みちのくの山野草

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3593 H氏の私に対する誹謗中傷ツイート

2013-10-24 09:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《『大正15年11月に賢治は上京した』とあくまでも言い張る「宮沢賢治賞」受賞者H氏》

そのツイートの中身
 先に予告していた、コメント「(35)」を受けて私が報告を決意した、H氏のツイートについてである。
 実は、H氏は10月12日に
*****************<(27)↓投稿者H氏/2013年10月12日 00:41>**********************
鈴木さん、こんばんは。お返事ありがとうございます。

私は、『續 宮澤賢治素描』に出てくる「十一月」は「昭和2年11月」であり、『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています。
…(略)…
それでは、三顧の礼でお願い申し上げた私の「質問」に対する鈴木さんのお答えを、待たせていただきます。
というコメントをしていた。なんと私の人生において一度も言われたことのないような「三顧の礼でお願い申し上げ」という表現を用いてもらった。
 しながらその裏で、実は既にその前日にH氏自身は次のようなツイート
《10月11日》
どう理屈を付けようとも、頼みの綱の沢里が証言を訂正している以上、昭和2年に上京したという証拠を出すのは無理。しかしそれを認めてしまうと、苦労して自費出版したあの本が水泡に帰す。お金もかかったろうし、何よりあの調査やまとめに費やした労力は、物凄いと思う。認められない気持ちはわかる。
そして引き続いて
こっちは何も、真面目な愛好家の方を、そういう風に追い詰めたいとも何とも思っていない。人を攻撃するのは、基本的に性に合いません。しかしそれでも議論を続けている理由は、あの主張の奥には、賢治学会の中に闇の勢力があるというような根拠なき「陰謀論」があり、それをこのまま放置できないから。
をなさっておられたのだった。
 私はツイッターはやっていないが、今の時代、H氏のローマ字名や前掲のツイートの中の文言の一部分を入力してインターネット上で検索すればH氏がどのようなツイートをしているかはたちどころにわかる。どう考えても、この度のH氏の私に関するツイートの一連の内容及び口吻は私にとっては誹謗であり中傷であるとしか受け止められなかった。正直、愉快なことではない。
まさかあのH氏が?
 実はH氏のこのような「ツイート」がなされているということは、10月11日時点で既にある方から私は教わっていたのだが、その時点ではまさかH氏がこのような「ツイート」をなさる方とはとても信じられず、あくまでの「その名を騙るH氏」のツイートであろうと思うことにして、その誹謗・中傷は気にすまい、とした。
 いや違う。もっと正確に言えば、それまでお互いに議論しあってきた「宮澤賢治賞」受賞者のH氏がその裏でかくの如き発言を、たといツイッター上であるとはいえ、まさかなさることはあるまいと私は自分に言い聞かせて我慢することにした。
 ところが、先の一連のH氏自身の「ツイート」や「あれれ。」が伏線となり、このコメント「(35)」の『鈴木守さんが、とつぜん山猫博士のようにこの広場から姿を消してから、もう丸一日以上がたちました』の一文が私にある最終的決意を迫った。
 そうか、H氏の私に対するあのような認識や態度はそういうことの現れだったのだと私は手に取るようにわかったし、それまでの彼の一連の口吻や論の進め方等がかなり腑に落ちてしまった。そしてやはり、あの「ツイート」は残念で悲しいことだがH氏自身のものだったのだとそれまでの私は認識を改めざるを得なかった。
 同時に、その一文は、今回の投稿でその「ツイート」の中身を公開させることを私に決意させるのに十分であった。それがこの投稿結果である。

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