みちのくの山野草

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「賢治昭和二年上京説」に対する圧力やクレーム

2017-12-30 12:00:00 | 賢治の目を見れますか
《ひきざくら》(「下根子桜」、平成29年4月18日撮影)

 それではここでは、先の私の主張『賢治昭和二年上京説』に対してある賢治研究家等からの圧力やクレームがあったのだが、そのことについてである。
        「賢治昭和二年上京説」に対する圧力やクレーム
「一本足」論争(経過報告1)
    発端
 鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、…(略)…この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。
    経過 投稿コメント(1)~(5)
「一本足」論争(経過報告2)
    経過つづき 投稿コメント(6)~(8)
「一本足」論争(経過報告3)
    経過つづき 投稿コメント(9)~(10)
「一本足」論争(経過報告4)
    経過つづき 投稿コメント(11)~(14)
「一本足」論争(経過報告5)
    経過つづき 投稿コメント(15)~(16)
「一本足」論争(経過報告6)
    経過つづき 投稿コメント(17)~(19)
「一本足」論争(経過報告7)
    経過つづき 投稿コメント(20)~(21)
「一本足」論争(経過報告8)
    経過つづき 投稿コメント(22)~(23)
「一本足」論争(経過報告9)
    経過つづき 投稿コメント(24)~(25)
「一本足」論争(経過報告10)
    経過つづき 投稿コメント(27)~(28)
「一本足」論争(経過報告11)
    経過つづき 投稿コメント(29)~(30)
「一本足」論争(経過報告12)
    経過つづき 投稿コメント(31)~(33)
私はなぜ「(33)」をコメントしたか
「あらら。」から透けて見えるもの
H様がそこまで仰るのであれば
H氏の私に対する誹謗中傷ツイート
「一本足」論争(H様に告ぐ)
「一本足」論争(ひとまず最終回)
「隠し球」を持っているとかたるH氏
思考実験『H様=テジマア様』
浜垣様へのご返事
理不尽な「圧力」
signaless 様へのお願い
一連のクレームから透けて見えること(増補版)

 なお、念のため次のことを申し添えておく。

 それは、何を典拠にしているのかは知る由もないが、
     沢里は晩年になって「大正十五年」と話していた。
と言って、澤里武治は晩年自説の修正をしたと主張する賢治研究家もあるようだ。では、その拠り所は何かと推測すればそれはおそらく、『チェロと宮沢賢治』の中の、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(筆者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
             〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という記述であろう。このようなことを述べているのはこの本しかないからである。そこで、武治は晩年に自説を修正をしたと判断して、上掲賢治研究家はそう主張しているのだろう。
 ところが、〝澤里武治が一人賢治を見送った上京〟等で示したように、澤里武治(79歳歿)は、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
と晩年(74歳頃)でも書いていた<*1>のだから、こちらは〝★〟とは違っていて、単なる「大正十五年」ではなくて「大正十五年十一月末日」だった。つまり、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送ったという月は、定説の「12月」ではなくて晩年でも「11月」のままだった。武治は終始一貫して「11月」であると主張していたことになる。したがって、彼は修正していたとまでは言えない。
 なぜならば、もし武治が本心から自説の間違いを認めて修正したということであれば、定説ではその上京の日は「大正15年12月2日」となっているので、「大正十五年十一月末日」であってはそうならないからである。一方で、武治が「大正十五年」と書いていたのは、不本意ながらもやむを得ず「定説」と折り合いを付けて妥協するしかなかった(あるいは逆に、「11月」は彼の矜恃だった)ということも充分にあり得るからだ。
 だから『新校本年譜』の「賢治年譜」の担当者がまず為さねばならなかったことは(そしてそれは、既に「旧校本年譜」で為すべきことでもあったのだが)、件の「三か月間の滞京」が「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」という「定説」の反例になっているということに気付くことであり、次に、この「定説」には反例があったのだからそれを棄却することであった。しかし現実には、前者も後者も今迄のところ為されていない。それは逆に言えば、武治は万やむを得ず折り合いを付けたという蓋然性が極めて高いということであり、自説を修正したとは言い切れない。まして、横田氏はその典拠も示していないからなおさらにだ。

<*1:投稿者註> 澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料(この資料はこれまで公になっていないはずだ)の中の、一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
     
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記述があり、年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が定説の「12月」ではなくて「11月」のままだ。

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