元SONIA店長のブログ

玉響店長がSONIAで店長をしてたときのブログです!

友人の死

2011-03-11 02:16:36 | 日記
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先月、若い頃やってたバンドのボーカルが亡くなった。
私と同じ歳で、ずっとずっとBIGになる奴だった。

彼との出会いは高校2年くらいだったろうか。
地元のいくつかのバンドが集まって、市民ホールを貸切ってのライブに
出演したときだ。

私のバンドはメンバーが中学生から長髪で鳴り物入りで高校へ入学した
メタル馬鹿みたいな二人と私の同級生のコピーバンドだった。
亡くなった彼は、かなり程度のいい高校のバンドでグラムロックのコピーバンド
のボーカルだった。
当時、その音楽性に興味が無かったこともあり、ライブを見た記憶は無いし、
全く覚えていない。
ただ、打ち上げで一緒に騒いだ記憶はある。

いろんな高校のいろんなジャンルの連中が集ったちょっと狂った飲み会だったように思う。

私が覚えているのは、自分のバンドのシャイなメンバーを尻目に、名前すら知らない連中と
部屋の入り口に陣取って、大騒ぎして腹が減ったと焼きおにぎりを沢山注文しては、
他人が注文したものを少しづついただきながら、ガブ飲みして今考えれば面白くもなんともない
ギャグを飛ばしていた位なものだ。

その後、高校卒業が近づいて、当時のボーカルはせっせと親の縁故で就職を決めてしまい、
自然にメンバーから外れていった。

それから何週間後に、亡くなった彼が正式にバンドのボーカルになった旨をメンバーから聞いた。

その翌日だったと思う。
突然、夜に私の実家を訪ねてきて、かなり長い時間話をした。

きっと自分が違う高校であることや、個性の強い私への気遣いとして、全く認識がないような家
を訪ねてくれたのだった。
同じ歳であるにも係らず、そのような根回しをちゃんとする彼に驚きを覚えた記憶が残っている。

それから一年、一緒にメンバーとして練習やライブに明け暮れた。

ただ、バンド自体があまりパッとする感じに仕上がらなかった為、バンドの中の雰囲気はとても
不安定なものだった。

しっかりやのベース引きが凄いペースで曲を書いてきて、メンバーに渡して、それぞれのパートが
それぞれのフレーズを作った。翌週には一日中練習して、その翌週にはライブをして失敗して。

かつ、雰囲気は最悪。

当時の私は既に、バンドの音楽性や雰囲気が性に合わず、リーダー的な存在となったベーシストに
辞めさせてほしいと懇願していた。
経理関係の専門学校に入学して、日常と将来的なビジョンが、彼らとのギャップをさらに加速させた。
その後、二日酔いで練習に参加したり、曲を真面目に覚えようともしないのは私だけとなった。(笑
早く次のドラマーが見つかってくれないかなとだけ思うようになった。
亡くなった彼は地元の大学へ進学していたが、長髪にしてバンドマンとして活動もしていた。
他の二人は、まだ、高校在学中で進学の事など微塵も考えず、ただただ上手くいかないバンドの将来を
不安視していたと思う。
特にベースの男は、進学の事も含めて活動してみたらみたいな忠告には頑として耳も貸さなかった。
でも、ちょっと周囲の期待が後押しして、無理をしていたようにも思う。
かっこはそれなりだけど、別にライブハウスでレギュラーになってたわけでもなし、集客だって友人の延長
みたいな子ばっかだったし。

それでも、一年間もしくは次のドラマーが見つかるまでという約束で私はドラムを続けた。

このバンドの雰囲気というのは、不思議なもので”見られる”という事に重きが置かれているから、得てして、自然体
じゃ駄目よ!的な発想も生まれた。
何のことかというと、私が居たバンドは一応その頃には”ビジュアル系のダークなバンド”を目指していたから、
やれ、ライブの日は楽屋を出ないでとか、ステージで笑顔はやめてとか、私にとっては苦痛でしかない要求が沢山あった。
当時から不真面目で爆発的バカみたいなキャラだったから、きつかったし、そのルールは守れなかったなー。

ちなみに私はその音楽やらファッションやらに全く興味が無かったので、長髪にもしなけりゃ、その手の音楽も
進んで聴こうとはしなかったし、ステージ衣装も買おうともしなかった。

ま、言うなればその中で異色な存在だったわけ。しょうがないけど。

結局、一年があっという間に経過して、最後のライブの日まで特に変化無く私は過ごした。
でも、その期間、亡くなった彼が一緒に明るく騒いでいてくれたから居れたと今でも思っている。

メンバーが揃ったときや練習の間は、周囲を気にして私ほど気を抜くことが無かったが、それでも彼の明るさだけが私には救いだった。

彼はその後、いろんな経緯があって、バンドを去ったが、大学で他の大学の連中と大きなサークルの中心となって派手に活動した。

バンドの方は、彼の後任のヴォーカルの加入、私の後任は別の地元のバンドのメンバーを迎えてその後、誰でも知っているような
BIGBANDになった。
私は違うけど、彼はそのバンドに大きく貢献したと私は思っている。
彼がいなければ、そのバンドの成功も無かったのは確かだ。

彼は家業を将来的に継ぐことが決まっていたので修行の為に、他の同業他社へ就職したうえで何年か後に家業を継いだ。

地元の小さな眼鏡や宝石を扱う会社ではあったが、彼がとても大きな会社にして店舗も増やした。

最後にあったのは5年ほど前になるが、その眼鏡屋の近くに行った時、たまたま店舗に居たので当時の近況をお互いに話した程度だった。

たびたび、別の友人を通じて、私に会いたがっている旨は聞いていた。

そして、友人からメールで彼の訃報を聞くことになった。

私は仕事で弔いごとにも出ることは出来ず、当時の仲間に会うこともできなかった。
とても残念だし、悲しい。

別のバンドでヴォーカルをしていた友人に彼が”歌う”ということについて当時、相談を寄せていたことを友人のブログで知った。
彼なりにとても苦労していたが、それらは全く億尾に出さなかった。

彼はとても強い人。そんな印象がさらに、さらに私の中で強くなった。

惜しい人を亡くした2011年の2月となった。
ご冥福をお祈りします。




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