セカンドライフ
或る会社の宣伝誌を読んでいた。その中に「セカンドライフのための資産設計」と言う記事があった。正に「さいら」世代のための記事であるが、それは「さいら」本人には全く縁がない。残念なことであるが、仕方がない。設計は可能であるが、設計図を元にして構築していく資産は疎か少額の手持ち金すら全くない。それでは設計書は「絵に描いた餅」と言うのであろう。食えない餅は描く必要もない。それで、その手法等の肝心な話は横に置いておこう。
「セカンドライフ」は退役のカテゴリである。更に当然であるが、そう言う言葉があるかどうか知らないが、セカンドライフがあると言うことは、「ファーストライフ」も有って、それは現役のカテゴリになるのであろう。
そう考えると、未だ収入がない幼少の頃は何というのであろうか?勿論この記事は資産設計に関するものであるから、幼少の頃で親の世話になっている時は関係がないのかも知れない。しかし、「三つ子の魂百まで」という言葉もある。その人となりが形成されるのは正にその幼少の頃であろう。そして、中世の黄泉の世界を信じることが何処か夢がある。現代はそうではない。「サードライフ」がないことに気付いた。「今生の別れは金の切れ目」というわけだ。
雑誌の記事は「金が切れても、未だ生きている。」ことを避けるための方策を説いている。本当にそういう事態をヒシヒシと実感せざるを得ないのは実に嫌なものだ。
諸リスク
前の記事「セカンドライフ」で触れた話の延長線上である。こちらの方が雑誌では本論である。リベンジが出来ないセカンドライフで発生する色々なリスクとその解消法が述べられている。団塊世代の退職に見合った記事であると言えよう。当然、証券会社の雑誌であるので、その解消方法は明らかであるので、此処では触れない。と言うよりも、触れる必要が「さいら」にはないことは前の記事で説明した通りである。
その中で、セカンドライフのリスクが述べられている。
(2)医療・介護
(3)インフレ
(4)資産の偏り
(5)過度な引き出し
医療・介護はもっともなことである。現役時代に比較してそれらのリスクは格段に、日々増加していることは間違いない。ある日コロリとあの世へ旅立ちとは行かないのが常である。消費者物価指数の上げ下げは対前年・前月で比較されることが多い。今は、消費者物価が落ち着いているので、そして、「さいら」の世代では戦後の本当のインフレは実感としてない。しかし、それは、極度のインフレでなくともジャブのように段々と効いてくる。ふと気付くと、ノックくダウンの憂き目である。「さいら」の世代は「運用」を知らない。なけなしの余剰金は利子とは関係なく安全第一で精々預金するぐらいである。資産とまでは行かないが、「偏り」があるのも確かである。インフレ以上の利金が付かないのも確かである。この中で、最も注意しなければならないのが「過度の引き出し」であった。過去形で欠かざるを得ないことが誠に残念である。極少額の退職金であっても、今まで手にしたことがない桁が一つ多い預金通帳は否が応でも気分を大きくさせ、いつの間にか、元の桁数になって、収まる所に収まってしまった。正に過度の引き出しそのものであった。その時は一応理由を付けているのであるが。
と言う訳で、その諸リスクは納得できるものばかりであるが、肝心の最初の述べられているリスクについては又次の機会にしようと思う。
長寿
以前に「セカンドライフ」と「諸リスク」の記事を投稿した。今日はその続きである。前の記事では、一番重要なリスクとして最初に掲げられていたリスクを省いた。最も重要なセカンドライフのリスクは「長生きリスク」であると言うのだ。
実際のところ、長生きがリスクであると言われると、複雑な気分になる。実は、この長生きは個人にとっては実にたちが悪い。証券用語で言うと、「自らリスクを取れない。」し、「取ってはいけない」のである。厚生労働省は毎年日本人の寿命が延びて、世界の1,2位であると誇らしげに宣伝する。敬老の日には、100歳以上の方には、お祝いがある。記念品であることもあるし、単に「言葉だけ」の時もある。誰しも喜ばしいことだと納得する。
ところが、厚生労働省が言うように誇らしいことではなくて、その記事に有るとおり実は、個人にとって長生きはリスクであるばかりでなく、国にとってもリスクであることは間違いない。国家はそのリスクを「個人として軽減」するのではなく、「国家として軽減」するための施策が「さいら」がセカンドライフに入ってから位であろうか、強烈に推し進められている。年金制度・諸税負担・健康保険等々どれを取ってもそうである。
それならば、政府も一層のこと、ハッキリと、誤魔化さないで「長寿は国にとってはリスクです。」と言えばよい。そしてセカンドライフに入って早死にした人には心からの褒賞金や喜びの言葉を与えればよい。
或る会社の宣伝誌を読んでいた。その中に「セカンドライフのための資産設計」と言う記事があった。正に「さいら」世代のための記事であるが、それは「さいら」本人には全く縁がない。残念なことであるが、仕方がない。設計は可能であるが、設計図を元にして構築していく資産は疎か少額の手持ち金すら全くない。それでは設計書は「絵に描いた餅」と言うのであろう。食えない餅は描く必要もない。それで、その手法等の肝心な話は横に置いておこう。
「セカンドライフ」は退役のカテゴリである。更に当然であるが、そう言う言葉があるかどうか知らないが、セカンドライフがあると言うことは、「ファーストライフ」も有って、それは現役のカテゴリになるのであろう。
そう考えると、未だ収入がない幼少の頃は何というのであろうか?勿論この記事は資産設計に関するものであるから、幼少の頃で親の世話になっている時は関係がないのかも知れない。しかし、「三つ子の魂百まで」という言葉もある。その人となりが形成されるのは正にその幼少の頃であろう。そして、中世の黄泉の世界を信じることが何処か夢がある。現代はそうではない。「サードライフ」がないことに気付いた。「今生の別れは金の切れ目」というわけだ。
雑誌の記事は「金が切れても、未だ生きている。」ことを避けるための方策を説いている。本当にそういう事態をヒシヒシと実感せざるを得ないのは実に嫌なものだ。
諸リスク
前の記事「セカンドライフ」で触れた話の延長線上である。こちらの方が雑誌では本論である。リベンジが出来ないセカンドライフで発生する色々なリスクとその解消法が述べられている。団塊世代の退職に見合った記事であると言えよう。当然、証券会社の雑誌であるので、その解消方法は明らかであるので、此処では触れない。と言うよりも、触れる必要が「さいら」にはないことは前の記事で説明した通りである。
その中で、セカンドライフのリスクが述べられている。
(2)医療・介護
(3)インフレ
(4)資産の偏り
(5)過度な引き出し
医療・介護はもっともなことである。現役時代に比較してそれらのリスクは格段に、日々増加していることは間違いない。ある日コロリとあの世へ旅立ちとは行かないのが常である。消費者物価指数の上げ下げは対前年・前月で比較されることが多い。今は、消費者物価が落ち着いているので、そして、「さいら」の世代では戦後の本当のインフレは実感としてない。しかし、それは、極度のインフレでなくともジャブのように段々と効いてくる。ふと気付くと、ノックくダウンの憂き目である。「さいら」の世代は「運用」を知らない。なけなしの余剰金は利子とは関係なく安全第一で精々預金するぐらいである。資産とまでは行かないが、「偏り」があるのも確かである。インフレ以上の利金が付かないのも確かである。この中で、最も注意しなければならないのが「過度の引き出し」であった。過去形で欠かざるを得ないことが誠に残念である。極少額の退職金であっても、今まで手にしたことがない桁が一つ多い預金通帳は否が応でも気分を大きくさせ、いつの間にか、元の桁数になって、収まる所に収まってしまった。正に過度の引き出しそのものであった。その時は一応理由を付けているのであるが。
と言う訳で、その諸リスクは納得できるものばかりであるが、肝心の最初の述べられているリスクについては又次の機会にしようと思う。
長寿
以前に「セカンドライフ」と「諸リスク」の記事を投稿した。今日はその続きである。前の記事では、一番重要なリスクとして最初に掲げられていたリスクを省いた。最も重要なセカンドライフのリスクは「長生きリスク」であると言うのだ。
実際のところ、長生きがリスクであると言われると、複雑な気分になる。実は、この長生きは個人にとっては実にたちが悪い。証券用語で言うと、「自らリスクを取れない。」し、「取ってはいけない」のである。厚生労働省は毎年日本人の寿命が延びて、世界の1,2位であると誇らしげに宣伝する。敬老の日には、100歳以上の方には、お祝いがある。記念品であることもあるし、単に「言葉だけ」の時もある。誰しも喜ばしいことだと納得する。
ところが、厚生労働省が言うように誇らしいことではなくて、その記事に有るとおり実は、個人にとって長生きはリスクであるばかりでなく、国にとってもリスクであることは間違いない。国家はそのリスクを「個人として軽減」するのではなく、「国家として軽減」するための施策が「さいら」がセカンドライフに入ってから位であろうか、強烈に推し進められている。年金制度・諸税負担・健康保険等々どれを取ってもそうである。
それならば、政府も一層のこと、ハッキリと、誤魔化さないで「長寿は国にとってはリスクです。」と言えばよい。そしてセカンドライフに入って早死にした人には心からの褒賞金や喜びの言葉を与えればよい。