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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

廣島市比治山公園舊御便殿(戦前の絵葉書)

2013年02月10日 | 学生時代
廣島□○堂製の彩色絵葉書。原爆投下前の姿を知る上で貴重な資料である。広島市民にとっては今も昔も特別な場所であることに変わりはない。

比治山の話
 ウッソウとした松林につつまれた山の形が、あたかも虎がうずくまっているようなので臥虎山ともいい、広島在住の漢学者はこの山をもっぱら「がこさん」と表現した。昔の名称には「秘地山」ともある。
 この比治山が、広島市民の遊覧の土地として比治山公園といわれるようになったのは、明治三十一年八月以来のことである。この山には、陸軍墓地と御便殿がある。この御便殿は、日清戦役の際、臨時第七回帝国議会の開院式に参列された明治天皇の御便殿に当てられた建物を明治四十二年十月にそっくり移したもので、明治四十三年の紀元節以来、広島名所の一つになった。

 比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島に立ち寄った報道人が必ずたずねた有名なところでそれだけに小さな四角い墓標が整然と並んだ風景が忘れられない。…

 この広場にあった絵馬堂式大記念館は、大正天皇即位大典を記念して大正七年に建てられたもので、大鳥居はその前、大正二年二月に明治天皇御大葬で青山斎場に建てられたのを東京市から譲り受けて建て、御便殿を一段とりっぱにしたものである。戦後、この大鳥居の銅板が下から手のとどく限り、痛ましくもむしりとられてしまった。金ヘンブームとはいいながら、古い広島人はこんなバカなことをと嘆いたものである。
 原爆といえば、あの日の朝、この御便殿の前で合掌していた人が、ピカッと光った途端に地上に伏し、つぎに頭をあげたときには、絵馬堂式の記念館はもちろん、すべての建物が壊れていたという。このあたりの御便殿の最後は、さまざまな写真に克明に写されている。

『がんす横丁 / 薄田太郎(昭和四十八年)』

比治山は私のかつての下宿からわりに近いところにあり、花見の折には柔道部の新入部員歓迎コンパが派手に行われていた。そこで悪友は正気を失うまで飲んで大いに消沈していたことを思い出す。

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