(写真の出典は、和田義明氏、「和田フォトギャラリー」:http://wadaphoto.jp/index.htm です。撮影者は松本浩文さん:http://wadaphoto.jp/kikou/hogei3.htm です。)
アメリカは幕末ころ太平洋で散々鯨を捕獲し、油を灯油として販売し、莫大な利益を上げていました。日本へ開国を迫った一つの理由も捕鯨船の燃料や食料を補給する港が日本に必要だったからです。しかしその後、石油が出るようになって鯨油は売れなくなったのです。そのアメリカは昔の事をすっかり忘れて捕鯨反対をしています。
私は老人です。昭和21年に再開された南氷洋の母船式捕鯨船の活躍に勇気づけられ、捕ってきたクジラ肉を食べて育ったのです。当時は牛肉や豚肉は貴重品でした。それをシーシェパードという団体が妨害行動をとっているのです。身勝手を絵に描いたような行動です。
日本が南氷洋で母船式の捕鯨を始めたのは1934年といいます。戦争で中断しますが、1946年に再開されます。その捕鯨船の活躍が度々新聞に出て、国民的声援を受けていたのは1964年のオリンピックの頃までです。
ですから私のような戦前生まれの老人にとっては鯨を捕って、食べるのは一つの重要な食文化でした。
その捕鯨が禁止になれば、何か重要な日本の文化が消滅するようで寂しくなります。しかしよく考えると、食文化は時代と共に変わって行くのが普通です。食料の生産、供給、消費の様相が変われば人々の味の好みも自然に変わります。
最近の日本人は鯨を食べません。ホエール・ウオッチングやダイビングで鯨が悠然と泳ぐ姿を見て楽しんでいるのです。大海原に棲んで、回遊するクジラへ愛着を持っているのです。その愛すべき鯨をキャッチャーボートが追い回し、巨大な銛で打ち、そのまま母船へ引っ張ってくるのを残酷な行為と思っています。その上、母船の上ではその鯨を解体し切り刻んで、冷凍にしています。
若い年代の日本人の鯨との接し方が変わってしまったのです。おおむね捕鯨反対の人が多いようです。
このような時代に無理して鯨を食べなくとも日本には他に美味しい食べ物が豊富にあります。アメリカなどが捕鯨に反対するから止めると言うのは不愉快千万です。しかし自分の国の食生活が変わるのに従って自然に捕鯨を止めるのが良いと思います。食べたい人は食べられるように少し捕れば良いのです。捕鯨禁止を他国から強制される前に捕獲量を自主的に少なくする提案をすべきと思います。
捕鯨が民族の死活へ繋がっているエスキモーや少数民族の捕鯨は一切邪魔をしてはいけません。しかし日本やノルウエイのような先進国はそろそろ捕鯨を考え直した方が良い時期が来ていると思います。皆様のご意見は如何でしょうか?ご意見をお待ちしています。
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今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
>食べたい人は食べられるように少し捕れば良いのです。捕鯨禁止を他国から強制される前に捕獲量を自主的に少なくする提案をすべきと思います。
これが受け入れられないからこまっているのです。商業捕鯨は休止させられており、許される捕鯨は、先住民の生存捕鯨と調査捕鯨だけなのですが、先住民生存捕鯨というもの自体が、かなり人種差別的なものと、線を引くのが難しいのです。白人に土地を負われた先住民だけに捕鯨を認めるということ自体が、海洋資源を利用する権利を一部の人間だけに認めることになります。カリブ会の国やアフリカなどで、資源として鯨(イルカ)を利用したい国は、IWCに異議を申し立てるか、脱退することで捕鯨する権利はありますが、日本は、あくまでIWCのなかで商業捕鯨を認めてもらおうとしています。
調査捕鯨自体は、グレーの部分があるともいえますが、ルール上の違反はしていません。また、科学的なデータに基づく捕獲枠算定方式が確立したが、IWCは過去の合意を無視するアメリカ等が、審議に応じません。
最近の日本人が鯨を食べないのは、高いことと、流通が限られているからです。少なくとも、資源を守りながら需要に見合う捕鯨枠を確保することが悪いことであるとは思われません。
絶滅危惧種以外の鯨を取ることに、非科学的な反論を繰り返しているのはアメリカです。また、シーシェパードについては、欧米の世論を代表しているわけではなく、大半の人は、暴力的活動を否定しています。需要と供給の中で消えていくならそれはそれで仕方がないとは思いますが、反捕鯨の理論のうら側には、陣す差別や文化帝国主義につながる見逃せない問題があると思っています。