後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

韓国や中国のことに感情的になる日本人が多いのは困った問題

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、中国人や韓国人の悪口を言う日本人が増えています。その言い分は、常に相手が日本に対して意地悪いことをするからだというものです。しかし冷静に客観的に考えれば先方も同じ言い分なのだと考えるのが正しい判断というものです。

関係3国の政府の考えは別にして、将来の日本の真の平和を確実に守るためには防衛力の整備をしただけでは不十分です。
隣国の韓国と中国との友好が絶対的に必要になります。
国際間の友好は国民一人一人の友好も非常に重要なのです。あなた自身が韓国や中国を憎んでいたら平和を確実には守れません。
その上、あなたの憎悪は自分の人格を傷つけているのです。
外国を憎むより、外国を大切にすることが平和の基本になるとお考えになりませんか?

上記のようなものを机上の空論と言います。
もっと身近で切実な話をすることが重要だと思います。
例えば、「あなたは近所付き合いをしていますか?近所の人々は良い人ですか?」という問いを考えてみましょう。

近所の良い人々に囲まれて暮らしていれば安心です。良い場所に住んでいると幸せな気分になります。
私は近所付き合いが苦手です。なるべく付き合わないようにしています。これはいけないことです。分かっています。
ところが幸運にも家人が近所付き合いを見事にしてくれるのです。適切な距離をおいて近所の家の冠婚葬祭に礼儀を尽くしています。亡くなった方の命日やお盆には心を込めて花を贈ります。
私は家人のお陰で近所と良い関係を持っています。そうすると近所の人が皆善い人に思えます。嗚呼、良い住宅街に住んでいると感謝の気持ちが湧いてきます。
一言、付け足しますが、近所と全く交流が無くても良いのです。近所の人は皆良い人だと考えていれば、それで充分です。道路で会ったとき無理に挨拶しなくても、あなたの好意は顔に表れます。

日本人と韓国人、そして中国人との関係は「政治」というものが関係しますから上に書いた近所付き合いがそのまま応用されません。
各国の政治家は自分の権力を強めるために国家間の憎しみを煽り立てるものです。しかしそれに惑わせられて韓国や中国の一般の人々を憎むとしたら大間違いです。
兎に角、彼等は自分と同じような喜怒哀楽をもって生きているのです。
ですから彼等の飾らない日常の生活の写真を眺めれば自然に親近感が湧いて来るものです。
例えば下の1番目の写真は中國の蘇州にある道教の玄妙観の前を歩いている人々の写真です。

この写真には25人くらいの人間が写っています。是非、一人、一人の姿を眺めて下さい。あなたはこのような人々を憎めますか?

2番目の写真はこの玄妙観の道教の神様へお祈りしている女性の後ろ姿です。家族の幸せを祈っているに違いありません。

3番目の写真もお祈りしている女性の後ろ姿です。何を祈っているかは分かりません。
私はこのような写真をみると中国人に親しみを感じます。嗚呼、善い人々が隣国に住んでいると感じます。

すると日本人はすぐに尖閣諸島の中国海軍の嫌がらせ行為を持ちだします。私はそれを行なっているのは中國共産党の幹部だけだと理解するのです。一般の中国人は関係ないと理解するのです。

韓国人に関しても同じように考えています。
下の4番目の写真は韓国の朴壽根(1914~1965)という画家が描いた韓国の農村風景です。

右側に3人の子供が遊んでいます。左の女は頭の上に物を載せて運んでいます。平和な農村風景ですね。この絵に描いてある4人の人間をあなたは憎めますか?

そして5番目の写真は朴壽根と妻と幼い娘の写真です。ささやかな幸せにつつまれた家族の写真です。

もうこれ以上、クダクダと書くべきではないでしょう。
以上の写真は以下の二つの記事で掲載したものです。
「厳しい共産党独裁下の中国にもある宗教の自由」8月9日掲載記事
「こんなしみじみとした人生があるのですね、もう一つのお話」8月6日掲載記事

今日は皆様が中国や韓国の人々に親近感を一層強く持つようにお祈りいたします。 藤山壮人(後藤和弘)


野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログを始めたのは2007年の11月でした。それ以来、毎日のように拙い記事を書いてきました。
そしていろいろな経緯で知り合いになった方々へ寄稿をお願いして、数多くの素晴らしい作品をご紹介してきました。
今日、ご紹介する野津 一さんはインターネットを通じて6年前に知り合いました。
知的で人間性の溢れる魅力的な方です。日本を離れて長年、イギリスに住んでいらっしゃいます。
最近、何故イギリスにお住まいですかとお聞きしました。そしてそのご返事をブログに掲載したいのですがとお願い致しました。
以下はそのお願いにもとづいて書いて下さいました。完成度の高い一つの文学的な作品です。
その上、人間とは何であるかと深く、深く考えさせる内容です。
それと日本の社会とイギリスの社会の比較に興味深い描写があります。
いろいろと考えさせられました。
以下の作品のご感想をお送り頂けたら嬉しく思います。私も別稿で感想文を書いてみたいと思っています。
お忙しいなかご寄稿して下さった野津 一さんへ深甚の謝意を表します。
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野津 一著、「私のこと、そして皆様のこと 」


こんなことを言うと、怒られるかも知れません。
しかし、私、人間は基本的に「性的動物」だと思います。
更に言えば、この「性的衝動」を(少しでも)持つということが、実に「生きている」ということなのでは、とさえ思います。
そして、その「衝動」というの、「多くの場合は」は異性に向けられているのですが、それが、そんなに単純ではありません。
例えば、「男は女が好きなもの」というのは、「既成観念」もいいところ。
それ程、複雑なのです。
身体の一部分だけを見て、その個人の性別は決められるかもしれませんが、性向まで決めてしまうというのは、非常に短絡的です。
性別から性向を決めるとして、それが、「通り一遍」の判断から下されたものであったしても、大抵の場合、それで十分であることは確かです。
しかし、問題は、「十分でない」場合です。
今回のリオ五輪、陸上女子800米で金メダルを取ったカスターセメンヤ(Caster Semenya 南ア)。この人など良い例です。
誰が見ても、肉体的には、まず男(ただ、何か男としても変な感じですが)。でも、戸籍上は「女性」ですから、女性として、陸上800米の世界を蹂躙しているのです。
この女性は、いわゆる「両性具有者」の好例でしょうね(これは、医学的に証明されました)。
このカスターセメンヤ嬢の性別が、何か「変」というのは、誰の目にも明らかでしょうから、この場合は、皆様、人間の性別、そして性向を特定することの難しさはお分かりになられることと思います。
しかし、本当の問題は、その他の多くの、いわゆる「ゲイ」または「レズビアン」と呼ばれる人たちのことです。
「身体」だけから言えば、ごく普通に男とか女なのだけれど、その性欲対象が、異性ではなく、同性であること(ここで取り扱っている人達の大多数は、一般的に言って、この部類に属します。そういう私も、)。
その他に、。
バイセクシュアル。両性愛者(日本語でいう両刀使いですね)。
日本人に多いように思います。しかし、それは、日本人は、同性愛者であっても、結婚していることが多いですから、その様に感ずるだけだということかもしれません。
純粋な「バイ」もおられますが、ですから、自分の本当の性向を知らぬまま、結婚して子供をもうけたというゲイの人達も、この部類に入れておきました。
そして、最後のトランスジェンダー。この頃、日本でも、よく問題になる「性同一性障害症(Gender Identity Disorder)」です。
これは、これまで述べてきた人達と違って、自分の持って生まれた肉体及び性別に非常な違和感を感じ、手術をして迄、それを変えたいと思う人のこと(私、自分の持って生れた身体は好きではありませんが、それは、それが不細工だからのことです。しかし、だからと言って、別に変えたいとまでは思いません)。
そして、ここで重要なことは、この人達の「性欲対象相手の性別」が、さして問題にはならないということです。
テニスの女王、マルチナナブラチロバのかつての相方がそうでした。この人は、元々男性だったのですが、性転換し、マルチナの恋人になりました。ですから、彼は、普通に女性の好きな男性だったのを、敢えてレズビアンになってしまったのですから、何とも複雑です。
さて、私のことですね、。
私、早くから、自分が、他の男の子達と何か違っているとは、思っていました。
だって、その子達がすることを、殆んど何もしなかったのですからね。ただ、女の子と遊ぶということもありませんでした。まあ、話をすることもなかったですけれどね、。
しかし、それが一体どういうことを意味するのかはわかりませんでした。というより、そんなことを思ってもみませんでした。
元々、他の子たちと同じようになりたいという観念の希薄な子供でしたのでね。
まあ、それがはっきりし始めたのは高校生の時でした。ある人に出会ったからなんです。その時、初めてすべてのことが分りました。「ああ、こういうことなのか!」
それまでは、初心そのもの、本当に何も知りませんでしたもの、。
それから、20代に入りますと、それはもう全開といいますか、。
今思うと、私、その時、「罪悪感」というものが、全くありませんでした。
まあ、女性と接するということが、考えられなかったからだと思います、何故かと言えば、、。男か女かと迷うことがなかった、。
そして、24歳の時、ある男性に紹介され、完全に一目惚れ。
それが恋愛に発展し、その関係は日本を離れるまでの6年間続きましたが、あれは、紛れもなく、生涯で唯一の純粋な恋愛でした。
そんなことは、後にも先にもないことでしたので、このこと、今、貴重な宝物として、大切にしています。
ただ、私、どちらかというと「意思のはっきりしない男」。その為、多くのお方に多大のご迷惑をおかけいたしました。
私が恋愛関係にあったお方にもご迷惑をおかけし、お怒りを買いました。
それもこれも、私がいけないのです。
モゴモゴと、嘘ばかり、。
その時、私、20代の後半とあって、縁談が、少なからず舞い込んできました。昭和40年代の日本では、まだそういう風だったのですよ。
「結婚する気ある?」と訊かれて、「エエー」とか、いい加減な返事をするからいけないのですね。
女性には、かけらも性的興味はなかったけれど、「いい家庭を持ちたい」という意味での結婚願望ならありました。
しかし、それは、正しく「本末転倒」というもの。基本的には、その女性が「好き」でなければ、上手く行く筈がありません、。
それやこれやで、図らずも、「あの人は、煮え切らない、訳のわからない男」という不名誉な烙印を押されてしまった私、日本人にとっては、とりわけ重要な「信用」というものを、決定的に失ってしまいました。
そして、多くの人が、私の許から去って行かれたのはこの時です。
事情は分るだけに、何も言うことはできませんでしたが、寂しかった、、。
四面楚歌、、。
この時、欲しいと思ったのは、誰か、本当のことを一部始終打ち明けられるお人でした。でも、両親はすでに亡く、年の離れた兄姉は、私のこと、何か「腫れもの」に触るようにして、何も言わないし、。いわゆるゲイの人は知っていましたが、そういう人は、殆んどすべて結婚されていて、話にならないし、。
「何かあるのと違うのん?」の一言が、どんなに欲しかったことか、(まあ、誰にでも何かあるものですよ。、ましてや、行動の不可思議な人なら尚のこと)。
亡き母が、クリスチャンであった関係で、私も、かつてキリスト教の教会に行っていたことがあるのですが、米国に本部を持つ、この新教の教会、教義が余りに厳格で、つき離さんばかり、。その牧師さんには、とてもとても、こんな私の「悩み」など、言う気にはなれませんでした。仰ることが、分っていたからです。
そこで、すべての失敗を清算して、一から出直すために、何も計画を立てない「ヨーロッパ放浪」の旅に出ることにしたのです。
1975年3月30日。
私、30歳。
日本にいた時は、私、大学を出てから、いわゆる定職に就きませんでした。
日本の会社が、何だか軍隊みたいに思えて、嫌だったのです。何しろ、団体生活が苦手だったもので、。
ただ、仕事はしていました。塾の先生をしたり、家業を手伝ったり、。
しかし、前述のように、色んな失敗を重ねていましたので、そんな泥沼から抜け出すために、長い、当てもない旅に出たのです、。
只、これは単なる”思いつき”などというものではなくて、もっと若いときから、是非やりたいと思っていたことなのです。
(皆様の中にも、そういうことしてみたいとお思いの方、少なからずおいででしょう。でも、私の場合は、それを本当にやってしまうところが、非常識というか、バカというか、)
そして、それ以前は、経済的にまず不可能でした。
でも、そんなことを言っていると、絶対にできない。又、私、その少し前、30歳に手が届いてしまっていましたので、「今だ!!」。
なんでもいいから、そんな風にでも思わないと、絶対に出られない、、。
私、生来向こう見ずの横着者ときています。
皆様からすれば、余りに型破りで、無謀に見えることだとは思いますが、私自身は、不安など全くなく、生れて初めて日本を離れるという事にワクワク、、。
結果的にこの4ヶ月の「放浪旅行」は大成功でした。
2ヶ月のユーレイルパスを使って、ヨーロッパ各地の主な美術館を見て回るということだけは決めていましたが、その他は、足の向くまま、気の向くまま、、。第一、ガイドブックさえ持っていなかったのですよ。
そのパスが切れた時点で、海路英国に渡り、更に2ヶ月過ごしました。
英国と言っても、ロンドンだけですが、日本にいた時から馴染みがありましたので、すぐに好きになりました。
訪れたところで、好感を持ったのは、他にウイーン、フィレンツェ、そしてハイデルベルグ、、。
パリにも勿論行きましたが、私には、もう一つでした、、。
そして、気に入ったこのロンドンで、到着後間もなく、ジャックさんという英国紳士にお会いしたのです。
それも、奇妙な、全くの偶然から、路上で、(それには、非常に面白いエピソードが絡んでいるのですが、それについては、いずれ機会があれば、お教えします)。
ジャックさんは、上品で、大らかな、いかにも英国人といった感じの、とても良い人でした。
ロンドンでは、まあ、そのジャックさんのところに厄介になっていたのですが、いつまでもそんなことをしている訳にはいかないので、一度、日本に帰ることにしました(1年間のオープンチケットを持っている者の強みです)。
そして、8ヶ月後の翌年4月、今度は、ジャックさんを頼って、ロンドンに舞い戻ってきたという訳です。
仕事は、フリーランスの絵描き。因みにジャックさんは画商でしたが、これは単なる偶然に過ぎません。
絵は、日本にいたときからずーっと描いていました。
これは、「何か、一人でできる”絶対的な”生き方がいいな」という、何とも「青臭い」考えから出た選択でした。団体生活の苦手な人間、そしてゲイの男の考えそうなことです。
しかし、これは、まさに「世間知らず」もいいところというものではありませんか。
生活は、勿論楽ではありませんでした。だって、収入がほとんどないんですもの。
しかし、諦めずに描き続けていますと、その内、展覧会にも通るようになり、少しは拙い絵も売れ始めました。
それでも、生活が苦しいことには変りありません。
そして、ある時、あることがきっかけで、「鬱」症状になってしまったのです。
只、絵を描くことで、何とか生きているという状態がしばらく続きました。
しかし、そういう時にも、ジャックさんは、私にあくまで親切でした。
ある日、思いました。
「そうだ、日本へ行こう!」
私の「鬱」症状はたちどころに霧散してしまいました。
(そうすると、「鬱」の人というのは、要するに、どこにも「希望」が見いだせない人ということになるのでしょうか)
只、日本へ単に遊びに帰るのでは、つまらない、またそんな経済的余裕もない、。じゃ、「個展」をやろう、、。
そう決めると、余計に希望が湧いてきました。
しかし、私、何もかも(額造りまで)自分でやりましたので、日本に行くと決めてから、2年の準備期間が要りました。
そして、1976年に日本を離れてから、初めて、また祖国の土を踏みました。
日本の人に、どんな風に受け入れられるだろうかと考えると、不安でした。1989年10月のことです。
末期とは言え、いわゆる「バブル経済」の最中でしたから、実に13年ぶりに見る日本は、いかにも元気が良く、清々しく、、。
又、この京都での個展も幸い大変盛況で、多くの人に来て頂きました。
これで、少々自信がつき、精神的にも立ち直ることができました。
その後、もう2回、同じ京都で個展を開催し、主にそこから得た収入で、何とか英国での生活を続けていました。
しかし、何もかも自分でやっていたのですから、もうクタクタ、、。
又、いつも、経済的不安は覆うべくもありませんでした(それでも、何とか借金もせずに生活していたのですよ)。
そして、そんな「綱渡り」みたいな曲芸生活が、私の性格に投げかける「影」は大きく、その頃の私は、随分捻くれた、暗い人間でした。何かにつけて否定的。そして、その不安を一時的にしろ紛らす為に、人様に奇妙なことを口走ったり、またはのべつ幕無しに質問したり、、。
今から思えば、厭な男だったでしょうね。
「窮すれば、鈍する、、」
その頃は、私のなけなしの収入と、ジャックさんの国民年金とで、糊口を凌いでいたのですが、そんな生活も、1998年5月1日、終焉を見ました。
ジャックさんが亡くなったのです(その極めて「美しい」死のことは、他のところで認めました)。その時一緒に住んでいた英国南岸のブライトンのホスピスで。私、その時、52歳。
誰の目にも、私、定収入が必要なことは明らかです。
しかし、私、それまでに経験がありません。どうしていいのか分りません。しかも年齢が年齢で、と来ています。
只、ジャックさんがホスピスにおられた時(2日間だけでしたが)、そこの看護士さんの働きぶりに感銘を受けましたので、こういうことをしたいな、これなら出来ると、思ってはいました。
然し、この時も又、どうしていいのか分りません。
そこで、近所の職業紹介所に行って、病院の掃除夫の仕事を探してきました。
これなら、まず誰でも雇ってくれます。
はじめは「エイズ病棟」に行く積りをしていたのですが、結局総合病院に落ち着きました。ジャックさん没後、丁度5ヶ月の時。
この病院の掃除夫という仕事、真面目に手を抜かずにやると、非常にきつい仕事で、目に見えて、ゲソゲソに痩せました、。
ブライトンの病院で2ヶ月働いた後、ロンドンに戻り(私には、矢張りロンドンでないとダメなのです)、また病院の掃除夫として働き始めました。
「ロイヤルマースデン」という有名な癌病院でしたが、掃除夫にとっては、冷たい厭な病院だと思いました。
マネージャーも監督も好きではありませんでした。然し、そこで何とか更に9か月勤め上げ、ブライトンの時から言うと、11か月、掃除夫として働きました。
今思うと、本当によくやれたと思います。おまけに随分スマートにさえしてもらって、。ただ、この仕事で喜びが一つありました。それは、患者さんとお話ができることでした(ブライトンでは、お友達さえできました)。
掃除夫の仕事を辞めることが出来たのは、「准看護師」になる方法が分ったからです。無資格の看護師ですね。お手伝いさん。
主に、「老人科」で6年間、准看護師として働きましたが、初めから「もっと出来る」と思っていましたので、その3年目に病院から奨学金をもらい(そればかりか、准看護師としての給料も)、3年間、国立精神科病院附属の「看護科」大学に行きました(私、英国では何ら資格がないので、入試も受けました)。
それに入ったとき56歳、もちろん最年長です。そして、卒業したのが、何と59歳。
英国の大学は、看護学科と言えども厳しいので、出るのは簡単ではありませんでした。そして、そういい成績ではないものの、卒業できた時は、さすがに嬉しいでした(日本の大学を出た時より、はるかに、)。
卒業後、すぐにロンドン東部の精神科病院に仕事を見つけ、5年前、66歳で退職するまで、有資格の正看護師として、勤めました。本当は70歳まで行きたかったのですが、ダメだと言われました。
その前の、准看護師としての6年間を含め、実働期間たったの13年。
今は、それからの年金と、あと2つの年金(国民と個人)とで、まずまず生活はできていますから、有り難いものだと思います。
大体、こんなこと、日本では、不可能なのではありませんか。
私の勤めていたのが「国立病院」でしたから、私は国家公務員。それが、結果的に良かったのですね。
精神科の看護師という仕事、私には向いたものだとは思いませんでしたが(患者を肉体的に拘束することなど、私にはできない)、そういう点で、今となっては感謝しています。
ジャックさんの亡くなったのは1998年でしたが、その翌年、コリンさんという人と出会い、今はそのコリンさんと一緒に暮しています。とてもいい人です。
二人で家を買いました。ロンドンのグリニッヂ。
幸せです。
私、小さいときから、暖かい家庭を持つということに憧れていましたので、これが、私の望みうる、最高の家庭かもしれません。
日本からのお客様もよくあります。
これで、子供があれば、言うことはないのですが、こればかりはどうしようもありません。残念ながら、。
ジャックさんが亡くなってから、絵を描いていませんが、その分、絵をはじめ、芸術一般のことも、少しは分るようになったと思います。自分の絵の至らなかったところも、今は分ります。他の、もっと才能のあるお方は、そういうこと、早くからわかっておいでだと思いますが、愚鈍な私には、こんなに時間がかかってしまいました。
ところで、私にも、一度だけですが、「結婚」経験があるのです。
40代の末でした。まだ、ジャックさんご存命の頃。
女性には何の性的興味も抱かない私ですが、「良い家庭を持ちたい」という意味での「結婚願望」だけは人一倍強く、そんな私でも、何とか活路を見出せないだろうかと思い始めたのが、その発端です。
それと、何しろ高齢のジャックさん、そのジャックさんとの生活で、将来に対する不安は隠しようもありませんでした。ジャックさんが亡くなったら、余りの寂しさと不安とで、日本に帰りたくなるに決っている、それには「伴侶」が必要というわけで、京都で二度目の個展をした時に、まだ独身だという昔の絵描き仲間の女性に再会したのを幸い、帰英後、生れて初めて「ラブレター」なるものを書いたのが始まりでした。
然し、あれは、とてもとても「結婚」などと呼べたものではなく、お互いに日英間を往復していただけですから、「別居結婚」などという言葉ですら、生易しく響く程です。
土台、私のような、女性にこれっぽっちも性的魅力を感じない男は、「結婚」などという大それたことをしてはいけない、幾ら良い家庭を持ちたいという意味での「結婚願望」があったとしても、それは「本末転倒」というものです。
「結婚していないと、社会的信用がない」というのであれば、私は、残念ながら、その「信用」を享ける資格のない男なのです。
異性に性的魅力は感じないけれど、異性の友達を持ちたいのであれば、何らかの方法はあった筈です(それまで、私、自分の人生は「半円」だと感じていましたのでね、完全なる「円」ではなくて)。
只、私の場合、結婚にまで持っていかないと、決して異性と交わることは無いであろうと感じていましたし、それと、結婚して「普通の」世界に住み、日本の皆様のお仲間入りをしたいという願望も強かったものですから、。
私の犯した根本的な過ちは、まず打開策として、事前に彼女に全てを「告白」しさえすれば、それで全ては解決するだろうと多寡をくくったこと。そして何よりも、あらゆることを頭の中だけで計算し、それに感情が伴っていなかったことです。
矢張り、結婚の第一条件は、その異性が「好き」でなければ、、。
私の「性向」のことは、周りの人たちから、「彼女に決して言ってはならない」との”助言”を受けましたが(その時までに、日本の特定の人達には本当のことを言ってありました)、しかし、私にはどう考えても、避けて通れないことだと思えましたので、ある日、意を決して彼女に告白することにしました。
その時、彼女、殊更表情を変えるでもなく、寧ろ、私のことがもう少し分って、安心したようでした。私の「正直さ」を買って呉れたのかもしれません。
然し、実のところ、性的に初心な彼女、同性愛がどういうものか、全く分っていなかった様です。
彼女とは、曲がりなりにも「性交渉」はありましたが(ただ、喜びはありませんでした)、然し、そんな不自然な生活は、もとより先が見えていて、結局、彼女の方から別れ話が出ました。
「ああ、これで、人生の落伍者か」と思うと、暫くの間、気が滅入りましたが、矢張り、自分は結婚には向いていない人間だったのだ、とはっきり思い知らされ、落伍者の烙印を、甘んじて受けることにしました。
私の、この様な余りにも変則的な「結婚」は、かれこれ5年続きましたが、結局、一人の女性を不幸にし、その周囲の人たちにご迷惑をお掛けし、私はといえば、日本人にとっては分けても大切な「信用」というものを決定的に失ってしまいました。
ただ、この「結婚」から得る所もあり、その5年間、日本では、世間の人から「一人前」に扱って頂きましたし、家庭というものの雰囲気も少し味わうことが出来ました。女性も、少しは知った積りです。
然し、何にもまして大きかったのは、自分が結婚できない、また結婚してはいけない男であると分ったことです。
寂しいけれど、こればかりはどうしようもありません。
私の目下のパートナー、コリンさんとは、2006年の7月16日、Civil Partnershipを結びました。男女間で言う「結婚」とほぼ同じです。
ただ、それ以降、矢張り、自分の意識の中に変化が見られ、以前よりは「拘束感」がある。然し、それもその筈、土台、それを望んでのパートナーシップではなかったのでしょうか、。
いやましに、コリンさんが愛おしくなって来ます。本当にいい人です。最後まで、大事にしてあげようと思います。
私、目下71歳。コリンさんはその14歳上ですが、幸い、我々、二人共元気です。
最後に、、。
ここまで書いてきましたことは、私の筆名を除き、すべて本当のことです。
ただ、この様な私のもの言いも、大体、私の生き方そのものも、日本の表立った文化の中にはありません。日本人の「美意識」にそぐわないからです。
周知の通り、同性愛は、古今、日本という島国の至る所に存在してきました。
しかし、日本は根本的に「建前社会」。そこでは、同性愛は、あくまで「裏文化」であり、三島の愛した「葉隠」の世界です。
隠されているから、美しいのです。
本音が建前と違うからと言って、悪いということにはなりません。
それを西洋流に、何でも思っていることを堂々と言うとすると、日本人の感覚では「面白くない」ということになってしまいます。完全な裸より、何か一糸まとっている方が、逆に官能的ということですね。
昨今の日本では、結婚していない男性というものも別に珍しくなくなりましたが、私の年代の者にとっては、矢張り、結婚は大切な「社会の取り決め」であり、自分の性向の如何に拘らず、大抵、皆結婚していました。
それ程、結婚は重要なものであったのです。
従って、私と同年代かそれ以上の人は、たとえ同性愛者でも、概ね皆結婚していて、何とか子供を産み、それらも皆結婚させて、「社会的任務」を果せば、家庭外で何をしていようと構わないというのが、一般のケースでした。
私が、昔、日本に住んでいた時に知っていた同性愛者の人たちは、大抵そうでした。
そりゃ、私だってそうしたかったのは山々でした。そして、その人たちと同じ様に、社会の成員として受け入れられ、その上で「隠れた美」を味わいたかった、。
しかし、それがどうしても出来ませんでした。一度勇気を出して、試してみましたが、当然のごとく、失敗に終りました。
かの三島由紀夫だって、結婚して子供にも恵まれ、彼は、結婚というものに、概ね肯定的でした。だったら、この自分にも出来ないことはないだろうと、思ったのです、。
英国人の同性愛に対する姿勢は大分違います。
土台、これは、完全なる社会問題、人権問題、ひいては政治問題。
それ程、常に表舞台に引っ張り出されるのです。
大体、英国では、同性愛は、1957年「ウォルフェンデン報告」というものが出される迄、違法でした。従って、この国、それまで、密告、ゆすり、たかりの類が、後を絶たなかったのです。
ビクトリア朝の、著名なアイルランド人劇作家、オスカーワイルドの凋落ぶりをご存知の向きも多かろうと存じます。
彼は、結婚して、子供を二人儲けこそしていましたが、家庭を離れると、人目憚らぬ”クィーン”。しかし、恋人のアルフレッドダグラス卿の父親に摘発され、挙げ句の果て、投獄の憂き目に遭い、結局、パリで哀れな最後を遂げました。
信じられないことに、嘗て同性愛は「精神異常」の一つに数えられていたのですよ。それが、アメリカのDSM (Diagnosis & Statistical Manual of Mental Disorders 精神異常便覧)から取り除かれたのは、何と1973年のことでした。たった43年前です。
そして、昨今のCivil Partnership (及び、同性結婚)の導入。
これは、少数派ではあっても、何ら自分の責任ではない「性向」が基で、社会的に不公平な仕打ちを受けるのはおかしいと、様々な「圧力団体」が懸命に働きかけて、勝ち取られたものです。
その不公平さを、もう少し具体的に言いますと、例えば、その最も顕著な例は、「相続税」です。
この税金は、英国でも日本でも、普通の結婚している男女間では、一銭もかかりませんね。婚姻届さえ出してあれば、極端な話、形だけの夫婦でもいいわけで、いかに長年一緒に住んできた相思相愛のカップルでも、彼らが同性である場合には、相続額から控除額を引いた残高に、40%もの税金がかかるというのは、どう見ても不公平だというわけです。
この様に、英国での同性愛者が、今日与えられた地歩を獲得するまでには、斯くなる忍従の歴史があったのですよ。
日本でも、いつの日にか、そういう日が来ると思われますか。
私、そのことに関しては、概ね悲観的です。
一体、日英間では、人間の性向に関する、認識(捉え方)の土壌がはっきりと違うからです。
日本でも、昨今、ことに若い世代の中に、同性愛を社会的問題として取り上げたいという人達がおられる様ですが、根本的には、日本での同性愛は、まだ「美意識」の範疇でのみ扱われる事象の様に思われます。感覚の世界といいますか。
日本の、ストレートの人(異性愛者)の口吻にこういうのがあります。
「ボク、そんな”趣味”ないねん、」
それと、日本では、同性愛というと、性的行為の中でしか捉えられない人が多いのではありませんか。そうだとすると、それは如何にも、皮相な考え方です。
男女の恋愛をいうとき、それを性行為のみに限っては、誰も考えませんね。
それと同じことを、どうして、同性間の恋愛について考えられないのでしょうか。同性間にも真の恋愛感情が存在するということが理解されていない証左だと思います。
英国人から、よく受ける質問です。「日本では、同性愛、どの様な扱いを受けているの?」 返答に困ります。
最近のニューズで、一橋大の学生の自殺の話を知りました。
彼、自分のゲイとしての性向を、友人に告白したところ、それがネットで、広く皆なに知らされてしまったからというのです。学校に相談しても、取り合ってくれなかったとか。
これなど、日本では、同性愛のことが、きちんとまともに考えられていないからのことだと、私は思います。
(日本人は、何か社会的問題がある時、それを抜本的には考えない傾向があるのではありませんか。何とか、表面的にしろ、体裁が整えば、それでいい、。大きく波風を立てるようなことはしない、)
同性愛者であるというのは、別に恥ずかしいことでも何でもない、ましてや、それで自殺するほどのことでは更々ない。また、彼の友人も、それを人に言いふらすようなことではない、、。
それで、それに関して、私、ある人に、ネットを通じて「日本は遅れている」と言いましたところ、こんな答えが返ってきました。
「日本では、”奥ゆかしさ”という美徳があるのを、君は知らないのか!」
その人は、既婚者。家族には秘密で、同性愛者としていろんな活動をしておられるお方。よくあるパターンです。
私、その人の言われたことは分ります。日本人同性愛者の考えられておられることも、行動様式も理解できます。
しかし、自分は、どうしてもそれに与することができず、今こうして、英国で、この様に、自分の信念を通し、言いたいことを言って生きているのです。
大体、日本にいた時は、自分に、そして人様に嘘ばかり吐いて生きていたために、うまくいきませんでした、。ですから、私には、真っ当に、すくっと生きようと思えば、こんな生き方をするより手がなかったのですね。
少しも奥ゆかしくなどありません。
日本では、すべてのことが余りに奥ゆかしいので、多くのことが、表沙汰にならないという様なことが、よくあります。この「同性愛者」のことなど、典型的な一例です。
自分自身が、同性愛者であると人に知られるのが怖くて、私みたいな人間の言うことには、いくら、内心では賛同されていても、決してそうは言われません。
そういうお方、日本にいくらでもおられると思います。悶々として、、。上記の一橋大生など、そうだったのかもしれませんね。
英国では、今や、シビルパートナーシップはもちろん、同性結婚も存在するのですから、同性愛者が、ますます表に出てくるようになり、ゲイの有名人というのは、いくらでもおられます。
スポーツの世界でも(大英圏で、豪州水泳のIan Thorpeとか、または、英国飛び込みのTom Daleyとか)、また、政界でも経済界でも、。芸能界は言うまでもありません(ただ、面白いことに、芸能界の人は、自分の性向について、余り正面切っては言われません。何か、それをはっきり言うと、不利なことでもあるのでしょうね)。
英国の国会議員でゲイの人は、非常にたくさんおられます。その人たち、自分でそうはっきり公言されたのですから、本当のことです。カミングアウトですね。以前、大臣でそういう方がおられました。
(そして、英国のいいところは、そういう有名人が、一旦カミングアウトすると、それに関してのゴシップ記事がピタリと止ることです。いかにも大人)
ですから、同性愛者というのはいくらでもいるということですね。そんな土壌の国で、私如きがゲイであってもなかっても、それは、勿論どうでもいいことです。
まあ、慎ましい日本で、こういう状況が到来するとは考え難いですが、それでも、そういう人、水面下にいくらでもおられるということだけは、覚えておいてくださいね。
私、コリンさんという良いパートナーを持ち、幸運です。いずれ、我々もそのうちもっと歳を喰い、様々な問題も露呈してくると思いますが、その様な将来のことは、今心配しても始まりません。かつて、ジャックさんが亡くなったら、自分は日本に帰りたくなるに違いないと思っていましたが、現実に、そのことが具現化してみると、少しもそんな風には思いませんでした。その時はその時、それまで、楽しく精一杯生きるだけです。
そうとは言え、私、美しい祖国日本も、奥ゆかしい日本人も大好きですので、毎年、秋に日本に帰ります。今年も、10月に、。コリンさんも一緒です。
どうぞ宜しく。

インターネットに宗教の話題を書く時の私の姿勢

2016年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
世界的にはいろいろな宗教があります。
仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教などなどがあります。道教や儒教もあります。その上、宗教を一切信じない無宗教の人も少なからずいます。
ですから宗教のことをインターネットで取り上げるときは全ての宗教に公平な姿勢で書くようにして来ました。また無宗教の人にも不快感を与えないように、無宗教も良いと何度も書きました。無宗教の人を尊敬しているとも書きました。

このような姿勢は「どのような宗教にも絶対に優劣は無い!」という私の信念にもとづいているのです。そして宗教を信じる人も信じない人にも絶対に優劣が無いのです。
しかし例えばキリスト教のことを話題にしてその長所や短所などを書くと、他の宗教を信じている人々の中には「無視された!」と誤解して不愉快に感じる人もいます。
宗教の話題を取り上げて、真面目に書き進んで行くと、無宗教の人は、宗教を題材にして書いていること自体に反発します。
兎に角、宗教のことをインターネットの上で話題にして書くといろいろな誤解を生じる場合が多いものです。

しかしそれでも何故、私は宗教のことを書き続けるのでしょうか?
理由はたった一つです。「全ての宗教の間の相互理解を深め、無用な対立を少しでも無くす!」という目的で書いているのです。そして宗教を信じている人と無宗教の人との無用な対立や抗争を少しでも無くすためにに書いているのです。
この私の姿勢や目的をご理解して、好意的なコメントを下さる方々も沢山います。

なんでもそうですが、物事には善い側面と悪い側面があります。
全ての宗教の教義は皆善いものでしょう。しかしそれを人間が信じると問題が起きるのです。教義の一部分だけを自分の都合の良いように勝手に拡大解釈して、その宗教を利用して他民族を殺戮するのです。

それは現在でも中東で起きています。イスラム過激派のテロ行為もその一例です。
これはイスラム教が悪いのではないのです。イスラム教は絶対に良い教えなのです。単にその教えを、自分の都合の良いように勝手に拡大解釈して、その宗教を利用して他民族を殺戮している一部の人だけが悪いのです。宗教が悪いのではなく、人間が悪いのです。

このように書くと多くの日本人は一神教が悪いと異口同音に言います。そうして多くの日本人がイスラム教を、そしてイスラム教徒を嫌います。
同様にキリスト教やその教徒に違和感を持ちます。
やっぱり多神教の神道や仏教は平和的で良いと断言します。
そこで私は「ちょっと待って下さい」と言います。その態度は一神教を悪と決めつけて差別する態度に繋がります。
多神教と言えば中国も仏教と道教と儒教との多神教の国です。韓国も仏教と儒教と原始宗教の多神教の国です。しかしこの日本と中国と韓国の3国は過去の歴史において残忍な戦争を何度も行っているのです。

よく宗教が原因で戦争が起きるから宗教は無いほうが良いと言います。これは間違った理解です。悪い意図を持った一部の人間が宗教を利用して戦争を行なうのです。悪いのは宗教ではなく人間なのです。

宗教が悪いという人は宗教に対する理解が皆無なのです。
宗教が悪い、悪いと言いながら現在の世界から宗教を根絶することは非常に困難なことです。
何故かと言えば宗教には善い面があり、人々が熱烈に宗教を求めているからです。
宗教を信じていると此の世が楽しくなるからです。幸せな生活が送れるのです。こんな魅力的なものはありません。
よく宗教は、死が怖いから信じていると言う人がいます。宗教のことが分かっていないのです。宗教は死後の為にあるのではなく、如何に幸せに生きるかということを教えているのです。

お釈迦さまは此の世のことは一切空(くう)だと教えました。そして自分が死んだら骨を野に捨てよと言いました。一切、仏像は作るなと言って亡くなりました。死後、仏像の無い仏教が約500年間続いたのです。

最後にもう一つだけ書かせて下さい。
無宗教の人はよく言います。「宗教は人間の妄想が作ったものだ。神も妄想の産物だ。」とよく言います。正しいと思います。
しかし私は妄想の作った神の存在を信じています。妄想で作った宗教を信じています。
そうすると此の世が幸福に感じられるからです。それを戦争に絶対に利用しないことを守る限り宗教は悪くなりません。悪作用はありません。
如何でしょうか?皆さまの忌憚のないコメントを大歓迎いたします。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、富士山の麓の忍野八海のそばの「花の都公園」で撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)