寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

ショッピングセンター「タカノ橋こうせつ」跡地に建設される分譲マンション「ソシオ大手町〈T‐SQUARE〉」

2020年07月11日 | 学生時代
平成31年(2019)3月下旬に広島市中区千田町1丁目から撮影したタカノバシ商店街。私にとっては非常に思い入れのある場所である。灼熱地獄と化した大講義室(で熱弁を振るう旧制四高卒のマルキストS田教授はある種ヒトラーのようでもあったが、学生の反応は鈍かった。マルクス賛美に終始する社会学の講義は退屈極まりないので居眠りをする者が大半だった)を抜け出して商店街入口横の書店でよく暇つぶしをした。

書店

そして書店上の居酒屋(当時はかまど鷹野橋店だった)でコンパを開いたこともあった。昭和末期の蛮カラな大学生とこの商店街は非常に深いつながりがあったといっても過言ではない。私はショッピングセンター「タカノ橋こうせつ」の最後の姿を記録するために大手町5丁目を訪れたのだった。

ショッピングセンター

顔出しパネル

店先に設置された顔出しパネルには肉屋の閉店チラシが2種類貼られていた。某テレビ局が取材に来ていたので自分の顔をパネルにはめ込んで記念撮影するのは止めておいた。

貼り紙

貼り紙2

もとパチ屋

隣のもとパチンコ屋「フラッシュ28広島店(※平成23年に閉店)」前には「(株)日殖建設 事業用地」と印刷された広告シートが取り付けられており、同社が周辺の再開発事業に絡んでいることを知った。私は事業の進み具合を自分の目で確かめるために令和元年(2019)暮れに同地を再訪した。

建設地A

建設地C

建設地B

喫茶「ルーエぶらじる」から「インド料理ガネーシュ」までの間がごっそりと消滅し「(株)GAパートナーズ」の管理地(約3,000㎡)に変わっていた。仮囲いの透明パネルからは北方の超高層ビル「ドコモ広島大手町ビル(高さ139m)」がよく見えた。ショッピングセンター・旧パチンコ屋などの跡地には地上15階建ての分譲マンション(2棟)が建設されることが分かった。

建設地D

地元の人のブログ記事を参考にすると今年5月12日に地鎮祭が執り行われて新築工事が着々と進んでいるという。マンション名は「ソシオ大手町〈T‐SQUARE〉」に決まり令和3年(2021)12月に竣工する予定である。中国地方最大の都市は休むことなく変化し続けるのである。

ショッピングセンター「タカノ橋こうせつ」3月末で閉鎖

2019年02月14日 | 学生時代
お好みワイドひろしま&ひろしまニュース845でタカノ橋商店街の映像が流れて思わず見入ってしまった。私は18歳で福山を去り晴れて広島市民になった。昭和の末、中心市街地は人で溢れ活気に満ちていた。大学生活をスタートさせて1週間ほど経った時だと思うが、夜の街にくり出して下宿への帰り道が分からなくなり鷹野橋交番に駆け込んだのだった。

巡査はむっとした表情で開口一番『あんた、ふざけとんか』と言った。それで私は丁寧に事情(越して来てまもないこと)を説明した。納得した彼は新入生に同情した上で国道2号線に出て東へ進むようにと教え簡単な地図まで手渡してくれた。その後、大講義室を抜け出してはタカノ橋商店街で暇を潰すようになった(入口の書店とその上の居酒屋そして商店街向かいのパチ屋はよく利用した) 

ショッピングセンター

精肉店

精肉店2

精肉店3

商店街の中程に位置した「タカノ橋こうせつ(市場)」が3月末に閉鎖となることを知り驚いた。学生時代には「新長精肉店」を通りから覘くだけだった(牛肉自由化前だから手が出なかった)が、品揃えの多さはよく覚えている。

客

総合大学の学部の殆どが東広島市に移転し市場規模が縮小したのに加えてスーパー間の競争が激化し最近のショッピングセンター内は5店舗(最盛期の約4分の1)にまで減ったという。解体後はやはりマンションが建つのだろうか。時代の流れに逆らって生きることは非常に難しい。

客2

広島市中区紙屋町2丁目2‐18・サンモール

2017年03月06日 | 学生時代
5日の昼過ぎ、サンモールの地下で発生した火災の様子をテレビのニュースで見た。自分にとっては思い入れのある場所なので大学2年の頃を振り返ってみたい。2コマ目のドイツ語が休講になると山口出身の同級生と自転車をこいで紙屋町へ向かったものだ。

サンモールB

サンモールC

サンモール地下1階のお好み焼き屋でちょっと贅沢な昼食を取るためだ。店名は覚えていないが、昭和56年(1981)6月開業の「あまんじゃく」と思われる。午前11時過ぎの店内は空いており学食よりくつろぐことができたし、大学正門そばの「かむろ」と比べると安かった。食後にモール内のレコード屋でビートルズの海賊盤(※当時はLPが主でCDの時代が到来するのは西条に移ってからだった)をチェックするのも楽しみだった。このビルが近い内に生まれ変わるという話を聞いたが、今回の事件を機に計画が加速するかもしれぬ。

サンモールD

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成人式の恥かしい思い出

2016年01月08日 | 学生時代
福山市成人式は今年も11日(月)にリーデンローズで行われる。福山みなと公園第1駐車場が式の臨時駐車場となるので看板が置かれていた。

リーデンローズ

私が広島市の成人式に出席したのは28年前、昭和63年(1988)1月15日のこと。遊び仲間と路面電車に乗って遠くまで行った記憶があるので会場は多分西区の広島サンプラザだろう。当時は19歳で招待状のハガキが届いた。

会場に到着して私達は愕然とした。参加者はスーツ(と紋付き袴)を着た者が殆どだったのである。平服=普段着と勝手に解釈した小汚い格好の貧乏学生は穴があったら入りたかった。結局(今は無き)広電ビル地下1階の居酒屋・かまど紙屋町店でヤケ酒を飲みベロンベロンになった。

サンプラザと私の相性の悪さは以降も続いた。ド田舎東広島から講義をサボって駆け付けたヴァン・へイレンの広島公演がサミー・ヘイガー風邪のため中止(実際はチケットの売れ行きが悪くてメンバーがやる気を失ったらしい)。大学の卒業式もここだったが、入社式の直前ということもあって証書をわざわざ貰いに行くのがめんどくさくてたまらなかった(笑)。私がサンプラザ嫌いを脱したのは社会人1年目。ジョージ・ハリソン(エリック・クラプトンのバンドメンバーがバックを務めた)のコンサートは感動的であった(院生となっていた同期と会場で再会したこともあり)。

ポートプラザ

思い出が長くなってしまった…福山の商業施設の話題に切り替えよう。今日着物姿のわさみんが新曲のPRでポートプラザ(イトーヨーカドー)に来ていた(写真はミニライブの会場となった中央広場)。CDを購入したオタとの握手会をきっちりこなしてお疲れさま(私はライブは観てない)

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下宿の近くにあったほか弁屋

2015年04月24日 | 学生時代
広島市中区鶴見町14‐13にあった弁当屋・ほっかほっか亭昭和町店(現・麺龍の場所)。写真は平成14(2002)年9月に撮影した。私が福山監獄を出て広島の中心部で下宿生活を始めたのが昭和62年(1987)。学食で夕飯を食べ損ねた時は大概ほか弁を買いに行った。当時はほっかほっか亭とかまどやが人気だった。

ほっかほっか亭のメニュー

大学1年生の時の話を書こうと思ったのは先日新聞にほっかほっか亭のチラシが入ったからなのだ。変わらぬメニューを見て貧乏学生を陰で支えてくれたことへの感謝の気持ちを表したかった。私は唐揚・とんかつ・チキン南蛮を順繰りで食べていた(たまに焼肉やのりにすることもあった)。お茶ではなく缶ジュース(350mlの糖分たっぷりの炭酸飲料)と一緒にというのがお決まりだった。ほっかほっか亭は福山エリアに9店舗もあるのかー。

福山エリアの店舗

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過激派のアジトだった青雲寮

2014年11月13日 | 学生時代
警視庁公安部が京大熊野寮に捜索に入る映像を見た私は一般教養時代の出来事を思い起こした。東千田キャンパスからさほど遠くない位置に青雲寮は建っていた。麻雀仲間の同期が過激派のアジトとして知られるオンボロの寮に住んでいたので、怖いもの見たさで彼について行き中であれこれ話したことがあった。

「お前よくこんな汚い所で生活できるな。間仕切りもないじゃんか」

「ハハハ。安いから文句は言えんよ。寝るだけやからええねん」

「しかし、過激派から誘われんか」

「彼らとは時の挨拶をするくらいやで。付き合いはないから」

賭け事にめっぽう強い大阪出身の男は眼光の鋭いことで有名だった。そのぶれない態度ゆえに過激派からも一目置かれていたのかもしれない(笑)

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青春時代と映画

2013年09月06日 | 学生時代
どうでもいいような屑高校と縁が切れて百万都市・広島に生活の場を移した私には何もかもが新鮮で楽しかった。当時まだ映画は娯楽の一つという認識であった。

18~19歳の時に広島の映画館で「ラストエンペラー」「遠い夜明け」「ウォール街」「太陽の帝国」を、名作「プラトーン」は帰省中の福山で観た。「アンタッチャブル」だけは都合がつかず結局観に行けなかったのが未だに悔やまれる。

市内にある映画館の数は街の発展・衰退を判断する指標だと私は考える。日米/ピカデリー劇場は福山駅前シネマモードに、そして大黒座/スカラ座はシネフク大黒座と名を変えたが、今でも存在することを一市民として誇りに思っている。昨年JR福山駅前及び鞆町でロケが行われた「ウルヴァリン:SAMURAI」は9月13日(金)より上映が始まる。

2012年9月4日福山ロケ

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廣島市比治山公園舊御便殿(戦前の絵葉書)

2013年02月10日 | 学生時代
廣島□○堂製の彩色絵葉書。原爆投下前の姿を知る上で貴重な資料である。広島市民にとっては今も昔も特別な場所であることに変わりはない。

比治山の話
 ウッソウとした松林につつまれた山の形が、あたかも虎がうずくまっているようなので臥虎山ともいい、広島在住の漢学者はこの山をもっぱら「がこさん」と表現した。昔の名称には「秘地山」ともある。
 この比治山が、広島市民の遊覧の土地として比治山公園といわれるようになったのは、明治三十一年八月以来のことである。この山には、陸軍墓地と御便殿がある。この御便殿は、日清戦役の際、臨時第七回帝国議会の開院式に参列された明治天皇の御便殿に当てられた建物を明治四十二年十月にそっくり移したもので、明治四十三年の紀元節以来、広島名所の一つになった。

 比治山の陸軍墓地は、各戦役ごとに広島に立ち寄った報道人が必ずたずねた有名なところでそれだけに小さな四角い墓標が整然と並んだ風景が忘れられない。…

 この広場にあった絵馬堂式大記念館は、大正天皇即位大典を記念して大正七年に建てられたもので、大鳥居はその前、大正二年二月に明治天皇御大葬で青山斎場に建てられたのを東京市から譲り受けて建て、御便殿を一段とりっぱにしたものである。戦後、この大鳥居の銅板が下から手のとどく限り、痛ましくもむしりとられてしまった。金ヘンブームとはいいながら、古い広島人はこんなバカなことをと嘆いたものである。
 原爆といえば、あの日の朝、この御便殿の前で合掌していた人が、ピカッと光った途端に地上に伏し、つぎに頭をあげたときには、絵馬堂式の記念館はもちろん、すべての建物が壊れていたという。このあたりの御便殿の最後は、さまざまな写真に克明に写されている。

『がんす横丁 / 薄田太郎(昭和四十八年)』

比治山は私のかつての下宿からわりに近いところにあり、花見の折には柔道部の新入部員歓迎コンパが派手に行われていた。そこで悪友は正気を失うまで飲んで大いに消沈していたことを思い出す。

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昭和62年度の大学入学者共通第1次学力試験

2013年01月19日 | 学生時代
昭和62年(1987)度の共通1次試験は1月24日(土)と25日(日)に行われている。私は春日町の広大附属福山中・高等学校で受験した。垢汚染危険地域を脱出するためには絶対に突破しなければならない関門であった。

反日キョクサ恫喝団体が露骨に教育に介入してくる異常な高校を離れて名門校の教室に入ることには多少の解放感があったはずだが、鉛筆でマークシートを塗り潰す作業に追われた記憶しかない。2日目は小雪が舞ったので特別に教室内で休憩することを許された。

試験が終わって悪友と東深津町の中華料理屋でラーメンを食って帰宅が遅くなった。母親は試験の出来が悪かったものと早とちりしたようだが、実際はボチボチといったところだった。確かに2次試験でヘマはできない点数だった。

しかし、私は「LED ZEPPELIN」のカセットテープばかり聴いて2次試験の前日まで参考書を開かなかった。命をつなぐ出国ビザが下りたのは3月18日。屑高校と絶縁できた喜びを噛み締めると共に今後も「恫喝には絶対に屈しない」と誓った。私はこうして備後から安芸へ移住したのである。

昭和62年の大学入学者共通第1次学力試験受験票(裏面)

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学生食堂のコロッケの思い出

2012年09月28日 | 学生時代
昭和末期の東千田キャンパスには3つの学生食堂(第1、第2、学生会館)と喫茶部があった。入学してからの1年はオンボロの第2食堂(略してニショク)で昼食を取るのがお決まりのコースだった。総合科学部の校舎から最も近く、かつ値段が安いのでいつも長蛇の列ができていた。

ニショクの看板メニューはBランチ。脂肪分の多いメンチカツ・カレーコロッケ・刻みキャベツがのった大皿に山盛り飯と塩分の高い味噌汁がついた。揚げ油が悪い所為か食後は決まって胸焼けがしたものである。

早食いを覚えたニショク(木造2階建で2階が部室だった)は平成の世になってから取り壊された。私が家でコロッケを食べる時にはニショクでの早食い競争を思い出す。そして女性がそこにほとんどいなかったことも(確かに3つの食堂の中では最も不味いことで有名だった)

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広島縮景園の思い出

2011年04月24日 | 学生時代
広島市の下宿先に荷物を搬入した日は東区の親戚の家に泊めてもらった。翌朝、教育者である伯父は田舎の高校を出たばかりの若造を縮景園に連れて行ってくれた。会話は途切れがちだった。まもなく始まる学生生活のことで私は頭が一杯だったのである。

庭園をゆっくり巡るうちに自分がかなり舞い上がっていることに気づいた。小さな橋の上から池を眺めていると段々と心が静まっていくのが分かった。

説教じみたことを言わぬ、さりげない心遣いが素直に嬉しかった。もう一緒に歩くことは叶わないが、旅先で庭園を訪れるたびにあの時の伯父の優しい笑顔が思い出される。

※冒頭の画像は戦前の着色絵葉書(広島浅野泉邸=縮景園)

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高校の卒業式は二次試験の日と重なった

2011年03月01日 | 学生時代
私が高校を卒業したのは24年前の今日である。当日は滑り止めの大学で二次試験を受けていた。悪あがきの末、同級生とうな垂れて雪道を歩いた記憶はこの歳になっても消えない。

帰宅して母から手渡された卒業証書を憮然と眺めて「4日後に行われるB日程(本命)の試験で結果を出すしかない」と開き直った。屑高校との決別を確信した日は雲一つない快晴であった(笑)

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大講義室を抜け出して時間を潰した場所

2010年11月16日 | 学生時代
大講義室を離れた不良学生が向かう先は鷹野橋商店街だった。入口左横の書店ではよく立ち読みした。軍資金のある時には書店向かいのパチンコ屋でしばらく涼んだ。悪友は1時間ちょっと経過したことを確認すると「そろそろ帰ろうぜ」と言った。幾ばくか懐の温かくなった私達は再び大講義室に戻るのである。

マルキストS田教授はエスケイプ学生対策として授業終了の20分前に再度出欠を取っていた。私は何食わぬ顔をして歯抜け状態の教室に潜り込み数人分の代返までこなした(笑)

大講義室の授業は一般的に楽勝(単位が取りやすい)と言われており、この「社会学」は有名科目であった。教授は教科書(自著)を読み上げ適当に解説を加え学生らが筆記するための間を取っていた。所謂旧帝国大学で行われた筆記学問の延長である。この問題は「日本の近代 第12巻 付録(中央公論新社 1994年4月)」の猪瀬直樹さん(1946年生)と竹内洋さん(1942年生)の対談で面白おかしく取り上げられている。私より2回り上の世代が受けた教育とほとんど差異はないことがわかる。

「社会学」はマルクスの洞察力のすばらしさを褒めちぎることに力点が置かれていたが、そこから派生した共産主義(全体主義)の恥部について語られることはなかった。資本家と労働者の対立構造を長々と説くだけで農民も漁民も出てこない。簡略モデルを日本にそっくりそのまま当てはめること自体に無理があった。

エスケイプ学生は学習能力が低かったというよりはむしろ講義が胡散臭いのを漠然と見抜いていたのではないかと今では思う。教授と同門にあたる作家・杉森久英さんの回想からは赤化しかけた戦前の学生の多くは流行りものに飛びついただけだったという事実が浮かび上がってくる。私達が高等教育を受けた昭和の末においてマルクスは既に「カビ臭いもの」として認識されていた。

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昭和末期の広島電鉄・鷹野橋電停周辺

2010年11月16日 | 学生時代
昭和62(1987)年初夏。東千田キャンパスの大講義室(我々学生は略してだいこうと呼んだ)は灼熱地獄と化していた。数百人の学生を収容する教室に冷房設備は無かった。

私は講義室の後方(左手)に設けられた出入口近くに陣取り欠伸を連発していた。マルクスを神と仰ぐ教授は講義開始から20分ほどして聴講生の名前を読み上げていた。

「法学部 学生番号××××××× みたらい君」

ある程度講義に出ていないと不利だと聞いていたので私達は返事を済ませてから退席するのだった。堂々と出て行く学生があまりに多いので教授(旧制四高卒)はひどく腹を立てていたという。

悪友(被爆2世)と連れ立って正門を出て「かむろ」「会計学院」の前を通過する。そして広島電鉄「鷹野橋電停」辺りから横断歩道を渡って商店街を目指した。

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東広島の心霊スポット(後編)

2010年10月26日 | 学生時代
「首切峠」から鏡山は近い。学生時代にたった一度大内氏の城があったという頂上まで登ったことがあるが、何となく薄気味が悪かった。鏡山周辺は古戦場跡として知られており、霊を見たという噂は何度も耳に入っていた(真偽は不明)。

峠でも多くの武者の血が流れたことを匂わせる話ではある。鏡山の北側に公園が整備されており桜の名所としても有名だ。休日になると気晴らしに公園東に広がる奥田大池にバス(やナマズ)を釣りに出かけていた。根がかりでルアーを失くすことが多く結局下見大池に場所を移すようになった。

釣りに熱中した期間は昭和63(1988)年秋から平成元年の初夏あたりまででその後はスポーツ一辺倒となり「首切峠」の練習場にはほとんど毎日のように通っていた。

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