ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

見える人、見えない人

2017-03-16 08:35:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見える人見えない人」3月8日
 論説委員中村秀明氏が、『世界を広げる講座』という表題でコラムを書かれていました。中村氏は、『最近、街なかや駅などで視覚障害者を車いすを使う人をよく見かけるようになった』とコラムを書き始めています。その上で、『「ユニバーサルマナー検定」3級の講座』を受講したことを明かし、『よく見かけるようになった』理由を、『目に入らなかった、見ようともしなかった存在に気づくようになった』からだと解説していらっしゃいました。
 中村氏が受講した講座は、『「障害を価値に変える」という理念を掲げるミライロが運営』するもので、当日は、『障害はその人にあるのではなく、環境にある』という呼びかけに始まり、『マンションの玄関にある段差の写真を見て、何が足りないかを一緒に考える』という活動をしたそうです。
 つまり、人はそこにある現実をありのまま見ているのではなく、関心があるものだけが目に映る、逆に言えば関心がなければ、目の前の事象も見逃してしまい、心にも記憶にも残らない生き物であるということです。中村氏は、講座を受講することで、障害者への関心が増し、当然の帰結としてその姿を以前よりも良く目にすると感じるようになったということです。
 同じことは、教員と子供の関係にも言えます。子供理解が浅い教員、指導力不足とされる教員は、教室の中で、あるいは休み時間に子供の方に顔を向けていても、子供一人一人の姿が見えていないのです。
 授業中に見えているのは、「今日、欠席者はAさんとBさんだけ。出席者は31人」というような表面的なことだけで、ずっと弛緩しきった顔をしている子供がいることに気づかず、当然のことながらその子がなぜそんな表情をしているか考えを巡らすこともなく、授業が理解されていないことも自覚しないまま、毎日分からない授業を続けていくのです。
 また、いじめを受けている子供が、休み時間に加害者の子供たちに囲まれ、無理矢理教室の外に連れ出されようとして泣きそうな顔をしているにもかかわらず、独りぼっちの子供がいないからうちのクラスはうまくいっている、といじめを放置してしまうのです。
 子供の姿が見えない教員とは、子供というものを知らず、子供に関心をまたず、普通の教員に見えている光景とは異なる映画の書き割りのような光景しか目に入らない教員だということです。そして、学力低下や学級崩壊いじめや不登校といった事態に直面しても、「特に問題はなかったはずですが」と首を傾げるばかりなのです。そして「いつも子供の様子には気を配っていました」と本心から真顔で言うのです。
 教員として一日を終え、教え子の気になる表情や仕草、行動や言葉が一つも浮かばないようであれば、その人はまず間違いなく指導力不足教員です。30人の子供がいれば、必ず数人の子供は悩みや葛藤を抱え、教員に向けて無意識か意識的かはともかく、何らかの信号を送っているものなのです。無関心は教員の受信機にカバーを掛けてしまうのです。
 心当たりがあれば、一度、学校生活の一場面を切り取った写真をじっと見つめてみることです。子供の表情の思いがけない多様さに驚くはずです。

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