ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「はだしのゲン」閲覧制限の是非

2013-08-22 07:53:34 | Weblog
「批判する本当の理由?」8月17日
 『「ゲン」自由閲覧禁止』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていたことが分かった。児童生徒への貸し出し禁止も要請していた』とのことです。なお、「過激な描写」とは、『首を切ったり女性への性的な乱暴シーン』を指すそうです。
 記事は、この教委の判断について批判的なトーンで書かれています。私も今回の判断については賛成できません。ただ、批判の理由には、首を傾げてしまいます。記事では、2人の識者のコメントを掲載し、批判を代弁させています。
 特に学校教育の「専門家」とされている教育評論家の尾木直樹氏の『ネット社会の子供たちはもっと多くの過激な情報に触れており、市教委の判断は時代錯誤。「過激なシーン」の影響を心配するなら、作品とは関係なく、情報を読み解く能力を教えるべきだ。ゲンは世界に発信され、戦争や平和、原爆について考えさせる作品として、残虐な場面も含め国際的な評価が定着している』というコメントについては、納得がいきませんでした。
 「ネットで過激な情報に触れているから」という理由で過激な表現も問題なしというのであれば、あらゆる表現について、子供に触れさせることを可とすることになっていまいます。ネットで見ているから、児童ポルノも裏ビデオも見させてよい、ということになってしまうのです。私が中学生の頃も、11PMなどで「エッチな画像」をこっそり見ていました。だからといって、ヌード写真が掲載されている書籍が学校の図書館に置かれることはありませんでした。当たり前の話です。
 また、「過激なシーン」の影響を心配するなら、作品とは関係なく、情報を読み解く能力を教えるべき、という主張も間違っているように思います。情報処理能力をどのように高めても「過激なシーン」が、子供に悪影響を与えることはあり得るのです。そのことは、裁判員制度において、「残酷な犯行現場や遺体のカラー写真」を見せられた裁判員が、裁判終了後も心に負った傷の苦しんでいることからも明らかです。立派な社会人でも、過激さに傷つくのです。
 さらに、京都精華大教授の吉村和真氏の、『作品が海外から注目されている中で市教委の判断は逆行している。ゲンは図書館や学校で初めて手にした人が多い。機会が失われる影響を考えてほしい。代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくというのか』というコメントについても見当違いな部分が目立ちます。
 「ゲンは図書館や学校で初めて手にした人が多い。機会が失われる影響を考えてほしい」と言っていますが、今回の決定は授業の中で「はだしのゲン」を使うことを否定しているわけではないのです。
 「代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくというのか」という部分についても、「はだしのゲン」以外に戦争や原爆について学ぶことができる教材はないと言っているのと同じことで、とても首肯できるものではありません。多くの学校や教員が工夫して発掘してきた教材を否定することになってしまうのですから。
 我が国では、「平和教育」「反戦教育」はとても盛んです。私はそれらの実践の中には偏ったものが少なくないと考えていますが、それでも「はだしのゲン」を使わない多くの実践があることを承知しています。そうした実態を知らない「識者」が、教員の専門性を否定するような発言をするのは腹立たしい限りです。
「はだしのゲン」は、長年学校図書館に置かれてきたのですから、制限反対派は実際に「はだしのゲン」を使った学習の成果を示す、制限賛成派は、「はだしのゲン」を読んだ子供が被った負の影響を示すという形の論争が必要です。
そうでなければ、今回の件は、制限肯定派=保守派、制限反対派=進歩派というような型にはまった古い図式の中で行われているような印象を与え、その本音を隠し、もっともらしい理由付けをしただけと受け取られてしまいます。学校教育は、実践と子供の反応に基づいて議論されるべきだと思います。

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