後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

七五三の御宮参り

2008年11月15日 | 写真

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毎年、季節がめぐり11月15日の七五三の御宮詣りの日がやって来ます。

近所の小金井神社へ七五三の風景を撮りに行ってきました。

子供達が少し晴れがましい、かしこまった表情をしている様子が可愛いのです。写真にそんな感じが出ているでしょうか? (終わり)


追憶の中の仙台(1)昭和22年、新制中学発足時の大混乱の体験記

2008年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、京橋の、「うすけぼー」という店で仙台市立愛宕中学校の関東地域の同窓会がありました。第一回卒業生から第四回卒業生まで35名くらいのこじんまりした会だったので、一人一人が数分ずつ昔の思い出話をした。聞きながら忘れていたことを次々と想い出した。

戦後すぐ、占領軍の命令によって教育制度の一大変革がありました。急に新制中学が全国に出来たのです。大混乱が起きました。その体験記を少し書いて残して置きたいと思う。

昭和22年の4月に新制中学校が発足しました。旧制の中学校は2年生から上が在校していますので並存していました。旧制では多くの人は小学校卒で働き出して、旧制中学校へ上がる人は少なかったのです。

それが新制中学校は義務教育になり全員が入学します。働くのは新制中学卒業後になりました。当然、校舎も教室も机も椅子もありませんでした。戦争で疲弊し尽した市町村には土地を買って校舎を作る余裕がありません。

仙台市には13校ほどの新制中学校が一挙にできました。愛宕中学ははじめは仙台第十中学校という名前でした。市内の荒町小学校と向山小学校の卒業生が全員入学するのです。校舎が無くとも制度上では始めなければなりません。仕方なく荒町小学校や五橋小学校の教室を融通してもらい中学教育が始まりました。机も椅子も無いので自宅からミカン箱を持って来て、板床に座って授業を受けました。

筆者が入学したのは新制中学が出来て1年後でしたが、荒町小学校の板床の上にミカン箱を机にして1年近く勉強しました。

それを見かねた、ある生徒の親で資産家の人が遠藤山という小山を寄付してくれました。愛宕山の南側にある小山です。上の方を平らにして校舎が出来ます。生徒は寒い冬の日、すでに出来ていた机や椅子を担いで引っ越しをしました。自分の校舎が出来あがった喜びにあふれて、冬のぬかる坂道を登って行ったものです。

先生方も嬉しそうに机を背負っていました。先生というば、以前は師範学校出と決まっていましたが戦争へ出征し数が足りません。思いだしてみると実に色々な経歴の人が混じっていました。戦闘機に乗って空中戦をしてきた先生、外地からの引揚者、軍需工場の監督、などなどで特に印象深かったのは寶塚出身の音楽の先生でした。歌が上手で、挙措がキリリとした美しい先生でした。昨日の同窓会で聞いたのですが、その先生は当時20歳だったそうです。

教育の内容はほとんど忘れました。ただ多くの先生が立身出世が重要であると教えていました。もう一つは科学技術が劣っていたのでアメリカに負けたと教えていました。科学者になれ、技術者になって日本を復興させるのは君達だとよく聞いたのだけは忘れられません。そのせいで、私は金属工学の研究者になりました。

当時は日本にはまともな舗装道路がなく凸凹道をバスやトラックが砂塵を上げて走っていました。空襲で焼け野原になった仙台では、青葉通と広瀬通という幅広い幹線道路を作りましたが舗装はできません。いつも土埃もうもうでした。人々は仙台砂漠と言って嫌がり、埃の立たない昔からの裏小路を通ったものです。

定禅寺通りのケヤキ並木が有名になったのはそれから30年位たってからです。

下の写真はWikipedeaの「仙台大空襲」から引用しました。昭和22年当時はまだ焼跡が点在し、荒涼とした風景が広がっていました。そんな状態なのに一挙に新制中学校を13校も新しく作ったのです。占領軍の命令は絶対でした。

(終わり)

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