《『大正15年11月に賢治は上京した』とあくまでも言い張る「宮沢賢治賞」受賞者H氏》
*****************<(15)↓投稿者H氏/2013年10月 8日 00:13>**********************
鈴木さん、ありがとうございます。おおっと、そう来ましたか!という感じですが、読み方によってはこの文章をそういう風に解釈することも可能なんですね。
「どう考えても財布をカバンに入れてきたはずなのに、ないんですよ・・・家に忘れてきたようです」という場合など、自分が「どう考えても」そうであっても、何か「客観的な証拠」を突きつけられると、自分の間違いを認めざるをえない、ということは現実にありえますよね。
「どう考えても」という言葉には、そういう状況における用法もあることは、何はともあれまずお見知りおき下さい。
さて、もしも鈴木さんが上のお答えのように、この時点で沢里は発言を訂正しておらず、自分が見送った上京は昭和2年のことだと考えているのなら、関登久也が『宮沢賢治物語』で引用している沢里の証言のもっと後の方で、賢治の父親あての手紙(現在の呼称で「書簡222」の一部)の引用に続けて出てくる、次の箇所はどう解釈されるのでしょうか。
この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです。
文章は初めから一続きで、「この上京」とは、ここで問題にしている沢里が一人で見送ったという上京のこと以外にありえません。
ここにおいて沢里が、「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付」と言っているのですから、彼はこの時点ですでに「年譜」だけでなく、賢治の父親あて書簡など「客観的な証拠」を目にした結果、昭和2年という自分の記憶は間違いで、この上京が大正15年のことだったと考えていると解釈する以外に、いったいどういう考え方があるでしょうか?
いくら何でも、これを「揶揄」と解釈するのは無理ですよね?
*****************<(16)↓投稿者鈴木守/2013年10月 8日 08:23>**********************
H 様お早うございます。
はい、日本語の文章としてはそのようにしか解釈できません。もし
「その12月のびしょびしょ…」
となっていれば別でしょうが、この位置に
「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした」
とある以上、
澤里には訂正する考えはなかった
としか言えないでしょう。
それとも、その「十一月」は澤里の書き間違いだとでも仰るのでしょうか。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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