寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

大晦日のお礼参り

2012年12月31日 | 暗黒の無政府時代
備後福山藩の御仕置場近くまで行くのは気が重かったが、願掛け成就のお礼参りだけは済ませておかなければバチがあたる。

奈良津墓苑下のお稲荷さん

奈良津墓苑下のお稲荷さんの周りは落ち葉で埋め尽くされ何度も滑りそうになった。祭神は松下稲荷大明神・清瀧稲荷大明神・吉脇稲荷大明神。

祭神

吉脇稲荷大明神

私は大明神の前で手を合わせて頭を下げ「12月の御仕置で世の中は大分きれいになりました。ありがとうございます。来年の夏に残党も片付けて下さい」と呟いた。

無縁碑前の石仏

無縁碑前の石仏にも手を合わせ山を下ると大勢の人が墓掃除に来ていた。私は時の挨拶を交わしながら「日本はまだまだ大丈夫だ」と思った。

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福山市・深津どんぶり池があった場所を調査する

2012年12月31日 | 郷土史
国道2号線の千間土手中交差点に到着。ここから千間土手東交差点まではドンキホーテ、フタバ図書、コジマ、ニトリなどの商業施設が集中する。

国道2号・千間土手東交差点付近(フタバ図書・コジマ電機・ニトリ)

私は『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』に出てくるどんぶり池の跡を確かめるためにまた千間土手まで戻ってきたのである。

…千間土手…度々堤防が切れ…ことに大きく決壊した箇所は現在國道二号線のバス停千間土手中の辺当りが大きく崩れ海底の土砂を噴き上げた。後に深津どんぶりという大きな池が出来た。
…昭和四十二年八月着工の明神前土地区画整理事業で深津どんぶり池も埋め立てられ昭和四十五年二月完成一六八六平方米、工費一億五百萬圓で現在の区画となる。

昭和15年頃の福山市街地図より千間土手周辺を拡大

昭和15年頃の福山市街地図でどんぶり池の場所を確認しよう。黄色の道路が千間土手(現在の国道2号)で右端が梶島山である。道が若干折れ曲がる辺りが現在の明神町交差点(国道182号と交わる)となる。

現在の地図と比較することで池の跡(埋立地)を特定した。それはヤマダ電機の東側の区画、明神町2丁目16の新生倉庫運輸株式会社福山営業所が建っている辺りだ。

明神町2丁目のヤマダ電機

どんぶり池の跡

明神町の地図

新福山陸橋まで移動して南西の方向を望む。すぐ下に見えるのが明神前公園(明神町2丁目7)と汐廻川である。公園から少し南に下った所にどんぶり池はあった。

福山新陸橋から明神前公園・汐廻川を望む

明神前公園

明神前公園内には近代的なトイレがあるが、その隣に黒光りする大きな石碑が建っている。表面には「明神前土地區画整理竣工記念之碑 理事長藤井秋太郎」の文字が刻まれている。

明神前公園内の明神前土地區画整理竣工記念之碑

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大分県産どんこ(乾椎茸)の水戻し

2012年12月31日 | 食材
御節料理の準備が始まった。私の担当は数の子の塩抜き・田作り・海老の旨煮、そして椎茸の含め煮である。

今年は上物のどんこを使うことになった。乾椎茸を水で戻す際のポイントは焦らないこと。冷水に浸けて1日かけて旨味を引き出すのである(椎茸の入ったタッパーを冷蔵庫に1日置くだけ)

肉厚の椎茸を甘辛く煮しめたものをアテに燗酒をちびちびやるのが私は好き。上記の品が皿に並べば二合は軽く飲める。

どんこの水戻し

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福山市東深津町6丁目の深津塩崎神社(後編) 

2012年12月30日 | 郷土史
塩崎神社は正保三年に水野宗休公によって再建されたと伝えられる。難航する干拓事業の成就を祈願してからは千間土手が決壊しなくなった経緯は数々の歴史書に記されている。

…千間土手は正保二年にはほぼ出来上がっていたが、其の後度々堤防が切れ干拓地が潮をかぶった。…時の領主二代目水野勝俊は参勤で江戸に在住していたため隠居して宗休と号していた勝成公が指示を行っていた。
この時深津の庄屋藤井庄五郎氏が当時小字才ノ尾(参重山)にあった小社、潮崎大明神に「ご祈願されては」と進言した。宗休公はその言葉を入れて祈願をしてから堤防は崩れなくなり正保四年(一六四七)千間土堤は完成。深津沖新田百七町歩の干拓させる入封時深津村の石高は七六九石であったものがこの干拓によって二〇〇八三石にもなった。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』

深津塩崎神社の注連柱と拝殿

才の尾(崖)

参拝を終えた私はもと神社があったという崖(才ノ尾)を見上げた。そして木の柵の奥に防空壕の跡を発見し因島の造船所周辺にもこのような壕がたくさん残っていることを思い出した。

崖下の防空壕跡

参考までに昭和15年頃の深津嶋山周辺地図と福山空襲被災地域図を載せておく。深津の国民学校(現在の幼稚園)と長尾寺周辺、辻の坂の麓などが燃えたことがお分かりになるだろう。

昭和15年頃の福山市街地図(あき書房による復刻)

福山空襲被災地図より深津高地を拡大

深津の被災状況については『福山空襲の記録(昭和五十年)』における藤井猛氏(当時盈進工業学校勤務 四十三才)の回想が非常に参考になる。

○八月八日午後五時過学校から帰宅して間もなく六時過ぎであったろう。空襲警報が発令され、隣組の人々は鉄帽にゲートル、モンペ姿で直ちに防空壕に避難した。ふと米軍機が近距離に接近し、照明弾を落した。暮れがかる空が真昼の如く明るくなり、その白光はしばらく続いた。著者は…鉄兜を被り、自転車に乗って学校へ急行した。その時北の方吉津旭通り辺に車から西へもくもくと黒煙が上がるのを見た。八時過ぎであったろう。まだ暮れていないのではっきり見えたのだ。三吉町の通りは人影もまばらであった。
 いよいよ日が暮れると大部隊のB二十九の編隊が東の方から市の上空を旋回して、焼夷弾攻撃を何回も何回も加えた。…
 午後十一時頃校舎も三吉町本通りも松原も焼けていない。本校は助かるかも知れぬと思った。そのうち日本化薬工場が火焰に包まれた。次いで、山陽線南側の藁工品倉庫が火災になった。南北の火焰に照し出され校舎四棟が黒々と浮び上がっていたので敵機は見逃す筈はない。最後に焼夷爆弾が武道場(校舎の西側)の剣道部物置に落下した。
 武道場の火は続いて渡廊下にそして二階建木造校舎二棟に延焼した。…次いで東側の武器庫宿直室等を総なめに焼いた。夜が次第に明けてゆくと惨たんたる焼跡だ。…
 学校の周辺を自転車に乗って廻って見ると、北の方三吉町本通りと三枚橋東側の松原は焼けずに元のままの状景であった。南の方、日本化薬の工場は全焼し、福山城天守閣も焼失、市の中央部は完全に廃虚となった。手城町も広い範囲で煙があがっていた。東深津町は深津高地に立つ長尾寺が先ずねらわれ西、沖部落、深津小学校を中心に周辺が全焼していた。下丁分辺りは大部分が焼失し、田圃には焼夷弾が落ちて稲が焼けた跡が約十米おきぐらいに点々と続いていた。上丁分、王子山附近は残っていた。

防空壕からほど近くに何故か足踏み水車(戦後動力ポンプが普及するまではこれが主流だった)が置かれていた。本体に墨で昭和拾参年五月と書かれており焼失を免れたことがわかる。過去と現在をつなぐ木造品に私は不思議な縁を感じた。

足踏み水車
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福山市東深津町6丁目の深津塩崎神社(前編) 

2012年12月30日 | 郷土史
JR山陽本線・沖踏切を渡り左手の坂に目を向ける。自動車が頻繁に行き交う道路は辻の坂の丁字路交差点に通じているが、私が寄り道をして向かうのは歩道の方だ。

沖踏切から休憩所のある山を望む

休憩所(地蔵堂)

以前から深津嶋山の中腹に休憩所(東深津町6丁目11-1の東側)らしきものが建っていることは知っていたが、行ったことはなかった。辻堂によく似た造りで奥に涎掛けをつけた3体の地蔵が安置されている。

休憩所(地蔵堂)に安置された地蔵

深津塩崎神社へ向かう

地蔵堂で一服した後川沿いの道に入り北東へ進む。私は沖組会館脇に設置された掲示板の先に自転車を止めた。

深津塩崎神社の掲示板

そして新年の祈願祭の時刻を確認し石鳥居前で一礼して深津塩崎神社(同町6丁目15-36)の境内に入った。参拝者が一人もいないのは珍しい。

深津塩崎神社の鳥居前

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コーヒーを抽出しながらふと思う

2012年12月30日 | 日記
コーヒーの甘い香りを嗅ぎながら私は広島県知事と福山市長の対立について考えていた。港町の埋立架橋計画がポシャリ、知事に対して横柄な態度を取る市長だが、ホテルプリンスの火災事故発生など悪いニュースが全国に流れ逆風に晒されている。

我を張っても得るものは少ないだろうと知人が指摘していたが、これは僻地の住民に関しても同じことが言える。ゴネれば相手が折れる(金が落ちる)という時代は終わった。市全体の利益を考えて理性的に行動してもらいたいと中心部の人間は冷ややかに見ている。

釣り人像の前で市の杜撰な仕事を糾弾する人を役所もそろそろ無視できなくなっているのではないだろうか。来年はもっと膿が出ると私は予想する(笑)

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福山市東深津町4丁目の艮神社

2012年12月29日 | 郷土史
東深津町4丁目6-30の丁分(よーろぶ)公民館の西隣に艮神社(うしとらじんじゃ)が建っている。私は近くでよく遊んでいたにもかかわらずその存在に長らく気付いていなかった。

艮神社由緒
艮神社は 人皇第七代考霊天皇の皇子備後国総鎮守 吉備津彦の大神を奉斎してある備後一宮 吉備津神社の荒魂を深津松山(蔀山)に分祀(六百四十年前)していたものを昭和四十一年九月三十日この地にお移ししつゞいて昭和五十五年十一月一日新に社殿を新営したものです 御祭神は 吉備津彦命で第十代崇神天皇の御代四道将軍として この吉備国においでになり国内を平らかにお治めになりました 以来この地方の守護神として崇敬せられております
神社本庁所属 宗教法人 艮神社

艮神社の由緒

図書館で住宅地図を見ていて偶然発見した時には非常に驚いたのだ、灯台下暗しとはまさにこのことだと。

東深津町4丁目から見たJR山陽本線の沖踏切

沖踏切

艮神社のすぐ北側を山陽本線が走っている。沖踏切は私の記憶の中の(昭和40年代後半)の姿とほぼ同じだ。遮断機の前で普通電車を見送る男は数十秒だけ虫篭を持って野原を駆け巡る少年に戻っていた。

沖踏切を通過する普通電車

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福山市東深津町7丁目の深津八幡神社 (後編)

2012年12月29日 | 郷土史
深津八幡神社境内の北側斜面を「宮の端長寿園」という。広島県福山市には端(はし)と書いて「はな」と読む地名が結構存在する。宮の端(みやのはな)は深津隧道から東へ伸びる道路沿い周辺(神社の北東部)を指す。宝くじの高額当選者がよく出る酒屋そばに「宮ノ端交差点(信号機付き)」として地名が残っている。

東深津町の宮ノ端交差点

宮の端長寿園のシバザクラ

長寿園(約150坪)には地元の人がシバザクラを植えており春には美しい花を咲かせる。上の画像は今年撮影したものだ。左手(方角は西)に見えるのは東深津町1丁目の東部第14公園。

傾斜15°の坂の表示

坂の中間地点辺りから社殿を望む

神社境内から西に歩いて行くと小高い丘(坂)となる。傾斜15°を上り下りして体を鍛える人も多いと聞く。坂の半ば辺りから眺めた社殿は見事な左右対称形である。

標高12.9mを示す柱

頂上(標高12.9m)から南方の深津小学校・福山通運本社を望む。水野勝成公が推進した干拓事業の結果がこれだ。あの世のお殿様も備後国福山の発展をさぞかし喜ばれていることだろう。

傾斜15°の坂を上った地点から南方を望む

私にはまだ行くべき所が幾つかあった。郷土史に詳しい読者の中には「こんな(≒こいつという意味の備後弁)は深津のアレを忘れとらんか」と心配した人もいるかもしれない。その話は今年中に片付けるつもりだ。

深津八幡神社境内から石鳥居を見下ろす

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福山市東深津町7丁目の深津八幡神社 (前編)

2012年12月29日 | 郷土史
米座倶楽部前の道を北東に川に沿って進む。ほどなくしてして重厚感のある石鳥居が現れる。

深津八幡神社の石鳥居

石段を上った左手奥に深津八幡神社(東深津町7丁目9-8)の社殿がある。福山市民にはあまり存在を知られていないが、歴史上重要な神社と言ってよかろう。

深津八幡神社の拝殿

社名 出崎八幡宮
祭名 應神天皇 功皇后 仲哀天皇
位置及び由緒の大要 米座 東八幡西八幡の二社あり。

『土基本調査 深津尋常高等小學校(昭和三年)』

旧深津村の米座(こめざ)という字(あざ)は毛利元康の時代に納米蔵が置かれていたことに由来する。

出崎八幡
東西両社なり、此宮の下を藏之崎と云。元康の時代、納米藏の跡なり。當村の詞に他村を在といひ、他村の人を在者といふ。徃古元康の城下なりしゆへ、其時の言葉殘れり。

『備陽六郡志』

深津八幡神社の本殿

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冬野菜の大根が1本あれば

2012年12月28日 | 食材
短時間で酒肴やおかずを作ることができる。生(ちりめんおろしや刺身のけん)、酢の物(紅白膾)は定番だが、我が家では乱切りにして人参と一緒に出汁で炊いて食べることが多い。熱々の大根は何よりのご馳走である。

皆さんは大根おろしに軽く火を通して食べてもおいしいことをご存知だろうか。湯豆腐におろしを加えた雪鍋は遊び心溢れる渋い料理である。豆腐も絹だけでなく木綿も使うと面白い。やわらかいのとしっかりしたのを1つの鍋で楽しむのもオツだ。

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福山市東深津町7丁目の東荒神社

2012年12月28日 | 郷土史
辻を北西方向へ坂を上って行く。傾斜がきつくなる辺りに東荒神社(東深津町7丁目12-10)と刻まれた石柱が見え隣に地蔵堂がある。

地蔵堂

空き地から東荒神社を望む

東荒神社

地蔵堂の背後の空き地に自転車を止め石鳥居をくぐり神社に参拝した。社殿前の木札に祭神(三柱=穀物の神・火の神・竈の神)が書かれている。

東荒神社の祭神

高地へ続く坂道(東深津町7丁目10辺り)

社殿の奥に位置するカジヤ谷マンションの横を通り高地を目指す。私は深津隧道のちょうど真上を歩いて思い出の場所に辿り着いた。少年時代、自転車を押して中国農試に続くこの坂道を何度上がったことだろう。爪が真っ黒くなるまで土筆を採って家路につく頃には夕日が出ていた。この場所から悪童と自転車で急降下してスリルを味わったことが信じ難いほどの変わりようだ。私は時の流れを静かに受け入れ辻まで引き返した。

東深津町7丁目14-9辺りから私立女子高を望む

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福山市東深津町7丁目の米座倶楽部前に建つ古い道標

2012年12月27日 | 郷土史
米座倶楽部・㈱キレイ(東深津町7丁目8-21)前に古い道標が建つ。石柱には「左ふく山」「右かさ岡」という文字が刻まれている。

米座倶楽部前の道標(「左ふく山」「右かさ岡」)

少し脱線して笠岡街道について話を進めたい。道標から右折、即ち南下してすぐに道はカーブして直線となる。

道標のある辻を南下

東深津町1丁目と2丁目を分ける道路

東深津町1丁目と2丁目を分ける道は干拓用に築かれた土手の名残である。その起点というべき地点に地蔵菩薩(東深津町2丁目2-11辺り)が祀られている。

東深津町2丁目の地蔵菩薩

お堂から道は東へ一直線に延びる。道路から南側、かつての深津沖新田に東深津郵便局などが建っていることになる。

福山東深津郵便局辺り(東深津町2丁目)

高度経済成長後、急速に宅地化が進んだが、愛犬美容師会周辺にはまだ農地が存在することが分かるだろう。城東中学校の先で街道は国道182号と交わる。

東深津町3丁目の福山愛犬美容室会辺り

東深津町3丁目の城東中学校辺り

引野街道(笠岡街道)

そして国道182号の西鍋蓋交差点を横断してまもなく手城川が視界に入り桐2号橋東詰には鍋蓋の常夜灯が移築されている。

国道182号の西鍋蓋交差点は笠岡街道と交わる

鍋蓋の常夜灯(南蔵王町6丁目7辺り)

突き当たりが蔵王病院(南蔵王町6丁目)

街道は南蔵王町6丁目の蔵王病院の麓で南に折れ笠岡へ続く。途中に小さな常夜灯が残っており歴史をしみじみと感じる。

笠岡街道沿いにある小さな常夜灯

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年賀状作成の次は大掃除だ 

2012年12月27日 | 日記
当初の計画通り年賀状を25日に投函した。やればできるものだ。今年最後となる燃えるゴミの回収日は28日。本日中に不用物を一まとめにして拭き掃除まで終わらせたい。清々しい気持ちで新年を迎えるためにもうひと踏ん張りだ。

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万歳(ばんざい)三唱後に美酒を飲む

2012年12月26日 | 暗黒の無政府時代
奈良津の山中のお稲荷さんに売国奴の速やかな始末をお願いして7ヶ月後、衆議院の解散が実現したのである。無能な屑どもの多くは延髄に仕掛け針を打ち込まれ絶命した。そしてついに今日私たちは屈辱的な統治から解放された。この無駄な3年3ヶ月は我が国の暗黒史として子々孫々まで語り継いでいかねばならぬ。

リベラルという時代遅れの如何わしい言葉が大好きな(火事場泥棒の)残党と火付けの手引きをした者たち(売文古事記)の捕縛と断罪はこれからだ。反日虚臭(犬の左お捻り以下)を根絶やしにするためにもスパイ防止法の早期制定が望まれる。

安倍晋三氏の第96代総理大臣就任を一日本国民として祝福する。万歳(ばんざい)三唱後に飲む酒は飛び切りうまい!

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寒さ知らずの鴨を見つめる 

2012年12月26日 | 日記
寒さに体が縮かみ指はまるで棒のようだ。そんな撮影者に無関心な鴨たちは水の上を暢気に泳いでいるように見える。しかし、実際は川岸に大量のゴミが流れ着いており餌を探すのも大変な状態なのである。街の片隅で密かに生存競争は続く。

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