みちのくの山野草

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3596 「一本足」論争(ひとまず最終回)

2013-10-26 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《『大正15年11月に賢治は上京した』とあくまでも言い張る「宮沢賢治賞」受賞者H氏》

「テジマア」様並びに「とおりすがり」様へ
 では、予告
  『それでは二三日中に、本ブログ上で「H氏からの3つの問いについて」の私の考え方をお答えいたします』
通り、以下に、「H氏からの3つの問いについて」の私の考え方をお答えいたします。
〔簡潔に述べますと〕篇 →→→(〔多少し詳しく述べますと〕篇はこの篇の後にあります)
 まずは、これらの「3つの問い」は、現定説を覆すH氏の画期的な「新説」
 宮澤賢治が上京したのは大正15年11月のびしょびしょ霙の降る寒い日である。
が事実であったということを大前提にした質問です。
 さりながら、この「新説」が現定説を打ち破ることはほぼ不可能でしょう。なぜならばその反例となるいくつかの資料と証言がある(後述)から、実はそもそも始めから仮説とさえもなりにくい説です。つまり、もともとこれはかなり「無理スジ」の「新説」なので、それが歴史的事実であったということは殆ど限りなくゼロに近いです。
 しかも、H氏はあくまで『大正15年11月に賢治は上京した』と主張してはおりますが、その検証作業は未だ行っておりません。いや、もっと正確に言うと、その作業を放棄しています。したがって、この「新説」は検証されてそれに耐えたという代物ではなく、現段階では『大正15年11月に賢治は上京した』は単なる仮想にしかすぎません。それが事実であるなどということ到底言えず、残念ながら現段階ではその主張は単なる仮想にしか過ぎませんから、それが大前提となる「3つの問い」には、「問い」としての資格がないわけです。
 言い換えれば、このH氏の「3つの問い」が「問い」として成り立つためにはH氏が『大正15年11月に賢治は上京した』という仮説の検証作業を行い、それが検証に耐えたということを示さねばなりません。当然、それがなされいない段階ではこの質問には答えようがないということです(単なる四方山話ならば別ですが、今回はあくまでも互いの論争ですので、大前提の保証がないそのような大前提に基づいた「問い」、不完全な「問い」には答えられないです。現段階ではそれらの「問い」は「問い」の体をなしていません)。
 ちろん、この「新説」が検証に耐え得た(そんなことは、私に言わせれば99.9999%ないと判断できていますが)ならばそれはとても素晴らしいことですし、もちろんその「新説」すなわち大前提はほぼ事実だということになりますから、晴れてその段階でこれらの「問い」は初めて「問い」としての資格を得ることができます。またその場合に私は真っ先に件の「3つの問い」にお答えしなければなりません。そしてその場合には、私はかなり分が悪くなるかもしれません。

 というわけで、私の結論をここで申し述べますと、H氏が
 宮澤賢治が上京したのは大正15年11月のびしょびしょ霙の降る寒い日である。
という主旨のことを言い出したことに今回のことは端を発していますので、まずはその検証作業をH氏が完了なされることで全てが解決出来ますし、今までの経緯に鑑みればそれはH氏の責任と義務、賢治研究者としての仁義だと思います。

 それがなされるまではひとまずこのシリーズは休止し、とりあえず今回をもって最終回とします。つきましては、お二方はおそらくH氏のお友達と思われますから、お二方からもどうぞH氏に、
 可及的速やかに《大正15年11月に賢治は上京した》ということの検証作業を完了し、それが検証に耐えられたということを示してやれよ。そうすれば件の「3つの問い」に答えるということだから、簡単に鈴木を論破できるぞ。
と、そう仰って下さい。
 それから、論争相手の間もなく67歳にならんとしている老いぼれが伝えてもH様は聞く耳を持たないでしょうから、お二方からは友人としての立場で
 お前がこの検証をしないでこのまま放っておくと、『Hは勢いで思いつきをかたってしまったが、そのことが検証に耐えられなことに気付いて引っ込みがつかなくなり、頬被りしているぞ』と周りから言い募られるおそれがあるぞ。一刻も早く件の検証作業を行い、それを明らかにした方がいいぞ。
と知らせてやってください。
 そうすれば、H氏は速やかに検証作業に取り組むことにもなることでしょうし、私もそれに伴ってそれらの「問い」に対する回答を間髪入れずにいたしますので。
(完)
 続きの
 ”「隠し球」を持っているとかたるH氏”へ移る。
 前の
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〔多少し詳しく述べますと〕篇
 こちらは長くなりますので、しばし我慢してお読み下さい。
 まずは、問題となっているのは大正15年12月2日の現定説の典拠となっているところの澤里武治の証言である。
(1) 
 その証言の初出は、昭和23年刊『續 宮澤賢治素描』においてであり、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(略)…そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
          <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年刊)>
となっている。
(2)
 ところが、昭和31年2月22日付『岩手日報』新聞連載「宮澤賢治物語(49)」では、
どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには『上京、タイピスト学校において…(略)…言語問題につき語る』と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』…(略)…その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。…(略)…そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
          <昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>
となっている。
(3)
 これらの二つの間の大きな違いの一つは、後者では
   宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
が新たに付け加えられているところである。 
 ところが、昭和31年2月22日以前に公になっていた「宮澤賢治年譜」には皆
    九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年刊)>
というような記載になっていて、「昭和2年に賢治は上京していた」と明記されている。 
(4)
 にもかかわらず、昭和31年2月22日付の記事では『宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません』と述べられているから、このとき澤里武治の見せられていた「宮澤賢治年譜」は公になっていたそれとは明らかに違うものであることが解る。
(5)
 たしかに新聞に載った方を瞥見すると、澤里武治は賢治を一人見送った日のことを『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが』と言いつつも、『確かこの方が本当でしょう』とその後で話をしているから、澤里武治はこの『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが』を訂正したかに見える。
 がしかし注意深く読むと、さらにその後で『その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした』と、再び「その十一月」という言葉を用いて語っているから、この「その十一月」とはこの文章表現からして「昭和2年の11月」のことであることが判るから、実は澤里武治は訂正はしていないと判断できる。なぜならば、もし澤里武治が訂正したというのであれば『その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした』の部分は『その12月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした』となっていなければならないからである。
 つまり、この『岩手日報』に載った澤里武治の証言に基づけば、
  『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
と相変わらず思っており、澤里武治は訂正する気などなかったということがわかる。

 なお、横田庄一郎氏は平成10年刊の自分の著書に
 沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった」と述べている。
             <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、平成10年刊)>
と記してある。ただし、その発行年以前に澤里武治がこのことを訂正をしていたという証言や資料はない。
(6)
 一方、大正15年12月2日の現定説は、昭和52年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の年譜、いわゆる「旧校本年譜」等に記載されている
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
である。
(7)
 したがって、上掲「旧校本年譜」は少なくとも澤里武治がその証言を訂正していないもの、すなわち『岩手日報』に載ったものがその典拠であることになる(本来は同一内容の証言の場合には初出の方が尊重されるのが一般的だと思うが、それは譲ったとしても)。すなわち、前掲の「(2)」の証言に基づくこととなる。もちろん、横田庄一郎の『チェロと宮沢賢治』中の記載内容『沢里武治は、自らの証言を後に訂正して、「賢治の上京を見送ったのは昭和2年ではなく大正15年のことだった」と述べている』はこの「旧校本年譜」では典拠としては使えない。時間は遡れないからである。
(8)
 ところが、典拠としているこの証言「(2)」の中で証言されている
   少なくとも三ヵ月は滞京する
とか、
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
という年譜としては極めて重要な事柄が「旧校本年譜」等には一切書かれていない。そして、もしこの証言内容を受け入れてしまうと現定説は大崩壊を起こしてしまう。例えば、この「三ヵ月」弱の滞京は「旧校本年譜」等には当て嵌められないからである。
 かといって、澤里武治の証言を典拠にしているはずの「旧校本年譜」の大正15年12月2日に関する記載内容から、「三ヶ月」のことを除外していいという論理は成り立たない。なんとなれば、「旧校本年譜」が発行されたのは昭和52年、澤里武治が訂正したのは少なくとも昭和52年以降とならざるを得ないからである。
 なお、この「校本年譜」のジレンマを解決し、解消しようとして書き上げたのが拙書

である。
(9)
 さて、H氏はこの「その十一月」とはあくまでも「大正15年11月」のことであると、つまり「大正15年11月に賢治は上京した」と言い出した。そしてそのことを拠り所にして件の「3つの問い」を私に発した。たしかに、このようにこの「その十一月」が仮に解釈できれば、澤里武治は訂正したと考えられないこともない。つまり、それはH氏の私見に沿うものとなる。
 ところが、そうすると新たな難題が生ずる。必然的にH氏は《大正15年11月に賢治は上京した》と主張せざるを得なくなるのだが、このようなことは前述したように資料や証言に基づけばまずあり得ないし、かつて誰も唱えたことがない説であるからである。
(10)
 そこで私は、もし仮にH氏が「その十一月」とはあくまでも「大正15年11月」のことであると解釈し、そう主張するのであれば、自ずから
   《大正15年11月に賢治は上京した》
という、かつて誰も唱えたことがないような画期的な「新説」を言い出したことになる訳だから、私に質問する前に、このことに関わる仮説を立てて、先ずは検証作業をしなければなりません、という意味のことを私は申し上げた。もしこの「新説」が事実でなかったならば、件の「3つの問い」は全くナンセンスなものとなるからである。
(11)
 ところが、いままでのところH氏は全くその検証作業を行っていないし、その気配すらもない。したがってこの仮想《大正15年11月に賢治は上京した》は現段階ではあくまでも『仮定』であり『仮想』のレベルにすぎないのである。それが事実であったとか、検証に耐えたと言える代物ではない。
(12)
 そうすると当然、この『仮想』は現段階では事実でない可能性が極めて大であるから、そのような『仮想』を大前提とした「H氏からの3つの問い」は「問い」としては現段階では意味をなさず、現時点ではそれに対して答えようがない。
(13)
 ちなみに、「現定説」として、
◇ 大正15年11月29日 
 22日付案内による羅須地人協会講義、午前9時より3時間、このとき「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」の謄写版刷りを配布。
◇ 同12月1日
   この日、11月22日付案内による定期の集まりが開催されたと見られる。
◇ 同12月2日
   (重複するから割愛)
となっているし、しかもこれらの「現定説」の根拠となる、
  ・資料としての「11月22日付謄写版刷り案内状」
  ・関連する高橋慶吾、伊藤克己の証言
等があるから、これらは《大正15年11月に賢治は上京した》に対するなかな手強い反例となり、《大正15年11月に賢治は上京した》が検証に耐えられないであろうことは私からすれば火を見るより明らかである。
 なぜならば、それらの資料や証言が《大正15年11月に賢治は上京した》の反例とならないということを示すためには、「現定説」支えるこれらの資料や証言はこのように解釈できるとか、嘘の証言の可能性があるなどという詭弁はもちろん使えず、それを示す客観的な別の強力な典拠、資料や証言をまずは突きつけなければならないからである。しかも、管見ゆえだろうか私はそのような類のものは全く知らない。だから、私はとてもじゃないが《大正15年11月に賢治は上京した》は現定説に対して全く勝ち目はないと見ている。
(14)
 それに対してH氏がこれだけあくまでも《大正15年11月に賢治は上京した》と主張し続けているということは、
 おそらくH氏は未だ誰も知らない驚天動地をもたらすような客観的な典拠(隠し球)をお持ちなのだろう。
私とすれば、一刻も早くそれを見せてもらいたいものだ。
(15)
 併せて、H氏があくまでも主張する《大正15年11月に賢治は上京した》が検証作業を経て検証に耐え得たならば、それは現定説を覆す画期的な「新定説」となる可能性大だから、H氏の輝かしい業績ともなる。まさしく、一石二鳥でもあり、その検証を躊躇う理由は何もないはずである。
 そしてその暁には、H氏がその検証結果を公的な場面や本人のブログ上で論文「大正15年11月賢治上京」として発表していただければ、件の「H氏からの3つの問い」も晴れて「問い」として成り立ち、しかも鋭い「問い」となり得るから、私はその「H氏からの3つの問い」に対しての答えを迫られてしどろもどろしているかもしれません。
 そして、それ以上に困ってしまうのは筑摩書房であり、とりわけ「宮澤賢治年譜」担当部署は上を下への大騒ぎとなってしまうでしょう。もちろん、それはあくまでも《大正15年11月に賢治は上京した》が検証作業を経て検証に耐え得たならばの仮の話なのですが。
(16)
 つきましては、お二方からどうぞH様に、
 可及的速やかに《大正15年11月に賢治は上京した》のということの検証作業を完了し、それが検証に耐えられたということを示してやれよ。そうすれば例の「3つの問い」に答えるということだから、そのときは容易に鈴木を論破できるぞ。
と、そう仰って下さい。そして同時に、
 さもないと大変なことになるぞ。出し惜しみせずに早く隠し球を見せてやれよ。このまま検証作業もせずに放置しておくと、お前は敵前逃亡したというような誹りを受ける懼れがあるぞ。
とH様に知らせてやってください。私はそのことをとても危惧しております。なお、その訳は先の「篇」の末にあるとおりです。
(完)

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Unknown (テジマア)
2013-10-26 16:57:45
書きこみ、ありがとうございます。
しかしブログ主さんは、先の議論でも、「必ず答える」と言っておきながら答えなかったんだそうですね。
そして今回も…。

こういうのを、「答える答える詐欺」と言うんですよ。

まあ、答えない理由としてどんな理屈を付けようとも、ずっと経過を見てきた人は、「ああ、やっぱりこの人は、結局答えることができないんだなあ」と、今回はっきりわかったでしょう。

「大正15年11月に賢治が上京したと、H氏は主張している」と、ブログ主さんは鬼の首でも取ったかのように何度も書いておられますが、私の見る限り、H氏は「『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています」と書いているだけではないですか。
ブログ主さんは、この違いがおわかりになりますか?

それに、たとえH氏が個人的に賢治の上京をいつと考えていようとも、それとは別にブログ主さんには、ご自身の考えに従って「三つの問い」に答えることが、今ここで求められているわけです。
上に書かれた理屈は、答えない理由の説明に、全然なってないじゃありませんか。

きっと、まともに答えようとすると昭和2年上京説が破綻するんでしょうから、まあしょうがないなと思っておきますね。

一瞬でも期待した私がバカでした。(笑)
返信する
〔多少し詳しく述べますと〕篇をしっかりと読んでください (鈴木 守)
2013-10-26 17:07:38
テジマア 様
  〔多少し詳しく述べますと〕篇をしっかりと読んでください。
 あとは、ご意見として承っておきます。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2013-10-28 14:31:24
鈴木さん、「H氏に答えない理由」は「答え」ではありません。
H氏が11月と言った言わないは、鈴木さんの理論の成立とは全く関係がありません。
鈴木さんが主張される説への疑問点をおたずねしているのですから、そのご説明をお願いしているのです。
改めて、H氏とは切り離して、質問を受けたと考えてください。

①鈴木さんは、昭和31年の『岩手日報』連載「宮澤賢治物語」の時点で、沢里武治は賢治の上京見送りは昭和2年のことと考えていたとおっしゃっていますが、「宮澤賢治物語」の中で沢里は、「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になつておるものです」と言っています。
この言葉は、鈴木さんのお考えと明白な矛盾をきたしていますが、何らかの説明をして下さい。

②鈴木さんは、沢里が晩年においては「昭和2年」という自分の記憶を訂正して、公の場でも「大正15年」と言うようになっていたことは、認めておられます(10月7日01:09書き込みにて横田庄一郎著『チェロと宮沢賢治』を引用しつつ)。
それならば、やはり最終的には沢里は、賢治上京は大正15年だったと証言しているわけであり、鈴木さんが「昭和2年」を主張するということは、同時に、「晩年に大正15年と訂正した沢里の判断は間違いだった」と主張していることになります。
鈴木さんがこのように、沢里の証言訂正が間違いであると判断された根拠は何なのか、説明して下さい。

③沢里が最終的に自分の記憶を訂正して、昭和2年ではなく大正15年のことだったと結論づけたということは、沢里には賢治上京を見送った記憶は1回しかなかったことを意味しています。
それなのに鈴木さんが、沢里は大正15年と昭和2年と2年続けて見送ったと主張されることは、沢里は実際は2回の記憶を1回と勘違いしていると主張することを意味します。
これは、単なる「時期のずれ」のような記憶錯誤とは異なって、かなり重大な記憶の障害に相当しますが、沢里がこのように重大な記憶の障害をきたしていたと、鈴木さんが考える根拠は何なのでしょうか。

よろしくお願いします。
返信する
しっかりと読んでください。 (鈴木 守)
2013-10-28 15:38:05
とおりすがり 様
 私は、通りすがり様達には

  『それでは二三日中に、本ブログ上で「H氏からの3つの問いについて」の私の考え方をお答えいたします』

と言っていただけです。しっかりと読んでください。お間違えなきように。
 それ以上のことで、とおりすがり様に対して申し上げることは、
(1) この今回の投稿記事「3596」もしっかりとよく読んで下さい。
(2) 今回のコメントはご意見として承っておきます。
ということだけです。

 なお、件の「3つの質問」そのものに対するお答えはH様に対してなすべきとでありまして、そのためには《賢治は大正15年11月に上京した》を検証し、それに耐えることが出来、しかもその結果を公のブログ等で発表いただければいつでもお答えしますと、以前からH様に伝えてあります。



返信する
Unknown (テジマア)
2013-10-28 16:24:18
とおりすがりさん、ありがとうございます。

ですからブログ主さんも、「一山越せたか」などと呑気なことを言っている場合ではないでしょう?
これに答えないかぎり、山は越えられないですよ。

ところで、〔多少し詳しく述べますと〕を読めとのことでしたのでもう一度読みましたが、何度読んでも下記の点はおかしいですよ。当方の指摘に異論があれば言って下さい。

(5)の部分について。
やっとのことで、「どう考えても…」を昭和2年の根拠として持ち出すのは諦められたようですが、そうなると頼れるものはついに、「その」の二文字だけになってしまったようですね。
しかし、「その十一月」における「その」は、この証言で沢里が大正15年と訂正したと解釈している人にとっては、「昭和2年と思っていたけれど本当は大正15年だった、その十一月」という意味になってしまうので、これでは昭和2年の根拠にはなりませんよ。
それに対して、「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になつておるものです」という沢里の言葉は、動かしようがなく「大正15年」と言っているではありませんか。

(8)の部分について。
「現定説は大崩壊を起こしてしまう」などと、無理に情緒に訴えようとする表現をまた使っておられますが、何も「大崩壊」などしないでしょう?
「沢里証言のうちある一部は誤っていたが、他の部分は正しい」という、ただそれだけのことではありませんか。他の資料と突き合わせて正しいと判断される部分は、年譜に引用することに何の問題もないでしょうに、なぜこの簡単な理屈がわからないんでしょう。
証言の一部でも誤っておれば、全体が「大崩壊」になるのならば、ブログ主さんが沢里が晩年に証言を訂正したことを認める以上、それも「大崩壊」ですよね。
ブログ主さんのこのおかしな論理に関しては、H氏との議論でも何度か指摘され、たしか数学のような式で説明されたり、最後には「同じことばかり書くのは時間の無駄」とかも言われていたと思いますが、今だにまだ同じ理屈をくり返しているというのは、分からないふりをして時間を稼ごうとしているのか、それとも本当に分かっておられないのか、いったいどっちなんでしょう。

(9)の部分について。
ブログ主さんは、「必然的にH氏は《大正15年11月に賢治は上京した》と主張せざるを得なくなる」と書いていますが、全くそんなことはないでしょう? どこで主張しておられますか。
H氏が「大正15年11月」と言っているのは、あくまで沢里の証言において「彼自身は」そう考えていたのだろう、ということであって、実際に賢治の上京がいつだったのかとは、別問題のはずです。
実際、H氏はブログ主さんとの議論において、賢治の上京は「大正15年12月2日の可能性が最も高い」とたしか書いていましたから、ブログ主さんの言う「新説」なるものなど出しておらず、その「検証作業」などさせられる必要もないでしょう。
相手の「主張」を勝手に捏造しておき、それを攻撃するという手法ですか?

最後に、ブログ主さんは「お二方」からH氏に何か伝言してくれと頼んでおられますが、とおりすがりさんは知りませんが私の方は存じ上げませんので、何か伝えたいことがあるのなら他人任せにせず、どうかご自分できちんと対処して下さいね。

ということで、とおりすがりさんも援護射撃をして下さいましたので、やはりまだ安堵などせずに、「三つの質問」への回答をして下さい。
返信する
総べては《大正15年11月に賢治は上京した》の検証結果次第です (鈴木 守)
2013-10-28 16:51:57

テジマア 様
 総べては大前提の《大正15年11月に賢治は上京した》が検証に耐えることが出来てからの話です。
 それが出来ない以上件、前提条件は満たされていませんから件の「3つの問い」はナンセンスです。
 また、それほど仰るのなら、H氏の代わりにテジマア様ががその検証作業をなさって下さい。検証に耐え得ることが出来たことを公に発表していただければ、この際ですから、テジマア様に対してお答えしますので。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2013-10-28 16:54:57
私は「改めて、H氏とは切り離して、質問を受けたと考えてください。」と書いたはずです。
なぜなら、H氏との間の論争があるなしに関わらず、この質問の答えがない限り鈴木さんの理論は成り立たないのです。
>なお、件の「3つの質問」そのものに対するお答えはH様に対してなすべきとでありまして
とありますが、百歩譲ってH氏への回答はそれでよいかもしれませんが(ほんとうは全くよくないです)、貴ブログを読まれている方すべてに対しては、やはり三つの質問には答えて頂かなくては、理解を得ることはできないでしょう。なぜなら鈴木さんはH氏だけではなく、公にブログを発表されているからです。

私も「ただのとおりすがり」ですので、テジマアさんのことは存じあげません。ただ、鈴木さんのブログを拝見して疑問に思うことに答えて頂きたい一心であることはまったく同じ思いだと思います。

公に自説を発表し、それを主張されるということは、質問があれば、特別な理由がない限り、この人には答えるがあなたには答えないなんていうことは、できないことです。
それも、少しも難しい質問ではなく、ご自身の見解を言っていただくだけであるのに、これほど答えることを拒まれることには、深い疑問を持たざるを得ません。
返信する
ならば見解の相違です (鈴木 守)
2013-10-28 17:40:48
 「H氏とは切り離して、質問を受けたと考えてください」といわれましても、それは無理です。あなたの希望は聞くことは出来ません。
 この論争はあくまでもH氏と私の、一対一の男の勝負だからです。
 なお、それでもご希望とあれば、H氏と切り離して、H氏の代わりにとおりすがり様が件の検証作業をなさって下さい。検証に耐え得ることが出来たことを公に発表していただければ、この際ですから、通りすがり様に対してお答えしますので。

返信する
Unknown (とおりすがり)
2013-10-28 19:16:27
先のコメントで、H氏もテジマアさんも存じ上げません、と書くべきところを急いで書いたのでなんだかテジマアさんに失礼な書き方をしてしまいました。すみません。

ところで、鈴木さんはわたしの文章をしっかり読まれましたか。「一対一の男の勝負」かどうかは知りませんが、そんなことは他の読者にはまったく関係ありません。
しかも、“仮に”H氏が例の説を主張されていたとしても、テジマアさんや私が代わりに答えることなどできませんし、答える義務もありません。

改めて、H氏と鈴木さんの議論には関係なく、私が鈴木さんのブログを拝見して感じた疑問によって質問をします。

たった一つだけです。
沢里さんが最終的に自分の記憶を訂正して、昭和2年ではなく大正15年のことだったと結論づけたということは、沢里には賢治上京を見送った記憶は1回しかなかったということです。
それなのに鈴木さんが、沢里さんは大正15年と昭和2年と2年続けて見送ったと主張されることは、沢里さんは実際は2回の記憶を1回と勘違いしていると主張することになります。
つまりこれは沢里さんが重大な記憶の障害をきたしていたと主張することと同じことです。
それにも関わらず、賢治は2年続けて上京したのだと主張する根拠またはお考えを教えてください。
返信する
それでは、まずは拙書を読んでください (鈴木 守)
2013-10-28 19:45:27
 とんでもございません、澤里はそんな障害など全く起こしておりません。澤里に対してのそのような軽率な発言は全く失礼なことです。
 根拠を知りたければ、あとは拙書『賢治昭和二年の上京』をよく読んでください。
返信する

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