
平山クリニックの南側の敷地は現在福山すこやかセンター南駐車場になっているが、近年まで日本化薬の保養施設(ふれあい会館)が建っていた。もっと前には日化の社宅が並んでいたという話である。歴史には必ず光と影があるが、ここも例外ではない。『福山空襲の記録(昭和五十年)』に収録された元福山警察署長の回想を読めば読むほど敗戦処理の難しさ、政治とは妥協の産物であることが分かる。

空襲・終戦・進駐軍
島田薫荘
当時 福山警察署長 四十三才
福山空襲があったのは、八月八日午后十時前だったと思う。この晩、新旧警防団長の歓送迎会を「春日屋」で行ない、午后八時四十分頃引きあげ、帰宅してちょっと横になっていた時に警戒警報が鳴り、引き続いて空襲警報になった。
…誤りがあるかもしれないが、はじめ本庄付近や春日の宇山の近くに照明弾を落し、旋回しながら市の中心部に入って来たように思う。焼夷弾は三十六本が一束になっており、落下途中でバンドが切れてバラバラになる仕組みになっていた。そのうちに、その焼夷弾で警察署前の消防屯所が燃え出して警察署の宿直室にも落下した。…警察署が焼け出す直前に福山城の本櫓に命中し火焰が中天に達するのを観た。それと前後して目の前の市役所庁舎が随所から火焰を吹き出し、またたく間に黒煙に覆われた。事ここに至って、私は署員にかねてきめていた本庄町の家畜屠場へ避難せよと命令した。私は最後に官舎を巡回して西隣りの日赤診療所横から公会堂と藤井別邸の間の道路をぬれタオルを口にあてて這うようにして線路に出て屠畜場へ行った。線路の西側の家屋はほとんど一斉に火を吹き、生き地獄の感があった。
被害は市街地の八十%に及び、市役所、警察署、裁判所、日赤診療所、霞、南、深津の各小学校、門田、増川、盈進、県女の各中等学校、三菱、大同重機、福山製紙の各工場、高射砲隊兵営等々の建物が焼失した。
…死者数が他都市と比べて僅少であったのは、一・二ケ月位前から数回空襲の予告ビラが空から撒布されたこともあって市民も十分準備ができておったことと、市内の不要の建物を撤去していたこと、それに老人・子供の郡部へ疎開に努めていたことなどもあろう。また六日の広島における原爆投下の悲惨さが伝えられて、郡部への疎開が促進されつつあったし、空襲必至を予想して防空の策を練っていた。
罹災後八月十日午后一時が二時頃、岡山県知事小泉梧郎氏と内務省防空局の斉藤氏の二人が岡山県庁の課長以下五名を連れて福山警察署仮庁舎(市議会議事堂)に来訪された。広島市が未曽有の惨害をうけたので福山市の戦災処理は岡山県知事がやる事に内命をうけたということであった。私は小泉知事と斉藤某高官に対し、対策要項の巻物を広げて説明し、実地検分の御案内をした。…そして、小泉知事は斉藤さんと今協議したのだが、福山市の戦災処理は福山市長と警察署長に一切一任することにした、と申された。
八月十五日、罹災後初めて広島市に知事と県警察部長を訪ねることにした。戦災見舞を兼ね福山市の復興状況を報告するためであった。早朝に福山駅を立ったのであるが、西条附近からノロノロ運転となり十二時頃漸く広島駅に着いた。駅では新たに乗車する者は少く、廃人同様の自失呆然たる人が多く、プラットで号泣する人さえあった。それは陛下が敗戦の詔勅を放送された直後のことであることを知った。一望焼野原となった市街を歩いて山口町の芸備銀行支店に至り高野知事と石原警察部長に会った。知事は先日岡山県知事から詳細を聞き、市と警察が一体となってよくやってくれていることを心強く思う。広島はご覧の通りの状態で敗戦の詔勅の出た今日だから今後は一々報告承認を得なくともよいから市とよく協力してやってくれと申され、私と小林助役は嬉し涙があふれたのを覚えている。
戦災処理について一切信任された市と警察は直ちに罹災後の復興にとりかかった。
…放出物資をめぐる不正を厳しくとりしまる一方、婦女子を守ることもやらねばならなかった。進駐軍がやって来るというので、女性が暴行をうけるだろうと専らの風評が立った。…進駐軍が来た都市ではどこにもそうだったが、福山でも婦女子を守るために「遊廓」を作ろうということになり、まず将校用のを千田に用意したが、進駐軍の方から将校用はいい、兵隊用のを急いで作れと言われ、日化の寄宿舎をゆずりうけ少し改造してこれに充当した。けっしてトラブルは起さないよう進駐軍にきつく申入れたのだが、実際はいざこざが絶えず、進駐軍の問題では心を砕いた。
『福山空襲の記録(昭和五十年)』

敗戦後、盈進商業学校三吉町校舎のすぐそばに突貫工事で作られた進駐軍の慰安所。そこに一時的であるが、新町の遊女が送り込まれたのは紛れもない事実である。駐車場(慰安所跡地)の斜向かいに位置する三吉野公園(元は田んぼだった)で桜吹雪を見る度に私は歴史の残酷さと日本人の忘れやすさについて思いを馳せるのだ。

追記(2014.4.17)
平成21年(2009)3月下旬の撮影時には日化の保養施設(当時の住所は三吉町南2丁目22)時代のブロック塀と鉄製の柵がまだ残っていた。この後まもなく塀と柵は撤去された。そして大分前に私はある古老から敗戦時の警察署長が「有名なミステリー作家の祖父」にあたる人物だと聞いた。


空襲・終戦・進駐軍
島田薫荘
当時 福山警察署長 四十三才
福山空襲があったのは、八月八日午后十時前だったと思う。この晩、新旧警防団長の歓送迎会を「春日屋」で行ない、午后八時四十分頃引きあげ、帰宅してちょっと横になっていた時に警戒警報が鳴り、引き続いて空襲警報になった。
…誤りがあるかもしれないが、はじめ本庄付近や春日の宇山の近くに照明弾を落し、旋回しながら市の中心部に入って来たように思う。焼夷弾は三十六本が一束になっており、落下途中でバンドが切れてバラバラになる仕組みになっていた。そのうちに、その焼夷弾で警察署前の消防屯所が燃え出して警察署の宿直室にも落下した。…警察署が焼け出す直前に福山城の本櫓に命中し火焰が中天に達するのを観た。それと前後して目の前の市役所庁舎が随所から火焰を吹き出し、またたく間に黒煙に覆われた。事ここに至って、私は署員にかねてきめていた本庄町の家畜屠場へ避難せよと命令した。私は最後に官舎を巡回して西隣りの日赤診療所横から公会堂と藤井別邸の間の道路をぬれタオルを口にあてて這うようにして線路に出て屠畜場へ行った。線路の西側の家屋はほとんど一斉に火を吹き、生き地獄の感があった。
被害は市街地の八十%に及び、市役所、警察署、裁判所、日赤診療所、霞、南、深津の各小学校、門田、増川、盈進、県女の各中等学校、三菱、大同重機、福山製紙の各工場、高射砲隊兵営等々の建物が焼失した。
…死者数が他都市と比べて僅少であったのは、一・二ケ月位前から数回空襲の予告ビラが空から撒布されたこともあって市民も十分準備ができておったことと、市内の不要の建物を撤去していたこと、それに老人・子供の郡部へ疎開に努めていたことなどもあろう。また六日の広島における原爆投下の悲惨さが伝えられて、郡部への疎開が促進されつつあったし、空襲必至を予想して防空の策を練っていた。
罹災後八月十日午后一時が二時頃、岡山県知事小泉梧郎氏と内務省防空局の斉藤氏の二人が岡山県庁の課長以下五名を連れて福山警察署仮庁舎(市議会議事堂)に来訪された。広島市が未曽有の惨害をうけたので福山市の戦災処理は岡山県知事がやる事に内命をうけたということであった。私は小泉知事と斉藤某高官に対し、対策要項の巻物を広げて説明し、実地検分の御案内をした。…そして、小泉知事は斉藤さんと今協議したのだが、福山市の戦災処理は福山市長と警察署長に一切一任することにした、と申された。
八月十五日、罹災後初めて広島市に知事と県警察部長を訪ねることにした。戦災見舞を兼ね福山市の復興状況を報告するためであった。早朝に福山駅を立ったのであるが、西条附近からノロノロ運転となり十二時頃漸く広島駅に着いた。駅では新たに乗車する者は少く、廃人同様の自失呆然たる人が多く、プラットで号泣する人さえあった。それは陛下が敗戦の詔勅を放送された直後のことであることを知った。一望焼野原となった市街を歩いて山口町の芸備銀行支店に至り高野知事と石原警察部長に会った。知事は先日岡山県知事から詳細を聞き、市と警察が一体となってよくやってくれていることを心強く思う。広島はご覧の通りの状態で敗戦の詔勅の出た今日だから今後は一々報告承認を得なくともよいから市とよく協力してやってくれと申され、私と小林助役は嬉し涙があふれたのを覚えている。
戦災処理について一切信任された市と警察は直ちに罹災後の復興にとりかかった。
…放出物資をめぐる不正を厳しくとりしまる一方、婦女子を守ることもやらねばならなかった。進駐軍がやって来るというので、女性が暴行をうけるだろうと専らの風評が立った。…進駐軍が来た都市ではどこにもそうだったが、福山でも婦女子を守るために「遊廓」を作ろうということになり、まず将校用のを千田に用意したが、進駐軍の方から将校用はいい、兵隊用のを急いで作れと言われ、日化の寄宿舎をゆずりうけ少し改造してこれに充当した。けっしてトラブルは起さないよう進駐軍にきつく申入れたのだが、実際はいざこざが絶えず、進駐軍の問題では心を砕いた。
『福山空襲の記録(昭和五十年)』

敗戦後、盈進商業学校三吉町校舎のすぐそばに突貫工事で作られた進駐軍の慰安所。そこに一時的であるが、新町の遊女が送り込まれたのは紛れもない事実である。駐車場(慰安所跡地)の斜向かいに位置する三吉野公園(元は田んぼだった)で桜吹雪を見る度に私は歴史の残酷さと日本人の忘れやすさについて思いを馳せるのだ。

追記(2014.4.17)
平成21年(2009)3月下旬の撮影時には日化の保養施設(当時の住所は三吉町南2丁目22)時代のブロック塀と鉄製の柵がまだ残っていた。この後まもなく塀と柵は撤去された。そして大分前に私はある古老から敗戦時の警察署長が「有名なミステリー作家の祖父」にあたる人物だと聞いた。

