スミダマンのほのぼの奮戦記

~仕事・家族・自然・経済・趣味~あらゆる出来事をフラッシュバック。

浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編141~

2017-02-25 07:33:40 | 食~番外編(県外)

元祖 岩国寿司の宿 三原家

山口県岩国市岩国2-16-6

TEL 0827-41-0073

三原家の創業は江戸時代、慶長までさかのぼる。初代三原家は

岩国寿司を藩主に最初に献上したと言われ、その味の

調合は代々当主のみ伝えられてきた。三原家では、

これまで8代にわたり300年以上その味を守り続けている。

この写真は6代目が岩国寿司を切る所。よく見ると

4段重ねの押し寿司となっている。昭和55年に大平正芳総理大臣より

6代目は勲五等の勲章を授与されている。

この三原家さんに入って昨年6月に行った山形市の

千歳館(2016-6-30付ブログ参照)を思い起こしてしまった。

その街その街の郷土料理を扱っているお店は当然歴史が古く、

従って建物の維持も大変だと思う。こちらも良く見ると随分傷んだ所が目立つ。

岩国寿司は城内で食べられていたこともあり、「殿様寿司」とも

言われている。又地元では角ずしと呼ばれることが多い。

起源は今から約380年前、岩国藩で収穫された米と蓮根に

野菜を配し、近海の魚の身を入れ、保存食にするため

味付け寿司にしたもの。岩国城は山城である為保存食を備蓄し

合戦に備える為であった。作り方は一度に3升から1斗入る大きな

木枠の中に生魚の身をほぐして混ぜ込んだ酢飯の上に春菊などの青菜、

岩国名産の蓮根、椎茸、錦糸卵などをのせこれを何層にも重ね

サンドイッチ状にして重石でしばらく押し固めそして1人前サイズに切り分ける。

岩国寿司を食するのは2回目だが決してすごく旨い押し寿司ではない。

あくまでこの寿司の歴史を思い浮かべながら食する所に良さがでるのではないか。

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錦帯橋

2017-02-24 07:12:05 | 建物

山口県岩国市の錦川に架橋された木造アーチ橋(五径間)。

岩国藩主吉川広嘉によって1673年に初代の錦帯橋が落成した。

全長193.3m 幅5m。この石碑にもあるように大正11年3月8日に

名勝に指定された。因みに指定したのは戦後亡くなった内務省だ。

この石碑にも歴史を感じてしまう。

 

 

この錦川は暴れ川で度々洪水をおこし、当初の橋は

数回架け替えられていた。なんとか洪水に耐えられる橋を造ろうとして

中国明の帰化僧、独立性易から中国杭州西湖に6連アーチ橋があることを知った。

そして橋脚4つ5連の今の形の橋ができた。

岩国錦帯橋は日本三名橋のひとつ。他に東京の日本橋、

長崎の眼鏡橋がある。又日本三大奇橋のひとつにもなっている。

これは他に山梨県大月市の桂川に架かった猿橋、

富山県黒部川に架かった愛本橋(木曾の桟)がある。

この日の空は雲がたれ込んでいて、錦帯橋に着いた時は

見えなかったが、橋を渡り出した時、丁度山の上に建つ

岩国城が顔を出した。岩国城は慶長6年(1601年)、毛利元就の孫

初代岩国領主吉川広家によって築城された。

錦帯橋は継手や仕口といった組木の技術によって

釘は1本も使わずに造られている。石積の橋脚に5連の太鼓橋が

アーチ状に組まれた構造で、しかも両端は桁橋構造を持つ

反橋になっており、世界的にも珍しい橋だ。

延宝2年(1674年)橋台を石垣で強固にして掛け直した

2回目の橋。この橋は昭和初期まで250年以上流失することなく

定期的に架け替えてきた。

ところが昭和25年9月14日のキジヤ台風によって全て流失した為

現在の橋は昭和26年に建造復元されたものであります。

錦帯橋は桜の名所として吉香公園と共に日本さくら名所100選に

選定されている。このソメイヨシノは岩国市の

開花標準樹になっている。

 

日本三大奇橋と言われるだけにカメラアングルが色々あったので

味のある写真を4枚程

川にはゴルフ場の池でたまに見かける水鳥の群れが戯れていた。

この鶏の名はわかりません。UDKさん又教えて下さい。

この錦帯橋を造った岩国藩主吉川広嘉公の銅像。

カリスマガイドさんが言っていたが、岩国市はこの錦帯橋だけで

観光が成り立っている。錦帯橋様々です。

橋のたもとにある佐々木屋小次郎商店。3年連続で三ツ星を

受賞した世界最高ランクのソフトクリームが約50種類以上もある。

因みに巌流島で宮本武蔵と闘った佐々木小次郎は岩国で生まれた。

 

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浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編140~

2017-02-23 07:31:22 | 食~番外編(県外)

ふく・おこぜ懐石・活魚料理 あじろ

山口県萩市南片河町67

TEL 0838-22-0010

定休日 水曜日 駐車場 7台

萩市を代表する懐石料理店。平成2年に旧店舗を新装した。

静謐な和風建築、店のしつらえも上質な和の空間に統一されている。

店内の7名までのカウンター席 20名までのテーブル席に

和室個室がある。右上に懸けられている店名「あじろ」のロゴ文字は

萩焼十二代三輪休雪さんの書。新装した折に

「おまえなら しゃぁ~ない」と書いてくれた。

店主の中田利隆氏。氏は萩魚市場の仲介人の許可証も

持っていて、毎朝セリに出かけている。萩は食材の宝庫。

新鮮食材、本格的な味覚美食の追求には妥協は許さない。

フク刺しを仕込んでいる所をパチリ。店主のこだわりは

厳選した地物を使う。野菜も主には新鮮な地物を使うが揃わないものは

京都から仕入れるそうだ。すごいこだわりだ。一期一会、

真の日本の食文化を通しておもてなしの心を極めるべく

日々研鑚しているとの事。

フクの箸置き、ひょうきんな顔をしてかわいい。

実は平成18年、小泉純一郎総理が来られて刺身の盛り合わせと

あじろ特製うに丼を昼食にとられ、大変感銘して

「一味真」と色紙に書かれた。食するひと味ひと味が正真正銘の本物という意味で

その後この献立は「一味真 御膳」という名をつけたそうだ。

 

 

それでは最上級虎ふく料理をご紹介しましょう。

尚ふく料理は要予約で9月20日~3月25日までの限定料理だ。

因みにこの地方では下関春帆楼でもご紹介したが

幸せが来ると意でふぐではなくふくと言う。

ふく皮のポン酢仕立て。あじろさんのは細く切り刻んでいないので

より歯応えそしてやさしい食感を感じる。うつわは萩焼みたいだ。

特別オーダーしたむらさきうに。ばふんうにと間違える程

赤みを帯びている。

ふく料理と言ったらアルコールはふくのひれ酒でしょう。

ふくのヒレの部分を干物に加工し、これを火で炙ったものを

熱燗した日本酒(東洋美人)に入れて楽しむ。

フタを開けた時の炙りの香ばしさが鼻を心地よく刺激してくれる。

お酒もよりコクが出る。そして体がポカポカに温まる。

ふく刺しの薄作り。ふく肉の特徴は繊維質があること。

それゆえ普通の刺身では弾力がありすぎて噛み切ることが難しい為、

切り身が透けて見えるほど薄作りにする。

他のフグ料理店では紙の様に薄く箸ですくように数枚一ぺんに

食べてしまうが、あじろさんのはすごい。一枚一枚を

絶妙の厚さに切っている。一枚で充分歯応えがあり、

深いふくの旨みが嚙む程に出てくる。これは文句の言いようがない

最高の逸品です。今まで食べたふく刺しダントツNo1だ。

このふくの白子料理には正直ビックリした。口に入れた瞬間

もう参りましたと唯々頭が下がるのみです。

ふく刺しに続いてこんなに旨いふくの白子食べたことがない。

クリーミーな白子が口の中で優しく広がっていく。

そして余韻を残して消えていく。旨い料理の極致といった感じだ。

ふく料理の定番 ふくの唐揚。とにかくあじろさんの料理は

トータルのバランスが素晴らしい。バランスだけでなくて

その中にしっかり主張してくる。それも奇をてらわない王道の唐揚だ。

尚あじろさんはうつわも料理の一部、器の取り合わせも

素材選びと同じよう気配りしている。

萩焼の代表的作家を中心に若手作家の現代的器、

伊万里焼や輪島塗も作っている。

ふく鍋。魚の切り身鍋を指す「ちり」をつけて「ふくちり」とも

呼ばれている。関西では「テッチリ」とも呼ばれている。

ふく刺しが一気に食べきれずに若干残っていたので、

鍋でふくしゃぶにした所これが微妙に味が付いて旨かったナー。

最後の〆にふく雑炊だ。これが又々最高。上品な出汁が出ていて

なんとも言えない絶妙な味。幸せだナーの世界に

お酒とともに完全に入ってしまった。

先般県外の旨い店ベストテンに載せた下関の春帆楼よりも

ずっと上品で押さえた所にパンチ力がって、こちらの方が

一枚も二枚も上といった感じだ。今まで食べたふく料理の中で一番美味しかった。

デザートにくず切り。本物の店はデザートまで本物で旨い。

最後にデザートでも唸らせられるのか!

本当に参りました。

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城下町萩を歩く ~その3~

2017-02-22 07:29:39 | 旅 ~国内

吉田松陰を祀っている松陰神社の鳥居。神額に揮毫したのは

安倍晋三首相の祖父岸信介元総理大臣。この鳥居を寄贈したのが

山口県から出た企業宇部興産だ。

この鳥居を過ぎると左手に「明治維新胎動之地」の石碑がある。

これを揮毫したのは岸信介元首相の実弟佐藤栄作元総理大臣。

因みに2015年に登録された世界遺産「明治日本の産業革命遺産」

全23遺産の内、萩には5遺産、この松下村塾もその1つだ。

吉田松陰が安政6年(1859年)10月20日郷里の両親に書き送った

便りの中にある永訣の一首。「親思うこころにまさる親ごころ

きょうの音ずれ何ときくらん」 寅二郎

享年30才、松陰の両親に先立つ不老を詫びている気持ちが

込められている。まさに断腸血涙の絶唱である。

国指定史跡 松下村塾 

吉田松陰は安政4年(1857年)実家杉家宅地内にあった小屋を

改造して8畳の塾舎とし更に翌年10畳半を増築した。

これが現在の松下村塾で、松陰27才の時のことである。ここで松陰が

教育したのは1年であり、実家の幽囚室時代を通算しても2年半に過ぎない。

この短い期間にこの粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、

安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊壌討幕運動に挺身し

明治維新の原動力となった。同志の主な者は激動期に

死んで行ったが、生き残った者は維新政府の中枢に立って

新しい日本を指導することになった。

松下村塾の米倉。馬小屋のような粗末な建物の中で

足踏み脱穀しながらも右上の板の上に教科書を置き

作業しながら勉学に励んだという。

国指定文化財吉田松陰幽囚の旧宅。安政2年(1855年)から

数年の間、松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が

幽囚室であった。家族からの薦めもありこの部屋で孟子や

 武教全書などを講じ、次第に多くの若者が参加するようになり、

やがては松下村塾を主宰するようになった。

明治23年(1890年)に吉田松陰を祀って建てられた松陰神社。

最初は私祠として小祠が建立されたが、伊藤博文、

野村靖などが中心となり公の神社創設が許可された。

御神体として松陰が終生愛用した赤間硯と父叔兄宛に書いた

文書が遺言によって納められている。

おみくじはなぜか番傘。これを生垣につけて、かえって

華やかさが出た生垣になっている。

松陰が遺した、著述、物品を保存している松陰神社の

宝物殿「至誠館」残念ながら時間が無く中には入れなかった。

昭和36年創業の村田蒲鉾店。萩という新鮮な魚が入る

地の利を生かし、萩発祥と言われる伝統の焼き抜き製法での蒲鉾づくり

萩市東玉太郎1046-1

TEL 0838-22-0877

観光シーズンオフとあってこの広い店内、我がグループ以外

お客はおらず、試食は食べ放題。特にこのふぐ天は

ホットプレートで焼いたばかりで香ばしい。

なぜかちょこちょこ食べるつまみ食いがまた旨いんだナー。

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城下町萩を歩く ~その2~

2017-02-21 07:33:55 | 旅 ~国内

日本海の張り出した所にある指月山。この山の麓に萩城址がある。

萩城は関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより

周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が

広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。

毛利輝元は城が未完成のまま、入城した。それから250年余りの間

長州藩(萩藩)の拠点となった。現在は指月公園として整備されている。

今まで行ったことがなかったので、是非行きたかったが、

残念ながら雨の為予定変更で行けなかった。

今までアップしてきたエリアが旧町人地。そこと旧上級武家地との

境になっているのがこの外堀。さすが日本でも有数の

歴史地だけに、きれいに整備されていた。

~その1~でもアップした田中義一の銅像。

(エピソード)昭和3年に起きた張作霖爆殺事件で田中総理は

昭和天皇に叱責され、その責任を負って内閣総辞職をした。

その7ヶ月後のパーティで急性の狭心症を起こし帰らぬ人となった。

田中義一の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは

完全に途絶えることとなった。

平成16年に開館した萩博物館。萩市の伝統的建造物群保存地区内の

大野毛利家の屋敷跡に建設された。造りは萩市特有の武家屋敷風の

広大な造りとなっていて第48回のBCS賞を受賞している。

キャッチコピーは「ここがまちじゅうへの出発点」

ここは行く価値が絶対ある。

正門から入ると広々した庭スペースに、1台ポツンと古色蒼然とした

真っ赤な車が置いてあった。かなりの年代ものでどうも消防車らしい。

実際に使えるのか、それとも展示物なのか?

この建物プランのゾーニングは各展示室をコアにして回廊式で

互々結んでいる。その回廊から中庭が硝子越しに見える設計になっている。

特に2枚目の枯山水の庭に竹林の島が設けられていて

クラシックモダンの空間が広がってとても素敵だった。

過去の萩の街の観光ポスターが展示してあった。

「おいでませ 山口へ」

アナログ時代の写真は輪郭がぼんやりしているが、人の温もりが伝わってくる。

 

行った時は「萩・夏みかん物語」の企画展をやっていた。

萩の夏みかんの歴史は、1700年代に現在の長門市青海島の

大日比の海岸に流れついたものを拾って種をまいて育てたのが

始まりと言われている。萩は毛利氏36万9千石の城下町として繁栄したが

明治維新の廃藩置県により士族の生活は困窮がひどくなり、

旧藩士小幡高政が士族政治の一対策として萩各所に夏みかんを植樹した。

明治10年に1万本の苗木を待屋敷のあとの空地に植え

ほとんど夏みかんでうまったと言われている。当初夏みかんは

「ダイダイ」と呼ばれていたが、明治18年大阪の問屋に出荷を相談したところ

大坂では「ダイダイを食うとヨイヨイ(中風痘)になる」と嫌って

ナツミカンという名にした方がよいという意見で以後夏ミカンという商品名となった。

萩の航空写真と江戸時代の城下町絵図

写真で左上の丸く出っ張った所が萩城のあった指月山。

絵図の真ん中白い建物が藩校明倫館。

日本海萩港で水揚げしている魚の展示もしてあった。

意外に知られていないが萩沖日本海は魚の宝庫。クロマグロも捕れる。

歴史展示室コーナー。実物資料や模型の数々が

入館者を江戸時代へ、そして幕末維新へいざなってくれる。

吉田松陰を中心とした展示コーナー。ここでは幕末の松陰と

松陰と出会った維新の人々のDVDが上映されていた。

タイトルは「志」。その根底にあった思想は「草奔堀起」。

私もそうだが、他の仲間も、このDVDを見ている内に血が熱くなってくるのを感じだ。

一種の町内会エリアから日本の歴史を変えていく青雲の志を

持った若者が化学反応をおこして覚醒していく。

俺は今いったい何をしているのだろうという心境におちいってしまう。

熱い気持ちのまま萩の人物コーナーへ。えっ、この人も萩ゆかりの人?

江戸時代の末から現代にいたる110名人物。埼玉県令を務めた白根多助。

日大国学院の学祖山田顕義、拓殖大学創立、首相桂太郎。

陸軍大将乃木希典。日本共産党議長野坂参三。

田中義一の長男、通産文部大臣田中龍夫。

日本初のセメント会社(小野田セメント)創業者笠井順八。

鉄道の父井上勝。日本水産の創業者田村市郎。

日立グループの創業者久原房之助。日産コンツェルンの創始者鮎川義介。

迎賓館を設計した片山東熊。綺羅星の如くだ。

 

 

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城下町萩を歩く ~その1~

2017-02-20 07:08:13 | 旅 ~国内

国指定史跡の萩城城下町は大きく旧上級武家地と

旧町人地に分かれる。周辺は今も江戸時代の地図がそのまま

使える程町筋がそのまま残っている。江戸屋横町、伊勢屋横町、

菊屋横町と呼ばれる小路があり、この狭い地域に近代日本を

創り上げた先達の生活の場が点在しているのを足で歩いて

直に見ると血が騒ぐ不思議な気持ちに成った。

「伝えたい物語がここにある。」今年3月4日に萩明倫学舎

(本館、2号館)がオープンする。全国屈指の規模を誇った萩藩校明倫館。

その跡地に日本最大級の木造校舎が建ち萩の新たな観光起点に成ろうとしている。

萩明倫学舎隣りの中央公園の一角に、萩が生んだ偉人の一人

山縣有朋の騎馬像がある。この銅像を造ったのは北村西望。

昭和5年に完成し最初は東京霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれていたが、

上野公園、井の頭彫刻園と場所を替え、平成4年にこの地に移設された。

山縣有朋は1838年(天保9年)に中間(ちゅうげん)の身分である家に生まれた。

低い身分故に藩校明倫館の入学資格はなかった。

そこで学びたい者は誰でも入れた松下村塾で学び、

その後討幕運動、明治維新で活躍し明治、大正時代の軍人として

国軍の父と称され、又政治家として2度内閣総理大臣に就任した。

1922年(大正11年)に小田原の別邸、古稀庵で83歳で没した。

国葬後、護国寺に埋葬された。

同じ中央公園の一番奥に建つ久坂玄端の進撃像。

久坂は1840年(天保11年)長州藩の萩で藩医の家に生まれた。

長州藩における尊王攘夷派の中心人物で、身長は180㎝、

恰幅がよく、声が大きく美声であったという。松下村塾では

高杉晋作と「村塾の双璧」「松門四天王」と言われ

松陰曰く長州第一の俊才であると言わしめた。

1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)にて

鷹司邸内で刺し違え自害した。享年25歳。

玄端が生き長らえていたら明治維新は又別の世界に

成っていたのではと言われる程の逸材であった。

江戸屋横町にある円政寺。高杉晋作と伊藤博文が幼少時代

この寺内でよく遊んでいたと言われている。平成28年

ケネディ駐日大使夫妻も拝観している。寺には長州藩毛利家の家紋

「一文字三星」が掛けられている。一という文字は無敵、

三星はオリオン座の真ん中に位置する「三武」

別名「三将軍」を表現している。

日本屈指の蘭学者、青木周弼の旧宅。青木周弼は、周防大島町の

医家に生まれ、藩主毛利敬親の侍医や医学館の館長を務めた。

日本屈指の医師として全国的にも知られ、多くの弟子を育てた。

村田蔵六(のちの大村益次郎)の親代わりとなり世話もした。

又、実弟、研蔵も長崎で最新の医学を学び、明治2年に

明治天皇の大典医に任命された。

この家は安政6年(1859年)に建てられたものと考えられる。

青木旧宅から木戸孝允誕生地に向かう。

幕末の街並みに現代人がタイムカプセルに乗って

迷い込んだような錯覚におちいる。

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(桂小五郎)の旧宅。

孫の木戸幸一(最後の内大臣、待従長)より大正15年に寄贈され、

昭和7年に国の史跡に指定された。木戸孝允は天保4年(1833年)に

萩藩医和田昌景の長男として、この地に生まれた。

8歳で桂家の養子になり、17歳の時に明倫館で松田松陰に学んだ。

30歳頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走、

慶応2年(1866年)、坂本竜馬の仲介により、薩摩の西郷隆盛らと

薩長同盟を結んだ。明治新政府では特に五箇条の御誓文の

草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。

明治10年(1877年)5月26日西南戦争のさなか、45歳で京都で病死した。

木戸は身長174㎝と体も大きく、美男子であったという。

又々、カリスマバスガイドさん。彼女は岩国市在住で

ガイドの節々に山口弁が出て、旅に来ているなーという思いにさせてくれる。

人間の魅力とは顔とか、姿形ではなく内なる心だと感じさせてくれる。

国指定重要文化財の菊屋家建造物。慶長11年に出来上がり

完成祝いに毛利輝元公を招待した。

現存する町屋では全国でも最古に属する建物だ。

呉服商・酒蔵業を営んでいた旧久保田家住宅。

菊屋家の向かい側にあり、幕末から明治前期にかけての建物として、

意匠・構造・技術に優れ、酒蔵業で繁栄した往時の状況も良く伝えている。

幕末頃藩主のかごかき田中家の三男として文久3年

(1863年)、田中義一はここで生まれた。田中義一(1863年-1929年)は

萩の乱に参加、のちに陸軍大学に進学し大正7年陸軍大臣就任

昭和2年内閣総理大臣となった。

萩の街には随所に夏みかんが植えられている。武家屋敷の土塀や

生垣の中にたわわに実る夏みかんの姿は史都萩の魅力の一つだ。

夏みかんは現在も萩のシンボルとして全国に知られている。

この武家屋敷街を歩いていると点々とこの様な洒落たカフェ、

みやげ店がある。シーズンになると観光客が喉の渇きを潤す為に

おみやげを買う為に立ち寄るのだろう。この日は朝、

ここを散策した為、店はまだクローズされていた。

一連の路地通りは「日本の道100選」に選らばれている。

ここが高杉晋作の誕生地。高杉晋作は萩藩士高杉小忠太の

長男として天保10年(1839年)に生まれた。安政4年(1857年)

久坂玄端のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを

受けた。騎兵隊の創設、四国連合艦隊との講和談判、

下関挙兵などを行い、明治維新のため力を尽くしたが、

維新の実現を見ることなく、慶応3年(1867年)28歳の若さで病死した。

 

辞世の歌 「おもしろきこともなき世をおもしろく」

 

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浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編139~

2017-02-18 08:29:04 | 食~番外編(県外)

郷土料理 沙羅の木 松韻亭

島根県津和野町殿町

TEL 0856-72-1661

定休日 年中無休 営業時間 11:00~15:00 駐50台

 松韻亭さんは殿町通りに面し、津和野藩第三家老田中家

敷地跡にあり、築150年以上の建物は2013年8月

国の登録記念物(名勝地)に選定された。

こちらの庭園は幕末ごろから明治中期ごろにかけて整備され、

昔ながらの日本庭園を眺めながら食事を楽しめる。

正に昔へタイムスリップだ。

日本五大銘飯の一つ、「うずめ飯」。この地方で取れる山菜を

主材にした代表的郷土料理だ。因みに他の銘飯は

「さよりめし」(岐阜県山岳)、「深川飯」(東京深川)、

「かやく飯」(大阪難波)、そして地元埼玉小川町の「忠七飯」

 煮たまご、高野豆腐、手毬麩、たらの芽、じゃがいもの酢の物、ごま豆腐。

茄子の田楽(柚子味噌等、きゃらぶき、山菜五目ちらし寿司に

笹そば山芋かけ。そしてにんじんゼリーのデザート。

津和野方言で「うまいけぇ」「たべてみんさい」「あがんさい」

このラインアップは2昔だったらマウイーの郷土料理だったかもしれない。

和紙と竹のお皿、お盆等かなりカラフルな商品が売られていた。

因みに津和野は障子紙として多く用いられた「石州和紙」の産地。

紙質は強靭でありながら肌触りは柔らかい。

近年は書道用紙、賞状の用紙などに使われているそうだ。

石州和紙で作られた雛祭りの飾り物。あまりにも

かわいいので4つもアップしてしまった。どれが一番

あなたにとってかわいいですか?

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山陰の小京都 津和野

2017-02-17 07:22:10 | 旅 ~国内

島根県の津和野町は山あいに白壁と赤瓦の家並みが続き、

西に山城の跡が見える城下町で、山陰の小京都と呼ばれている。

人口は7548人(2016-10-1)、ひっそりとした静かな町で、

時がゆったりと流れている感を強く持った。

津和野は学生時代以来の訪問で約半世紀の時が流れた。

その時の印象は鮮明に残っており、正にタイムカプセルの旅になった。

JR山口線の津和野駅。SLやまぐち号が定期的に走り、汽笛が山に

こだまする光景はメルヘンの世界らしい。

駅頭には蒸気機関車「D51」が展示してあった。

ご覧の様に街の通りは素晴らしく整備されていたが、

2月とあって観光客は少なく、街には人気がほとんど無い。

カトリック教会も殿町の景色の中に溶け込んでいる。中はカトリック教会には

珍しい畳敷になっていた。津和野には長崎から

配流されてきたキリシタンへの改宗が強要された歴史がある。

学生時代に行った乙女峠の津和野カトリック教会マリア聖堂の

姿が脳裏にはっきり残っているが、今回訪問できなかったのが心残りだ。

津和野の家屋の屋根はほとんど赤褐色だ。

これは島根県石見地方で生産されている石州瓦の為だ。

石州瓦は1200度以上の高熱で焼成されて作られ

冷害に強く寒冷地地方で多く使われている。因みに石州瓦は

日本三大瓦の一つで、他に三州瓦(愛知県・旧三河国)、

淡路瓦(兵庫県淡路島)がある。

白壁と堀割と鯉が津和野の代名詞。道沿の堀割には菖蒲が咲き、

錦鯉が群れている。なかには胴回り60㎝のまるまる肥った鯉もいるらしい。

藩校養老館跡は民族資料館になっており、現在工事中。

工事用仮囲いが凝っている。なまこ壁と菖蒲の花と鯉が画かれており

周囲の景観にすっかり溶け込んでいる。

観光名所の殿町通り。通りは完璧に整備されていて、

記憶よりずっと道幅が広かった。人間の記憶はいい加減だナーと

一瞬戸惑ってしまった。

殿町通り沿いにある多胡家老門。筆頭家老を長きに努めた

重臣多胡家の屋敷表門。番所が在り威厳のある佇まいだ。

多胡家老門の隣りにある家老職の大岡家老門。

内側は津和野町役場津和野庁舎、教育委員会、福祉事務所が

併設されており、まだ現役建物として生きているのが驚きだ。

国指定重要無形民俗文化財の「鷺舞の像。」古式豊かな鷺舞は

神事舞として、京都より山口を経過して天文11年(1542年)

津和野城主吉見十一代大蔵正頼が五穀豊穣、災厄防除のため

移転したことに起源している。

津和野のもう一つの代名詞「なまこ壁」。土蔵などの壁塗りの

様式の1つで瓦の目地(めじ)(継ぎ目)に漆喰をかまぼこ型に

盛り付けて塗ったもの。その目地がなまこに似ている所からそう呼ばれている。

ここから日本五大稲荷のひとつ太鼓谷稲成神社の参道入り口になる。

山の中腹に忽然と現れる朱塗りの太鼓谷稲成神社。

その迫力には圧倒される。一般的には稲荷神社と書くが

ここは稲成と書く。「成」には津和野藩主亀井矩貞公の思いにより

お願い事がよく叶う。つまり願望成就、大願成就などの意味が込められている。

稲成神社は安永2年(1772年)に津和野藩主7代亀井矩貞公が

津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、

三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太鼓谷の峰に

京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始まり。

昭和30年代には参拝者の激増に伴い、

どんどん増築がされ今日の境内に成った。

これは皆さん参考になりますヨ。意外に分かっていない手水の作法。

①右手に柄杓を取る。

②まず左手を洗う。

③次に持ち換えて右手を洗う。

④次に左手に水を受けて口に漱ぎ、更にその手を洗う。

注 柄杓を直接口につけてはいけない。

当神社は本物のおあげをお供えするというユニークな

参拝の仕方だ。おあげ1包150円。

昭和44年に竣工した新社殿。因みに前述した日本五大稲荷は

伏見稲荷大社(京都伏見区)、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)

竹駒神社(宮城県岩沼市)祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)そして当神社だ。

ご覧の様な小さな片田舎の津和野から偉人が輩出している。

文豪森鴎外はこの地で生まれ、津和野を舞台にした「舞姫」

「ヰタ・セクスアリス」を書いている。幕末明治維新期の啓蒙家

西周(にしあまね)も当地の出身。この2人は幼い時、

藩校養老館で学んでいた。最近では画家、絵本作家の

安野光雅も津和野で生まれた。

この方が今回お世話になったカリスマバスガイドさん。

その語り口は個性的でアンチョコも見ずしゃべりっぱなし。

まるで講談を聞いている様で素晴らしいガイドさんだった。

 

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浦和エリア旨い店シリーズ ~その277-Ⅱ~

2017-02-16 07:15:56 | 食~居酒屋

旬の味 みなと

浦和区仲町2-12-4

TEL 048-832-0807

定休日 日曜日 、月曜日の祝日

当店は今回で3回目。今回は数名でみなとで接待を受けた。

次回はこのカウンター席でじっくり旬な料理を食べたいと思い撮った。

奥に見えるのが大将と弟子。(2016-4-11付ブログ参照)

今年は酉年。たまたま我が家でも戴いた「いせそう」の招福張子。

我が家は「笑門来福」と書いてあったが

みなとさんのは当然「来客万来」になっていた。

そうゆうことで当店唯一の最大8名入れる個室で4名で

ゆったりと和食を味わいながら飲んだ。ところで、

あまり書きたくないのだが「みなと」さんの一番のネックは

接客、サービスだ。残念ながらおもてなしの部分が折角の料理の味を

台無しにしている。本当にもったいない。

1月のお品書き。機会があったら昨年3月のお品書きと比較してみたい。

今回はおまかせコース。接待側が選んでいるので

花8,800円、月7,000円、雪5,500円のどのコースが

出されたのかわからない。因みにみなとコース10,800円は

要予約なのでこれは違う。

 

これがコースの8品全品だ。今回は間違ってもいけないので

コメントなしの写真のみにした。このレシピはメニューの中に

きっとあるはずだが・・・。この日も納得の逸品の連続だった。

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浦和エリア旨い店シリーズ ~その313~

2017-02-15 07:34:00 | 食~洋食

キッチン きく

浦和区北浦和4-9-31

TEL 048-832-4353

定休日 日曜日

北浦和駅西口近くで昭和44年創業、約半世紀続いている

老舗洋食屋さん。表の看板には洋食の味を創って一世紀。

浅草大坂屋の支店だったらしいが、そこは既に閉店しているとの事。

今日のサービスランチ、なんとワンコイン500円です。

こんなお店が会社の近くにほしい限りです。

一般メニューはランチタイム(~PM3:00)と夜(PM5:00~)の

メニュー2種類がお店の外に出ていた。

ランチはほとんど炒め物と揚げ物。

2階には20名位入れるお座敷があるようだ。良く読んでみると

予約料理3,000円から学生コンパは500円引きになっている。

多分埼玉大学の学生を意識しているのだろう。

それにしてもコンパという言葉は懐かしい響きがある。

店構えもそうだが、店内はレトロ感溢れる昭和の雰囲気、

さらにもっと遡って大正ロマン的空気が漂っている。

カウンター席7席とテーブル席6卓が余裕を持って配置され、

いかにも時間がゆっくり流れ、ホットできるレストランだ。

カウンターに座っていると、4角いスペースの奥に調理を

しているマスターの手元だけが見えた。顔が見えないが

40~50代のコックさんだろう。手際はなかなかなものだ。

なぜかこの日はカキフライが食べたくなってオーダー。

800円。味噌汁は別料金で50円だそうだ。カキフライは

ちょっと揚げ過ぎか。こうもパリパリだとねー?

個人的にはもうちっと柔らか目の揚げ方にしてほしかった。

昭和の香りといえば、このステンレス製の皿、いいですネー。

子供の頃はこの皿を見ると洋風な気持ちになってワクワクしたものだ。

壁に目を向けると夜のおつまみいろいろメニューが貼られていた。

手書きの字が人のぬくもりを感じさせて、ここでも

昭和に出会った感じだ。そしてカウンターの上には

ボトルキープのサントリー角瓶が並んでいる。

きっと常連客は昭和に郷愁を感じる年代が

集まって夜をゆったりと楽しんでいるのだろう。

 

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