電車の運転-運転士が語る鉄道の仕組みー
元JRの運転士によって書かれた電車の蘊蓄物語である。電車と言っても元運転士の著作であるので、学者とか評論家の著書にはない重みがある。単に電車運転の技術的なことだけでなく、電車の運行・構造に関わる多岐にわたる諸々のことが書かれている。
読んで非常に楽しい本であった。
電車とか機関車は「さいら」だけでなく小さい頃の男の子には魅力的なことである。故郷の京都の自宅の前は大通りであり、今はもうないが市電が走っていた。その市電の運転士はなぜか非常に偉い人のように思って、その運転動作を見ていた。
運転するのに必要な機器はブレーキとアクセルと言うか電力を調整するコントローラでその操作に見入っていた。乗っていると、時々今にして思えばブレーキ用の空気を圧縮するポンプの音が聞こえた。
又、家から、少し行くと国鉄の線路、東海道線や山陰線がいくつも走っていた。その国鉄の線路は今思えば恐ろしいことであるが、幼いころは遊び場でもあった。今はもう博物館になっているが、梅小路の蒸気機関車の基地が有って、蒸気機関車の方向を変えるターンテーブルが有った。その内に、蒸気機関車は無くなり、新幹線も開通した。
電車に乗るとどうしても先頭の列車に乗車して、その先頭からよく見える車窓、信号や踏切停車駅、運転士の仕草等を見るのが楽しみでもあった。そう言う郷愁を交えながら楽しく読んだ。
特にこの本では、電車と言う乗り物を今ではほとんどの方が運転することが出来る「車」との対比でその違いと言うか特徴を述べられており、そのために非常に分かりやすく自然と電車の運転に興味を持てる内容となっている。
まず驚いたのが、運転室の機器の配置である。ほぼ共通していることは、車で言えば左ハンドルと言えば良いのか、運転席は左側にあることである。これは、運転士が左側を確認する作業が我が国では多いからだそうで、外国では左右を確認できない車体もあるそうだ。
それよりも驚いたのは、電車ごとにそのレイアウトが大きく異なるのである。運転に最低限必要な機器として、ブレーキと車で言うアクセル(電車では「マスコンハンドル」と言うらしいが、)その配置と形状が全く電車によって異なっている。昔よく見たのはアクセルが右手、ブレーキが左手で、それを回すのであるが、それぞれの配置が異なっている。
配置だけでなくて、その操作方法もレバーを回す旧式のものから、上下・左右に動かすスライド方式がある。車の場合は車種が異なっても、その配置と形状はほぼ同じである。だからこそ、どのような車でも直ちに運転できるのであって、その配置と操作方法が異なれば、ある特定の車種しか直ぐには運転できないであろう。
例えば、サイドブレーキは車種によって手で操作するものと足で操作するものがあるが、そんな違いであっても、そして、サイドブレーキは車を止めてからしか使用しないので、その安全性は特に問題にならないとしても、それでも最初は戸惑ってしまう。と言うことは電車の場合運転士はそれぞれの電車ごとに習熟運転が必要となることになる。と言っても電車の場合は運転する区間が定まっており、その区間では電車の違いも少ないのであろうが…。
そのアクセルであるが、車とはその機能が全く異なる。あるマスコンハンドルを或るノッチに入れると、そのノッチの規格速度まで自動的に速度が出る。そのままにしておくと、そのノッチの速度で走行する。それ以上の速度を出すにはノッチを上げるのだそうだ。従って、通常の走行では最初から最上位のノッチに入れて出発するらしい。規格速度に達するとノッチをオフにして堕行運転に移る。アクセルと変速機とで速度を緒制する車とは随分と違う。
停車駅が近づいて、ブレーキを掛けるまでこの堕行運転は続く。実は電車の場合この堕行運転の時間が相当長いことも車と大きく違うところである。これはレールと車輪との摩擦係数が非常に少ないこととレールの上を走っていて、走行を邪魔する障害物がないためブレーキをしょっちゅう使用することがないためである。実際のところ、障害物を見つけて、ブレーキをかけても車のように直ぐには止まれない。電車の場合はこのような事情から、成程自動運転が可能であることも理解できる。
蛇行運転が長いのはレールと車輪の摩擦係数の問題である。このようにして。電車は車に比較して燃費が非常に良い結果になる。
昔、地方の単線路線で或る駅と次の駅の間を走行するには「タブレット」がないとその区間の走行は出来ない仕組みになっていた。「閉塞区間」と言う。駅でその進入しようとする区間にのみ有効となるタブレットの受け渡しを行う。その受け渡し風景は「さいら」のような老年者には何とも言えない懐かしい風景であった。
タブレットは言わばその区間の通行手形である。通行手形だけでなく、このタブレットがないと駅などのポイント切り替えが出来ない仕組みであった。タブレットにはその区間しか使用できないように「刻印」が打たれていた。
この仕組みは、その区間に列車が一台しか入らない安全を保持するためである。急行列車などで止まらないで通過する場合も当然このタブレットの受け渡しを走行しながら行われた。
今はその閉塞区間は自動的に信号で行われる。自動信号で行われるようになったのは、いくつもの理由があるであろうが、その閉塞区間を小さく区分けして、一つの閉塞区間距離を短くして、効率的な列車運行を図るためである。
つい最近米国での列車の正面衝突では、どうもその信号を一方の運転士が見落としたらしい。物理的なタブレットと異なり、信号はこのような事態が発生する。最終的に列車運行の安全性を担保するのは運転士の注意力によることになる。
これは都市近郊での過密ダイヤには有効であるが、注意力に頼ることは問題もないではない。
電車の最高速度は走行区間ごとに厳密に決められている。これは車の速度制限とは異なって、ほとんど余裕がないように設定されている。必ず厳守しなければならないことである。しかし、尼崎で発生したJR大事故では、運転士が速度を出し過ぎたことが第一要因であるが、ATSが計画されていながら、それが設置されていないことにより、設置の遅れに対する刑事責任も今問われている。
列車の安全性確保は単に運転士等の注意力に委ねるだけでなく、会社そのもののスタンスが問題になっている。
書籍のデータ
原書名:電車の運転-運転士が語る鉄道の仕組みー
著者:宇田 賢吉
叢書名:中公新書
発行所:中央公論新社
発行年月日:2008年5月25日
元JRの運転士によって書かれた電車の蘊蓄物語である。電車と言っても元運転士の著作であるので、学者とか評論家の著書にはない重みがある。単に電車運転の技術的なことだけでなく、電車の運行・構造に関わる多岐にわたる諸々のことが書かれている。
読んで非常に楽しい本であった。
電車とか機関車は「さいら」だけでなく小さい頃の男の子には魅力的なことである。故郷の京都の自宅の前は大通りであり、今はもうないが市電が走っていた。その市電の運転士はなぜか非常に偉い人のように思って、その運転動作を見ていた。
運転するのに必要な機器はブレーキとアクセルと言うか電力を調整するコントローラでその操作に見入っていた。乗っていると、時々今にして思えばブレーキ用の空気を圧縮するポンプの音が聞こえた。
又、家から、少し行くと国鉄の線路、東海道線や山陰線がいくつも走っていた。その国鉄の線路は今思えば恐ろしいことであるが、幼いころは遊び場でもあった。今はもう博物館になっているが、梅小路の蒸気機関車の基地が有って、蒸気機関車の方向を変えるターンテーブルが有った。その内に、蒸気機関車は無くなり、新幹線も開通した。
電車に乗るとどうしても先頭の列車に乗車して、その先頭からよく見える車窓、信号や踏切停車駅、運転士の仕草等を見るのが楽しみでもあった。そう言う郷愁を交えながら楽しく読んだ。
特にこの本では、電車と言う乗り物を今ではほとんどの方が運転することが出来る「車」との対比でその違いと言うか特徴を述べられており、そのために非常に分かりやすく自然と電車の運転に興味を持てる内容となっている。
まず驚いたのが、運転室の機器の配置である。ほぼ共通していることは、車で言えば左ハンドルと言えば良いのか、運転席は左側にあることである。これは、運転士が左側を確認する作業が我が国では多いからだそうで、外国では左右を確認できない車体もあるそうだ。
それよりも驚いたのは、電車ごとにそのレイアウトが大きく異なるのである。運転に最低限必要な機器として、ブレーキと車で言うアクセル(電車では「マスコンハンドル」と言うらしいが、)その配置と形状が全く電車によって異なっている。昔よく見たのはアクセルが右手、ブレーキが左手で、それを回すのであるが、それぞれの配置が異なっている。
配置だけでなくて、その操作方法もレバーを回す旧式のものから、上下・左右に動かすスライド方式がある。車の場合は車種が異なっても、その配置と形状はほぼ同じである。だからこそ、どのような車でも直ちに運転できるのであって、その配置と操作方法が異なれば、ある特定の車種しか直ぐには運転できないであろう。
例えば、サイドブレーキは車種によって手で操作するものと足で操作するものがあるが、そんな違いであっても、そして、サイドブレーキは車を止めてからしか使用しないので、その安全性は特に問題にならないとしても、それでも最初は戸惑ってしまう。と言うことは電車の場合運転士はそれぞれの電車ごとに習熟運転が必要となることになる。と言っても電車の場合は運転する区間が定まっており、その区間では電車の違いも少ないのであろうが…。
そのアクセルであるが、車とはその機能が全く異なる。あるマスコンハンドルを或るノッチに入れると、そのノッチの規格速度まで自動的に速度が出る。そのままにしておくと、そのノッチの速度で走行する。それ以上の速度を出すにはノッチを上げるのだそうだ。従って、通常の走行では最初から最上位のノッチに入れて出発するらしい。規格速度に達するとノッチをオフにして堕行運転に移る。アクセルと変速機とで速度を緒制する車とは随分と違う。
停車駅が近づいて、ブレーキを掛けるまでこの堕行運転は続く。実は電車の場合この堕行運転の時間が相当長いことも車と大きく違うところである。これはレールと車輪との摩擦係数が非常に少ないこととレールの上を走っていて、走行を邪魔する障害物がないためブレーキをしょっちゅう使用することがないためである。実際のところ、障害物を見つけて、ブレーキをかけても車のように直ぐには止まれない。電車の場合はこのような事情から、成程自動運転が可能であることも理解できる。
蛇行運転が長いのはレールと車輪の摩擦係数の問題である。このようにして。電車は車に比較して燃費が非常に良い結果になる。
昔、地方の単線路線で或る駅と次の駅の間を走行するには「タブレット」がないとその区間の走行は出来ない仕組みになっていた。「閉塞区間」と言う。駅でその進入しようとする区間にのみ有効となるタブレットの受け渡しを行う。その受け渡し風景は「さいら」のような老年者には何とも言えない懐かしい風景であった。
タブレットは言わばその区間の通行手形である。通行手形だけでなく、このタブレットがないと駅などのポイント切り替えが出来ない仕組みであった。タブレットにはその区間しか使用できないように「刻印」が打たれていた。
この仕組みは、その区間に列車が一台しか入らない安全を保持するためである。急行列車などで止まらないで通過する場合も当然このタブレットの受け渡しを走行しながら行われた。
今はその閉塞区間は自動的に信号で行われる。自動信号で行われるようになったのは、いくつもの理由があるであろうが、その閉塞区間を小さく区分けして、一つの閉塞区間距離を短くして、効率的な列車運行を図るためである。
つい最近米国での列車の正面衝突では、どうもその信号を一方の運転士が見落としたらしい。物理的なタブレットと異なり、信号はこのような事態が発生する。最終的に列車運行の安全性を担保するのは運転士の注意力によることになる。
これは都市近郊での過密ダイヤには有効であるが、注意力に頼ることは問題もないではない。
電車の最高速度は走行区間ごとに厳密に決められている。これは車の速度制限とは異なって、ほとんど余裕がないように設定されている。必ず厳守しなければならないことである。しかし、尼崎で発生したJR大事故では、運転士が速度を出し過ぎたことが第一要因であるが、ATSが計画されていながら、それが設置されていないことにより、設置の遅れに対する刑事責任も今問われている。
列車の安全性確保は単に運転士等の注意力に委ねるだけでなく、会社そのもののスタンスが問題になっている。
書籍のデータ
原書名:電車の運転-運転士が語る鉄道の仕組みー
著者:宇田 賢吉
叢書名:中公新書
発行所:中央公論新社
発行年月日:2008年5月25日
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