観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「北方領土」「農業」を考察する予定(未定)。

七奪なる韓国の主張を検討

2019-03-06 23:33:46 | 世界史地理観光
ネットでそういうツイートを見かけたのですが、教科書出版の最大手の東京書籍の教科書に日本統治期に「朝鮮人の土地を奪った」と記述しているらしい(未確認)。また、関連して七奪なる韓国の主張を知りました。韓国が被害を誇張するのは何時ものことですが、日本の教科書が鵜呑みにしているとしたら問題ですね。以下、七奪に関して検討してみます。

七奪の七とは主権・国王・人命・国語・姓氏・土地・資源を指すようです。それに対して七恩だという見方もあるようですが、さすがにそれは客観的な(教科書に載るような)見方ではないとは思います。

まず主権を日本が獲得したことは否定できません。日清戦争前、朝鮮は清の属国でしたが、日清戦争後に大韓帝国として独立しました(ロシア人が設計施工した独立門なるものを建造しています)。これで終わっていたら主権に関して日本に恩があると言えるのかもしれませんが、まぁいろいろあって併合したのは事実です。

国王を奪ったという見方は事実ではなく、併合時にいたのは皇帝だと思いますが、併合後は王公族という身分になったようです。つまり日本が王公にしました(格下げしました)(日清戦争前は王でしたが)。完全に王で無くしたのは実質的にはアメリカの指示だと思います(身位喪失)。

人命に関しては治安維持以上のものはないとは思います。

国語は確かに日本語にしたはずです。朝鮮語も教えましたが、朝鮮人も大日本帝国臣民として活躍できるよう日本語をやらせたのは間違いないと思います。日本は欧米に学び和製漢語を創造して中国語にも影響を与えましたが、それを朝鮮語においてもやるのようなことまではしなかったはずです。朝鮮語は民族語として教養か何かの扱いだったのでしょう。大韓帝国は知りませんが、李氏朝鮮では漢文が公文書で使用されており、一般人に対する教育機関は無かったようです。

創氏改名は「氏」を創設させ、「名」を改めることを許可した政策。この内創氏は全朝鮮人に適用され、父系原理の姓は法的に氏に変わりました。日本では家族はひとつの氏ですが、朝鮮では姓は婚姻で変わらず、養子も同じようで、同姓でなければ養子にとれないルールもあったようです。ただ宗族制度を維持できるよう本貫と姓は戸籍の記載に残されたようではありますが、法的に本名は氏の方になりました。名前は日本風の名前を名乗れるよう制度をつくりましたが、強制・非強制で議論があるようです。通説は強制のようですが、非強制が妥当かもしれません。陸軍中将まで上り詰めた洪思翊や陸軍大佐の金錫源、満州国軍中尉の白善燁、舞踏家の崔承喜、東京府から出馬して2度衆議院議員に当選した朴春琴らがいるからです。筆者の目には制令十九号(創氏)と二十号(改名)という2つの異なるシステムを混同していることが問題のように見えます。

土地に関して言えば、総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して日本人移住者や朝鮮人有力者に分配したとされます(貧しい農民に分け与えたということは多分ないはずです。何故なら戦後の日本において農地改革で地主から土地を取り上げ小作農に分配したのはGHQだからです)。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどだそうですが、所有者がいる土地を奪ったということではありません。日本は大日本帝国を富ませるため、朝鮮においても必要な施策を行い、効果は出たようには思います(つまり豊かになりました)。

資源は何かの勘違いだと思います。そもそも資源が豊富と言われているのは北朝鮮ですが、未だに資源が眠っていると言われます。どうしてでしょうか?あれば使いはするでしょうが。日本は資源目的で北朝鮮に工業投資を行い、朝鮮戦争当初の北朝鮮優位に繋がったと言われます。

朝鮮回廊と民族史(ツングースと高句麗、三韓及び日本(蓬莱?)への稲作を含む中国文明(燕・斉)の伝播)

2019-02-17 18:47:58 | 世界史地理観光
高句麗論争(朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争)に関連して、高句麗の起源・民族でいろいろ迷いもあったのですが、ほぼ考えが固まりました。支配者層が後のツングース/満州で半島部の領民が朝鮮ということで良いんじゃないかと思います。現在、北朝鮮に朝鮮民族しか住んでいないですし、三国史記で歴史がまとめられていることからも、基本的には朝鮮史でいいと思いますが、高句麗史を中国史(というか満州民族史)として捉える見方もあるでしょう。支配者層の歴史で見るべきという意見があってもいいですが、衛氏朝鮮は中国人(燕人)王朝ですが、朝鮮半島に中国人は住んでいません。歴史において少数派の支配者層はしばしば多数派の領民に飲み込まれることがあります(同化させるケースもあって一概には言えません)。例えばフランス人はゲルマン人であるところのフランク族の国が起源とされますが、フランス語はラテン系で言語的にはフランス人はローマ人の末裔です(元々はケルト人が住んでいました)。これはあくまで想定ではありますが(頭の体操で色々言えはするでしょうが)、現実に中国語と朝鮮語は違う言語なのですから、言語学的に証明されているとも言えます。

稲作農耕は日本(菜畑遺跡:現在では前10世紀~)に伝わったようですが、燕の領域に稲作があったはずがありませんから、これは山東半島あたり(後の斉)から伝わったと考えられます。遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているそうで(稲作の痕跡は見つかっていない)、山東半島~廟島群島~遼東半島~朝鮮半島ルートで稲作が伝播し(日本人は中国人ではありませんから文化の伝播のみ、あるいは多数の日本人に少数の渡来人が吸収されたと考えられます)、気候が適している日本(九州)で盛んになったと考えられます。山東半島斉の建国が紀元前1046年ですから、そもそも山東半島に住んでいたとされる莱族が稲作を伝えたと考えるのが素直かもしれません。莱族の莱は蓬莱の來で、蓬莱とは古代中国で蓬莱は、方丈・瀛州とともに東方の三神山の1つであり、山東半島のはるか東方の海にあるとされます。東方三神山の方丈とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島。残りの瀛州はのちに日本を指す名前となったようです。徐福伝説が日本各地に残りますが、漢代「史記」のこうした話は何らかの根拠があるとも考えられますし、時代からも場所からもそれは日本のことを指しているのであって、交易ルート・交流ルートが想定されていいんだろうと思います。あるいは斉に破れて移民が従来有していた交易ルートを使って渡ってきたとも考えられます(日本において亡国の百済の移民が住み着くこともあったようです)。朝鮮半島における水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっているそうです(時代が正確かは分かりませんが、稲作には日本の気候の方が適しています)。

史料にある範囲で朝鮮半島に大きな影響を与えたのは燕(紀元前11世紀 - 前222年)であるようです。燕は遼東半島を支配しましたが、国都は薊(北京市あたり)であり、上記山東半島ルートで來族が稲作を伝える時間的余裕はあったように思えます(最初に島伝いに移動したとして、経験さえあれば渤海横断ルートをとることも出来ます。呉越伝来説は有力とされますが、最初の移動が想定できず筆者は難しいと考えています。時期的にも斉の建国あたりがドンピシャで長江下流域において前5000年頃に始まったという呉越の稲作の日本・半島への伝来がどうして大きく時代が降るのか説明がつきません。南方の稲作が大陸内で北方適応・北上するのに時間がかかったと見るべきではないでしょうか)(銅鐸が越の王墓で見つかったというニュースも鈴が日本で発展したという通説でいいような気がします。日本は鈴文化で五十鈴川等の地名から銅鐸(紀元前2世紀~2世紀)は鈴と呼んでいたと考えています(スズは和語で、縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれるようです。金属で造る文化を教えた、あるいは輸入元は中国かもしれませんが、言葉は和語を使用したと考えられます)(後に埋納して文化が断絶した後、鐸が考古学的に越であるならば、古墳時代における南朝(最初の宋が420年 - 479年)との通交で鐸が改めて伝わったとも考えられますが、銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀のようですから、タクという漢語から考えて、遣唐使との関連が深いと考えられます)(いずれにせよ、難破必至の東シナ海ルートを時代を遡るほど信じません)(>中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。燕・斉人の東来は、古くから存在した。:礪波護、武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁)。

燕の建国の経緯に韓侯国が関係しているようで、燕の士大夫層に韓氏や箕氏が見られるようです(伝説的な朝鮮最古の王朝箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国したとされますが、殷の統治範囲を考えると甚だ疑問です。義経伝説や源為朝=舜天説のような起源説話だと思います。後代に燕の領域から箕氏が移住してつくったのが箕子朝鮮と考えられます)。三韓とは朝鮮南部ですが、何故に韓(河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部)(距離が離れてますし七雄で弱小とされます)?と思っていたのですが、韓氏に由来している可能性があると思います(出典はド忘れしましたが、日本だと移住後に地名を名字(武士の名字)としており感覚的に分かり難いですが、中国の宗族制度では移住して姓を地名・村名にしたとか。例えば「周荘」「趙村」「馬家屯」「柳鎮」のような地名があるそう。全然違うかもしれませんが)。

燕は遼東半島をも支配しましたが、斉からの文化の伝播もあったか(当初からバランサーしていたかもしれません)、燕の国都から遼東半島が遠く、北方の気候が厳しいこともあってか、少なくとも現在の朝鮮半島の領域までは中国人(漢民族)は多く移住しなかったようです(移住が多かったとして羅唐戦争後の新羅か高麗以降の歴史の影響が大きいかもしれませんが、よく分かりません)。遼東半島は概ね中国の領域であったようです。

高句麗に戻りますが、最初の首都卒本城や遷都後の有名な丸都城は鴨緑江北岸のようで、このあたりは後にツングース系民族の居住地として知られます。高句麗、夫余(扶余)、東沃沮、濊、貊の言語・民族が同じとされ、高句麗は現在の中国東北地方に広大な領域を持っていたようですが、どうも漢四郡の玄菟郡の影響を受けて(あるいは民族的な成長はもっと前かもしれませんが)、高句麗が成立したようです。魏と戦争して丸都城を落とされることもあったようですが(このあたりが魏志倭人伝の時代)、313年に高句麗が朝鮮半島の楽浪郡を征服しました。427年に平壌(現在の市街ではないそう)に遷都(南の方が生産力が高く人口が多かったかもしれませんし、少なくとも朝鮮半島を南下するのに便利でした)。高句麗は強国で度々隋や唐といった大国を退けたことで知られます(広開土王碑で知られるように、半島南部の国を支援する倭国=大和朝廷とも戦争しました)。三国史記における朝鮮半島中部の高句麗の地名は金芳漢氏によると、百済・新羅と同じのようです。その上で金氏は平壌方面に南下する以前の高句麗の言語と、朝鮮半島中部の地名に用いられている言語が同一ではない可能性を指摘し、乏しい史料から高句麗語はツングース系を示唆したようですが、この意見は妥当なように思います。とにかく中国東北地方に朝鮮人が広く居住していた歴史がありませんし、朝鮮半島南部の百済の支配者層も高句麗に起源があると自称しており、韓族の居住地も高句麗同様の支配者層と領民の分離があったとも考えられます。後の新羅の支配→短い後三国時代→高麗と時代が移行し、現在の朝鮮半島の領域を支配する高麗時代に三国史記が編纂されていますが、どうも北朝鮮の領域に朝鮮人以外の民族が住んでいたような感じがなく、日本人は魏志の記述から朝鮮半島北部に別民族が住んでいたように思ってしまう感じがはあるような気もしますが、元々朝鮮半島には朝鮮人(ないし朝鮮人に類似の民族)が住んでいたと考えていいのだと思います。

ただ、高句麗や百済の史料が少なく、(支配者層の)言語の復元が難しいことから、このあたりの推測に確証がないようです(広開土王の碑文なども、結局漢文で読みが分からないと思います。万葉仮名のようなものが無いと読みが分かりません)。日本には高麗(こま)や百済の地名がありますし(基本的には日本に日本の地名はありません)、誰も同族と主張していませんから、数少ない言語再建から日本語との系統関係を示唆する研究は誤っていると思います。数詞が似ている説は日本語の数を表す言葉が中国語に類似することと同様の現象とも考えられます(イチ、ニ、サン、シ・・・とイー、アル、サン、スー)。高句麗は早くから中国の影響を受けて高い文明があったとも考えられますが、日本が比較的関係が良かったとされる百済の支配者層が高句麗と同族のようで、文化の伝播で高句麗語が(百済語を通じる等して)日本語に入ってそもそも不思議はない訳です。ビロウや稲作に代表される比較的南国の日本文化が高句麗にルーツがあるはずもありません。

新羅は辰韓の地の国で秦人が済み秦韓ともいったようですが、日本の渡来人として著名な秦氏はこれに関係する可能性があると思います。何故秦かと言えば、燕の故地(遼東半島あたり)を引き継いだ秦の影響が考えられると思います。秦という巨大な統一国家のインパクトは相当大きかったのではないでしょうか。その後の漢において漢四郡支配がありましたから、益々中国の影響は大きかったはずです。朝鮮語と中国語は別言語ですが、朝鮮人の姓は中国同様の一字姓になっています(三国史記の王名から元は違ったようです)。

いずれにせよ、朝鮮半島には古くから朝鮮人が住んでいたというのが筆者の考えです。これに対して中国東北地方には古くからツングース民族が住んでおり、言語資料の少なさから証明できないようですが、それが扶余族であり、元来の高句麗なのでしょう。

高句麗・扶余の東の挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)は中国の史書によると独特の言語を持っていたとされるようですが(少なくとも確実なツングースは女真族とされます)、筆者は疑問を持っています。そもそも中国がこうした遠方の東の部族とあまり接した経験がないように思うのですが、日本語でも祖父母の方言がよく分からないのような話もありますし、(同族の)大和と琉球では正史も違いますし、大和と隼人も明らかな同属ですが、異民族扱いでした。同系統でも別民族と判断されてそもそも不思議がありません。気になるのが女真(金朝)(黒水靺鞨とされます)以前の渤海国(高句麗に服属していた粟末靺鞨の国とされます)で、中国東北部と沿海州(外満州)といった広大な領域を支配しており、これはどうも同じ民族が住んでいたと考えて良さそうです。渤海国は遠交近攻で(共に朝鮮半島の新羅と仲が悪かったので)日本に使節を送っていたことで知られますが、外満州というあまりに寒い地域の支配はそもそも同族だったからと考えないと理解が難しいものがあります。後の樺太のウィルタもツングースと分かっています。

通州事件と日中戦争、南京事件、その背景

2019-01-08 09:39:44 | 世界史地理観光
燃灯塔(中華人民共和国 北京直轄市 通州区 ウィキペディア「通州区 (北京市)」2019/1/8より)

通州事件って日中戦争の歴史において、保守派がよく取り上げる題材なんですよね。南京事件とあわせて、日中戦争の歴史を簡単に概観しておきます。

通州は北京市付近。殷汝耕を政務長官とする冀東防共自治政府が置かれていました。反乱を起こした冀東防共自治政府保安隊ら中国軍は通州日本軍の留守部隊(主力は南苑攻撃中)を攻撃・壊滅させ、殷汝耕長官を拉致。日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺されました。殷は脱出に成功しましたが、日本軍に反乱の首謀者と疑われ、政務長官は辞任。冀東防共自治政府は日本の華北分離工作の結果ではないかという指摘もあるようです。通州事件を起こした主犯は冀東防共自治政府の保安総隊の指揮官張慶余。

張慶余は通州事件後、南京に召還され、軍政部第6補充訓練処処長に任命された後、第91軍副軍長、国民党軍事委員会中将参議等を歴任したようです。通州事件(7月29日)の少し前7月7日には盧溝橋事件が起きています。どうも国民党政府と日本をぶつける共産党の工作もあるような気もしますが、第二次国共合作が成立する背景に日本の華北分離工作もあるような気もします。通州事件後8月13日に、中華民国軍の上海の日本租界進駐から第二次上海事変が発生。南京戦へ拡大していきます(日中戦争)。所謂南京事件が発生したのはこの時。

蒋介石は第二次上海事変の時には日本軍を追い出す意図で仕掛けたと思われますが、返り討ちにあって南京国民政府(汪兆銘政権)が成立したということのような気がします。南京事件も同害報復の面があったかどうか。蒋介石の側からは華北分離工作等一連の日本の大陸進出に不信感があったかもしれません。

一般に日中戦争の始まりは盧溝橋事件とされますが、松井-秦徳純協定で収拾しており、これを戦争の開始と見ることは出来ません。続く通州事件で拡大派が不拡大派を押し切ったとされますが、8月9日に池宗墨が冀東防共自治政府の第2代行政長官に就任しており、こちらも基本的には事態は収拾していると見ることが出来ます。続く8月13日の中華民国軍の進駐に始まる第二次上海事変が日中戦争の嚆矢に違いなく、これは明快に蒋介石の国民政府の仕掛け(先制攻撃・侵略)です。ただし、蒋介石にしてみれば、先立つ日本の華北分離工作や満州事変といった日本の仕掛けに対する反撃だったのでしょう(停戦を挟んでおり、そうだとしても日本の先制攻撃と見ることはできません)。そういう事情を踏まえた結果、日本も事変だと経緯を誤魔化したように思います。余勢を駆って第10軍が独断で進撃を開始。松井石根中支那方面軍はこれを追認し、南京攻略戦が始まったようです。どうも当時の日本においてはトップダウンの指示が十分機能しなかったようで、流れるままにズルズル拡大していった様子が伺えます。


サウジアラビアの世界都市ジッダ

2018-12-15 05:52:55 | 世界史地理観光
ジッダの古い門(ウィキペディア「ジッダ」2018/12/15 パブリックドメイン)

ジッダはサウジアラビアのメッカ近郊の紅海に臨む世界都市で首都リヤドに次ぐ人口を誇ります。

ジッダはメッカ巡礼の中継点として繁栄。ハッジ(The Japanese Association, Singapore)(大巡礼)の時期にはジッダ港(NAVERまとめ)(世界コンテナ港ランキング25位)やキング・アブドゥルアズィーズ国際空港は混雑すると言います。

ハッジターミナル(グーグル画像検索)。ハッジの時のみ使用するようですが、少し特異なインフラですね。ハッジじゃない時にでも高層ビルか何かから見下ろせないんでしょうか。無理かな。

ジェッダ歴史地区(世界遺産センター)は、メッカへの玄関口として、世界遺産になっています。

>かつては紅海両岸地域に見られたものの、今ではほとんどサウジアラビアにしか残っていない紅海特有の建築が数多く残る。19世紀後半の商人たちが建設した塔状家屋で、装飾された木製の窓や扉を備え、その様式は、ローシャンタワーと呼ばれる。この町はメッカ巡礼の玄関口でもあり、世界中のイスラム教徒が集住する。ユニークな発展をとげた紅海建築と、良好に保存された都市要素、アラビアを目指して海伝いに到来する巡礼者たちの玄関口ということが、この町を特徴づけている。

塔状建物(タクミ ホームズ 建築用語集)によると、「塔状建物にあっては直接基礎では耐えきれず、杭を用いた地業にする必要がある。」アラビアプレートとユーラシアプレートの衝突で意外と地震が起きるサウジアラビア(もうひとつの地震大国:サウジアラビア 太陽商事株式会社)。バベルの塔も意外と地震で崩れていたりして。

世界の歴史的建造物と景観(岡本 真理子)(東海学院大学紀要 4(2010))を参照すると、サウジアラビアは観光客を受け入れてからの歴史の浅さで地域環境の中で生き残る数少ない独特の景観を持つようです。例えば、サウジアラビア南部のアッシール地方の伝統的建築があるアブハですが、2000メートルを超す高原にあって(避暑地)(ジッダは海洋都市らしくかなり蒸し暑い)、石の家の中は外観からは想像できないほどカラフルな色に塗られていたりするそう。ちなみにヨルダンですが、ネボ山からの景観(モーゼ終焉の地)も挙げられています。

紅海の交易ですが、8世紀後半のアッバース朝時代になるとムスリム商人はアフリカ東海岸に進出、10世紀のカイロの建設後、紅海ルートが盛んになったになったようです(ムスリム商人/イスラーム商人 世界史の窓)。東南アジアや中国での活躍も知られますね。

ジッダ案内(在ジッダ日本国総領事館)

>最も厳格なイスラム国家として知られるサウジアラビア。紅海の花嫁と謳われるジッダは、その中では最もリベラルで、多人種多民族が入り交じるコスモポリタンな都市です。

港町ってやはりその性格上、開放性・コスモポリタン的なところが、その良さではあるんでしょう。厳格なサウジアラビアの中では、外国人にとってもっとも訪れ易い都市なのかもしれません。メッカ・メディナはそもそも異教徒が訪れられる都市ではありませんがジッダなら。

>国際都市として発展してきたジッダでは、近年、マッカ・マディナを結ぶハラメイン鉄道の建設プロジェクトが始まっている他、オブフル地域には世界最高層のビル「ジッダタワー(キングダム・タワー)」の建設が進む等、近代化の動きも見られます。

サウジアラビアにおける鉄道インフラ調査(JETRO)を参照すると、サウジアラビアの陸運は道路中心で、鉄道は非常に弱いようですが、逆に日本にとってはチャンスがあるのかもしれません。砂漠がどうかですが、逆にサウジで商売できれば、商機は世界に広がると思います(厳しい環境こそ高い技術を活かすチャンスと考えられます)。当面は、(UAE~)東部州~首都リヤド~ジッダ~メッカ(・メディナ)といった東西のラインが要注目のようです。リヤド以北では、南北縦断鉱物資源鉄道の構想もあるようですね。

日本の鉄道の海外進出の話題と言えば、日立のイギリス進出(日立「鉄道快進撃」がイギリスで直面した難敵 東洋経済 さかいもとみ(在英ジャーナリスト 2018/09/20)。まぁこちらは鉄道発祥の地ならではの古さに苦戦することもあるようですが、サウジアラビアでは新型をバンと投入できるのかもしれませんね。

>世界最高レベルの透明度を誇る紅海はダイビングの名所として知られ、街には千年を超える歴史を持つ旧市街「バラド歴史地区」や世界最大の噴水「キング・ファハド噴水」等の見所が点在しており、林立する大型ショッピング・モールは常に多くの人々で賑わっています。

リンク先はエジプトですが、紅海(海外ダイビングツアー|ダイブナビ)は抜群の透明度を誇るようです。紅海の由来はエリュトゥラー海案内記のエリュトゥラー海(紅い海)(ギリシア語)のようですが、特に紅い訳ではないそう。何なんでしょうね。

街周辺にはプライベート・ビーチやリゾートも多いようです。

イスラム圏のショッピングモールと言えば、ドバイが挙げられるようです(世界1位のショッピングモールで、売上1位の飲食店を調べてみた。 グローバルパートナーズ)。売り上げ1位の飲食店はP.F. Chang’sというアメリカ発のチャイニーズレストランなのだそうです・・・。日本のサービス業の生産性(笑)。データは武士の情けで挙げませんが。あいつらいつも何か人の悪口言ってますしね。

世界一の噴水キングファハドの噴水(King's Fountain)(トリップアドバイザー)。

>戒律の厳しいイスラム教が生活に根付いていますが、2010年10月にはタイーフ市内の市場でサウジ映画8作品が大衆向けに上映される等、若者の世代を中心にその在り方に少しずつ変化が出てきているようです。映画のほか、漫画やアニメといったサブカルチャーをきっかけに、また食文化等生活面での触れ合いから日本に興味を持つ人は多く、ジッダに住む人々は概して親日的です。

【サウジアラビアの治安】渡航する際には現地のルールを必ず守ろう!(skyticket)によると、写真に注意。秘密警察に捕まっても責任は持てません。

日本のアニメはチャンスも(日本アニメ、サウジでも人気 「歴史的な出来事」初の合作も日本初上陸へ 産経ニュース 2018.5.17)。

日本のアニメは労働環境の問題等あって、それどころではないという話もありますが、寧ろ海外市場に目を向け、最初からその市場向けの作品をあえて狙うことによって、違う活路も見えてくるのかもしれません。まぁ、どこぞの国に委託しすぎて技術が流出していても、責任はとれませんがね。

サウジアラビアと東映の共同制作も(サウジアラビアのマンガプロダクションズが東映アニメーションとアニメ映画の共同制作を発表 PR TIMES 2017年11月17日)。

日本食と言えば、魚ですが、紅海では魚が減ったという話も(紅海の魚は70%減った サウジアラビア memories on the sea 海の記録)。どこでも同じですね。サウジ国王は和食好きらしいのですが(「3年前のメニュー」との比較でも窺える「サウジ国王」の和食好き Foresight 西川恵)、アラブ人って意外と魚を食べることに関係しているのかもしれません。UAEを調べた時にも思いましたが、砂漠の民の貴重なタンパク源のひとつと言えるでしょうか。豚肉の禁忌で知られるイスラム教ですが、水の中以外では生きられない生物はハラール(魚等)。水の中と外の両方で生きられる動物はハラーム(不法)(ワニ、亀、カエル等)なのだとか(ハラールとは 日本ハラール協会)。

>経済面でも重要であるジッダでは、日本企業の活躍も注目されています。ジッダ北方160kmの紅海沿岸に位置するラービグでは、中東最大1兆円規模の日・サウジ合弁石油化学事業であるペトロ・ラービグが2009年より稼働しました。また同年、最先端科学研究の拠点として前アブドッラー国王の命により創設されたキング・アブドッラー科学技術大学(KAUST)は、サウジアラビアで初めての男女共学を認めた高等教育機関として着目され、日本人研究者が在籍しているほか、日本企業、財団法人等との協力による学術交流センターが置かれています。更に、日本の対サウジの人材協力のモデルとみなされるJICA事業として開始(現在は経済産業省、日本自動車工業会が支援)されたサウジアラビア・日本自動車技術高等研修所(SJAHI)は、日本の技術協力の成功例として高く評価されています。

キング・アブドッラー科学技術大学の記事としては、「世界から一流学者 サウジが目指すスーパー科技大学 科学記者の目 編集委員 滝順一 日経新聞 2018/2/18」を参照しましたが、日本の学者も招聘されているようです。石油の微生物増進回収(MEOR)に関連する研究等やっているとか。世界一の石油大国に学ぶことも多いのかもしれませんし、日本の技術が役に立つこともあるのかもしれません。

日本の大学・研究機関との 協力提携(在日サウジアラビア王国大使館 文化部)・・・サウジアラビアとは最強のスポンサーなのかもしれません。win-win。

サウジアラビア 自動車整備技術の向上を目指して(JICS)によると、サウジアラビア日本自動車高等研修所(SJAHI)で自動車整備士を送り出しているよう。日本のオフロード車(車選び.com 2018/06/20)によると、日本のオフロード車はサウジでも活躍。

>2011年4月には伝統と文化の国民祭典として毎年開催されている「ジャナドリア祭」にアジア初のゲスト国として日本が迎えられ、多数の日本企業が参加し大成功を収めました。

サウジアラビア伝統と文化の国民祭典(ジャナドリヤ祭)とは?(在サウジアラビア日本国大使館)によると、「サウジアラビアの伝統・文化を国家遺産として位置づけ、これらを次世代に引き継いでいくことを目的としたサウジアラビア唯一の国民的文化祭典」なのだそうです。

象眼細工作品の展示が見られますが、象嵌(ウィキペディア 2018/12/15)によると、「象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味がある。象嵌本来の意味は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味で金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌等がある。その中の金工象嵌は、シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わったとされる。江戸時代には京都などに優れた職人が多数生まれ、日本刀の拵えや甲冑、鏡や根付、文箱、重箱などに腕を振るった。」ということです。

京象嵌(中嶋象嵌)

金銀模様が美しい京象嵌。明治期、ジャポニズムによるヨーロッパでの評価も。

木象嵌とは?( (有)本間木工所)

こちらは木画技術ですね。多分サウジの象眼も木画だと思われます。木工も盛んなようですが、サウジアラビアの木は椰子の木。木工でも使えるようですが、サウジで使用されているかは分かりません。

象嵌の作り方 ダーラヘスト(木象嵌と北欧家具製作ならdesign studio)を参照しましたが、北欧と言えば家具も有名ですね。林業振興で家具製作・木画製作も面白いのかもしれません。

製品をつくって売るだけではないアプローチ。DIYと陶芸は似る?

【DIY】初心者でも作りやすい木製家具の製作物まとめ(45House)

大会が励みになる。

DIYグランプリ作品募集(DIYホームセンター ジャンボエンチョー)

家具の産地×DIYみたいのがあったらちょっと面白いのかも。例えば手作り高級家具×DIYとか。焼き物の窯元と陶芸教室みたいな感じで。他にも陶芸市みたいに地域の家具市を開催してみるとか。林業振興。

ジッダの野外アート(ジッダ)が野外アートに限らず、ジッダについて詳しいようです。

>ジッダの交差点(ラウンドアバウト)の真中には近代美術家や現代美術家による野外彫刻などが異様に多く、世界最大級の野外彫刻美術館と化している。

石油王の国と近現代美術と野外彫刻。

日本では知名度が低いものの、意外と盛りだくさんだったジッダ。日本とサウジの関係は今後益々重要になってくるのかもしれません。

火薬の発明はチベットにおいてという新説(原料輸出国からの疑義提起)

2018-12-13 05:33:35 | 世界史地理観光
先日の薩摩硫黄島の記事で中国における火薬の発明について考えていたのですが、やはりチベットがどうも怪しいような気がしています。

定説では唐末中国においての発明です(火薬の発明と歴史 【古代中国の錬丹術から】 中国語スクリプト)。

>850年頃に書かれた『真元妙道要路』という本は道教経典の一つですが、その中で「硫黄と鶏冠石(二硫化ヒ素)と硝石・ハチミツを混ぜて、やけどをしただけでなく自分の家まで焼いたものがいる。このようなことは道家の名誉を傷つけるからやめるように」と書かれています。この記述は「火薬の発明は850年頃」説の根拠となっています。

なるほどと思いますが、硫黄の産地がよく分かりません。中国中原には火山がなく、火山国の日本は日宋貿易において10~13世紀に硫黄を輸出していた事実はよく知られるようです(日本史とアジア史の一接点 ――硫黄の国際交易をめぐって―― 山内晋次)。中国東北地方とチベットには火山がある(
中国の火山、多くが休眠状態—中国メディア >中国の火山の分布と活動は、東北地区とチベット高原に集中していた)ようですが、よく硫黄がロクに産出もしないのに火薬を発明したなと思いますよね。基本的にはチベットや東北地方が中国の版図に入るのはずっと後の話です。中国古代に皮膚病の治療に使われていたと言いますが、硫黄泉は皮膚病に効くとも言われ(硫黄泉 (硫化水素泉)生活習慣病・皮膚病の湯 名湯)、それすらもアジアにおいて中国中原で発明発見したんだろうかと疑問に思わないではありません。

>『太平広記』という北宋までの奇談を集めた本に、隋朝の杜春子の話があります。芥川龍之介がこれをもとに『杜子春』を書いています。この杜春子の話の中で、彼がある方術士を訪ねたところ、真夜中に錬丹術用の炉から紫の炎が突き抜け、瞬く間に家が燃えたとあります。紫色の煙は硝石に特徴的な炎色反応ですから、この方術士は硝石を使って仙薬調合の実験をしていたのでしょう。

原典に硝石の話があるか分かりませんが、あるいは隋朝には硝石は見つかっていたのかもしれません。硝石は世界の乾燥地帯(南欧、エジプト、アラビア半島、イラン、インド)で天然に採取されるようですが、中国内陸部もその産地のひとつのだとされるようです。日本を含む湿潤な地域では人工的に生産していたことは知られますが、最初は天然ものを利用したと考えるのが普通だと思います。天然ものを利用している内に偶然人工的に似たものが生成できると恐らく気付いたのでしょう。この中国内陸部乾燥地帯というのも良く分かりませんが、隋代なら西域と関係あるのかもしれません。硝石は乾燥地帯の岩石・土壌の表面から得られるという説もあります(世界全史 「35の鍵」で身につく一生モノの歴史力 宮崎正勝 グーグルブックス)。ただし、四川、山西、山東が代表的な産地という情報(テーマ:鉄砲と塩硝---歴史学から考える知の加工学(レジメ) 服部英雄)もあります。火薬の発明において最も決定的なものは硝石だとされるようですが、恐らく量的な話で(黒色火薬の配合率は硝石75%、硫黄10%、木炭15%。木炭の利用は古くからあったとされ、硝石と硫黄を考えることが重要と思われます)、何故硝石だけを強調するのか疑問なしではないですが、いずれにせよ、火薬の戦争における使用の嚆矢は宋代子窠が考案した火槍だとされます。混乱期の唐末に火薬を発明したとして、宋に使用されるのは大きな疑問はありませんが、仮に早くに開発されていたと仮定すると、爆発物を戦争に何故使わなかったかという疑問が出てきてしまいます。ですから、やはり時期は唐末頃でいいんだろうと思います。だとすると、何故唐末なのでしょうか?唐は基本的にはチベットや東北地方を含まず、唐にあった原料は古の時代からあったような気がします。本当にたまたまの偶然なのでしょうか。

チベットには火山があります(チベット自治区の火山‎ トリップアドバイザー)。唐代で東北地方かチベットかと言われれば、恐らくチベットなのでしょう。チベット最初の統一王朝吐蕃は唐の都長安を占領した歴史もあります。吐蕃は西域の東西通商路の支配権を巡って唐と争うこともありました。ただ仮に隋代に硝石があったとすると(黒色火薬の発明は6~7世紀説もあって、これは硝石のことを指しているのかもしれません)、統一していない頃になりますし、吐蕃と唐は別の国ですし、どういうプロセスで火薬が発明され、唐に伝わった?のだろうということになります。

中国・四川省のチベット僧院で爆発、宗教儀式用の火薬に引火(afpb 2008年7月23日)

記事は四川ですが、どうもチベット文化には宗教儀式用の火薬なるものがあるようです。これは火山があることから考えて納得いく話で、中国中原より早くに火薬を発見していて不思議はありません。チベットの火薬が交流が始まった唐代に伝わったという訳です。原料も硫黄は火山であるでしょうし、硝石もチベットは乾燥地帯です。そうだと仮定すると、時期の謎は解けますし、原料の謎も解けます。日本から輸入したのはチベットを支配していなかったからなのかもしれません。

また、チベットのお守りトクチャに硫黄が含まれるようです(チベットの謎多きお守り『トクチャ』について Beyul >オックスフォード大学の研究結果によれば、ニッケル、亜鉛、鉄、錫、鉛、金、銀、銅、蒼鉛、アンチモン、硫黄などの物質でトクチャが構成されているそうです)。ヒマラヤンブラックソルトは硫黄の臭いがするとも(アジアのごはん(82)ヒマラヤ岩塩の実力 水牛のように 森下ヒバリ)。どうも硫黄とチベットは深い関係があることは間違いないようです。

チベットの宗教と言えばチベット仏教がまず想起されますが、最初の統一王朝吐蕃においてサムイェー寺の宗論で中国仏教とインド仏教の宗教論争があり、インド仏教が勝利し、チベット仏教は基本的には中国を経由してないもうひとつの北伝仏教であり、現存する大乗仏教のもうひとつの潮流であるようです。中国系と並んでインドに直接の源流を持つ北の仏教だという訳です。ただ、インド系の仏教と火薬に直接の関連を見出すことは難しそうです。火薬はインドで発明された訳ではありません。

チベットの宗教と言えば、他にボン教が知られます。チベット仏教以前の土着の宗教で、チベット仏教の古派とは相互に影響も見られるようです。ボン教と硫黄の関係は良く分かりませんが、チベットに住む人々の長い歴史の中で、硫黄との関係が深まり、何らかの知見が蓄積され、利用されていたとしても不思議はないとも思えます。

チベットと言えば、チベット自治区をイメージするかもしれませんが、必ずしもそれだけではありません。ヒマラヤ南麓(例えばブータン)や四川(例えばカンゼ・チベット族自治州)・青海省もチベット系の領域として知られます。火山の分布は良く分かりませんが、民族が同じですし、直接・間接に硫黄が入手できて不思議はありません。少なくとも四川では宗教儀式で火薬の使用があるようです。

ここで気になってくるのが、吐谷渾(とよくこん)です。329年~663年、今でいう青海省一帯のチベット系住民を支配した鮮卑族の国(吐谷渾 世界史の窓)ですが、シルクロードの国際貿易を統制しており、であるがゆえに度々北魏・隋・唐と戦争し、中国南北朝時代から朝貢するなど中国と関係があったようです。結局、吐蕃に滅ぼされたようですが、距離の近さから吐蕃より一段中国と関係が深く、硝石の記述が見られる隋とも関係が深く、シルクロードは完全に乾燥地帯であって、硝石がゴロゴロしてそうなイメージもあります。鮮卑族は中国南北朝時代の北朝で活躍し、隋唐の王家は鮮卑系だという指摘もあります(中国人が鮮卑族に交代したというような話は俗説ですので念のため)。青海ルートは意外に重要だったという指摘もあります(空白のシルクロード:青海の道 貴重書で綴るシルクロード)。ボン教ではなく仏教ではあるようですが。

中国の伝統医学で漢方が古くから存在することは知られますが、インドのアーユルヴェーダも有名です。硫黄はガンタクと言われ利用もあるようです(硫黄:Gandhak アーユルヴェーダとカラリパヤットゥ)。インド錬金術は中国の錬金術(錬丹術)起源だとされますが、ともあれ、錬金術(錬丹術)のようなものが、吐谷渾や吐蕃にあって不思議はないように思えます。

硝石の利用は古くは世界最古の文明シュメール文明においてもあったようです(ハーブの歴史 すっきりハーブ生活 >これらのハーブと硝石を混合したものを軟膏として塗ったり)。シュメール文明はアラビア半島やイランにも近く、やはり天然の硝石がゴロゴロしている地方で利用が始まるのが自然なんだろうと思います。

硝石がゴロゴロしている地方で硝石の利用があって、塩に硫黄分が混ざっているなら、自然に火薬が生成されることは時間の問題のようにも思えます。

筆者の推測(新説)では、中国の錬丹術が火薬を発見したというより、吐谷渾あるいは吐蕃といったチベット文化圏あるいはシルクロードの乾燥地帯で火薬が発明され、それが隋・唐期(中国北朝の可能性も?)に中国に伝わり、宋代に兵器となったということになります。あるいは原料だけ伝わった可能性もあるかもしれませんが、いずれにせよ、チベット文化と深い関連があるのだと考えた方が、発明の時期の問題を解決しやすいことは間違いありません。どうもシルクロードやインド・チベットとの交流、仏教伝来あたりが怪しいという訳で、少なくとも中国錬丹術が発明したというような純中国のイメージは修正を迫られるのかもしれません。

日琉中関係史(中国の時代区分による)

2018-12-08 06:14:09 | 世界史地理観光
箸墓古墳(ウィキペディア「箸墓古墳」2018/12/8 Saigen Jiro氏の投稿写真)

日琉中関係史を中国の時代区分に従って、漢から清まで流れを追っていきます。あえて中国の時代区分に従うのは、中国の方が古い文明で歴史が先に整備されたこと、中国の方が大国で日本の中国に対する影響より中国の日本に対する影響の方が大きかったことによります。日本の時代区分に従うと関係史は分かり難いのではないかと思います。あくまで歴史の流れを客観的に追うためのやり方で他意は全く無いことをご理解ください。沖縄ではなく琉球としたのも最初の正史が編纂されたのが琉球王国においてであることによるのであって、他意はありません。筆者は歴史的事実を押さえるのに現代の色眼鏡をかけるべきではないという考え方です。

①漢代:日本が世界史というか東洋史に登場するのは、漢代において倭国としてです。この時点では北九州政権で、現在の皇室とは残念ながらほぼ無関係であり、日本最初の正史日本書記を辿ってもその実相は概ね不明と言えます。漢委奴国王の金印が有名なところです。朝鮮においては北回り陸続きに楽浪郡が設置され、日本とは朝鮮半島経由の交流だったと思われます。漢の都は長安・洛陽。完全に陸の大陸国家であって、南方でも交趾郡・日南郡を置いてベトナム北中部を支配しましたが、琉球が登場することはありません。

②魏晋南北朝時代:三国志魏の時代に邪馬台国が登場します。現在一般的には九州説も有力とされますが、当時は年代的にほぼ古墳時代の開始期にあたり、古墳時代はそのまま現在の皇室・日本に繋がる上、北九州博多付近に比定される奴国の7倍の人口を持つと記される邪馬台国は畿内に求めるしかないと考えられます。また、道中の投馬国も奴国から(不彌を挟んで)水行で辿りつき、5倍の人口規模を持ちますから、これは吉備あたりだろうと推定できます。大和地方の最初期前方後円墳箸墓からは吉備系の土器が多く出土するらしく、魏志倭人伝に見える邪馬台国連合=倭国成立の事情が垣間見えます。恐らく戦乱の弥生時代を経てこの時には成立していた大和と吉備が連合して北九州を制し大和を中心とする倭国が新たに成立。北九州にあった倭国の外交関係を継承利用して中国に通じたのではないかと考えられます。古墳時代は北陸や東海・関東にも広がっており、邪馬台国を九州に収めてしまうと、日本統合の年代的なつじつまがあわなくなると考えられ、過剰に日本を小さく見る必要はありません。記紀の神武東征においても倭国が元々北九州にあった事情が垣間見えますが(恐らく北九州あたりからの移民が後の大和を造ったのでしょう)、いずれにせよ、崇神天皇以前の天皇の墓は記紀の記述から小規模なものに止まると考えられ、弥生時代の統合されない中心地(北九州が山陽や大和を支配していた訳では必ずしもないでしょう)は北九州にあって、大和は畿内の地方政権に過ぎなかったと考えられます。

長江流域南船北馬の南である呉の鏡等も出土しますが、中国の史書の記述から限定的な交流に止まったと考えられます。呉の孫権の夷州・亶州征伐もありましたが、一時的な話で琉球を攻撃したかはよく分からないとされます(台湾ではなかったかとも)。

南北朝時代の中国中原には異民族が進出し、日本は南朝と交流します。ルートは朝鮮半島南東の百済を通じてのようです。少なくとも渤海は渡って交流していたのでしょう。

③隋唐五代十国:隋の頃には遣隋使があって日本の形がようやく整ってきたと考えられます。聖徳太子の日出処の天子の手紙は有名ですね。隋書に流求が見られますが、これは台湾を指すとも言われ定かではありません。後に小琉球が台湾、大琉球が沖縄を指すことになります。

唐代中国においてアラビア人(大食)が広州や揚州にやってきて交易を行い、居住地も設けていたようです。日本は遣唐使を派遣し、中国の(国際的でもあった)文物を受容しました。日本書記が成立し、奈良の都や京の都が成立したのはこの頃。国号も日本に改称します。南西諸島においては種子島までは直接支配しており、奄美までは少なくとも史書に見え交流があったようです。それ以南と見られる島の名前も史書にあって(朝貢してきたとされ)、沖縄本島の存在は少なくとも知っていたと考えられます。

④宋:博多を窓口に宋銭が輸入され、日本経済は進展しました。唐末に火薬が発明されており、薩摩から中国に渡るルートもあり、日本は薩摩硫黄島の硫黄を輸出していたようです。院政期に南西諸島に対する影響力は強まり、この頃琉球においてグスク時代が開始されたようです。初代琉球国王とされる舜天の源為朝伝説と為朝の娘婿と言われる阿多(平)忠景の薩摩における活躍に何らかの関連性はあるのでしょう。

⑤元:元寇があって必ずしも関係は安定しなかったと考えられます。元はジャワ島まで攻め込みましたが、琉球に攻め込んだという話はありません。当時の東南アジアは唐代以来西方と中国を結ぶ交通の要所になって繁栄していましたが、琉球は互いに相争う時代なのであって、大陸国家がわざわざ海を渡って支配する甘みはありませんでしたし、台湾との混同もあったようです。奄美では千竈氏の支配があったとも。

⑥明:室町時代初期は南北朝時代でもあって、九州の南朝が日本を代表して明と交流する等当初は混乱期にありました。足利義満の時代の日明貿易は有名ですが、その後しばらくして応仁の乱が発生し、日本は戦国時代を迎えます。明の時代に琉球王朝がようやく成立。明との交流貿易があったようです。中国人主体とも言われますが(例えば日本の五島列島・平戸には王直なる倭寇の頭目がいました)、後期倭寇が中国沿岸を荒らした時代でもあります。大航海時代でスペイン人・ポルトガル人が来訪して日本に鉄砲を伝えたのもこの頃。豊臣秀吉は明征服を目指して朝鮮征伐を敢行し、明と朝鮮の連合軍と戦いますが、その死により終結。その後、明は倒れて清の時代に移ります。奄美は琉球王国の支配下に入っていました。琉球王国は明に朝貢していたものの、日本も日明貿易(朝貢貿易)を行っていたのであって、朝貢がすなわち中国の領土主張の根拠にならないことは明確だと考えられます。

⑦清:江戸幕府は所謂鎖国政策を実行し、対外貿易は限られた窓口でしか行いませんでした。一方琉球王国は東南アジアまで至り中継交易で活躍したようです。琉球は中国に対して朝貢していましたが、薩摩の琉球侵攻があって裏に薩摩がいたとも言われます。奄美はここで薩摩藩の直轄領になったようです。清は明の再興を掲げオランダを追い出し台湾によった鄭氏政権を滅ぼし、ここに来てようやく台湾が中国大陸の国に支配されることになります。明治維新で欧化政策を採った日本は琉球王国を日本に併合し、後に日清戦争を敢行。眠れる獅子と呼ばれた清を破り世界を驚かせたようです。結果、台湾を併合し、日本統治の時代が始まりました。

以上ですが、世界史や経済史・軍事史を踏まえ日琉中関係史を概観すると、中国の海洋における活躍は過大評価されており、琉球は基本的に日本の影響を強く受け成立し日本の系譜に連なるのであって、台湾すらずっと後に至るまで手をつけなかった中国の尖閣諸島に対する領土要求の歴史的根拠は相当怪しいことが分かるだろうと思います。

製糖技術の起源に関する歴史とインドの東南アジアに対する文化的影響

2018-12-07 19:37:40 | 世界史地理観光
特集1 砂糖(4)(農林水産省)

砂糖の歴史(インドから西方へ)((独)農畜産業振興機構(ALIC))によると、「ニューギニアを発祥の地とするサトウキビは、何千年も前からアジアの熱帯地方の多くの人々の間で、サトウキビの皮をはぎ、茎を噛んで甘い汁を飲んでいたようです。」

砂糖が世界史に登場するのは、紀元前4世紀のアレクサンダー大王のインドに至る遠征時の記録で、「インドには、蜂の力を借りずに葦からとれる蜜がある。」「噛むと甘い葦・噛むと甘い石がある。」等々の記述があるそうです(検索しましたが、元々の出典は良く分かりません)。どうも古代インド北部で製糖という技術革新が起こったとされるようです。

インドアーリア人は前10世紀頃にガンジス川に進出、十六大国の興亡の時代を経て、前4世紀末にマガダ国マウリヤ朝が統一国家を形成しました。

十六大国のひとつアンガ国(ウィキペディア「アンガ国」(2018/12/7)参照)の首都はチャンパー(ベトナム中部の古代王国チャンパの語源とされる)(仏典「ディーガ・ニカーヤ」によると当時の六大都市で商業や交易が盛んだったようです)。マハーバーラタによるとアンガ国はベンガル地方で栄えたそうです。

この時代、ガンジス川からベンガル湾を通じて、東南アジアとの交易があったとも推測でき、これが後の貨幣の発行で知られるナンダ朝マガダ国のビルマやセイロンとの交易に繋がったとも考えられます(マガダ国 世界史の窓)。南伝仏教やイスラム教等でも分かるように、元々ベトナム北部を除く東南アジアの文化は北方の中国よりインドを始めとした西方からの影響が格段に強い訳ですが(フィリピン独自の文字もインド系で漢字は関係ありません)(流れが変わるのは遥か後代、明清の人口爆発で移民が増えてからだと思います)、その嚆矢はガンジス川流域のインドアーリア人の王国(ベンガルあたりが特に怪しい)にあるのかもしれません。系統関係が証明されないオーストロアジア語族の(インド東部及びバングラデシュの)ムンダ語派とモン・クメール語派・ベト・ムオン語派を除き、インドと東南アジア諸国の言語学における現存の系統関係は見つからないのですが、世界史をキチンと勉強していれば、文化の伝播を民族の移動と解する必要は全くないことは理解できると思います(日本史において文化の伝播を民族の移動に過剰に結びつける議論が罷り通っているように見え、残念に思っています)。いずれにせよ、古代インド北部に製糖技術があったことは間違いありません。

インドの東南アジアに対する文化的影響が難しい理由のひとつに、インドが現在ヒンドゥー教が多数派の国であって、東南アジアにヒンドゥー教国がないことが挙げられるのでしょう。インドにおいては仏教もヒンドゥー教の一部だと位置づけられているようであり、上座部仏教や南伝の大乗仏教とヒンドゥー教の関係も興味深い(例えば何故セイロンという南方の島から上座部仏教が伝わったとされるのかピンと来ません)ところですが、それはまたいずれ調べるとして、ヒンドゥー教と仏教との関係(アジア見聞録)は日本人一般が思っているより、関係が深いようです。北伝の大乗仏教も勿論インド起源なのですが、上座部仏教に比べたら、中国を経由することでインド要素は明らかに薄れていると考えられます。例えば、インド神話に登場するガルーダはタイ王国国章・タイ王国国章・ウランバートル(モンゴルの首都)の紋章になっているようです。ちなみにモンゴルは中国から仏教を学んだ訳ではなく、チベット仏教から仏教を学んだのであって、チベット仏教は概ねインドから直接学んでいるようです(チベット文字もインド系です)。現代のイメージで歴史を見ることが必ずしも正しいと限りません(文字の観点で見れば、中国(漢民族)から派生した(少数民族を除く)文化は、(ハングルを含まず漢文主体だった)朝鮮・日本・ベトナム(主に北部)の3つに限られ、満州すら含まれないようです(ですからステップルートから満州にかけての中国以北の歴史と涼州とも呼ばれた甘粛省以西の歴史及びチベットの歴史も中国からの影響が一般的なイメージより小さいのではないかと疑ってかかる必要があり、西方からの影響をより重視すべきです)。また、琉球は中国(漢民族)からの直接の派生ではなく、言語系統・平仮名を使用した文字の観点から日本から直接派生しており、中国直系でも日中中間でも全くありません。が、戦争に負け支配されると文化の系統も何も無くなってしまうことがあるのは、中国においてのチベット・ウイグル・モンゴルの扱いを見て分かる通りです)。

三跪九叩頭でも分かるように華夷秩序とは明確に国の上下関係を決める秩序でもあって、近隣諸国では日本がもっとも中国の支配から比較的自由に発展したのであって(例えば江戸幕府は中国の使者に三跪九叩頭したりはしません)、そのことが明治維新や日清戦争での勝利に繋がっていくと思いますが、この三跪九叩頭した歴史を持つ国・地域が、客観的に見て中国に心を折られたか変に中国よりの歴史観を持っているように見え、注意が必要だと思います。

話を砂糖に戻すと、何故か沖縄県の解説(サトウキビ 沖縄県)では、パプアニューギニア→インドネシア→中国→琉球のルートで伝わったと書かれており、製糖法で中国人の名前のみ記載されていますが、本質的には製糖技術は古代インドと推定されますし、当然インドからペルシャ・エジプト・地中海世界へと伝播していますから(先に記述したALICの砂糖の歴史による)、そういう記述は誤解を招くものだと考えます。

砂糖に限らず、沖縄県は中国史観にドップリ浸かり過ぎており、中国発祥でないものが過剰に中国発祥だと示唆するかのような記述が多く(例えばサツマイモは南米発祥なのに中国が強調されます)、注意が必要だと思っています。世界史的観点から見れば、中国から入ったかどうかはローカルな視点に過ぎず、何処で重要な技術革新が起こったかに注目すべきでしょう。沖縄県の歴史の記述が日本史の視点で技術・物産が何処から来たかだけ書かれていれば、特には問題がないでしょうが、例えばニューギニアから始めてインドを軽く扱い中国を強調するのが、世界史に自ら言及しながら世界史的観点を踏まえていないということに他ならず、不味いというか中国よりに偏向している訳です。当時の沖縄九州から見て中国発祥に見えそのように伝えたとしても、現代から振り返ってみてどう見ても中国発祥ではないならば、キチンと訂正しておく必要があるんだろうと思います。

もっとおいしく安心して使うための砂糖の基礎知識(農林水産省)でも「さとうきびは紀元前のインドで使われ」と書かれており、原産地も中国にも触れられていませんが、そもそも直接噛んでいたさとうきびから、砂糖をつくるというイノベーションが重要だという訳なんだろうと思いますし、さすがに客観的だと思います。