寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

Jeff Beck / live at Ronnie Scott's

2008年11月30日 | 洋楽

昨年、ジェフ・ベックは母国ロンドンのジャズクラブでコンサートを開いた。すぐにブート(非合法のブツ)が出たが、私は無視した。1年後、正式に発売されたCDを聴き、己の判断が正しかったことを確信した。

餌のついていない釣り針を急いで飲み込みような愚かな行為を繰り返しているのは「精神年齢の低いおっさん」だけである。じっくり待つことができるのが「真の大人」だ(笑)

テクニシャンがバックを固め、ベックは伸び伸びとギターを弾いている。まさに職人の仕事である。ヤードバーズ出身(同門)のエリック・クラプトンはバタヤンみたいになってしまってもはや輝きを感じないし、ジミー・ペイジのギタリストとしての生命はとっくの昔に終わっている。現役バリバリなのはベック一人だ。

2006年7月の来日公演とセットリストはほぼ同じなのだが、アレンジが大幅に変わった曲が目立つ。ベースソロを組み込んだ「哀しみの恋人達」はフュージョン色が濃くなって新たな味わいが生まれている。

この曲でベックのギターは見事にむせび泣いているが、他ではアグレッシブなプレイが多い。荒削りともいえるフレーズの数々が随所に飛び出して聴く者の心を大きく揺さぶる。

来年2月、再び日本の地を踏む孤高のギタリストはどんな名演を残してくれるだろうか。今から非常に楽しみだ。

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さようなら0系新幹線

2008年11月30日 | 日記
「0系新幹線」は本日の運行をもって引退する。私が初めてこの新幹線に乗ったのは確か昭和50(1975)年3月下旬のこと、小学校に上がる直前だった。

夢の特急を前にして非常に興奮していたのであろう。車内で家族とどんな話をしたのか、まったく憶えていない。あの美しいシルエットが見られなくなると思うと寂しいが、これも時代の流れである。私の興味は次世代の新幹線「リニアモーターカー」の方に向いている。

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里芋の煮しめ

2008年11月29日 | 食材

正月の食卓に「煮しめ」がないのであれば私は酒を飲まないだろう(笑)。●万円もする御節を買うような「愚」だけは避けたいものである。

値段の割りに感動が少ないという意見はあながち間違いではない。強いて褒めるとすれば盛り付けの美しさくらいで、極めて無駄な出費だと私は思っている。腕と舌に自信があれば家の味で十分である。次の代に「伝えてゆくべき味」がないというのはあまりにも空しい。

さて話を戻そう。里芋の皮をむき下湯がきして水気をよく切る。他の野菜と一緒にやや濃い目の出汁でことこと炊いて味を含ませる。見栄えこそ地味だが、ねっとりした里芋はしみじみ美味しいと思う。現代人よ、里芋を侮ることなかれ!

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旅行の楽しみ方とは

2008年11月29日 | 日記
平成20(2008)年、私はかなり遠方まで足を延ばした。懐かしい先輩や旧友と再会を果たし、貴重な話を聞くことができた。自分とは全く違う分野で活動している人の話は面白いし、結構役に立つのである。

他府県の文化や風習を見るのが旅の一番の楽しみだ。広島県を出てみて「人間というものは知らず知らずのうちに固定観念に縛られている」と痛感した。良い面は受け入れて悪い面はさらりと流すのが私の流儀である。

土地や食べ物の評価についてははっきり物を言うので、親しい友人などは「相変わらず毒舌やの」と苦笑しているが、「嘘」をついても仕方がない。「真実を伝える能力」を失った者は「畜生以下」なのだから(笑)

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日本人と肉じゃが

2008年11月28日 | 家飯

「じゃが芋が嫌いな人っているんだろうか?」

夕食時にふとこんなことを考えた。日本に古くからある芋といえば、山の芋や里芋だが、今では外国から入ってきたじゃが芋の方がメジャーになっている。煮てよし、揚げてよしの食材で料理の数は山ほどある。

その中で日本人がまず思い浮かべるのは肉じゃがだろう。肉と一緒に野菜をたくさん摂取できる所がよい。関東人は豚肉を使うことが多いのに対して関西人は牛肉で作る料理と見なしているふしがある。

私の家ではここ10年豚肉じゃがを食べている。ただし、砂糖は控えめで龍野の醤油を使い色を淡く仕上げ、キレのある味にしている。刻みねぎはもちろん青。これだけは絶対に譲れない(笑)

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松江新大橋を渡り和多見町に入る

2008年11月26日 | 

東本町の飲み屋街を抜け「松江新大橋」の袂まで来た。橋から大橋川を眺めると漁をしている人がいた。初代新大橋(木造)が完成したのは大正3(1914)年のことで歴史は意外に浅い。

「松江新大橋」南詰から見た大橋川

「松江大橋 流れよが 焼けよが 和田見通いは 舟でする」と俚謡が残されているように橋の無い時代、城下から大橋川南側の「遊里」に行くには主に舟が利用された。

新大橋の南詰が和多見町で白潟の大明神である「賣布めふ神社」が鎮座する。この町には江戸期より「遊廓」があったが、明治38(1905)年の大火後に隣町に移転した。神社の近くに「無料案内所」が出来ているのを見て「時代は変わってもやっていることは昔とほぼ同じだ」と思ったのである。

和多見町の「無料案内所」

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小泉八雲が泊まった富田旅館跡

2008年11月25日 | 

大橋川に架かる「松江大橋」はNHKの朝の連続ドラマ「だんだん」で何度も登場しているので説明不要であろう。大橋北詰に老舗旅館「大橋館」があって、「小泉八雲宿泊址」と記された石碑が建っている。

この場所にかつて「富田旅館」が存在した。明治23(1890)年8月30日、ラフカディオ・ハーンは松江に到着してここに宿泊した。そして下駄のカラコロという音を聞いた。

当時の主人と女将の口述筆記が見つかり、ハーンが旅館で何を食べていたかが判明した。朝は牛乳と卵、昼と夜は巻き寿司などであった。面白いのは「目玉焼きを一度に大量に食べていた」ことと「糸コンニャクが気持ち悪い虫に似ているとして非常に嫌った」という話である。

「東本町名店街」

末次本町の隣が東本町で小料理屋や飲み屋が非常に多い。古風な「東本町名店街」から少し東に行った所で赤線を連想させる造りのスナックを見つけた。

奇妙な造りのスナック

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美しい宍道湖を一望する

2008年11月24日 | 

松江市は好きな都市の一つである。どんな町にも汚い部分は絶対にある。肝心なのは、醜悪な面を適度にぼかすということだ。松江の人はその点で秀でていると思う。私の米子に対する評価がとりわけ低いのはそれができていないから。

公園から大きな「宍道湖」を望む。晴れた日の湖は静かで美しい。しかし、常に穏やかというわけではない。風が吹けば波はうねり湖は荒れ狂う。自然のエネルギーを前にしては人間など無力に近い。普段はその事実をすっかり忘れて暮らしているだけのこと。

東茶町の「國暉酒造」

「宍道湖大橋」を渡り右に曲がると「國暉酒造」の酒蔵だ。私は旅をしている時には必ずその土地の酒と食材を試す。己の持っている、つまらない固定観念をあっさり捨て去ることで新たな発見ができ、目と舌が肥えてゆくのである。

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米子市花園町に残る遊廓建築(その3)

2008年11月23日 | 

「花園町遊廓」を代表する木造建築が大通りの北側(貸し布団店のある筋)に存在する。二階の壁に注目して欲しい。窓の上の壁が蝙蝠型にくりぬかれて後ろ側に障子が設けられている。

蝙蝠型にくりぬかれた二階の壁

夜に灯りをともせば、大きな蝙蝠が羽を広げて飛んでいるように見えたことだろう。これを目印に男達が「悪所」に通う様子を思い浮かべた。「造形の規範になっているもの」として「有形文化財」に登録する価値はあると思う。

妓楼のもう一方の出入口

広大な敷地から見て相当数の部屋があったと考えられる。妓楼の一部は生け花教室になっていた。大通りの突き当たりを左に曲がり「簱崎神社」に参拝した。

灘町3丁目の「簱崎神社」


旅をして「惹きつけられる町」と「そうでない町」があるが、私の米子市に対する評価は長野市同様に後者である。泥臭い印象は今回も払拭できなかった。

「もう二度と訪れることはないだろう」

そんな捨て台詞を残して次の目的地に移動した。

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米子市花園町に残る遊廓建築(その2)

2008年11月22日 | 
両側に元妓楼が並ぶ通りはおよそ150mの長さである。これが吉原の仲之町通りに相当するのかは知らないが、「悪所」の雰囲気は大体つかむことができた。

「元旅館」から西に30m進んだ辺りまでに妓楼は集中している。その大半は赤線時代のものと判断した。下関市の新地で見たコンクリート建築(旅館として最近まで使用された)の間取りと同一点が多かったからである。

木造の妓楼B

通りの南側のエリアに一軒だけ古い木造家屋が取り壊されずに静かに建っている。昔は三味線の音が聞こえてさぞかし賑やかだったのだろうと想像を深めた。

米子市の「花園町遊廓」跡は方角を無視すれば私の生まれ故郷の近くにある「新町遊廓」跡と配置が酷似している。ジメジメした暗い感じまでもが同じようで少し不快になっていた。

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米子市花園町に残る遊廓建築(その1)

2008年11月22日 | 

私は花園町に入った。太い道路の両脇には「遊廓(赤線も含む)」絡みの建物が何軒か残っていた。

灘町2丁目は昭和10(1935)年に花園町と改称された。こうして「灘町遊廓」が「花園町遊廓」になったのである。花園は楽園を指す。つまり「色街」をあからさまに表現しているのだ。

花園町の元旅館と思われる

「貸し布団店」の斜向いに奇妙な窓を持つ家がある。町内地図から判断するに売春防止法施行後に旅館経営に切り替えた旧妓楼だろう。見た感じでは廃業しているようだ。

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米子市立町3丁目の銭湯「日の出湯」

2008年11月21日 | 

遊里関連の文献には、大正元(1912)年に置屋や貸席の経営者が「鴨御宮神社かもみおやじんじゃ」の西側一帯(町名が変更される以前の灘町2丁目)に移転して「新地」を作ったと書いてある。

立町の「鴨御宮神社」のことを地元の人達は、ただすさんと親しみを込めて呼ぶ。「糺神社」という名称の方が一般的であろう。

私は坂を上り高い場所にある「糺神社」を見上げた。それから引き返して「日の出湯」という目出度い名のついた銭湯を見落としていたことに気づいた。扇子の模型がなかなか洒落ている。元「花街」はすぐ近くにあると思った。

もと花街大通りにある「貸し布団店」

銭湯の前の道を西に進み二股に分かれる所を右に曲がった。大きな「貸し布団店」が見えて太い通りに出た。「ここで間違いない」と私は呟いた。

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米子市灘町はかつての繁華街である

2008年11月21日 | 

江戸時代、灘町には船乗りが泊まる「船宿」があった。経営者側が更に儲けようと欲を出したのは当然だ。鳥取藩は安政5(1858)年、船宿に飯盛り女を置きたいという彼らの申し出を認めた(『御国日記』)

灘町が繁栄を極めるのは明治になってからである。山陰本線の「米子駅」が明治35(1902)年に開設されるまでは米子の中心地だった。

灘町の銭湯「弁天湯」

「吉祥院」の近くに「弁天湯」という銭湯があった。ここから西へ向かって十字路に出ると古い家屋が建ち並んでいた。ある家の壁に打ち付けられたプレートには灘町二丁目と書いてある。

灘町2丁目界隈

錆び付いた古いプレート

しばらく周辺をぶらついてレトロな床屋「男前會舘」を発見した。廃業して随分月日が経っているようで人の気配はまったくしなかった。灘町にはやけに床屋が多いのが分かった。

廃業した床屋

「条件は満たしているが、どうやらこの辺りではないようだ」と見切りをつけ、もと来た道に出て北上したのである。

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米子市内町の「後藤家住宅」

2008年11月20日 | 

旧加茂川は外堀の役目も兼ねていた。この川に架かる「京橋」を境に東側を「加茂川」、西側を「米子湊」と言った。「京橋」の南詰が「内町うちまち」である。堀の内側にある町という意味で、本来武士の居住地であるが、彼らの用達を勤める商人が住みつくことを許可された。

数ある商人の中でも「後藤家」は海運業を営み莫大な財を蓄えた。鳥取藩の米や鉄の回漕権利を与えられた回船問屋で徳川幕府瓦解後も質商や煙草栽培などで成功した。その屋敷が「内町」に残っていて現在は国指定重要文化財になっている。

堀の外の「灘町」から「内町」に入るには「京橋」を渡って「大木戸」を通過しなければならなかった。そこには監視役の「木戸番」が置かれていた。私はこの逆のルートを通りかつての町人地である「灘町」に入った。

内町(手前)と灘町(奥)を結ぶ「京橋」

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米子市の旧加茂川河口

2008年11月19日 | 

「灘町橋」停留所で下車し、赤い「だんだんバス」を見送った。だんだんは松江の言葉で「ありがとう」という意味であるが、米子でも同様に使われるのか私は疑問を持っていた。地元の人に聞いたところでは「あまり使わないね」との返事だった。

旧加茂川から米子港を望む

西方が米子港(中海)である。旧加茂川の河口に移動した。江戸時代、この川を船が行き来して物資が運搬され、近辺の町は非常に栄えたというが、今では静かな住宅街に変わっている。川沿いの遊歩道は緩やかな下りを経て「京橋」と交差する。

旧加茂川河口より京橋を望む

川べりの旅館(灘町)

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