ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いくつもの「知」

2017-05-21 08:48:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「望ましい関わり方」5月14日
 書評欄に、「我々みんなが科学の専門家なのか?」(ハリー・コリンズ著、鈴木俊洋訳)についての、内田麻理香氏による書評が掲載されました。その中で内田氏は、『我々みんなは科学の専門家ではないが、それぞれの仕事や生活における専門知、「スペシャリスト専門知」の持ち主だ(略)そのスペシャリスト専門知を構成する重要な要素として、「スペシャリスト暗黙知」を考える。スペシャリスト暗黙知は、徒弟制などを通じて得られる、言語化はできない、専門家コミュニティー内で共有された知のこと』という著者の見解を紹介しています。
 内田氏によれば、著者は、スペシャリスト暗黙知をもつ者を「対話的専門家」と呼び、対話的専門家であれば、科学の専門家とともに論争に加わり、判断することができるとしているのだそうです。
 分かりにくいでしょうか。私の書き方が悪いのかもしれませんが、私はこの考え方に共感を覚えました。以下、私なりの解釈ですが、著者は、『専門家の信頼性をメタ的に判断する知として「メタ専門知」』という疑念を導入しています。そして、この「メタ専門知」を有するのが、スペシャリスト暗黙知の持ち主であり、非専門家は、中途半端に専門家を目指すのではなく、メタ専門知をもつものとして専門家の判断に関わり、専門家の判断の規範を管理維持する役割を果たすべき、という主張だと理解しました。
 さらに著者は、『スペシャリスト暗黙知を持たない者は、都合の良い事例だけを取り上げ、単純で極端な解釈をしがちで、人気や利害関係に頼ったキャンペーン合戦に陥ると警告』しているのだそうです。
 私はこれを教育行政に当てはめてみたのです。そうすると、学校教育についての専門家ではない人々の中で、ある分野においてスペシャリスト暗黙知をもつ者が、その「知」を生かして、対話的専門家として論争に加わり、教育行政の専門家である教委事務局職員の判断に対してメタ的に評価し、ブレーキ役や軌道修正役を担うという形になります。
 その際、対話的専門家は、中途半端に学校教育や教育行政を知ることが大切なのではなく、自分の職務や生活を通して身に着けた暗黙知を磨き深めることの方が求められるということになります。これは教委制度についてのあり方であると同時に、議員や首長と教育行政の関係についても方向性を示していると言えるのではないでしょうか。
 教育委員や議員・首長は、当然のことながら、それぞれのスペシャリスト暗黙知をもつ者だと想定できます。そしてその関わり方は、中途半端に学校教育について勉強し分かったつもりになって影響力を及ぼそうとするのではなく、自分たちのスペシャリスト暗黙知によって、事務局の判断をメタ的に評価することに徹するのが望ましいことになります。
 もし、中途半端な理解のまま、自分が学校教育や教育行政について専門知を有すると誤解して、関わり続けると、「単純で極端な解釈をしがちで、人気や利害関係に頼ったキャンペーン合戦に陥る」ことになってしまうことになるのです。
 ようするに、教育委員や議員。首長は、良識ある素人としての経験や知識、感覚を武器に専門家の暴走を防ぐという関係こそが、専門家と被専門家の理想の関わり方ということになるのです。これは、従来の教委制度の理念と合致します。首長による教育行政の直轄化は、非専門家が中途半端に専門家を目指し、不毛なキャンペーン合戦に陥る仕組みなのではないかという懸念はますます募ります。

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