観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「北方領土」「農業」を考察する予定(未定)。

「銅鐸」は鐸では全くなく、明らかに鈴(及び鈴木の由来に関する疑問)

2019-04-07 21:25:43 | 日本史
Eastern Zhou Dynasty Bronze Bells.jpg(古代中国、東周王朝の青銅製ベル(鐸)。紀元前6世紀頃。打楽器(ウィキペディア 2019/4/7)より)

極一部で既に指摘されているようですが、銅鐸ってそもそも鐸じゃなくて鈴らしいです。

個人ブログの記事(銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (1) ~ そもそも銅鐸とは? 日本古代史つれづれブログ)参照ですが

>佐原真氏(※日本の考古学者)によると、中国では英語のヘル(※原文ママ。ベル bell)に対応するものが3種類あるそうです。
「鐘」 ・・・ 紐で吊り下げられて、外から叩いて鳴らす。舌(ぜつ)はない。日本のお寺の鐘がそうですね。
「鈴(レイ)」 ・・・ 紐で吊り下げられて、揺らして鳴らす。舌がある。
「鐸」 ・・・ 柄があり、柄を手に持って鳴らす。舌がある。
ですから、中国本来の呼称では、「鐸」とは、”柄がついていて手に持って鳴らすカネ”ですから、銅鐸は「鐸」ではありません。「銅鐸」は、”柄がなく、吊り下げて鳴らす、かつ舌がある”ものですから、「鈴」に分類されます。

そういう訳で英語でいうbellは中国では鐘(カネ)・鈴(レイ)・鐸(タク)に分類され、日本の銅鐸はどう見ても間違いなく元来鈴なのであって、鐸であった可能性は1ミリもないと思います。日本が青銅の精錬を発明した可能性も全く無く、誤解を恐れず言えば従って「銅鐸」(青銅製の楽器)の起源が日本にあるはずもありませんので、輸入した(ないし参考にした)当初に鐸(タク)と呼んでいたはずがありません。鐸とは柄のついた楽器だからです。日本の「銅鐸(グーグル画像検索)」には必ず鈕孔という紐(ひも)が通る穴が開いており、普通に見れば手で持って振ることはありませんし(そうするためには柄が必要で中国で言う鐸がそれに当たります)、穴が開いているのに置いて使うこともなく、舌がありますから鐘のように撞いて使うはずもありません。

松帆銅鐸の持ち味と謎。脚光を浴びる理由。(南あわじ市)

>銅鐸がまとまって7個発見された。古い時期の銅鐸が一度に大量に埋められたことは特に珍しい。
>発見された7個の銅鐸のうち1個は、全国でも11例しかない、最古段階の菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)という形の銅鐸だった。他の6個は次に古い外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)という形の銅鐸だった。
>銅鐸と舌が一緒に発見されたのは、とても珍しいことである。7個の銅鐸のうち、6個の中に、吊り下げて鳴らすための青銅製の棒(舌)が入っていて、合計7本の舌があった。
>ひもが確認できたのは全国初!銅鐸の吊り手や4本の舌に、吊り下げるためのひも(組ひも・よりひも)やひもの跡が残っていた。殺菌作用のある銅イオンのおかげで、ひもは腐らずに残っていたと考えられる。
>松帆銅鐸の舌とひもの発見により、古い時期の銅鐸は、音を聞く銅鐸であることがわかった。何度も音を鳴らしたためか、舌の側面と銅鐸のすその内側にとてもすり減っている部分があった。
>松帆銅鐸が見つかった南あわじ市の「松帆」という場所は、過去にたくさんの銅鐸や銅剣が発見されている。海岸に近いこの地域は、青銅器を埋める神聖な場所だったのか!?
>松帆銅鐸の中には石製の同じ型(鋳型 いがた)で作られた“兄弟銅鐸”(同笵銅鐸 どうはんどうたく)があることがわかった。松帆2・4号銅鐸と慶野中の御堂銅鐸、松帆3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸(島根県)、松帆5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸(島根県)が兄弟である。同じ鋳型を何度も使ううちに、模様が欠けたりして鋳型に傷ができる。銅鐸の大きさや模様はもちろん、傷が同じかどうかで兄弟かを判断する。

そもそも銅鐸とは何かを考える時は初期の例が重要です。後述しますが、銅鐸は後に大型化し見る祭器に変わっていったとされます。起源である大陸の例からも舌があるその形からも当初は楽器でなかったはずがありません。その物証が淡路島松帆(南あわじ市)(淡路島北端明石海峡大橋付近で明石の対岸/後述しますが、銅鐸は境に埋納されたと言います)の銅鐸という訳です。ひもの跡があったなんて、何という奇跡。また、同じ型の銅鐸が島根県の出雲から複数出土しているというのも日本の弥生時代の状況を知るのに重要ではないでしょうか。加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡(島根県)は大量の銅製品の出土で話題になった出雲地方の著名な遺跡のようですが(特に荒神谷の大量の銅剣は考古学に関心があったら知らないものはいません)、出雲と畿内は弥生時代中期ぐらいには文化的に結構繋がりがあったということにはなるんでしょう。

日本で「銅鐸」と言われるものが当初に鐸(タク)と呼ばれていたはずがないということが分かってきたと思います(レイかスズだったはずでしょう)。考えてみればタクはそもそも音読みで読みからして時代が新しそうですよね。常識的に考えて訓読みが古い言葉です。弥生時代出土のものというイメージで古いというイメージなんでしょうが、必ずしもその呼びが古いものだったと限りません。後述しますが、銅鐸祭祀は破棄されたものと推定され、つまり言葉は失われた(歴史・文化は断絶した)とも考えられる訳です。出土したものを見て、当時の日本の常識で鐸に見えたから鐸と呼んだだけの話でしょう。ここで鐸という漢字を確認してみましょう。

(漢字一字 | 漢字ペディア)

>音タク
訓 すず
意味 すず。大きな鈴。「鐸鈴」

やはりスズです。銅鐸をドウタクと呼ぶこと自体が、完全に誤りだったということでしょう。銅鐸と書いてドウレイと読むか銅鈴に漢字を改めるか何が妥当か分かりませんが、鐸(タク)は柄つきなのですから、日本の弥生時代の銅鐸を当時の人がタクと呼んでいたはずもありませんし、起源である古代の大陸の人から見てあれを鐸と呼ぶはずもなく、考古学用語として銅鐸という言葉は失笑モノの誤りであることだけは間違いなさそうです。まぁずっと銅鐸と呼んでいるのですから、歴史用語として銅鐸は誤りではないと言い張ることも可能でしょうが、そもそも日本においても起源として楽器でないという誤解を生んでいるとしたら、歴史用語としても有害だなと言わざるを得ません(後述しますが、日本の銅鐸は大型化しており、基本的にイメージとして楽器のイメージがありません)。確かに日本文化では「銅鐸」は鈴というより鐸には見え(鈴というと風鈴とかの小型のイメージで確かに柄つきの鐸は柄をとって鈕孔の部分をつければ「銅鐸」に似ています)、誤解するのはもっともなんですが、もっともでも何でも誤解は誤解です。

南あわじ市の松帆銅鐸出土に関連して学者のコメントをブログ記事(元は朝日)で確認しますと

銅鐸、つり下げて使用か? ひもの一部を初確認 淡路島(銅鐸通信)

>奈文研の難波(なんば)洋三・埋蔵文化財センター長は「銅鐸は直接手に持って揺り鳴らしたという説もあったが、何かにつり下げて鳴らしていたことがはっきりした」という。
>兵庫県の弥生時代に詳しい森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員は「舌を外し、鈕や(本体から張り出した装飾部分の)鰭(ひれ)を垂直にした姿勢で埋めるという銅鐸埋納の『不文律』から、松帆銅鐸は外れている。そうした不文律が徹底される前の最古の様相を示している可能性がより高まった」と指摘する。
>銅鐸を研究している春成秀爾(はるなりひでじ)・国立歴史民俗博物館名誉教授は「銅鐸が作られた時期は鋳型などから推定されていたが、今回の発見で、ひもからは銅鐸が使われた時期、植物の葉からは埋められた時期が放射性炭素年代測定で絞り込めるのでは」と期待する。

松帆銅鐸は埋め方が特殊だったのが幸いだった訳ですが、古い時期(埋め始めた初期の時代か?)だからではないかという指摘など注目されます。いずれにせよ、「銅鐸」を考える上で、松帆銅鐸を外して考えることは出来ないと思います。

銅鐸(ウィキペディア 2019/4/7)からの孫引きで

>銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀においてである。和銅六年(713年)に大和国宇陀郡において見つかった銅鐸が献上されたと記されている。他の記録でも銅鐸の名称が見られる。
>12世紀の「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」など以後の記録では「宝鐸」と呼ばれた。

鐸がタクであったはずがありませんから(鐸と「銅鐸」に書かれていた訳でもなく(金石文)、同時代の史料もなく、つまり物証・史料的根拠は存在しない上、埋納である種の文化的断絶があるのも考古学的に明らかです)、8世紀頃には少なくとも中央政府で「銅鐸」を何と呼ぶか分からなくなっていたのでしょう(日本の古墳には墓誌がなく、伝承はあっても被葬者に関して議論もあって、歴史的常識として如何にもありそうな話です)。弥生時代の終わりを古墳時代の開始の三世紀末と考えると、弥生時代の終わりから500年近く経っていますし、畿内における銅鐸埋納の時期から考えるともっと経っているのも間違いありません。500年前というと、今から見て室町時代の頃の話で、弥生時代を直接的に伝える記録もほとんどありません。なおウィキペディアの記述では、「銅鐸は銅製で鐸のような形をしているので「銅鐸」と名付けられたが、銅鐸のように吊るして使用されるものは本来は「鐘」と呼ばれる。そもそも楽器であったかは定かではない。」とあり、一般的・教科書的な認識に近いですが、舌があるのは鐘ではありませんし、撞いて使った物証もないようです。吊るして使い舌があるのは鈴で鐸はスズとも訓じられるなら、もう答えは分かったようなものです。古の鈴を見て当時の常識で鐸に近いと思い、誤解が定着してしまったという訳です。

ここで中国の半島の史書(魏志東夷伝馬韓(※百済))に「諸国には「蘇塗(そと)」と呼ばれる別邑がある。その中では、大木を立てて鈴や鼓を吊り下げ鬼神を祭っている。」という記録があるようです(魏志韓伝 鴨着く島おおすみ/個人ホームページ参照。出典未確認)。勿論馬韓人(要は朝鮮人ないし南下した高句麗と同族のツングース)と日本人は違いますが、文化は朝鮮を通って伝播したとも考えられ、参考になるはずです。「銅鐸」が当初は吊り下げていたとして、吊り下げた場所は(建物では恐らくなく)木だったのではないでしょうか?馬韓の鬼神ですが、卑弥呼は鬼道をしたと同じ魏志の倭人伝にもあります(ただし卑弥呼の時代には少なくとも畿内で銅鐸は既に埋納されていたんじゃないかと思います)。

日本の銅鐸のルーツ?/中国で青磁器の「鐸」出土(四国新聞社 2006/02/09)

リンク先の中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)を見ると(個人用に保存しましたが、著作権が分かりませんのでアップしません)、これは明らかに鈴です。銅鐸と形が同じだから鈴な訳です。年代はよく分かりませんが、「中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770-同221年)の地方国家、越の貴族墓」とあり、日本に対する影響を考えるのであれば、同年代の日本出土の銅鐸を見なければなりませんが、写真を見る限り、形は鈴であるものの全く似ていません。鈕孔のある「取っ手」の部分が小さ過ぎるんですよね。日本の銅鐸の古形をキチンと確認した訳ではありませんが、どうも最初から「銅鐸」の鈕孔のある「取っ手」の部分は(舌のない)「鐘」の部分の延長線上にあるようです。越の「銅鐸」は形が大きいにせよシンプルにより鈴らしいと思え、形が全然違いますから、これは寧ろ日本文化(弥生文化)が越由来でない物証ではないでしょうか。筆者の推定では稲作文化は大陸においては「斉」(山東半島)から(朝鮮半島を経て)来ているはずです。

中国の考古学者が鐸と鈴との区別もつかないなんて不審過ぎますが、(時代的・地理的に)タコツボ化していて分からないのか、嘘を教えられたのか、(自分のところの文化も分からないぐらい)学問レベルが低いのか(自分のところの文化ですら日本・欧米の後追いをしているとでもいうのでしょうか)、単に日本人が分かっておらず勘違いしたのかは知る由もありません。

銅鐸の謎を探る(野洲市ホームページ※滋賀県)(銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)は物凄い研究レベルのように見えますね。さすが専門博物館です。ただそもそも「銅鐸」は鐸じゃないと思いますが、その辺は大陸の考古学や歴史史料が専門じゃない限界でしょうか。「許可なく無断転載を禁じます。」とありますが、引用(一般的ルールを守った著者の許可ない無断転載は)は当たり前なんで、その辺(誤解を招くような記述)は注意してほしいと思います。例えば政治家が何言ったっていうのを政治家の許可ないとコメントしていけないってならないでしょう?自分で通りに出した看板を読むななんて有り得ないでしょう?公開すること=一般的なルールに則った引用を認める・個人的な利用を認めるということです。時々分かってない方がいるような気がします)

>銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様であり、銅鐸が共同社会の祭器として用いられたと考えました。
>銅鐸には何らかの紋様が鋳込まれています。銅鐸の祖形として有力なものに朝鮮小銅鐸(ちょうせんしょうどうたく)がありますが、朝鮮小銅鐸には紋様がなく、銅鐸はわが国で独自の紋様が鋳込まれ成立したものです。

「銅鐸」は弥生文化に共通する日本文化と言えそうです(銅鐸は日本の朝鮮の銅鐸を参考にしたと考えられますが、同じでない=つまり移民が持ち込み、移民ごと拡散したものではないとも考えられます。つまり文化の伝播というか受容です)。学者を含め日本人の9割が誤解しているような気がしますが(縄文人=在来系、弥生人=渡来人のステレオタイプが誤りと言っています。縄文人は確かに在来系ですが、弥生人も概ね在来系つまり縄文人の後身と言え、にも関わらず分かりにくいですが、縄文人がそのまま徐々に弥生人に変化した訳ではありません。筆者の考えで分かりやすく説明すると、渡来系を受け入れた九州縄文人が所謂弥生人でこれが拡散し、隆盛を誇った東日本の縄文人を吸収したと見ます。日本人が日本の中で「移民」したと言え、縄文人が弥生人で区別をとるステレオタイプもまた基本的には誤りです)、考古学的には渡来人=弥生人が有り得ないと言えると思います(他に例えば「列島初期稲作の担い手は誰か」(すいれん舎)・「弥生の村」(山川出版社)。日本の弥生文化は朝鮮文化でも中国文化でも満州文化でもありません。これは言語学(日本語は朝鮮語でも中国語でも満州語でもありません)でも遺伝子(「新版日本人になった祖先たち」(篠田謙一 NHKブックス))でも同じです。骨を見る人類学者が誤りを広めたんじゃないでしょうか(各種前掲書にそうした指摘は見られます)。人口増加率に差があれば、(長い時間をかけて渡来した)比較的少数の渡来人が遺伝子により大きな影響を与えることは可能です。

>銅鐸の絵には弱肉強食や農耕賛歌といった一連の物語がうたわれているとする解釈が有力です。
>人物は、弓矢をもつ狩人のほかに、盾と戈をもつ武人、脱穀(だっこく)をする人、ケンカの仲裁をする人、イチ字型工具をもつ人(魚とり)などがいます。先の一連の銅鐸では女性を三角頭、男性を丸頭で表現しています。鳥は祖先の霊(祖霊)や穀物の霊(穀霊)を招く神聖な動物だったと考えられます。弥生時代のムラからは鳥形の木製品が出土することがあり、朝鮮半島では村の出入口にソッテという鳥竿(ちょうかん=鳥形木製品を取り付けた竿)を立て、祖霊を祀っています。シカは単独で描くほか、列で描かれるもの、背中に矢を負ったシカや大きな角をもつシカと狩人が一対で表現されたものなどがあります。鹿は最も利用価値のある狩の対象物として、また弥生人にとって豊穣を表す象徴だと考えられていたのかもしれません。

鳥と鹿が神聖なものであったというのが示唆的です。そもそも弥生時代と古墳時代は前方後円墳によって分けられ、土器によって区別されるものではありません。古墳時代の土師器は弥生土器の流れを汲むものであり、朝鮮半島から製作技術が伝わり生産が始まった須恵器は古墳時代中期(5世紀)以降で土師器と並存したようです(土師器と須恵器 鳥取県立博物館)。そう考えると(古墳時代と弥生時代の連続性を考えると)神別の天孫族で土器を作った土師氏を渡来人と見るような見方がやはり誤りと考えられます。天孫族とはつまり弥生時代の始まりである九州から大和に来た日本人(渡来人・渡来文化を吸収した九州縄文人=弥生人)ではないでしょうか?ただし弥生土器そのものは縄文土器とは違い大陸系文化の影響が強いようです(やはり移民ではなく伝播のようではありますが。この辺は度々触れていますが、納得いかず興味のある方はご自身でお調べください)。

ともあれ鳥は伊勢神宮の神鶏・鳥居・常世の長鳴鳥(記紀神話・日本書紀に言う天の岩屋)との関連性が考えられますし、鹿は太占(フトマニ)や春日大社の神鹿との関連性が考えられます。日本の祭祀は農耕に関連が深いことも言うまでもありません。

>鉛同位体比によると弥生時代中期の銅鐸や銅矛は朝鮮半島産の鉛を用い、弥生時代後期の銅鐸や銅矛は中国華北産の鉛が用いられたようです。
>遺跡から発見された銅鐸鋳型をみると北部九州からも出土しているものの、その中心は圧倒的に大和、摂津を中心とする近畿地方です。このことから銅鐸とその祭祀は、近畿地方で考案され、周辺地域へ波及していたことわかります。
>北部九州でも銅鐸や青銅製の武器形祭器が鋳造されていますが、北部九州では基本的に終始石の鋳型を用いています。近畿地方が石の鋳型から土の鋳型に移行した背景には、近畿地方が北部九州を介することなく、中国や朝鮮半島と直接交流を持つに至ったことがと推定されます。鉛同位体比による原産地推定も弥生時代後期には中国華北産鉛が使用され、これらによって巨大な銅鐸鋳造が可能となったのでしょう。土の鋳型は奈良県田原本町の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡を中心に出土しています。唐古・鍵遺跡遺跡では銅鐸のほかに銅鏃や銅戈、銅剣などの青銅器もつくられ、一大鋳造センターであったと考えられます。その一方で弥生時代後期になると畿内に限らず、近江や東海・北陸地方においても土の青銅器の鋳型や鋳造関係遺物が発見されており、青銅器鋳造が近畿地方の中枢部のみでなく、遠隔地の拠点集落などでも行われていたようです。

弥生時代の開始が北部九州に始まることは明らかですが、途中から大和が優勢になったことが考古学的にも明らかのように見えます。これは元々の生産力(面積の広さ)や東国との繋がりによるものだと考えられます(スケールは違いますが、イギリスを開拓地のアメリカは圧倒します)。記紀神話で皇室のルーツは日向(九州と考えられる)とありますが、魏志倭人伝を見ても(異論は誤りでしょう)史料的にも大和が九州を征服する流れです。これは古墳の広がりでも裏付けられますが、古墳の開始期を移民によって捉えるステレオタイプが完全に誤りで、元々その時には既に大和が九州を圧倒するような形勢だったと考えるべきではないかと思います。一時期流行った騎馬民族説も然りで移民で民族交代が特に日本のような島国でそうそうあったと考えるべきではありません。恐らく時代が比較的新しい大規模なものは弥生時代の開始期や大和朝廷の東北進出・和人の蝦夷地進出(沖縄も恐らく同じ)といった最初の一回だけだと筆者は思います(その最初の一回が渡来人では全くないことは既に指摘しました。他にオホーツク人といった北からの移民(オホーツク人=アイヌ説も誤解だと思います)及び旧石器時代あたりの北回り・氷河期なんかは考慮する必要があるかもしれません)(詳しく繰り返しませんが最初の一回もなく縄文人から弥生人にただ移行したのだという見方も誤りだと思います)(「神武東征」を外国人と存在否定の二拓で考えるのが誤りで、誤りの原因に古い時代の日向(宮崎県)の考古学的状況や日本の地理的歴史的常識があると思います)。

近畿地方が北部九州を介さなかったとすれば、出雲を介していたと筆者は思います。これが記紀における出雲の重要な扱いに繋がるのではないでしょうか?始めから出雲を想定するのはアウトでしょうが、一度北部九州から大陸へのルートが出来てしまえば、北部九州の沖を素通りするルートは決して不可能なものではありません。後の時代ですが、朝鮮半島をカットして渤海と日本は通じています。呉鏡の存在はあるようですが、少なくとも畿内勢力が北部九州(関門海峡)を抑えられて、大陸と通交するのはこの時代、かなり困難だと考えられます。また、関門海峡も抑えられない九州勢力に畿内勢力が手を焼く可能性も無さそうです。

>銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。
>銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。
>地中保管説

埋めてしまうと錆びてしまうようで、地中保管説は考えにくいようです。埋められた場所も村の境界だったりするようで、貴重品をそんなところに埋めてしまうと盗難されてしまう恐れもあります。どうも埋めさせられたことを想定した方が良さそうです(そんなもの誰も掘り返したりはしません)。寧ろ錆びさせて使えなくさせることが目的という訳です。これは記紀に銅鐸祭祀がないことにも符合します。

>扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式新段階には、各地に地域的な銅鐸群が生み出されるようになり、銅鐸祭祀は地域ごとに展開したかにみえます。

一案として畿内の勢力が(自分達の)銅鐸祭祀を普及させる時に古い(銅鐸)祭祀を止めさせたことが弥生時代中期後半の埋納の原因と考えることも出来るかもしれません。あるいはこれに九州勢力の東漸を絡めることも出来るかもしれません。九州勢力が畿内の古い(銅鐸)祭祀を止めさせ、新しい銅鐸祭祀を畿内を拠点に広めたという訳です。これが時が経つにつれ、再び地方の特色が出てくるようです。再地方化は古代官道の途絶や武士(軍事貴族/源氏や平氏は皇族の出)の土着といった文脈で理解できます。

>同じ銅鐸を用いながらも、近畿地方と東海地方ではやや異なった銅鐸を使用しており、それらを近畿、東海勢力の政治的しくみと対立などと解釈する考えもあります。しかし三遠式銅鐸に絵画銅鐸が残り、内面突帯に摩滅痕跡が認められることなどから、三遠式銅鐸は古い銅鐸祭祀を継承するものだと考えられ、近畿式銅鐸は畿内が先導する新たな宗教的・政治的な祭器だと考えられます。

普及させることは出来るのですし、それ以前にそうしたのですから、普及しない理由があったと考えるべきだと思います。魏志倭人伝の邪馬台国が畿内はもはや考古学的に(その他傍証もありますが端折ります)間違いなく、対する狗奴国はその実力と位置から東海地方しかないような気もします(他に関東?あるいは北陸。この時期に東北はありえず、畿内以西を想定するのは北部九州まで連合していることから難しいでしょう)。これを否定するなら、他に狗奴国の位置を考えねばなりません。農業生産力とかで東海が畿内にそう劣ることもなかった(だから戦いになった)んでしょうが、大陸との窓口を押さえられた畿内が有利だったんだろうと思います。以前の畿内に似た銅鐸祭祀というのが技術の違いと言えるでしょうか。必ずしも技術の先進性が戦争の勝敗を分けると思いませんが、古代畿内勢力は随分強かったように思います。

>弥生時代中期まで、銅鐸を鋳造していた畿内からは、弥生時代後期の大形銅鐸の出土例が極めて少なく、畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡など用いた新たな祭祀へと移行したようです。その一方で、畿内は近畿式銅鐸を用いて、東海地方など周辺地域との政治的連携を模索したようで、三遠式銅鐸が使用していた東海地方では遅れて近畿式銅鐸が入り込んできます。

近畿式銅鐸が入り込んだところが畿内勢力に与したところではないでしょうか。前方後円墳もこれに似たところがある感じですね(古墳時代前期前半に東日本(東海・関東地方)で前方後方墳が多く造られたなど地域性が見られ、狗奴国=前方後方墳という見方もありますが、巨大な前方後方墳は畿内という批判もあります。この辺はあまり厳密に考えずに圧倒的に力がある畿内が前方後方墳を巨大に造ってみせたのような理解もできるかもしれませんし、何らかの血縁関係も考えられます。豊臣秀頼の妻は徳川秀忠の娘ですが、妻問婚の古代日本で母系の祭祀を引き継いだと見ることもできるかもしれません。古代日本の畿内における遷都の多さは母系重視と関係があるという説もあるようです)。南北朝の争いなんかを見ても、特定の地域で支持が入り乱れるような状況に違和感はありません。畿内勢力はあえて差別化して銅鐸の形式を変えたと見ることも出来るかもしれません。

>近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。

銅鏡祭祀とか新しい祭祀をやりたくなったのかもしれませんね。これを王朝交代と結びつける見方もありますが、早計ではないでしょうか?遣隋使とか遣唐使で文化を輸入し大きく変えたからと言って、王朝交代したなんて主張する人は存在しません。古墳時代への移り変わりの時期には魏志倭人伝参照ですが、中国からの使者が到来するのような画期もあると考えられます。故意の破壊が問題ですが、海外事例でもあるものの、秦の始皇帝の焚書坑儒が類似事例に挙げられるかもしれません。王朝交代というより統一に伴う宗教弾圧という訳です。日本の事例で言えば明治維新に伴う廃仏毀釈も皇室は変わってないという言い方もできそうです。記紀における古墳時代の最初の天皇は崇神天皇と言われますが、鬼道をやっていた卑弥呼(や台与)の存在が見えないと言う人もいます。筆者は倭迹迹日百襲姫命や豊鍬入姫命だろうと思っていますが、この辺は「祭祀の交代」に関連する可能性が無いとも言えません。いずれにせよ、古墳時代の開始期は「最初の」「日本」の統一だと位置づけられ、参考にすべきは秦の「始皇帝」の事例なのかもしれません。大和朝廷は連続していたものの「日本人」を統一するに当たっていろいろやったと考える訳です。インドにおいても十六大国の時代を治めたマガダ国マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を深く信仰したことで知られます(当時の記録によれば中央インド統治にとって最大の障害だったカリンガ国征服の際、「多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。」のだそうです。ウィキペディア「マウリヤ朝」2019/4/8参照)。統一するのに地方色は邪魔でしょうし、それは最初の統一であればあるほどそうなんだろうと思います。違いが大きすぎるとそれはもはや別民族なのでしょうが、ひとつの農耕民族が拡散して、「地方」がそれそれ個性ある独立国を築く場合が歴史に多く見られます。元が一緒という意識は恐らくあって、であるがゆえに統一への求心力もある場合がありますが、(一々例を挙げませんが)その辺は言語や宗教というより地理的区分が重要かもしれません。とにかく「王朝交代史観」「民族交代史観」「漸進的変化絶対史観」が誤りの温床だと筆者は考えており、銅鐸祭祀の破壊・放棄を安易に王朝交代・民族交代に結びつける見方に筆者は否定的です。

さて話はここで鈴木に飛びますが、鈴木の由来は「和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)の方言で「積んだ稲の穂」を意味するスズキから穂積氏が平安時代に称したと伝える」というふうに伝えられてきました(鈴木 日本姓氏語源辞典)。しかし、穂積(ホヅミ)はそのまま「積んだ稲の穂」ですが、「積んだ稲の穂」をスズキと言うなんて、幾ら考えても理解できるものではありません。

これはひょっとして鈴木とは鈴=銅鐸を吊るしていた木のことではないんでしょうか?銅鐸を弥生時代に鈴と呼んでいたならこれは理解できます。銅鐸は弥生時代の日本を特徴づける祭祀です。少なくとも銅鐸を木に吊るしていたなら、その木にも何らかの名前があったはずです。銅鐸は畿内中心の文化ですが、後に廃棄されるものの、周辺にはしばらく文化は残っていたようです。畿内から見て古風な熊野の文化を見て記紀神話が創られた可能性も考えられます。埋納された時期とのズレがあると仮定しても何らかの形で鈴木の名が残ったとも考えられます(神聖な木を鈴木と呼んだとか)。

さて「銅鐸」の材料ですが、初期のものほど錫(すず)の含有量が高いようです(古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて 計測と制御1989年8月 平尾良光>初期の銅鐸にはスズが10%以上、鉛7%程度と高い濃度である。中期にはスズが5%程度とはっきり低くなっているが、鉛は7%程度とあまり変化ない。後期になるとスズは4~5%と中期とあまり変化はないが、鉛が中期の半分くらいの3%程度となっている)。錫の生産地が何処か検索で分かりませんでしたが、日本でも産出するようです。銅鈴文化と錫の名前の一致は何か関係あるのかもしれません。

畿内辺縁の伊勢の川に五十鈴川もあって、鈴という言葉が地名にあるのがどうも不審です。弥生文化を代表する銅鐸(スズ)文化が地名に残ったと考えれば理解しやすいと筆者は考えます。

縄文時代から日本に鈴文化はあったようです。縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれ(ウィキペディア「鈴」(2019/4/8)参照)、世界各地に鈴はあったようです。土器製作能力があった縄文時代で土鈴が出土するようです(縄文時代 土鈴 グーグル画像検索)。弥生時代に朝鮮小銅鐸を見て、楽器として(土)鈴の一種だと認識して、銅鐸をスズとそのまま呼んだ可能性があると思います(ただし紐穴はないようで、使い方は握って振ったか、紐でグルグル巻きにしたかもしれません)。いずれにせよ、鈴(銅鐸)を鐸と説明されなかったでしょうし、レイ(朝鮮語/満州語で何と言ったか知りませんが)をそのままレイと呼ばず、楽器繋がりでスズと和語に置き換えたような気がします。同じものを造らず差別化したのは当時から民族が違っていたからでしょうが(つまり渡来人=弥生人説が有り得ません)、わざわざ差別化して造るメンタルと和語で表現するメンタルは同一のもののような気がします。

銅鐸をスズと呼ばず別の何かで呼んで、縄文以来の鈴が地名に残った可能性も否定は出来ませんが、いずれにせよ、銅鐸が鐸ではないことだけは間違いないということは強調されるべきですし(鐘でもなく鐸は鐸で別のものです)、当時の中国人に言わせれば、銅鐸は銅鈴だったはずです。見た目は似ているにせよ、振って使う楽器と吊り下げておく楽器では決定的な違いがあります(勿論吊り下げておいて風で揺れたり体を動かす時の振動で音が出る楽器が鈴なのであって、撞いて音を出す楽器が鐘ですから、これの混同も有り得ないということになります)。楽器を浅く見た目で分類するのが誤りで、音を鳴らして使うことにより、細部の違いの重要な意味が見えてくるということになるんでしょう。全部bellだという文化も間違いではないでしょうが、こと中国文明圏(当時)で「銅鐸」を鐸と表現するのはかなり恥ずかしい間違いのような気がします。

巨大化したという「見る祭器」の後期の「銅鐸」も特に理由がない限り(物理的に音が鳴らないというのでなければ)、この鈴という意味で楽器と見るべきではないでしょうか?注連縄なんかも巨大なものもありますし、鐘も非常に重いのがブラ下がっています(現代のものは鎖でブラ下がっているようですが)。鈕孔の大きさが気にはなりますが、「銅鐸」は基本的に吊り下げられるものという前提でないと鈕孔の意味が分かりません。

銅鐸に伴う「舌」について(服部信博 愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要3)参照で「銅鐸」の舌の材料に、青銅・石・有機物があるようです(材料が様々だったことが出土例が少なかった理由なのかもしれません)(材料が様々だったのは消耗品だったからではないでしょうか?有機物だったら貴重な鈴を磨耗させないとも考えられます。あるいは様々な音色を楽しむためだったからかもしれません)。また大型化した「見る祭器」と言われる「銅鐸」も舌があって程度問題で基本的には音が鳴ると認識されていたと見ていいようです。

熊野神社の銅鐸(高知県の観光情報サイト よさこいネット)

>県指定の文化財。
1186(文治2)年、平重盛の家臣大野源太左衞門が、紀伊の熊野宮から勧請したと伝えられる熊野神社のご神体とされている弥生後期の銅鐸。
出土地は明確ではなく神社の近くで発掘されたといわれている。

ご先祖様のお宝を発掘してご神体としたものでしょうか。鏡が多いようですが。卑弥呼の鏡として話題になった三角縁神獣鏡(邪馬台国畿内説においては畿内で多く出土することから(?)中国鏡として扱われてきました)もその量と中国における出土状況とその形の独自性から、現在は日本で製造したと考えるようです。考えてみれば、これは当たり前の話で銅鐸や銅剣が膨大に出土するのですから、日本に製作能力がなかったかずがありません(鋳造遺構(参照:唐古・鍵遺跡史跡公園とは)も出土するようです)。原料の鉛は測定結果で輸入と出るようですが、翡翠なんかは日本のものが大陸に渡ったりするようですし、史書にもあるように貿易・交易して材料の取引はあったと見るべきなんでしょう。畿内で多い鏡は畿内が大量に造って配布していたと見るべきです。かがみという言葉も和語です。元は水鏡だったか何かは分かりませんが。つまり結局三角縁神獣鏡が畿内製であったとしても、普通に考えて九州説の補強どころか大和説の補強にしかなりません。中国に貰った鏡がどの鏡か知りませんが100枚程度ですし、日本の鋳造技術で独自のものを大量に造って配布する能力があったのが邪馬台国だと思います。

高知(土佐)は山脈で他の四国と隔絶されますが、熊野も言わば似たような位置にあります。「銅鐸」の出土と神社に祀ることもあるいは偶然ではないのかもしれません。

鈴木は紀伊発祥と言いますが、東日本に多いですね(長野が周辺よりやや少ないのは内陸だからなんでしょう)(西日本では愛媛と宮崎がやや多い。海の文化や神話との絡みでしょうか)。縄文文化が栄えたことに関係ありますかどうか。

いろいろ書きましたが、最後に纏めると弥生文化(日本文化)で隆盛した「銅鐸」文化が吊り下げて音色を聞く鈴文化だと断定されれば、何処に吊り下げていたかということになります(紐は稲わらか何かだったでしょうか)。そしてそれは神木だったかもしれませんし、望楼など建物内にあるとしても吊り下げるためには梁のような木が必要だと考えられ、鈴木という名前だったかもしれません(特に前者であれば、地名・姓氏になりそうです)。ただ、風雨に晒されると錆びますから、保管は建物内で祭りの時に神木に吊ったとも考えられます。これならそこまで日常で磨耗しませんし、外なら風で自然に揺られる環境です(大体が外国事例ですが、そのような姿が中国人に記録されています)。通説の鈴木ですが、例えば果実の鈴生りと神楽鈴は似ていますが(音は鳴らないにせよ、実と鈴が群れる様が似ていますし、種=舌の構図があります)、何故稲束の頂点の木が鈴木と言われるか理解が難しい気がします。


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1 コメント

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鐸の用例の追加情報 (管理人)
2019-08-03 15:22:29
鈴鐸、鐸鈴と呼ばれるもので、鈴状のものので鈴と呼ばれていても、柄がついているものは、本来は鐸だと思われます。
 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)(垂仁天皇皇子)から鐸の舌に石を使っていたことが裏付けられますが、弥生時代後期の見る銅鐸には使用痕がありません。古墳時代まで鉄鐸は見られるようで、これが仁賢天皇紀の鐸かもしれませんが、これは吊って使ったようです。
 古語拾遺の天岩屋戸隠れでは手に鐸(さなき)をつけた矛が登場します。つまり鈴と鐸の混用は鈴を矛につけて鐸として使ったことに始まるのかもしれません。
 見る「銅鐸」は鳴らさなくても柄がない以上、鐸と間違えるはずもなく、吊る使用法から発展したのであれば、鈴以外に表現方法はないとだけは改めて確認しておきます。
 さなきは蛹。ぬりて/ぬての手は手鉾(≒薙刀)、矛の手?に関係あるか含めて不明です。

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