観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「北方領土」「農業」を考察する予定(未定)。

改良復旧と復興、国土強靭化と政府強靭化

2019-10-30 18:22:57 | 政策関連メモ
 改良復旧ということですが、技術革新があって、コスト安で強靭な技術が生まれていれば、あえて旧来の技術で現状復旧する必要は無いと思います。ただ、災害が起こる度に政府が全額出して「復旧」するのようなことであれば、誰も防災を行わなくはなってしまう恐れが無いとも言えません。堤防が決壊しないよう対策していくのは今回明らかになった点だと思いますが、越水に対して水防団が組織されていたかどう対応したかの論点が明快になることはなく、補償の問題が先行したのが気になった点です。結局、改良復旧もあまり過剰に改良復旧してしまうと、速やかに復旧するより、改良復旧を待った方がいいとか、改良復旧があるなら、事前に治水しなくていいんじゃないかとかそういう考え方に陥る可能性が否定できないと考えます。システムとしては、現状がどうなっているか知識不足で分かりませんが、復旧にあたる事業者がwin-winの技術があれば、役所に一報して了承の下に新しいというか現状の適切な技術で復旧することが考えられます。火事場泥棒は基本的にいないと思いますが、制度の裏をかく不心得ものが日本全国何処にもいないとは言えないので、わざわざやらなくていい高コストの技術での復旧の申し入れは突っぱねるのが当然ですし、突っぱねなければ担当者・首長の責任が問われる可能性はあった方がいいと思います。イメージとしては、水道工事の業者に工事を頼んだ時に近いでしょうか。直ぐに壊れたら事業者の信用が失われますし、良い技術があったら、提案してくれると思いますが、了承もなしに勝手な工事をする事業者も基本的にいないはずです。行政府の担当者は技術の動向に詳しいと思いますが、予め万一の際に何処が旧来の技術で危険な箇所で、どういう技術で復旧すれば適切なのか事業者と意思疎通しておけば、迅速な対応が可能だと思います。何処まで可能か知りませんが、どれが理想的な防災行政ではないかと。
 天災があったら残念だったねの発想では天災の多い日本はお先真っ暗となりかねません。始めから出来ないのメンタルでは出来るものも出来ませんし、禍を転じて福と為す、転んでもタダは起きないぐらいのたくましさはあった方がいいとも思います。守りに入り過ぎて今の日本社会はデフレマインドの払拭が課題ではあります。ですから災害の多いことを逆手にとって、優れた技術を開発し、海外での発注に繋げる発想も重要ですし(それこそ外郭放水路の技術は世界に売っていける技術なのかもしれません)、特別に組んだ復興予算・補正予算で何か良い提案があれば、新しい技術を試してみるあり方も無いとは思いません。ただやはり天災を期待するようになっては本末転倒なので、何らかの歯止めも必要だと思います。枠組みとしては例えば特区のような感じで手を挙げたところが合意の上で折半で新しい技術を試してみてはどうかと思います。新しい技術は不安なものですが、使ってみないと伸びる技術も伸びないところはあると思います。成功した技術は皆模倣するのでしょうが、技術を成功させるには結局は試行錯誤しかなく、役所が硬直し過ぎた融通の効かない対応に陥っている可能性が無いとも言えず、そうであれば天災が多いことはただのマイナスにしかなりようがありません。成功した技術が評価されるのも当然のことです。技術開発ほど労力がかかるものは無いのですから。(大企業病という硬直性や切羽詰った中小企業などという現実が無いとも言えませんが)理想的な民間のあり方では、優れた技術を開発して一儲けしよう、評価されようということになるはずで、そうあらねばならないのは公共事業にしても同じだと思います。改良復旧というか、天災があって益々盛んになる復興という考え方も日本にとって重要な一面があると思いますが、掛け声だけではそうはならないのは勿論のことで、政治の働きが重要だと思っています。
 以上ですが、勿論防災に関連して政治に必要な制度・慣習を考えてみたまでで、天災が幸いだと狂ったことを喚いている訳ではありません。最近はフェイクニュースなるものも話題になるご時勢で、言ってないことを批判する藁人形叩きなるものが横行し、社会の木鐸がお題目のはずのマ○コ○に切り取って報道する向きがあると言いますので念のため。

※筆者のfacebookコメントより転載。

日程闘争と野党、ブラック労働、言葉尻を捉えてあげつらう政治

2019-10-23 04:43:52 | 政治システム・理論
【霞が関の声①】森ゆうこ議員の騒動は構造的な問題が顕在化したに過ぎない(アゴラ 2019年10月21日 16:01)

 言葉尻を捉えてあげつらうことほど生産性がない無駄な喧嘩はありません。言い間違いのような誤字脱字の類は後で簡単な手続きで修正してするべきで、修正が不適当な場合だけ異議申し立てするようにすればいいというような見解は確かに納得のいくものです。また地方議会のように日程は予め決められておくべきもその通りと思います。予想外に長引いた時の延長の可能性を否定する訳ではありませんが、一日前に決めた予定が長引いたというなら、最初から予定を守る気のない日程闘争政治と言われるのは不可避で、日程闘争のおかげで実現するのが言葉尻を捉えることでは目も当てられません。政治家がなりたくない職業No1にも挙げられるそうですが、全くやりがいのカケラもない日程闘争政治では、それもむべなるかなという感じです。足を引っ張ることにやりがいを感じる政治家ってどんな人達なんでしょうね?反対反対を旨とする野党政治家がゾロゾロ生まれる訳です。
 野党の言い分としては、野党議員としての仕事をやった感が事前審査制でなく、国会での修正を前提とするシステムを要求してきているようです(昔から言われているように記憶しています)。筆者も政府与党で意思疎通を欠くようでは議員内閣制は成り立たないと思いますし、国会での修正を前提としなくていいと思いますが、野党に見せ場が必要も確かにその通りなんでしょう。ただそれは裏取引で与野党馴れ合いで生まれるものではありません。そうである限り、永遠に反対を武器にする護憲派に見せ場を与えねばならず、与党もその対立構造が続いた方がいい(仕事をしなくていい)となりかねません。それでは野党の見せ場とは?ですが、政府与党の分厚い政策の壁をチェックしてたまに突破すれば十分ではないでしょうか?何も野党が政府与党より良い対案を常に出せと主張している訳ではありません(反対反対を武器にするから、じゃあおまえが対案を出せと言われる訳で順番を間違えるべきではありません)。要はある程度ハンデキャップを認める考え方ですが、野党がなければ政府与党に対する牽制効果もありませんし、日本や政治にとって良いものだと考えます。議院内閣制のイギリスはハンデキャップの考え方が好きなように見えることがあります(過ぎると甘えになるような気もしますが)。
 マスコミの報道の仕方が結局重要なところもあるようです。政治部の記者が日程闘争で政府与党を邪魔した野党を評価する報道があるのだとか。これを政府与党の政策を野党が(たまに)変えたことを評価する報道に変れば、いろいろ政治も変ってくるのかもしれません。そこまでいくと問題は、間違っていても絶対に自分達の案を変えたくない無謬が前提の政府(官僚)になるかどうかは知りません。ただマスコミもリークで官僚に操られていると巷で言われていますから、それが出来るかどうかは必ずしも明らかではありませんが、夜討ち朝駆けを止めて勉強すれば、不可能なことは無いと思います。官僚無双がいいとは思いませんが、官僚を倒すのに政治家の言葉尻を捉えるのでは話にもなりません。優秀な官僚が言葉尻を捉えられないための仕事に時間を使うのでは生産性革命も何もあったものではありません。労働組合の支援を受けた野党議員の方々がブラック労働の根源では示しもつきません。

※facebook投稿の筆者のシェアコメントを再録。

愛媛蜜柑とスマート農業

2019-10-23 03:16:33 | 日記
 以下、塩崎やすひさ衆議院議員の興居島でのスマート農業のfacebook投稿に対する筆者のシェアコメントです(一部改変)。
 古今東西農業も経済性とは無縁でいられません。多分ビニールハウスでの温室栽培だと思うのですが、野菜が温室栽培で成功したのは鮮度が命だからに他なりません。輸入物の果樹は防腐剤を使用しているものですが、元々蜜柑類は一ヶ月ほど出荷前の貯蔵期間があって、野菜や鮮魚ほどは生産地の距離的近さが重要ではないようです。ですから、果樹の温室栽培はものにもよるかもしれませんが、気候適地との競争になる可能性もあって、そうだとしたら普及品ではなくブランドものを狙わないといけないはずです。釈迦に説法かもしれませんが、愛媛県は日本一の蜜柑の生産量を誇った蜜柑生産県であり、マスに向けて温室栽培してないかふと思った次第です。そうだとしてコスト競争力が絶対無いと言い切れるほど詳しい訳ではありませんが、ブランド確立はブランド確立のためのノウハウがあるのであって、二兎は中々追えないようには思います。「ブランド 蜜柑 温室栽培」で検索して、高知・愛知が上位に出てきており、野菜が得意なところで、温室栽培はコスト高だから、=ブランド化の発想が染みついているのかと思いました。

記紀神話と日向小考

2019-10-23 02:38:43 | 日本史
 高天原にあった天岩戸が日本にあるとは思えませんが、神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読むそうですから、高天原にある天岩戸を映したものが高千穂の天岩戸なのかもしれません。対する常世(とこよ)は黄泉の国であり、死者の国ですが、死ぬことを眠るというように床世が本来的な原義のように思えます。漢字表記は好字令で変えられたりしているので、あまり固執し過ぎると誤解する面もあるように思えます。皇室が大和在来の家ではなく東漸してきたことは、記紀にある通りと思いますが、本来的な日向が何処だったかは現代の目で虚心坦懐に日本書紀を読んで確実なことは言えないように思っています。筑紫の神は全て太陽神であり、北九州の首長は三種の神器を誇示し、日向(宮崎県)の名付け親の景行天皇は日向高屋宮に長く滞在しましたが、その時神武天皇や高天原や皇祖神に触れていません(次代の成務天皇は「我先皇大足彥天皇、聰明神武」と言っており、神武天皇の諡号に関係している可能性もあるのかもしれませんが)。これは記紀において度々言及がある伊勢神宮とは対照的です。ただ、北九州は渡来人が渡来した地で、皇室も弥生人も外国人と思っていませんが(縄文人から弥生人になったと学問的に立証できると思いますが、文化の伝播を移民による人種交代と切り離すのは意外と難しいもので、神武天皇の出発地の日向が(日本書紀を含め)南九州とされてきたことは歴史的意義があると思っています。神話は神話であってそのまま歴史ではないと思いますが、神武天皇と2代綏靖天皇は(和風諡号から)神でもあって、神武東征も歴史そのままではなく、神話の範疇ではないかと思うことがあります(日本には神を祖先とする氏族は多いのですが、系図上の祖先神をそのまま歴史的事実と認定すると、縄文人が先輩ということになるなど、いろいろ不味いのは明らかです。従って神としての業績も慎重に扱うべきだということにならざるを得ません。つまり神武天皇が実在の人物だとして(第3代安寧天皇の祖父だとして)その時に東漸してきたかは必ずしも確実ではない気がします)。皇室が日向から東漸してきた歴史の反映だとしてもです。
 神話は有力氏族の紐帯を保つなどの効果があって、歴史を叙述する日本書紀に神話が記載されていることは意味があると思いますが、(天上界の)神話を当然(地上界の)歴史的事実と解することは出来ないのであって、歴史は歴史として読まなければならず、その時こう考えられていたという記載は重要なものですが、注意深く扱う必要もあると思っています。テキストに書かれた神話は不変で不磨だと思いますが、人間の認識は移ろいやすいところもあって、誤伝や誤読の可能性も否定できません。そもそも天孫降臨の舞台も南九州に二説ありますし、それぞれ貴重なものと思いますが、神話を歴史として扱うのは慎重であらねばならないと思っている次第です。宗教は勿論歴史の範疇ですが、天上の話は地上の話ではないから、神話たりえます。日本書紀を歴史として読めば読むほど、神話や伝承が歴史的事実として混入している部分があることに気付き、寧ろ歴史を歴史として解釈することに対して障害になっている面も否定できないように思えます。つまり古代の天皇の異常な長寿命を歴史的事実と認定してしまうと、歴史的事実として存在しない歴史解釈になってしまうのは必然です。神格化された応神天皇と言えど、歴史的人物なのであれば人間には変わりないのであって、宇宙人ではないのですから、寿命も治世も物理的限界を超えたはずがありません。
 日本書紀には外国関連記事も存在するのであって、外国の存在を無いものとする鎖国的読み方で日本書紀を読み解くことは出来ません。江戸時代に功罪あると思いますが、中国の海禁政策に倣ったか鎖国政策は(鎖国令は存在しないという詭弁に関わらず)存在しましたし(でなければ開国論は何だったのかということになります)、全てが悪ではないにせよ罪の部分が目立つような気がしてならないものの、江戸時代の経済発展が国学を発達させた一面もあります。

※facebookにおける拙稿の転載。