スミダマンのほのぼの奮戦記

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野口英世記念館

2020-09-03 06:24:09 | 建物

磐梯山の麓、猪苗代湖畔の自然豊かな地に野口英世記念館はある。

開館は1939年(昭和14年)5月21日と古く、その後2015年に展示室の増築と展示の完全リニューアルが行われ

これでグッドデザイン賞を受賞した。

世界を駆け抜けた医学者野口英世は1876年(明治9年)、福島県猪苗代に生まれ、1歳半の時に

左手に大やけどを負ったが、恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服した。

入館するにあたって新型コロナウィルス感染防止の為、体温チェックが行われた。

今やこれはごく普通となり、違和感は感じなくなったが、ずい分と風景が変わってしまったと痛感する。

一体元の姿にいつ戻るのだろう?

記念館の平面図。生家はこの建物の外部にあるが動線が流れるようにスムーズにできている。

設計・施工は竹中工務店が請け負った。

受付を過ぎるエントランスホールの一角にミュージアムショップがある。

野口英世に関するオリジナルグッズ(Tシャツ、色紙など)がコンパクトに販売されている。

この野口英世の生家は野口家2代目清太郎が1823年(文政6年)に建てたもの。

英世はここで少年時代を過ごした。この家は建てられて200年たった今でも場所も大きさも変わらず

当時のまま保存されている。記憶ではこの地には学生時代来訪したが、

この古い生家があったのみでこのように立派に整備はされてなく、

それがかえって訴える力になっていたような思い出がある。

1枚目は「オメエ」という部族が生活する場所であり客を迎える所。

2枚目は絹糸をとるための繭を育てる蚕棚。4枚目は「ニワ」という家の中にある土間。

藁仕事などの農作業を行った。5枚目は「ウマヤ」といって馬を飼うところ。

母のシカは馬が大好きだった。

英世の人生を決定づけた運命の出来事。それは1歳半の時、寝かされたイジュから這いし囲炉裏に落ちて

左手に大やけどを負った。この囲炉裏は明治11年4月の当時から変わっていない。

明治29年9月、19歳の英世が医師の資格を取る試験の受験のため上京する際、床柱に刻んだ言葉が

当時のままに残っている。几帳面な彫痕が決意の固さを物語っている。

彫った決意とは「志を得ざれば再び此地を踏まず」

昭和4年に建立された英世自筆を刻んだ碑。

忍耐の書は、15年ぶりに帰国したとき、英世が母校、翁島小学校に英文・仏文の書を当時の

猪苗代町長に寄贈したものを刻んだ。

patience(忍耐)Honesty is best policy(正直は最良の方法である)

La patience est ame're,mais son fruit est doux.(忍耐は苦い、しかしその実は甘い)

もう一つは野口英世博士誕生地の碑 

碑の下にはメリー夫人から送られてきた英世の遺髪埋葬されている。

蚕を飼うのに必要な桑の葉を獲るために、母シカが自ら植えた桑の木。

昭和14年の記念館の開館を記念して母シカの信仰に感銘を受けた堤イトにより寄贈された観音を祀った救世観音堂。

母シカが洗い物をしてた小川。その時1歳半の英世が火傷をした。

英世と母の運命を決めた小川だ。

野口家の系図。その当時の生家が生々と伝わってくる。

いよいよここからは展示室。2階から順路に従がって1階へ。

この手の記念館は一般的に写真撮影が禁止の所が多いが、当館は撮影がOK。

という事で心置きなく撮ることができました。感謝!

改名する前の順天堂時代の名刺が展示してあった。「野口清作」小さな名刺だが

色々と想像してしまうパワーが名刺にはある。

人の人生にはその時々の節目に重要な人との出会いがあるが、英世の生涯を支えたキーパーソンの人びとのコーナー。

この写真は重い。英世はこの写真の一人小林栄先生への手紙の中で、この数年の間にはノーベル賞を受賞できるかもしれないと書いている。

実際に3回ノーベル生理学・医学賞の候補に選ばれている。

英世が使っていた顕微鏡、フラスコなどの医療機械とアフリカに持参したメスやハサミ、注射器などの医療器具。

母シカから英世へ「どうしても帰ってきてほしい」旨の熱愛の手紙。

大正4年9月8日 38歳で人生一度きりの凱旋帰国した時の写真。

資料などの展示コーナー。日本中が世界の野口を歓迎した。

日本滞在中の英世は恩返しと親孝行の帰国目的を果たした2か月間であった。

英世の妻メリーのコーナー。

メリー夫人と過ごしたニューヨーク郊外のシャンデーケンの別荘の部屋をイメージしている。

昭和3年4月7日付けのこの手紙がメリーへの最後の手紙となった。

因みに野口英世の身長は153CMと小柄な男性であった。

英世は多彩な人の表れとして絵も描いた。その作品が多く展示されている。

そしてアメリカを中心とした海外での写真。

昭和3年には裕仁昭和天皇が勲章及び勲位を与えている。

その賞状と勲二等旭日重光章及びレジオン・ド・ヌール勲章。帝国学士院賞恩賜賞そして大学のフード。

英世そっくりのロボットがボタンを押すと身振り手振りを交えてお話しします。

わかりやすい話し方なので子供たちがロボットに惹かれてこの場を離れようとしない。

日常では目に見えない細菌の世界をパネルや映像、ゲーム等で紹介している。

英世が挑んだ細菌の世界を楽しみながら学ぶことができる。

野口英世の千円札(正券)2号券

科学者として初めて紙幣の肖像に選ばれた。この肖像は英世がエクアドルに出張した際に

撮影した写真をモデルにしている。英世自身も大変気に入っていた写真で恩師や友人にサインして贈ったという。

今まさに新型コロナウィルスの真っ只中に人類は居る。

この野口英世は黄熱病の研究中に自身も罹患し、昭和3年現在のガーナで51歳で死去した。

この感染症世界大流行の歴史を見ることによって今一度野口英世の人生から人類は何かを学ぶ必要に迫られている。

 

 


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