すがわらの工房日記

東北は岩手県一関市の呉服屋。こつこつと友禅染めをしています。

蝦夷(エミシ)再考その2 縄文から弥生へ~

2016-10-25 23:20:20 | 歴史とか
皆さんこんにちは!

こちら岩手県一ノ関市の京呉服すがわらでございます。

東北にある小さな呉服屋ですが、店内の工房らくぜんで

きもの屋がきものを作っているんですよー


さてさて、
前回から蝦夷再考の記事を書いています。

縄文人達は意外にも豊かで平和な暮らしをしていた訳なんですけど

喜界カルデラ噴火を切っ掛けに

九州から東海辺りまでが以後千年近く無人の荒野になりました。
高熱の火砕流とそれに伴う大津浪、厚く積もった火山灰で不毛の大地になったのです。


それでも南の諸島に辛うじて逃げた人々はかつての楽園の記憶を子孫に語り継いでいたはずです。


ちなみに当時から沖縄は世界の貿易拠点で

古代中国、甲骨文字で有名な「殷」(商)で貨幣として流通していた貝殻も沖縄の宮古島産でした。

ついこの間は古代ローマ時代の硬貨が城壁の中から発見されたなんてニュースもありましたね


歴史的にも盛んに物や人が行きかってた所だったんです。

当然そこでは情報も交換されていたでしょうから日本列島の大噴火も知れ渡っていたはずです。



やがて季節は廻り一千年です、かつて逃げてきた縄文人達は現地の人々と混ざり合い、

大陸や南西諸島周辺諸国の文化も吸収し、新たな文化体形の集団を形成していたことでしょう。

かつての記憶も数百年経てばそれはもうお伽噺か伝説です。

東の果ての島に楽園があって、いつかそこに還るという言い伝え。



遠巻きに観察していた彼等は土地の回復を見計らい、
それぞれの集団が独自の判断で船に乗り海流に乗って日本列島を目指したんじゃないでしょうか

当然その中には大陸の集団や南西諸島の一族も居たでしょう

稲作の最新技術も同時に運ばれたに違いありません。



かくしてあるタイミングで

一定の異文化が同時発生的に日本列島に発生する事になります。

弥生時代の到来です。

稲作を中心にしたこの文化はやがて古墳時代へと移行するんですけど。


え?邪馬台国は何処だって?

分りません、発掘調査でその内見つかると思います。

そう言えば邪馬台国と大和国って似てますよね、ヤマタイコク、ヤマトコク、ほら。

 それはさて置き


いずれにしても新王朝はこの図にある喜界カルデラの大噴火で特に被害の大きかった
太いオレンジの実線の内側に出来ているという事に注目したいところです。

そこは千年近く誰も住んでいなかった、フリーエリアだったんですよ!



弥生文化と共にもたらされたのは大規模水耕栽培の稲作です。

これは非常に効率が良くて収穫量が段違いだったと思われます

ただしそれにはかなりのチームワークが必要で、

まず治水の技術、それと収穫を確実にするためには暦を知ってないといけないですね、

種もみを蒔くタイミングとか間違うとえらい事です、上意下達の仕組みが必要です。

そしてそれら耕作人夫も含めた全ての人々を束ねる優れたリーダーが必要不可欠なんです。



そこで何が発生するかというと身分ですよ。

組織力の成果で収穫量も多いうえに米は保存も利くので、同時に富の偏在も起きます。

貴族の誕生です。

個人や集団の力を超えた権力はやがて国の形を持ち始めるのじゃないかな

富を奪い合う戦争が起きるのもここいら辺からです。




ところで渡来してきた集団の証拠で一番はっきりしているのは徐福の伝説がありますね。

始皇帝に不死の妙薬を東の島国に見つけたとかなんとか嘘を言って予算をひっぱり

一族郎党大船団で逃げてきたみたいなんですよ。とんでもない方々ですが

日本では神様として祭られています、全国各地に徐福神社があって

どうやら彼等によって稲作の技術がずいぶんと広められたようです。


長くなってしまいました

今日も蝦夷(エミシ)まで行けなかった、

何日かしたらまた続き書きます~。









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