もう一つの被爆体験(2006年8月9日)
今日は一寸重たい話題です。漁業関係の仕事に従事していた「さいら」には広島・長崎の原爆の日と同様に「原水爆」は気になることがある。それは米国の「ビキニ環礁」での水爆実験である。昭和29年、「さいら」が10歳の時である。そろそろ漢字は別にして、新聞の見出しを拾い読みしていた頃である。「さいら」には「ビキニ」が地名であるとは全く知らず、水爆が何であるかも知らなかった。多分「ビキニ」は「ニキビ」の間違いであろうと信じて疑わなかった。
映画館のニュースでは、マグロ水揚げ港でガイガー・カウンターで調べられている
「原爆マグロ」が出て来た。「さいら」達も決して「雨に濡れる」ことはしなかった。「死の灰」を恐れたのである。 そして、「第五福竜丸」と「久保山愛吉さん」は忘れることはなかった。
和歌山で漁業関係に従事することになって、当時のマグロ業界の話を聞いた。それは大変な状況であった。全く売れない状態だったという。しかし、色々と調べると、
マグロ漁業関係者には、悪いことだけではなかった。必要な漁業補償もされた。補償金を元手にして、新船を建造した。
しかし、「第五福竜丸」の場合はそうではない。そして、無くなった命は戻らない。原爆の日の「平和への誓い」もそうであるが、平和な時にこそ「戦争とは?」と問いかける必要があるのではないか?
今、第五福竜丸は、展示館に残されている。そして、第五福竜丸は和歌山県古座町(現在は串本町)で建造された。
英航空機テロ計画(2006年8月13日)
お盆と言っても関係ないが、閑話休題。この事案をこのような記事にするのは顰蹙を買うと思いながらの投稿。こういう国際的な事件は「さいら」には全く縁がない話と何時も思っている。しかし、念のためにと思い、18日から英国旅行を計画されている知人に聞いた。
その1:その奥様とお嬢様がイタリア旅行から帰国時。イタリアの空港で何と10時間ほど「足止め」。帰宅は16時間遅れだったとのこと。その2:ご本人さんの今回の英国旅行は飛行機・ホテル・レンタカー全て、ネット予約。英国内に入れば問題がないであろうが、大幅な遅延は、予約変更等が必要とのこと。航空会社に連絡するが、土・日でお休みとか。
何れにしても、事件そのものは未遂であったので帰国話が楽しみ。
夏眠と冬眠と(2006年8月16日)
動物には「夏眠」をするものや「冬眠」をするものがある。「夏眠」をし、「冬眠」もする動物は聞かない。
「さいら」は夏は動くと汗が出るので専ら「夏眠」である。じっと、動かないで暑さに耐えるのである。冬は外へ出ると寒いので、コタツの中で専ら「冬眠」である。
じっと、動かないで寒さに耐えるのである。しかし、普通生物で言われる「夏眠」とか「冬眠」とは若干異なる。幾ら夏眠・冬眠をしていても食事はキッチリと三食必ず取る。
ある人曰く。それは「夏眠」とか「冬眠」とは縁も縁もない。それは「ナマケモノ」である。確かに。確かに。
追記:朝のお散歩はこの話とは別である。
真面目な予想(2006年8月24日)
昨日の記事は「さいら」らしくないので、今日は、気分転換。短く、しかし切実・真面目・毎日の予想を。
昨日、株は上がった。今日も上がるだろう。必ず(^0^)(^◇^)(^▽^)(^ο^)(^ー^)
昨日、株は下がった。今日は上がるだろう。必ず(^^)//
外れたその時の落胆。それは それは 大きい。そして、滅多に的中することはない。
地蔵盆(2006年8月25日)
他の地域でもあるかもしらないが、故郷京都では、確か8月23日頃から26日に掛けて、子供のお祭りである「地蔵盆」がある。
町内に少なくても一つはお地蔵さんが祭られている。今も変わっていないが、「さいら」の町内のお地蔵さんは、町の端っこの角に祭られている。そのお地蔵さんとは別に、個人の家がお祭りしているお地蔵さんも有った。全く同じ様に地蔵盆をするのである。これは大変であろうと思う。町内会の地蔵盆にかかる費用と世話は町内会が持つが、個人がお祭りしている場合はそうは行かない。世話と費用もその家族が行う。又、直ぐ近くの町に婆さんが別に住んでいた。その町内会でも地蔵盆がある。それやこれやで、この時期に、市内を少し歩くと必ず「地蔵盆」風景が見られる。
お祭りしているお地蔵さんによって地蔵盆の日にちは決まっている様に記憶している。その三カ所で日を違えて、或いは、丁寧な婆さんの町内会では二日に渡って地蔵盆が行われる。小学校の頃はこの地蔵盆の「はしご」が夏の終わりの一番の楽しみであった。婆さんの町内会の地蔵盆では、夜に「六斎念仏」がにわか造りの舞台で催される。「さいら」は単に「六斎」と言っていた様に思う。最後の演目は定かではないが、「土蜘蛛」のだったと思う。この「六斎念仏」は今も見たいと思う。
町内会の地蔵盆は、もう今は廃業している公衆浴場の「男性脱衣場」を借りて行う。不思議と毎年、「男性脱衣場」であった。地蔵盆以外でも、漫画映画会とかもそこで行われることもあったが、これも「男性脱衣場」であった。他の町内会は、奥行きがある店を交代にして、商品とかを片づけて、茣蓙を敷いて行う。どちらも素足であると言いたいのである。
その日はお地蔵さんを綺麗にして、会場にお祭りする。そして本来これがメインであるのだろうが、お坊さんが来て、30分ほどお経を上げてくれる。この時は、子供であるが、神妙な顔をして、キチンと座って、お坊さんと一緒にお参りをする。会場には大きなヤカンが置いてあり、その中には麦茶が入っている。勿論、今の様に冷たく冷やしたものではない。なま暖かい水道水で冷やすか、精々氷水で冷やしたものであった。その麦茶の入れ替え等々役員さんはこの日は本当に「子供世話係」に徹して忙しい。合間合間に、お菓子が配られる。そのお菓子を食べながら、将棋とかのゲームや相撲を取ったりして遊ぶのである。クイズの時間もある。正解なら勿論、景品もある。その頃の楽しみの一つである紙芝居もある。地蔵盆の紙芝居は決して「只見」と言われることはない。いつもなら買う水飴とか梅チョコなどの「駄菓子」もこの時ばかりは紙芝居屋さんが子供みんなに無料で配ってくれる。町内へ廻って来る紙芝居屋さんが二軒有って、毎年交代で来て貰う様だった。今にして思えば、紙芝居屋さんへの親のささやかな配慮であろう。毎日廻ってくる紙芝居は、連続もので、良いところへ来ると「明日のお楽しみ」であったが、地蔵盆での紙芝居は一つの物語を通しでやってくれる。紙芝居を堪能できた訳である。
地蔵盆のハイライトは何と言っても「福引き」である。風呂屋は二階がないためであろうが、町内会役員さんの二階を使って行われる。二階と通りがキーワードである。貰った番号が書かれている福引き券を籠に入れると、係の人が、「何番」と大きい声で二階へ呼び掛ける。二階の大人が籠のついたロープを引き寄せる。そしてその番号の「福引き」景品を渡しロープを使って籠で通りまで下ろしてくる。時には、籠よりも景品の方が大きくて、籠にぶら下がった景品が下りてくることもある。その景品を見て、どよめきも起こる。この福引きは、大人も混じって賑やかに行われる。景品は必ずしも子供用でもなかった様に記憶している。この二階と通りを利用するのは今思っても上手くできていると思う。今年の景品が何であるか全く見ることが出来ないのである。予想も出来ない。その分今年は何が当たるか本当に楽しみであった。
しかし良いことばかりではない。その頃は、夏休みも終わりに近づいていて、夏休みの宿題にボチボチと手を付けなければならない。それは「地蔵盆」が終わってからと言うのが毎年の「さいら」の流儀であった。今、神戸に住んでいる孫は、振興団地と言うことで、この時期に「子供夏祭り」が行われる。孫はそれが楽しみである。そして、夏休みの宿題をそれまでに終える様にハッパを掛けられている模様である。
今も地蔵盆風景は変わっていないのでしょうか?教えて頂けると嬉しいです。地蔵盆はウイキペディアに思ったより詳しく書かれている。詳しく・正確には是非に。
街頭写真(2006年9月8日)
母親に手を繋がれて、街の繁華街を歩いているスナップ写真が一枚有る。実に自然な姿であるが、写っている場所、着物と服を見るとどうも「お出かけ」の様子である。母の若さを見ると終戦直後であろう。今と違って、写真を撮ること自体が殆どない時代であった。その分、写真は撮って貰えば、記念に残しておきたいと思うのが当然でもある。何故このような写真があるのか不思議であった。
母親の説明では、街を歩いていると勝手に「写真を撮る商売」があった。その撮った写真を売るのである。今でもある観光地のホテルとかで撮って、記念に売る商売と同じである。「街頭写真」と言う。今なら、即日か翌朝には出来上がり、現物を見てから購入となるが、昔は違った。
写真を撮っても、出来上がるのに時間が掛かる。デジカメのように旨く撮れているか確認することも出来ない。住所と名前を聞いて、後ほど写真を送付するそうである。勿論代金は前払い。母親が言うには、その写真を撮った人は本当に送ってくれたが、それ以外は、代金取られ損であったそうだ。フィルムすら入っていないのではないか?という。「取られ損」が何回か有って、街頭写真は買わなくなった。
どちらも、戦後のどさくさの中の商売と言えば商売である。写真という当時としては貴重なものであること。写真の出来上がりと、代金の受け取りにタイムラグがあること。しかも、お互いに見ず知らずの赤の他人であること。繁華街であるから、そうそう再会することもないこと。必要な投資は写真機(らしきもの)だけ。もう少し言うと、もっともらしい写真館の名称。口達者な助手。よく考えてみるとこのような条件は今も十分通用する詐欺師の基本そのものではないか?
同じ「街頭」と付くと言っても、当時のラジオ番組の「街頭録音」とは全く異なる。
「六月以降の変化」のその後:朝のお散歩(2006年9月10日)
これは特段変化はない。今も朝一で散歩。朝夕涼しくなったとは言え、未だ、少し早足で歩けば、汗をかく。だから、シャワーも欠かせない。
雨の日は当然休みになるが、家から周囲を見ていると、犬の散歩は雨も関係ないように見える。カッパを着るか、傘を差して犬と一緒の散歩である。時には、犬もカッパのようなものを着ている。
かといって、散歩のために、「さいら」は犬を飼うことまでは考えていない。生き物はメダカ飼育係で十分だ。しかし、ソロソロ散歩の時間も考えなければならない。
余り朝起きは得意でないし、寒いのも苦手である。いつ頃から、散歩時間の変更になるのか・・・。本格的な秋が待ち遠しい。
石鹸の大きさと形(2006年9月29日)
最近我が家で固形石鹸を使っているのは「さいら」だけの様である。妻用にはボディシャンプーとか言う液体の石鹸がが有るそうだ。

写真の石鹸は、真ん中は比較のためのたばこ。左の写真は普通の卵形の石鹸。実は「さいら」の昔からのお気に入り。 問題は右側の石鹸。かなり大きい直方体の石鹸。寸法は7×7×3.5センチ。縦横はほぼ正方形。厚さが厚い。どうもこの石鹸は使いにくい。洗濯板を使っていた当時の洗濯石鹸の様な大きさと形。と言っても
ご存じない方も多いと思うが・・・。大きいだけではない。直方体であることも一因がありそうだ。全体に丸みがないのである。
何故使いにくいかというと、身体とか手拭いに石鹸を手でもって塗る時に、卵のような湾曲部がないために、掌での収まりが悪くて、滑って落ちるのである。掌にどうもしっくりといかない。石鹸だから当然泡がたって使う時には滑りやすい。そうでなければ石鹸の用を足さない。しかし、使いにくい。何回も何回も滑って落ちる。歳のせいで、末梢神経の感覚が鈍っているのかと思って悩んでしまう。今更ながらに
日常に使うものの「フィット」する大切さを実感している。
妻に聞くと、トルコのスーパーかコンビニでみんなが買っているから、「連れ買い」をしたと言う。その地方でよく使う有名な石鹸だった?とか。と言うよりは「マルセーユ石鹸」の模造品の様だ。しかし、確かに香りは良いし、泡もマアマア立つ。そんなことよりも安かったのであろうが・・・。
今日は一寸重たい話題です。漁業関係の仕事に従事していた「さいら」には広島・長崎の原爆の日と同様に「原水爆」は気になることがある。それは米国の「ビキニ環礁」での水爆実験である。昭和29年、「さいら」が10歳の時である。そろそろ漢字は別にして、新聞の見出しを拾い読みしていた頃である。「さいら」には「ビキニ」が地名であるとは全く知らず、水爆が何であるかも知らなかった。多分「ビキニ」は「ニキビ」の間違いであろうと信じて疑わなかった。
映画館のニュースでは、マグロ水揚げ港でガイガー・カウンターで調べられている
「原爆マグロ」が出て来た。「さいら」達も決して「雨に濡れる」ことはしなかった。「死の灰」を恐れたのである。 そして、「第五福竜丸」と「久保山愛吉さん」は忘れることはなかった。
和歌山で漁業関係に従事することになって、当時のマグロ業界の話を聞いた。それは大変な状況であった。全く売れない状態だったという。しかし、色々と調べると、
マグロ漁業関係者には、悪いことだけではなかった。必要な漁業補償もされた。補償金を元手にして、新船を建造した。
しかし、「第五福竜丸」の場合はそうではない。そして、無くなった命は戻らない。原爆の日の「平和への誓い」もそうであるが、平和な時にこそ「戦争とは?」と問いかける必要があるのではないか?
今、第五福竜丸は、展示館に残されている。そして、第五福竜丸は和歌山県古座町(現在は串本町)で建造された。
英航空機テロ計画(2006年8月13日)
お盆と言っても関係ないが、閑話休題。この事案をこのような記事にするのは顰蹙を買うと思いながらの投稿。こういう国際的な事件は「さいら」には全く縁がない話と何時も思っている。しかし、念のためにと思い、18日から英国旅行を計画されている知人に聞いた。
その1:その奥様とお嬢様がイタリア旅行から帰国時。イタリアの空港で何と10時間ほど「足止め」。帰宅は16時間遅れだったとのこと。その2:ご本人さんの今回の英国旅行は飛行機・ホテル・レンタカー全て、ネット予約。英国内に入れば問題がないであろうが、大幅な遅延は、予約変更等が必要とのこと。航空会社に連絡するが、土・日でお休みとか。
何れにしても、事件そのものは未遂であったので帰国話が楽しみ。
夏眠と冬眠と(2006年8月16日)
動物には「夏眠」をするものや「冬眠」をするものがある。「夏眠」をし、「冬眠」もする動物は聞かない。
「さいら」は夏は動くと汗が出るので専ら「夏眠」である。じっと、動かないで暑さに耐えるのである。冬は外へ出ると寒いので、コタツの中で専ら「冬眠」である。
じっと、動かないで寒さに耐えるのである。しかし、普通生物で言われる「夏眠」とか「冬眠」とは若干異なる。幾ら夏眠・冬眠をしていても食事はキッチリと三食必ず取る。
ある人曰く。それは「夏眠」とか「冬眠」とは縁も縁もない。それは「ナマケモノ」である。確かに。確かに。
追記:朝のお散歩はこの話とは別である。
真面目な予想(2006年8月24日)
昨日の記事は「さいら」らしくないので、今日は、気分転換。短く、しかし切実・真面目・毎日の予想を。
昨日、株は上がった。今日も上がるだろう。必ず(^0^)(^◇^)(^▽^)(^ο^)(^ー^)
昨日、株は下がった。今日は上がるだろう。必ず(^^)//
外れたその時の落胆。それは それは 大きい。そして、滅多に的中することはない。
地蔵盆(2006年8月25日)
他の地域でもあるかもしらないが、故郷京都では、確か8月23日頃から26日に掛けて、子供のお祭りである「地蔵盆」がある。
町内に少なくても一つはお地蔵さんが祭られている。今も変わっていないが、「さいら」の町内のお地蔵さんは、町の端っこの角に祭られている。そのお地蔵さんとは別に、個人の家がお祭りしているお地蔵さんも有った。全く同じ様に地蔵盆をするのである。これは大変であろうと思う。町内会の地蔵盆にかかる費用と世話は町内会が持つが、個人がお祭りしている場合はそうは行かない。世話と費用もその家族が行う。又、直ぐ近くの町に婆さんが別に住んでいた。その町内会でも地蔵盆がある。それやこれやで、この時期に、市内を少し歩くと必ず「地蔵盆」風景が見られる。
お祭りしているお地蔵さんによって地蔵盆の日にちは決まっている様に記憶している。その三カ所で日を違えて、或いは、丁寧な婆さんの町内会では二日に渡って地蔵盆が行われる。小学校の頃はこの地蔵盆の「はしご」が夏の終わりの一番の楽しみであった。婆さんの町内会の地蔵盆では、夜に「六斎念仏」がにわか造りの舞台で催される。「さいら」は単に「六斎」と言っていた様に思う。最後の演目は定かではないが、「土蜘蛛」のだったと思う。この「六斎念仏」は今も見たいと思う。
町内会の地蔵盆は、もう今は廃業している公衆浴場の「男性脱衣場」を借りて行う。不思議と毎年、「男性脱衣場」であった。地蔵盆以外でも、漫画映画会とかもそこで行われることもあったが、これも「男性脱衣場」であった。他の町内会は、奥行きがある店を交代にして、商品とかを片づけて、茣蓙を敷いて行う。どちらも素足であると言いたいのである。
その日はお地蔵さんを綺麗にして、会場にお祭りする。そして本来これがメインであるのだろうが、お坊さんが来て、30分ほどお経を上げてくれる。この時は、子供であるが、神妙な顔をして、キチンと座って、お坊さんと一緒にお参りをする。会場には大きなヤカンが置いてあり、その中には麦茶が入っている。勿論、今の様に冷たく冷やしたものではない。なま暖かい水道水で冷やすか、精々氷水で冷やしたものであった。その麦茶の入れ替え等々役員さんはこの日は本当に「子供世話係」に徹して忙しい。合間合間に、お菓子が配られる。そのお菓子を食べながら、将棋とかのゲームや相撲を取ったりして遊ぶのである。クイズの時間もある。正解なら勿論、景品もある。その頃の楽しみの一つである紙芝居もある。地蔵盆の紙芝居は決して「只見」と言われることはない。いつもなら買う水飴とか梅チョコなどの「駄菓子」もこの時ばかりは紙芝居屋さんが子供みんなに無料で配ってくれる。町内へ廻って来る紙芝居屋さんが二軒有って、毎年交代で来て貰う様だった。今にして思えば、紙芝居屋さんへの親のささやかな配慮であろう。毎日廻ってくる紙芝居は、連続もので、良いところへ来ると「明日のお楽しみ」であったが、地蔵盆での紙芝居は一つの物語を通しでやってくれる。紙芝居を堪能できた訳である。
地蔵盆のハイライトは何と言っても「福引き」である。風呂屋は二階がないためであろうが、町内会役員さんの二階を使って行われる。二階と通りがキーワードである。貰った番号が書かれている福引き券を籠に入れると、係の人が、「何番」と大きい声で二階へ呼び掛ける。二階の大人が籠のついたロープを引き寄せる。そしてその番号の「福引き」景品を渡しロープを使って籠で通りまで下ろしてくる。時には、籠よりも景品の方が大きくて、籠にぶら下がった景品が下りてくることもある。その景品を見て、どよめきも起こる。この福引きは、大人も混じって賑やかに行われる。景品は必ずしも子供用でもなかった様に記憶している。この二階と通りを利用するのは今思っても上手くできていると思う。今年の景品が何であるか全く見ることが出来ないのである。予想も出来ない。その分今年は何が当たるか本当に楽しみであった。
しかし良いことばかりではない。その頃は、夏休みも終わりに近づいていて、夏休みの宿題にボチボチと手を付けなければならない。それは「地蔵盆」が終わってからと言うのが毎年の「さいら」の流儀であった。今、神戸に住んでいる孫は、振興団地と言うことで、この時期に「子供夏祭り」が行われる。孫はそれが楽しみである。そして、夏休みの宿題をそれまでに終える様にハッパを掛けられている模様である。
今も地蔵盆風景は変わっていないのでしょうか?教えて頂けると嬉しいです。地蔵盆はウイキペディアに思ったより詳しく書かれている。詳しく・正確には是非に。
街頭写真(2006年9月8日)
母親に手を繋がれて、街の繁華街を歩いているスナップ写真が一枚有る。実に自然な姿であるが、写っている場所、着物と服を見るとどうも「お出かけ」の様子である。母の若さを見ると終戦直後であろう。今と違って、写真を撮ること自体が殆どない時代であった。その分、写真は撮って貰えば、記念に残しておきたいと思うのが当然でもある。何故このような写真があるのか不思議であった。
母親の説明では、街を歩いていると勝手に「写真を撮る商売」があった。その撮った写真を売るのである。今でもある観光地のホテルとかで撮って、記念に売る商売と同じである。「街頭写真」と言う。今なら、即日か翌朝には出来上がり、現物を見てから購入となるが、昔は違った。
写真を撮っても、出来上がるのに時間が掛かる。デジカメのように旨く撮れているか確認することも出来ない。住所と名前を聞いて、後ほど写真を送付するそうである。勿論代金は前払い。母親が言うには、その写真を撮った人は本当に送ってくれたが、それ以外は、代金取られ損であったそうだ。フィルムすら入っていないのではないか?という。「取られ損」が何回か有って、街頭写真は買わなくなった。
どちらも、戦後のどさくさの中の商売と言えば商売である。写真という当時としては貴重なものであること。写真の出来上がりと、代金の受け取りにタイムラグがあること。しかも、お互いに見ず知らずの赤の他人であること。繁華街であるから、そうそう再会することもないこと。必要な投資は写真機(らしきもの)だけ。もう少し言うと、もっともらしい写真館の名称。口達者な助手。よく考えてみるとこのような条件は今も十分通用する詐欺師の基本そのものではないか?
同じ「街頭」と付くと言っても、当時のラジオ番組の「街頭録音」とは全く異なる。
「六月以降の変化」のその後:朝のお散歩(2006年9月10日)
これは特段変化はない。今も朝一で散歩。朝夕涼しくなったとは言え、未だ、少し早足で歩けば、汗をかく。だから、シャワーも欠かせない。
雨の日は当然休みになるが、家から周囲を見ていると、犬の散歩は雨も関係ないように見える。カッパを着るか、傘を差して犬と一緒の散歩である。時には、犬もカッパのようなものを着ている。
かといって、散歩のために、「さいら」は犬を飼うことまでは考えていない。生き物はメダカ飼育係で十分だ。しかし、ソロソロ散歩の時間も考えなければならない。
余り朝起きは得意でないし、寒いのも苦手である。いつ頃から、散歩時間の変更になるのか・・・。本格的な秋が待ち遠しい。
石鹸の大きさと形(2006年9月29日)
最近我が家で固形石鹸を使っているのは「さいら」だけの様である。妻用にはボディシャンプーとか言う液体の石鹸がが有るそうだ。

写真の石鹸は、真ん中は比較のためのたばこ。左の写真は普通の卵形の石鹸。実は「さいら」の昔からのお気に入り。 問題は右側の石鹸。かなり大きい直方体の石鹸。寸法は7×7×3.5センチ。縦横はほぼ正方形。厚さが厚い。どうもこの石鹸は使いにくい。洗濯板を使っていた当時の洗濯石鹸の様な大きさと形。と言っても
ご存じない方も多いと思うが・・・。大きいだけではない。直方体であることも一因がありそうだ。全体に丸みがないのである。
何故使いにくいかというと、身体とか手拭いに石鹸を手でもって塗る時に、卵のような湾曲部がないために、掌での収まりが悪くて、滑って落ちるのである。掌にどうもしっくりといかない。石鹸だから当然泡がたって使う時には滑りやすい。そうでなければ石鹸の用を足さない。しかし、使いにくい。何回も何回も滑って落ちる。歳のせいで、末梢神経の感覚が鈍っているのかと思って悩んでしまう。今更ながらに
日常に使うものの「フィット」する大切さを実感している。
妻に聞くと、トルコのスーパーかコンビニでみんなが買っているから、「連れ買い」をしたと言う。その地方でよく使う有名な石鹸だった?とか。と言うよりは「マルセーユ石鹸」の模造品の様だ。しかし、確かに香りは良いし、泡もマアマア立つ。そんなことよりも安かったのであろうが・・・。