生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

幽霊の物質的検出

2010年05月19日 17時16分59秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月19日-4
幽霊の物質的検出

 某大学院の2000年度入試問題に、
 1. 「幽霊」という現象は、一般的には自然科学の研究対象にされていない。なぜかについて考えを述べよ。
 2. 幽霊現象を生物学として研究するとしたら、どのようなアプローチが考えられるか、考えを述べよ。

というのがあったらしい。(自然)科学とは何か、生物学的アプローチとはどんなものかを問う、根元的で良い問題である。

 まず、幽霊現象という言い方から、では幽霊が存在するという仮定をまず採用し、個々の幽霊(個物)について想定される共通的性質、つまり定義的性質を想定する。
 ただし、性質といっても、観測者がいて述語として表現できるわけであり、また物体(物質体)が他の物体に作用した結果を観測することができる限りにおいて、われわれは対象物を検出できるわけであり、さらにそれは理論にも(全面的ではないが)依存する。要は、一つのシステム的構築体において、われわれは観測したり、理論化したりする。

 では、幽霊現象の存在を、われわれの心ではなく、身体の外に実在する、つまり客観的に存在するとした場合、やはりわれわれの検出装置(これも理論に依存)を検討しなければならない。また、観測条件をきちんと定めるという作業が必要である。

 「生物学として研究する」をどう解釈するか。うーむ。幽霊が生物である条件とはなんだろう。或る対象が生命を持つ物体である、とはどういうことか。「生命を持つ」という言い方は、生命がまるで何かの性質のように見えるが、状態として解釈しよう。
 すなわち、「生きている」という状態にある物体として。
 で、レヴェル構造を導入する。たとえば、人が生きているのは、細胞が生きていることのおかげであるとして、細胞ではない。死んだ人の身体の細胞は、しばし生きているだろう(観測によって確証できる)。逆に、手足を切り取っても、心臓を人工物に代えても、その人は少しは生きているだろう。要は、わたしという(たとえば意識の)同一性がわたしであるとしたら、その同一性をもたらすメカニズムを備えたシステムが、わたしそのものである(これも精確には問題があるが、ま、このへんで)か、わたしという現象をもたらしている。

 では、人が死んだら、その人が幽霊という物体または状態になることができるとしよう。検出するには、幽霊物体を定義し、同定しなければならない。あるいは、幽霊現象を同定できなければならない。あるいは、脳内にそのように錯覚する?ような状態を作成できるか、である。むむ。幽霊または幽霊現象の定義って、あるのだろうか? 人が死んだ後にできるもの、というのでは、把握困難。そういえば、死んだ後では、死ぬ前よりも体重が減少するというような話または本があったな。
 いわゆる幽霊スポットに行って、可視光線を主に捉える通常の写真と、紫外線カメラ写真(とりわけ数十ナノメートル波長のあたりはどうでしょう?)を、同一のところを、バシバシあちこちでとってみたらどうだろうか。すでにやられているのかな。

 口舌は、むなしい。論より証拠。見ることは、信じることだ。見ていない物は、見るまでは、無いと言えない。何らかの調査の対象領域の範囲としかじかの方法では、検出できませんでした、あるいは確証できませんでした、と言えるだけ。それだって、見落としやら、意地の悪いことに?調査するときに限り、お隠れする物体もあるかもしれない。「お前が調査を休んだ途端、あるいはビデオカメラを止めた途端に、そいつは姿を現わすかもしれんでぇ」。
 ……また、うっちゃり。

生態系「集成規則」

2010年05月19日 16時38分07秒 | 生態学
2010年5月19日-3
生態系「集成規則」ecosystem "assembly rules"

 ecosystem "assembly rules"は、生態系「集成規則」または、生態系「組み立て規則」と訳されよう。

 Lekevicius〔cは正しくは、cの上にv〕 (2009: 170右欄)によれば、ロシアでは、「全体論的(システム的)アプローチ」がいまでも流布しているとのことである。その生態学と進化生物学におけるロシア流パラダイムの核心は、
  「生態系だけが、生きている」、あるいは、
  「生命は、生態系(=栄養循環)の形でのみ、 無期限に存在できる」
と言う。そのパラダイムを代表する者(たとえば、Zavarazin 2000やLekevicius 2002)は、空きニッチを使っている。ただし、空きニッチという用語をときには、生態的自由免許 ecological free licenseという用語で置き換えたりする。

 Lekevicius (2002 :78) [Lekevicius 2009: 170rにより引用]によれば、生態系「集成規則」は、次のように定式化される。

  「生命出現のそもそもの瞬間以来、生態系と栄養循環が形成されるような、きわめて単純なメカニズムがあったはずである。なんらかの生物体の代謝の最終産物は、廃棄物となった。それはつまり、何者にも使われないが、潜在的に使用可能な資源である。このような空きニッチは、これらの資源を開拓することができるような生物体の進化を誘発した。その最終的結果は、廃棄物食者〔デトリタス食者〕の代謝の最終産物が、生産者にとっての主要な材料となったことである。同様に、生態的ピラミッドが形成されたはずである。すなわち、生産者は草食者の進化を誘発したし、草食者は一次捕食者の進化を誘発した、などなど、とつづき、ついには進化は、最上位に大型捕食者を持つ(知っての通りの)ピラミッドを産出したのである。」(Lekevicius 2009: 170r)。

 メカニズムを想定することは良いことだと思う。しかし、物語またはシナリオは、理論と呼ぶわけにいかない。大型捕食者がいない地域については、どう説明するのか? 絶滅したとすれば、なぜ生態系も縮退しなかった(たとえばピラミッドの構成数の縮小)のか、という問題に答えなければならない。しかしそもそも、潜在的に使用可能な資源があることは、生物体の進化を誘発する必要条件であっても、十分条件ではない。それに、「誘発する provoke」必要条件ではない場合もあるかもしれない。単なる可能性を、必然性にまで誇張してはならない。「因果性を証言している」なんて、とんでもない。

 ましかし、そういうわけで(上記の生態系「集成規則」)、空きニッチは多様化を刺激するだけでなく、その方向も決定するのだ、と言う。
  「この考えは、進化理論の要石として見ることができる。なぜなら、空きニッチのデータにもとづいて、多様化の結果を説明し、また少なくとも部分的に予測することは、それほど難しくないからである。」(Lekevicius 2009: 170r)。

 「生物体が出現する前には、なんらかの空きニッチまたは適応帯が存在した事実に注意されたい」と表の説明(Lekevicius 2009: 171)にある。生物体がいなければ、空きニッチも適応帯も、それらが生物体に関係する概念である限り、考えることが不可能である。空きニッチを実際に定義したり、或る環境が種〔に属する生物体〕で飽和していることを定めることは困難だということではなかったのか。


□ 文献 vacant niche/ref

*Herbold, B. & Moyle, P.B. 1986. Introduced species and vacant niches. American Naturalist 128: 751-760.

*Lekevicius, E. 2002. The Origin of Ecosystems by Means of Natural Selection. Institute of Ecology.

Lekevicius, E. 2009. Vacant niches in nature, ecology, and evolutionary theory: a mini-review. Ekologija 55: 165-174.

Rohde, K. 2008a. Vacant niches and the possible operation of natural laws in ecosystems. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(1):13-28.

Rohde, K. 2008b. Natural laws, vacant niches and superorganisms. A response to Woodley. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(3):340-346.

Woodley, M.A. 2006. Ecosystems as superorganisms: The neglected evolutionary implications. Frontier Perspectives 15: 31-34.

Woodley, M.A. 2007. On the possible operation of natural laws in ecosystems. Rivista di Biologia / Biology Forum 100(3):475-486.

Woodley, M.A. 2008. A response to Rhode: natural laws, vacant niches and superorganisms. Rivista di Biologia / Biology Forum 101(2):172-181.

螺旋状の不思議な光??

2010年05月19日 00時48分05秒 | 美術/絵画
2010年5月19日-2
螺旋状の不思議な光??

 「地球温暖化ビジネス」でGoogleと、
「クライメートゲート事件 ”地球温暖化”ビジネス」と題するページがあった。
http://vickywallst.blog15.fc2.com/blog-entry-809.html
 それによれば、国連気候変動枠組条約会議(COP15)がコペンハーゲンで行なわれた2009年12月19日は、世界中に寒波が到来したらしい(ハンセンは会議場での温暖化のプレゼンに暑い日をねらった)。それで、12月9日にノルウェーで目撃されて世界中で話題になった不思議な光が、COP15の開催日に突然襲った寒波の原因だったのではないのかとまで言われているらしい。
 その螺旋状の動きとそこから発せられたように見える螺旋的な青い光は、なかなか美しかった。Youtubeでは(たまたま行き当たったが)たとえば、
http://www.youtube.com/watch?v=Sof_QK1z4b4&feature=related
である。

 そういえば、英国に行って、crop circleを見たいな。本当に一夜にしてできるのか? それにしても、上空から写真撮影された模様は、美しい。
 そういえば、日曜日だったろうか、西北西の中空に細くニ日月?があり、そのちょうど真上に金星が張りついていた。奇妙というか、面白いというか。

ニッチ概念の検討1/空きニッチの定義

2010年05月19日 00時04分16秒 | 生態学
2010年5月19日-1
ニッチ概念の検討1/空きニッチの定義

 以下では、『種』をタクソンとして考えている。したがって、或る種とは、その種(つまり或る特定の分類カテゴリー。測定尺度は、名義またはカテゴリー尺度である)に属する生物体(の一部)のことである。ただし、以下での定義の著者たちは、そのように(深く)考えていないかもしれない。
 Elton流の、或る種の共同体のなかでの(たとえば食物連鎖における)位置という定義は、種または生物体にもとづく定義である。ただし共同体どうしを比較した場合は、つまり種を抽象的な空間配置において、欠落していると捉えることができる。この場合は、進化的時間スケールにまで、(あればの話だが)理論の射程は及ぶ。

 空きニッチという言い方は、もちろん生物体にもとづいた定義ではない。ニッチを環境の性質と考える場合に、空きニッチは可能になる。すなわち、資源が利用しつくされていないときである(これは、ニッチを資源利用と同一視しているか、資源利用をニッチの指標と考えていることになる。→もう少し議論を詰めるべし)。
 このように捉えた場合にも、幾多の問題があるが、先に進むために、棚上げする。まず、定義を調べてみよう。なお、これらの定義はさしあたり、Lekevicius (2009: 165)によっている。


 Lawton (1984)による定義:
  空きニッチ =def 或る領域にいるどの種も良く適応していない、進化的に新奇な環境条件の一揃い。

 Rhode (2005)による定義:
  空きニッチ =def 生態系または生息場所において、或る特定の時点で存在するよりも、より多くの種が存在できるであろう可能性。
   (多くの可能性が、そこに存在する種によって使われていないから。)

 Moodley (2006: 30)による定義:
  空きニッチ =def 資源勾配の一定の領域に沿っての、種の不在。
   (空きニッチは、共同体水準〔levelという語だが、創発性または制御階層でのレヴェルではないだろう。ゆえに、あいまいに水準と訳しておく〕において、或る種の形質を固定する潜在性を持ち、そして、周囲の生態とのより大きな統合を有利とする方向に、或る種の進化的軌跡に影響を与える。)〔進化的時間スケールになると、とたんに構築概念たちを錯綜させるんだねぇ。〕

Lawton 1984
Lekevicius 2009
Moodley 2006
Rhode 2005