後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の散歩の風景・・・巨木の林の中の集落

2011年01月28日 | 写真

近くの東久留米市の柳窪地域は巨大なケヤキ、ムクノキ、クヌギなどの林の中に農家が散在しています。こんなに大きな樹木の枝も切らないで自然の林のようにして保存しています。遠方から見ると、大きな林が平野に浮かんだ島のように見えます。今日はその柳窪の集落の中を散歩してきました。樹木が大き過ぎてカメラからはみ出し、構図に苦労しました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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男・女の事など、その三・・・男の友情

2011年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

老境になると自分の人生を振り返っていろいろ大切な発見をします。その一つに中学校以来、変わらぬ友情をよせててくれるS君がとても重要で、有難いことに気が付きました。私がいろいろな失敗をしても彼の私へ対する好意にはいつも変わりません。いつ会ってもニコニコして勇気づけてくれます。

S君と知り合ったのは茫々63年前の昭和23年です。戦災で焼け野原になった仙台に、進駐軍の命令で新制中学校が出来たのは昭和22年でした。

その2回生として入学し、S君と知り合ったのです。とても利発な少年で、絵が上手で何故か魅力的な性格です。すぐに仲良しになり、彼の家にしょっちゅう遊びに行きました。彼も私の家に来て一緒に鉱石ラジオを作ったり、忍者ごっこをして遊んだものです。

私の家は仙台の郊外の向山という所にありましたが、彼の家は土樋町の近くにあり、とても都会的な雰囲気でした。家が都会的な感じなだけでなくS君は東京言葉に近い話し方をします。そんな彼に洗練された都会の雰囲気を感じていました。絵画が得意だったせいか、彼は一生アート関係の仕事をしました。

新制中学校とはそれまで存在していなかった学校です。校舎も机もありません。しかし進駐軍の命令で全国に急造されたのです。校舎が有りませんから、我々の中学校は荒町小学校の教室を借りました。机も椅子も無いので家からミカン箱を持って行って机にしました。仙台第十中学校と言っていましたが、そのうち校舎が愛宕山のそばの遠藤山に新築され、愛宕中学校と名前が変わりました。

新しい校舎が完成したのは1年生の終り頃でした。その頃は流石に机と椅子が出来ていました。新校舎への引越しは生徒が全員自分の机と椅子を背負って2往復したものです。それはとても嬉しい出来事でした。木の香りのする校舎には生徒たちの笑い声が溢れます。そして先生達も嬉しそうに色々な部活を指導してくれるのです。

踏査部とか演劇部とか歴史研究部のようなものから庭球部、野球部、バレー部などなど全てが活発に動き出しました。S君は演劇部とバレー部で活躍していました。私も彼と一層親しくなったのは演劇部で一緒にいろいろな事をしてからです。

高校は仙台一校に入り、また演劇部で共に活動しました。一緒に松島湾でカッターを漕ぎ、カキ棚に乗り上げて青くなったりしたものです。

中学と高校の演劇部にはテレビマンユニオンの創立メンバーの村木良彦君もいました。残念ながら彼は亡くなってしまい、このブログで追悼記を書く巡り合わせになってしまいました。(あるテレビマンの死 )

村木君のお葬式でもS君に会いました。芝の増上寺でガッカリしている私を慰めてくれました。とにかく優しいのです。昭和35年に私が初めてアメリカへ留学するとき羽田空港まで送りにも来てくれました。

このブログを3年前に始めて以来、S君は、「もえじい」というハンドルネームで、好意に溢れるコメントを何度も送ってくれました。

S君の事を今振り返って考えると、それこそ「男の友情」と言うものなのだと理解出来ます。

私は彼の為に何もして上げませんでした。助けてあげた事もありません。勇気づけた事もありません。一切は利害を超えているのです。不思議です。と、ともに頭が下がります。

茫々63年前、焼け野原の仙台で知り合って以来、彼の友情は変わりません。こんな貴重なものはありません。S君、本当に長い間有難う御座いました。(続く)

下の写真はS君から頂いた今年の年賀状の絵です。

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事業仕分けと官僚のシビリアン・コントロール(Civilian Control)

2011年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

市民が選挙で選んだ政治家が軍隊を統制する事をシビリアン・コントロールと言います。私はこのシビリアン・コントロールの定義を拡大して市民が選んだ政治家が官僚を統制する事も含めます。そうすると、「官僚のシビリアン・コントロール」という新しい考え方が明確になります。以下はこの定義に従って論を進めます。

軍隊は軍事力だけから開戦を考えます。政治家はそれ以外の種々の国際関係の要因を総合的に考えて避戦と開戦を考えます。

同様に官僚は自分の部課の利益だけを考えます。政治家は市民の幸せを総合的に考えて政策を決定します。

民主党政権の最も特徴的な事は、この「官僚のシビリアン・コントロール」を実行しようとして事業仕分けを行っている事です。政治家が官僚の自由裁量で行っている巨大な事業の効果を市民の利益という視点から検討し、公開している事が従来の政治に無かった斬新な点です。しかし明治維新以来連綿と続いた官僚組織の強さは一朝一夕では崩せません。

そこで私は市民の個人個人が出来ることを提案いたします。官僚の仕事ぶりについて良いと思ったことはインターネットへ記載する事です。建設的に褒めるのです。官僚のあらさがしをしたり建設的でない攻撃はいけません。

まず私が何時も感心している官僚組織は市役所や地方自治体の役所です。健康保険や確定申告の事で小金井市役所を時々訪ねますが、何時行っても役人さんが親切で、明快に説明してくれます。住民票や印鑑証明を貰うときにも実に迅速で親切です。申請書を書く時も、受付机の外側に若い役人が走り回っていて申請書の書き方を教えています。官僚のシビリアン・コントロールの成果が素晴らしいと感激しています。日本が高度成長する以前の市役所の役人は威張っていて決して親切ではありませんでした。その当時と比較すると雲泥の差です。

現役の頃は、仕事の関係で経済産業省、文部省、環境省、外務省などの官僚と直接会った事がありました。そこで気が付いた事を、一つの定理のように書いて見ます。「民間人と接触の多い省庁ほど官僚主義が弱い」という定理です。民間人の考え方や組織の動かし方の影響を受けている省庁は民間人の利益を重視する傾向が強いのです。勿論全ての定理には例外があります。

しかしこの定理に従ってシビリアン・コントロールが行き届いている省庁を上位から書くと、経済産業省、環境省、文部省、外務省という順になります。

経済作業省の役人は何時も日本の産業の活性化を建設的、そして総合的に真剣に考えています。勉強も良くしています。その努力には頭が下がりました。

一番悪いのは外務省です。外務省は民間人と接触する機会が極端に少ないのです。外交という自分の城だけに閉じこもって勝手なことをしているようです。個人的な経験ですが、北京にある日本大使館を何度か訪問しました。それは官尊民卑の城でした。

ちなみにアメリカでは政権が代われば世界中の大使や領事は総入れ替えです。日本の大使は年功序列で外務省が独自に決めています。

少しずつ、少しずつ、日本の官僚主義が弱まれば良いと祈っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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