生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

ニッチや環境の存在論やメレオロジー

2010年05月21日 23時45分52秒 | 生態学
2010年5月21日-4
ニッチや環境の存在論やメレオロジー〔部分論〕

 「科学は、諸プロセスを理解するためのアプローチであり、したがって科学の言語の多くはプロセス用語〔術語〕として類別され得る。」とPennington (2006)は述べ、下記はその接近段階を箇条書きにしたものである(原著を改変した)。
  1. 人は、時間と空間(時間のカテゴリーと空間のカテゴリー)における存在者(存在者カテゴリー)を観測する。
  2. 人は、存在者を統御する関連プロセスについて理論的推測をする(理論カテゴリー)。
  3. 変化が観測できるのは、機会に恵まれたoppotunisticときかもしれないし、あるいは実験的操作によって制御されるときかもしれない。
  4. これらのカテゴリーは、一つのカテゴリーを他のカテゴリーの文脈へと位置づける観測(観測カテゴリー)中に、組み合わせられる。

 図2に、ニッチ理論の例がある。

    プロセス                 観測

  非生物的相互作用    ニッチ理論      生態系
  生物的相互作用      /|\       生物地理学
              / | \      進化生態学
             /   |   \ 
  種        空間 -  -| -  - 時間   スケーリング
  生起〔出現〕   \ 存在者と諸性質  /    分類学
             \   |   /      
              \ | /      野外研究
  生起を予測        実験作業      モデル構築
  分析を変更                  シミュレーション


 おそらく、Smith & Varzi (1999)の"The Niche"というオントロジーを適用したという論文以来、ontologyが生態学や環境関連で出てくるようになったようだ。環境存在論の本(河野哲也ほか )がある。


◇ 文献 ◇

Bennett, B. 2010. Foundations for an ontology of environment and habitat.

河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人・三嶋博之・溝口理一郎・関博紀・倉田剛・加地大介・柏端達也.2008.6.環境のオントロジー.304pp.春秋社.

Pennington, D. 2006. Representing the dimensions of an ecological niche. 10pp.

Smith, B. & Varzi, A.C. 1999. The niche. Nous, 33: 198?222.

TVや新聞等の非科学的解説

2010年05月21日 18時53分07秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月21日-3
TVや新聞等の非科学的解説

 日本学術会議は、サイエンスカフェを実施する団体へ講師派遣の協力をしているとのことで、サイエンスカフェ講師登録一覧というpdf
www.scj.go.jp/ja/event/pdf/kousi.pdf
中の、「サイエンスカフェに関するご意見・要望」の欄に、

  「自然保護やCO2削減などについて,TVや新聞等の情報には非科学的解説が多い。日頃から研究成果のアウトリーチを心がけているが,マスメディアの誤った情報を訂正するのはかなり困難である。」
と或る講師の方が書いている。
 また、他の講師の方は、
  「昨年のIPCC疑惑によって地球温暖化について疑問が投げかけられている。」
と書いている。

 2010年4月30日の学術会議主催のシンポでは、多くの新聞社記者がいて、発言を求められていた。新聞社の経営も大変だし、記者も忙しいだろう。科学リテラシー(これって何?)をつけるには、多忙な中で実際にどうしたらよいのだろうか。
 内田麻理香(2010)では、疑うことを重要視している。確かに、これは基本である。地球温暖化疑惑には有効である。しかし、Popperの反証可能性だけを取り上げている。反証可能な、あるいは反証された理論が科学的であるとするわけではない。もし反証された理論であるならば、用は無い。Popperの反証可能性理論は役立たず、反確証されたのである。反証可能性とは、むしろ科学理論の構造上から言って、無益な考え方である。(道具を用いた)観測にも、理論負荷性がかかっているからである。そして、観測して、理論の予測と合致するかどうかは、観測系が多数の要素からなっており、それらを繋いでいるのだから、どれがおかしいかはほとんど決められない。『科学哲学4?』掲載論文、渡辺慧、Mahner & Bungeなどを見よ。

 journalismをプログレッシブ英和中辞典で引くと、(学術論文などと区別して)「雑文、俗受」という意味があった。扇情主義sensationalismの対極が、(理想的な)ジャーナリストの心意気だと思っていたが。俗受を狙うことは、売るべしのための扇情主義よりも良くない場合があるようだ。新聞社系列ではない、週刊誌や月刊誌では竜頭蛇尾的記事が多いが、問題提起の役割をときおり果たしている。
 武田邦彦(2010.6:エセ科学に踊らされる日本は「沈没」寸前)は、名指しで朝日新聞とNHKを批判している。

[U]
内田麻理香.2010.4.科学との正しい付き合い方:疑うことからはじめよう.286pp.ディスカヴァー・トゥエンティワン.

「人工」生命体/地球温暖化//備忘録

2010年05月21日 10時46分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月21日-2
「人工」生命体/地球温暖化//備忘録

「人工」生命体(=生物体)

 人間は、(まだまだ程度の低い)神である。つまり、様々な力(主に、思考作用と力学的作用)を及ぼすことができ、したがって外界に作用し制御ができる。
 作るとか製造する、あるいは創造するとは、物体を(想像体もそうだが)その構成の組み合わせを改変することである。構成要素は既存のもの(既製物ready-made)である。或る種類に属する一つの分子そのものを、新たに出現させることができれば、ほぼ神に等しいと言ってよいだろう。


科学的証拠の吟味

 なんらかの主張を支持してもらいたいならば、その証拠(根拠evidence)を提出すべきである。むろん、その証拠として提出したものが、その主張を支持するかどうかの検討が問題である。

 地球温暖化論や温暖化脅威論の議論で、懐疑的議論をすべて論破したところで、温暖化するとか、温暖化すると脅威である、という主張の確証度は、少しもあがらない。もちろん、懐疑的主張に説得性があれば、相対的に地球温暖化論の信憑性credibilityは低まる。
 地球温暖化論や地球温暖化脅威論を主張するものは、論より証拠(とみなし得るもの)を提出すべきである。しかし、気温データそのものを改竄したのではないかという疑いがある限り(むろん、全体の結論は変わらないとIPCCは主張する)、IPCCの報告書を読んでくださいと言われても、地球温暖化関連の主張の妥当性を求めるには、空しい努力である。その出発点から、科学的であるよりは政治的だったのだから、科学的議論をせずに、たとえば地域経済や政府財政の観点から問題を考えるのは、もっともである。
 たとえば、温暖化は歓迎できることである。温暖化の脅威をあまりにも大げさに騒ぎ立てたと思える。(ただし、気象システムの異常が起きているという定式化ならば、話は別。)

武田邦彦.2010.6.1(2010.5.20入手).エセ科学に踊らされる日本は「沈没」寸前.正論 2010/6: 106-119. 産経新聞社.

ニッチ概念の検討2/ニッチの定義

2010年05月21日 10時09分09秒 | 生態学
2010年5月21日-1
ニッチ概念の検討2/ニッチの定義

 Mahner & Bunge (1997: 181;訳書 229頁)の定義5.7は、ニッチを適応性に関連して、生物体について定義している。それによれば、或る生物体のニッチとは、

  或る生物体のニッチ =def その生物体について法則率的に可能な(つまりそれが属するタクソンについて特異的な)、(その生物体の)環境との結合関係のうちで、その生物体に対して正の生命価値を持つ結合関係である。(マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』: 229頁、の表現を改変)。

 Mahner & Bunge (1997)は、適応性adaptednessと適合性aptednessを分けて考えている。これは進化をどう捉えるかということと関連するが、この(一つの)利点は、逆説的に進化をきちんと捉えることができることである。
 この定義を採用すると、生物体のニッチは、生息場所habitatといった物を指示することにはならない(訳書 229頁)。ところが生態学者が生息場所という語で何を指示しているかもまた、多義的だったりする。その理由(あるいは原因)は、結局われわれは科学的営為において、なんらかの種類と程度において、一般的な命題を主張するからである。個別事例は、一般命題の一つの事例であり、そのように同定されることで、個別事例は或る概念体系において位置づけられ、意味を獲得する(人が獲得させる)。

 実際に、2010年5月21日のScience電子版にクレイグ・ペイターさんらによる論文が掲載されるという、やや?、あるいは、かなり?の「人工生命」についてニッチ概念を適用してみよう。しかし、その前にシステム的見地からの検討をしよう。環境もまた、システムを(外部的に!、ここが大問題)構成するからである。

種問題と家族的類似

2010年05月21日 00時00分35秒 | 生命生物生活哲学
2010年5月20日-1
種問題と家族的類似

Pigliucci, M. & Kaplan, J. 2006.11. Making Sense of Evolution: the Conceptual Foundations of Evolutionary Biology. vii+300pp. University of Chicago Press.

 この本の第9章(pp.207-226)は、「家族的類似〔性〕概念としての種:種問題の解決(解消)か? Species as family resemblance concepts: the (dis-)solution of the speices problems?」と題されている。

 著者が主張することは:
  1. 種問題は科学的な問題ではなく、むしろ経験的証拠〔根拠evidence〕によって決めることのできない哲学的問題である。
  2. 解決は、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似」または集塊cluster概念を採用し、かつ、「種」をこのような概念の一例だと考えることにある。(Pigliucci & Kaplan 2006: 207)。

 種問題ということで、何を言おうとしているのかにもよるが、種タクソンの設定は科学的な問題であり、種の存在の位置づけ(たとえば形態形質の離散性discreteness)も、科学的な問題である。どう捉えるかについては、哲学的問題「でもある」とは言える。
 家族的類似は、種問題とは何の関係もない。なお、家族的類似は渡辺慧の「醜いアヒルの子の定理」にもとづく考察から、述語の取り方ないしは発見または構築の問題だと捉えられる。(また、NOT回路とNAND回路とNOR回路からの構成。ただし、「|」だけによる演算は、不可。結局はシステム的作用として考えなければならない。)また、プロトタイプや典型事例といったことも、タクソン学とは関係がない。

 家族間でたとえば顔が類似しており、そして類似性については推移律が成り立たない(『生物哲学の基礎』を見よ)から、そのような形質またはその表現としての述語だけを議論している限りは、それら個体間では共通性質を認められないだけのことである。家族はすべて、たとえばHomo sapiensという種に属する。種を家族的類似または集塊概念で捉えることは誤り。おそらく、系統汚染のたぐいだろう。あるいは、種を生物体の収集体〔集まりcollection〕と捉えることの誤りか。
 Pigliucci & Kaplan (2006)は、いわゆる種問題はダーウィンの『種の起源』以来進化生物学を悩ませたと言っているが、(個別の種タクサではなく、)種タクソンという概念なくしてダーウィン自身が曼脚類を種分類できたはずはない。

 Ruse (1969)は何処?

[R]
?Ruse, M. 1969. Definitions of species in biology. British Journal for the Philosophy of Science 20: 97-119.