行って如来の教誨を受けよ」と聞こえた。

アジャセ王は驚愕して、
「そんなことを言われるのは誰か?」と尋ねると
「誰でもないわしだ。そなたの父ビンバシャラだ。お前はわしを殺したがわしはそなたの身をどうして思わずにいられようか、さあ早く世尊のもとへゆけ!」
王はこれを聞くや最早、とてもいたたまらず悶絶して大地に倒れた。

その時、仏陀は遙かにこの様子を洞察なされ、月愛三昧(げつあいざんまい)に入ってその光明に王の身をお照しになった。
月の光には、すべて青蓮華を鮮明に花咲かせる働きがあるように、月愛三昧には人々に善心を起こさしめる働きがある。また月光はすべての道ゆく人に歓喜を与えるように、月愛三昧も涅槃の道をたどる修行者に歓喜を与えたもう。

月光くまなく人身を照らし熱悩を除くがごとく、貪欲・瞋恚の熱悩を除く。仏陀大悲の働きに、王は感激に充ち満ちて遂に釈尊の許を訪ねてゆかれた。
釈尊はこれに対して諄々とねんごろな教誨をせられた。これがため、さしも悪逆に汚濁された心中の悩みも全く消滅し、また、全身の疥瘡も癒え、遂に念仏者になられたのである。

その後、アジャセ王は長年にわたって熱心に仏法宣布の保護者となって、美しい余生を送ったのである。

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アジャセ王が因果の道理を否定し、六師の邪説に迷えば、このように自己に目が向くこともなく、救われることもなかったでしょう。因果の道理がいかに重要な教えか、ここからも学ばされます。


一方、最後まで釈尊をうらみ、教団破壊を企て続けた提婆の末路はどうなったか。その話は次回とします。


最後に、

社会を動かすのは人であり、人を動かすのは思想です。
因果の道理を受け入れる人が光に向かうのならば、それに反する思想は、人を闇へと向かわせ、そういう人が増えるほど、社会全体が闇へと向かうでしょう。それについても後日、詳述したいと思います。(つづく)

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