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高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

紀伊大島周辺

2005年09月08日 | 内なる話題
大島でパソコン 
 朝10時に出発して串本の大島にやっと到着。大島に置いているパソコン、スイッチを入れるが全く立ち上がらず??フロッピィ・CDが入っていないか見るが、勿論入っていない。最も嫌なバイオスを見る。ハードディスクが「NONE」??。何で??分からない時は私の習慣でディフォルトに設定。何とかウインドウズ98が立ちあがる。一安心。しかし遅い。遅い。インターネットセキュリティをアップデート。再立ち上げ。次にウインドウズの更新。再々立ち上げ。何とか使用可能に。ホッと。
 何はともあれ、株価を見る。NIKKEIは少し下落。米国DAWは昨夜上がっているのに??。どうも日本株は下げようとする勢力が強そう。誰だ!そいつは!しかし、手持ちは全てまずまずの上げ幅。珍しいこと。これには満足。満足。初奴じゃ。花○。
 しかし遅い。パソコンはラップトップ。ゲイトウエイSOLO。購入から既に数年以上経つ。しかし、当時では最高級品。時代の変化を感じる。ブログを立ち上げるが、サーバと通信している実感が分かる。遅い。遅い。
 写真は「ここは串本、向は大島、仲を取り持つ巡航船」の巡航船が消えてしまった原因の「串本大橋」です。月曜日当たりまで、ここから中継の予定。

熊野灘
 鳥羽一郎の「熊野灘」はこの周辺のカラオケの定番です。勇壮な漁民を歌い上げた演歌です。しかし、熊野灘は必ずしもそう言う海域ではないのです。熊野灘の海難事故に以前少し触れました。その前の日に熊野灘の尾鷲沖でタンカーの衝突事故があり、両船共に火災、尊い人命が失われました。この熊野灘海域は、日本の幹線航路で、内外の船舶が輻輳する海域です。それだけでなく、紀伊水道から出入りする船舶の合流点・変針点でもあります。
 さらに、台風の常襲海域でも有ります。黒潮の流れ次第によっては、操船も難しい海域です。海の難所として知られています。今回の海難事故はその海域で発生しました。大島の樫野に慰霊塔が建立されています。今日はその話です。(写真)


 明治23年の9月16日のことです。親善訪問にはるばる日本へ来ていたトルコの軍艦エルトグロール号が横浜から神戸へ向かう途中に樫野で難破しました。親善使節を始め、総乗組員650名の内581名が殉職しました。非常に大きな海難事故です。台風の中にも関わらず、村民は救出活動に頑張りましたが、多くの殉職者を出してしまいました。その慰霊塔です。その後、救出活動に感謝とこの悲惨な出来事を忘れないために、トルコと親善関係が生まれ、今日でも、5年に一度、慰霊祭が行われています。
 今はその慰霊塔だけでなく、「トルコ記念館」も設置され、屋上にトルコと日本の国旗が棚引き、数軒のお店もあります。トルコの民芸品や有名な「伸びるアイスクリーム」等々を売って居て規模は極々小さいのですが、トルコ街になっています。トルコ街を期待して行かれると困るのですが、串本の数少ない観光地になっています。
 今回のシリーズはひとまず終了しますが、「水の需要」は未だ未だ有りそうですので、その時には南紀州の案内をと思っています。

日本人が忘れてはならないトルコの話
 シマイチゴさんから熊野灘の記事のコメントを頂きました。それに関連してもう一つの話をしましょう。実は、エルトゥールル号に関連して、日本人が忘れてはならないトルコの話があります。
 1985年にイラン・イラク戦争がありました。その時にイラクの大統領は40時間の猶予期間を設けて「イラン上空飛行を禁止する。」旨の命令をしました。それを知って、イラン在住の日本人達はテヘラン空港に慌てて行きましたが、最早どの飛行機も満席で乗ることは出来ませんでした。世界各国は自国民を救出するために、救援機を出したのですが、日本政府はその決定が即座には出来ませんでした。テヘラン空港にいた日本人はパニック状態だったと思います。
 そこへトルコ航空の飛行機が到着して、その飛行機は日本人216人全員を乗せて、成田に向かいました。イラン上空飛行禁止の1時間15分前のことです。何故、トルコ航空が来てくれたのか日本政府もマスコミも分かりませんでした。この時、当時の駐日トルコ大使は次のように話しています。此処はそのまま引用します。
 「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」 昨年の秋小泉首相がトルコを訪問した際に、その機長に面会して、その時のお礼をしたと言うことです。(この段落は2006年4月4日に追記)

樫野埼燈台
 写真は「樫野埼燈台」です。左側に見えるのは、探訪のための螺旋階段です。

 和歌山県には大きな燈台が三カ所有って、その内の二つが串本町にあります。今日はその中の樫野埼燈台です。樫野は串本の大島の外れにあり、以前熊野灘でトルコの軍艦の話をしましたが、樫野はその集落です。
 この樫野埼燈台の歴史は江戸時代に遡ります。慶応二年(1866年)に江戸幕府と四カ国との間で締結された「江戸条約」により、建設が決められた8燈台の一つです。樫野埼燈台は、明治2年(1869年)四月に建設が開始され、同じ年の六月十日に点灯されました。燈台そのものが完成したのは明治3年八月です。完成よりも前に点灯されたと言うことになり、如何に急いでいたかが分かります。この燈台は日本で最初の「石造り」の「洋式」の燈台としてよく知られています。
 燈台と言うと、映画「喜びも悲しみも幾歳月」を思い出します。「さいら」が好きな四番目の歌詞です。
4 星を数えて 波の音きいて
  共に過ごした 幾歳月の
  よろこび悲しみ 目に浮かぶ
  目に浮かぶ
 現在は勿論無人です。そして、観光客用に燈台に併設して、展望台が設置されています。
 ちなみに、最近は統一されたかも知れませんが、「埼」は海上保安庁の水路部が使用する漢字で、国土地理院では「崎」を使用します。これは役所間で用語の統一がなされない時に出される悪しき例になっていました。

串本の街
 写真は串本の街の中心部を山の上から展望したものです。

串本の街は潮岬と紀伊半島の間の砂州に誕生した街です。その中心部の標高は僅か数メートルで、その中に民家が密集しています。一番恐ろしいのは「火事」と「地震」と「津波」です。取り分け「津波」です。この周辺は「南海地震」と「東南海地震」のどちらの影響も受けます。発生すると、津波は直ぐに到達します。そして、これらの地震はある時は連動して発生します。それぞれが単独で発生しても、その被害は甚大なものになります。これらの地震は大体100年ほどの周期で必ず発生していることが、過去の歴史と地震発生の構造から明らかです。
 前回の地震は、太平洋戦争の最中であったために、被害報告が余り残っていませんが、それから勘定して見ると、次の地震はもう直ぐです。県や町ではその対策を考えています。家屋の被害は別にして、命だけは何とかと思いますが、近くに高台もありません。それよりも、町民にとっては、それらが周知の事実になり、地価が暴落と言わないまでも、最近安くなっていることが問題です。


樫野の金柑
 『ここは串本向かいは大島』の樫野です。

写真は金柑の無人販売小屋です。一袋百円です。金柑のシロップ漬けは咳止めに効こと、保存出来ることもあって地元ではよく作られています。最近では金柑ジャム類、ワインも作られています。土産物店では金柑ソフトクリームも売られています。 樫野の金柑の生産量は本州一とか聞きます。しかし残念ながら、柑橘類ではマイナーな作物であることは間違いありません。

?山菜は大島?
 週末に大島の妻の実家へ里帰り。雑木林の数本の桜も良いが、今、正に山菜のシーズン。タラの芽・ワラビ・ゼンマイ少々・ツヤブキ・ウド・イタドリこれは山菜ではないかも知れないがキクラゲ等々
 採集は嫁って来て今や大ベテランの妻の弟の奥さん。前処理はその奥さん、婆さんそして、我が「さいら」の妻も少々お手伝い。食するのは「さいら」を含めた大家族の大仕事。山には山の生活があることを感じる数日。
写真は前処理をしている面々。

 昨日は終日、雨・風強く、大嵐の様相。里帰りの最大の目的?水は大島?の水も辛うじて今日昼前には濁りもとれて大満足で帰途に。「さいら」は二日酔いと運転で些か披露困憊。


海金剛
 串本町大島の一番風景が美しいところは何と言っても「海金剛」である。大島の樫野燈台へ行く少し手前を左に折れる。後は一本道である。道はかなり狭いが、過疎も進んで、住んでいる人々も少く車の対抗はまず心配ない。串本在住の時、と言っても串本大橋が出来てからのことであるが、数時間滞在のお客さんの案内には欠かせない風景であった。
 特に、朝日に映えてキラキラ光る風景は確かに「海金剛」の名前に恥じない。「21世紀に残したい日本の自然風景百選」に登録されているそうだし、「さいら」が愛用しているウイキペディア百科事典にも掲載されている「海金剛」である。紀南方面へお出かけの折には是非ともお立ち寄り頂きたい所である。
海金剛

 遥か遠方に樫野燈台が見えるのですが、この写真では良く分かりません。

日米修交記念館
 海金剛へ行く駐車場の直ぐ近くに極小さい建物であるが、「日米修交記念館」がある。何故、この地に「日米修交記念館」と思ってしまう。
 日本の教科書では米国の最初の我が国への来訪者はペルー提督が率いる黒船とされている。国と国との関係から言うと間違っていないのであろう。しかし、米国では少し趣が違うそうである。黒船来航よりも遙か70数年前に、紀州の大島へ来航し、我が国に貿易を申し入れた米国商船がある。そのことについては、米国ではオーソライズされている。我が国では、それは訪問ではなくて偶発的な遭難であって、公式の訪問ではないとされていて、教科書には記載されていない。しかし、目的地がここ樫野と異なった遭難であっても、来訪したことには間違いがない。

 その事実を元にして、米国の資金援助の下に建設されたのがこの記念館である。和歌山の片田舎でしかないこの樫野に。以前紹介したトルコ記念館・慰霊碑そして今回の日米修交記念館が有ることにこの地の地理的な特異性と歴史の重みを感じると共に
これからも、交流を大切にしていきたいと思ってしまう。

カマス(2007年9月10日)
 少し早めに和歌山に帰宅したので今日から更新です。宜しく。串本の話題を一つ:
紀南方面で今カマスが大豊漁であるそうだ。平和な和歌山ではそれがテレビでも紹介されていた。それもサビキ釣りだそうだ。信じられない。サビキ釣りはどうも釣りの邪道であるように思う。一度、記事にしたようにも思うが、昔、小アジすら、針に餌を付けて1尾ずつ釣らされたものである。1尾ずつ釣る、外道を外して目的の獲物を釣ることが大切だと教わった。勿論、正真正銘「魚釣り」の話である。誤解の無いように。
 串本のAコープでも売っているようであるが、もう一つ人気がないそうだ。専ら、干物にするか、姿寿司にする。貰い物や、亭主が釣ってきたカマスの前処理で串本の奥様方は癖壁しているそうだ。紀南方面でも、干物にしても、姿寿司にしても、「さいら」たるサンマの方が人気がある。ブログもそう願いたいものだがそうは行かない。
 帰りに、妻が安いのに目を付けて、買ってきて、薄塩の干物にしたのだが、和歌山でも貰い手がない。敬遠する程の特別な癖ある味がするものではないが・・・。

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