静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

どうせ死ぬのだよ

2010-04-27 13:39:25 | Weblog
ある哲学者は、真実まことを知らず、まことの心もない、そんな私たちの人生観の危うさを、次のように指摘する。

〈いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」生きなければならないのか。

 私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。
(中略)
不本意に生き残った者たちも瞬時にして死ぬ。沈みゆくタイタニック号を呆然と眺めながら涙を流していた人々も、戦地から帰ってきた息子の遺骨を前に泣き崩れた母親たちも、皆死んでしまった。勝ち鬨をを上げている人も、辛酸を嘗めている人も、皆消滅する。
そしてまもなく地上には人間は誰ひとりいなくなる。それからしばらく経つと、地球は巨大な太陽に呑み込まれ、太陽系も崩壊し、銀河系も飛び散り、一雫も人類の記憶は残らなくなる。これが、われわれを待ち構えている未来の姿である。
(中略)
 世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。(中略)みんな、どうせ消滅してしまうのだから。成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いを忘れることであるのに〉
(『狂人三歩手前』中島義道)

 こんなことを公言する哲学者は〃厭な奴〃と思われるだろうが、仏法を抜きにすれば、この人の言うことは恐ろしく「正しい」のだ。

「どうせ死ぬのだよ……」

 一見、華やかな生活の底に、だれしもこんな虚無を抱えている。それに気づかぬよう、眼前の仕事にいそしみ、あえて日々を忙しくしているのかもしれぬ。だがそれは、根底で自己を誤魔化し、嘘をついているにほかならない。自分探しをする人といっても、そこまで自己を掘り下げる気は毛頭なく、ある意味、居心地よく出来ている世間の価値観に、自ら進んで騙されていく。

 それを一概に非難はできない。
 生活の根底に厳然として横たわる虚無を、本気で見つめ続けたら、不安でだれしも気が変になってしまうだろうから。 

 人生を語る多くの作家や哲学者が、この不安の深淵に踏み込み、引きずり回された。ロシアの代表的作家、トルストイもまたその一人である。

明日は、このトルストイについて触れてみたい。



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