ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

武器を持つ者の義務

2021-02-14 08:35:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員のアドバンテージ」2月8日
 木村光則記者が、『開いたままのドア』という表題でコラムを書かれていました。その中で木村氏は、『大人が他人の子供を叱らないようになった、とよく言われる。確かに昔は町中でも他人の子を叱ったり注意したりする大人がいた』と指摘し、ご自身が小5のときに、電車の中で50歳ぐらいの男性に注意されたこと、今ではその男性に感謝していることなどを述べられていました。
 そのうえで、『自分以外の子供でも間違っていると思ったら大人は注意していいと思う。ただ、私がそれを実行できているかどうかは自信がない』とし、『女子中学生2人が目の前のドアを開けたまま隣の車両へ移っていった。楽しそうにおしゃべりをしていた2人を追いかける気にはとてもならず、私は黙ってドアを閉めた』とご自身の経験を振り返っていらっしゃいました。
 当然でしょう。私も木村氏と同じように「他人の子供も注意すべき」派ですが、2人の女子中学生に注意しようとはしません。素直に聞いてくれればいいですが、無視されても格好悪いですし、「うるさい爺だな、気になるなら自分で閉めろ」などとすごまれたら対応に困ってしまいます。触らぬ神に祟りなし、と考えるのが利口な大人というものです。
 そんな私ですが、教員時代に教え子がそんな行為をしたら間違いなく叱責していたでしょう。その違いの理由は何かと言えば、背負っている「権威」と「権限」ということです。教員は、子供を指導するのが職務です。そしてそのことは教員だけが思っていることではなく、子供も保護者もそう考えています。そのことは、教員には子供を指導する権威ある存在であるという認識を教員側と子供側が共有しているということでもあります。ですから、子供から「なんであんたがそんなことに口出ししてくるんだよ」と言われることはありません。反論があるとしても、「私はそんなことはしていません」という否定か、「実は~」という弁解でしかありません。そして否定や弁解であればそこから話が続き、最終的には「勝つ」ことはそれほど難しいことではありません。しかし、「お前に言われる筋合いはない」という拒絶からは話は続きません。無視して立ち去られるか、悪くすれば暴力に訴えられる可能性もあります。
 さらに、教員には罰を与える権限もあります。罰はいつでも他人を動かす強力なツールですから、強い姿勢で対峙することを可能にします。実際に罰することはなくても、伝家の宝刀として、持っているだけで効力を発揮するのです。
 この「権威」と「権限」の裏付けがあるからこそ、私のような人間でも子供を叱り、注意することができたのです。このことを別の角度から見ると、こうした「権威」と「権限」を与えられている教員は、叱る、注意するという行動をためらいなく行う義務を併せ持っているとも言えます。権利と義務は釣り合わなければならないのですから。
 それにもかかわらず、子供を叱れない教員がいます。そのことによる子供への悪影響の責任は、一般人である木村氏などとは比べようもなく重いのです。叱ること、注意することは教員に課せられた責務だという自覚が必要です。

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