ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

のっぺりとした時代

2017-02-11 08:01:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「のっぺり」2月1日
 法政大総長田中優子氏が、『元号のゆくえ』という表題でコラムを書かれていました。田中氏は元号廃止の立場のようですが、その是非については触れません。ただ、田中氏がその理由としてあげていることが気になりました。
 田中氏は、『時代が元号によって解釈されることが良いとは思えない』と述べています。どういうことかというと、『「昭和元禄」という言葉があった。経済的繁栄を意味したのだが、元禄時代は忠臣蔵の大事件や大地震など様々な変動があった時代で、その側面が見えなくなる』『時代がのっぺりと一つの特徴で覆われることはない。元号による特徴表現は単純化をもたらしている』などとされています。
 つまり、元禄という元号を使用することによって、元禄時代という概念が生まれ、元禄=繁栄+浮かれた文化という単純化が行われ、歴史認識を浅く偏ったものにしてしまう、という懸念です。田中氏の指摘、懸念は理解できます。しかしその一方で、別の思いも生じてくるのです。
 私は教員として、ずっと社会科を研究してきました。特に6年生の歴史学習について、多くの実践を発表してきました。指導主事になってからも、社会科を専門とし、都の社会科指導主事会の役員を務め、教員研究員の社会科部会の指導者として多くの教員の指導に当たってきました。その間、小学校6年生の歴史的内容領域の授業は、ある時代の特徴的な人物や文化遺産を取り上げて、その時代のイメージをもたせればよい、という立場で指導をしてきました。奈良時代ならば東大寺の大仏と国分寺を取り上げ鎮護仏教と使役される農民、というイメージであり、平安時代ならば平等院と藤原道長に焦点を当て、摂関政治と貴族の華やかな暮らしというイメージをもたせるということです。
 単に人物や事物の名称や年号を暗記させるのではなく、子供の脳裏に一幅の絵巻物のように具体的なイメージが浮かぶように、と留意したものでした。断っておきますが、これは私個人の考えではなく、文部科学省が学習指導要領の説明会で繰り返し述べてきた方針に合致したものでした。
 このような授業では、生き生きとした授業とはなっても、田中氏が指摘する「のっぺり」した内容であるという側面は否定できません。何しろ、400年ほどの平安時代で、ほんの十数年のできごとしか取り上げないのですから、様々な側面など見えないところだらけです。
 もちろん、こうした授業は小学校におけるものであり、中高の日本史の授業では事情は異なりますし、大学における研究と異なるのはもちろんです。しかし、「のっぺり」した小学校の歴史的内容領域の授業は、歴史の専門家(歴史教育の専門家ではない)を自負する中高の歴史教員から、歴史を単純化していると非難され続けてきたのです。それは、田中氏の「のっぺり」という指摘と重なるものです。
 元号問題とは直接関係ありませんが、歴史を題材にした学習に於いて、「のっぺり」問題は今でも気になるのです。

 

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