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日本の呼称の始まり、そして趣味の古代史・考古学の流れ(改)

2011年10月23日 21時40分27秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
「日本」の呼称が、最古の例となるかもしれない678年の墓誌?中国で発見されたという記事がアサヒコムに掲載されていた。それまでは、日本という国名が使用されたのは、大宝律令(701年)からとの見方が有力だったという。(http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html)

それ以前では、3世紀末に書かれた魏志倭人伝という中国の歴史書の倭の用法に見られるように、中国での日本の呼称は倭である。倭に関しては502年にも倭王武を征東大将軍に進号する、という記事が『梁書』(りょうじょ)に記されている。倭王武は、雄略天皇とする見方で研究者の間ではほぼ一致しているという。(稲荷山古墳出土の鉄剣銘のワカタケル大王でも話題になった。)


ところで、古代史・考古学は、私の主な趣味の一つになっていて、このような古代史考古学情報をいつもチェックしスクラップしている。私が、古代史・考古学に興味を持ち出したのは30代になってからである。

30歳の頃失業中に、遺跡発掘の作業員のアルバイト広告を見つけて応募した。そして東大阪の遺跡保護調査会から、石切近くの日下中学校?にあった遺跡へ1ヶ月余り発掘調査のアルバイトに行った。それまでは、設計や製品開発の仕事しか経験していなかった。覚悟はしていたが、生まれてはじめてのツルハシやスコップを使っての発掘作業はきつかった。川床跡の礫層は硬くて特に大変だった。調査面の土の層まで達すると移植ゴテやその他の道具で丁寧に地表表面を削り遺物を見つける作業になる。発掘面を丁寧に削りならすと、柱穴とか当時掘り返されてところは、土の色が違うという。(なかなか見分けがつかない)たまに土器片を見つけると宝物を掘り当てたように嬉しかった。

発掘作業に従事している作業員や発掘調査員は、学生か卒業して数年程度の若者ばかりで、考古学への情熱を燃やしていた。お昼時は、考古学の話も飛び交い、考古学の門外漢であった私は、全く話についていけなかった。今まで勤めていた会社の社員や取引先の大企業の技術者・ビジネスマン達との世界が普通と思っていたので、それまでと全く違う世界が見えて新鮮でもあった。

あるとき、調査責任者が「これは画期的な論文だから希望者は読んでください」と言って、希望者にコピーが配布されたので読んでみた。それは、都出比呂志先生の古墳時代前夜と高地性集落を論じた小論文だった。考古学論文を読むのは初めてで、予備知識も無い私にとって余り分らなかったが、周りの人の解説で、だんだんと分りだした。

確か石鏃の大きさの変化や、高地性集落の、のろしの見える位置関係や土器の胎土(たいど:土)と婚姻関係も論じられていて、高地性集落は防御用のために作られた集落で、当時魏志倭人伝に記されてあった倭国の大乱の証拠ではないかという論文であったような記憶がある。当時は邪馬台国時代の倭国の乱も、何のことか分らなかった。(倭国の乱については、今も確定した説が無いようだ。)

このようにいつも、考古学関連の話しを聞かされ、発掘作業でわずかな土器片を宝探しのように探し当てたりするうちに、当時話題となっていた邪馬台国関連の本を読んでみる気になった。そして原田大六氏の「邪馬台国論争」を購入し読み始めた。はじめは難しくて全く分らなかった。考古学用語や文献の固有名詞のオンパレードで理解するのに非常に苦労した。考古学古代史は記憶の学問ではないかと思い、読むのを止めようと何度も思ったが、それでも少しずつ読み進め、数ヶ月以上かけて読み終えた。

東大阪遺跡保護調査会のアルバイトは、一ヶ月余りで終わった。その後アルバイトで知り合った知人の誘いで、長原遺跡の発掘調査に加わったが、参加して確か1週間余りで、ある食品機械メーカーの設計技術者として就職が決まりアルバイトを辞めた。その頃長原遺跡の弥生時代の方形周溝墓について知った。

それ以来考古学、古代史ファンになり、講演会に参加し、本を読み知識を深めた。その後大阪市の教育委員会が主催していた、市民考古学講座に参加して、一般教養程度の考古学知識や難波宮や河内の古代や古墳に関しての初歩知識を得ることが出来た。

その後、大阪市の北市民教養ルーム担当者の肝いりで考古学講座のOBが集まって「古代を偲ぶ会」を結成した。偲ぶ会は、今も考古学・文献史学の専門家・研究者(有名な先生や気鋭の学者が多い)を招き、毎月定例講座を開く大きな会に成長している。発足当初は、まだ会の規模は小さかったが、私も定例講座を聴きにいき随分考古学・古代史に対する理解が深まった。

会社に勤めだした時は、クレーム処理とか修理程度の仕事で余り残業せずに帰れたので時間に余裕があり、考古学の専門誌も読んだ。しかし仕事に慣れるにつれ、本職の設計の仕事が忙しくなり製品開発も始まり、遅くまで残業し、更に管理職・技術部門の責任者となってからは、早朝や休日出勤も普通になり、趣味どころではなくなった。40歳になり、それまで必死に働き通したおかげで、経済的に余裕が出来たので、脱サラし語学留学で一年余り渡米した。

帰国後、中南米の民芸雑貨店やギャラリーを経営し、考古学・古代史に触れることは無かった。50代で事業に失敗した後は、低賃金の契約社員として働き、再び残業等に追われ(契約社員のため、いくら残業や休日出勤しても手当ては付かず、会社に体よくこき使われた。)、文字通りの貧乏暇なし状態で食べて行くだけで精一杯の状態になった。必死で働いた契約社員の仕事は、契約更新で打ち切られたので転職し、社労士の下での営業の仕事に就いた。仕事は順調にこなしかなり成果も上げた。その後国の制度上の問題(既得権益)で、会社がそのビジネスモデルの仕事を継続できなっくなった。その為産創館の起業講座に通った後、自営業をはじめた。しかし自営業で始めた営業代行の仕事は、うまくいかず困窮した。無論この年での就職口はほとんど無かった。その後、幸いなことにすぐに年金受給の年となり救われた。年金のおかげで、自由に使えるお金はほとんど無くても、簡素な食事なら食べる事だけは安心して出来るようになった。このように最近まで仕事と貧困に追われ、古代史・考古学どころで無かった。

そういうわけで、社会的活動をあきらめたわけではないが、今時間には余裕があり、図書館から本を借りて古代史考古学関係の本を読んでいる。20年前の考古学の知識は、すっかり古くなっていた。その間考古学の世界では、大量の発掘データーが蓄積され、朝鮮や中国の考古学情報も加わって、古代の国際関係も遺物を通して論じられるようになり、日本の考古学は飛躍的に発達した。その間、私はそういった情報にほとんど接していなかったので、経過が全く分らず、今新鮮な気分で考古学・古代史関係の本をゆっくりと読んでいる。今振り返ってみて、古代史・考古学の趣味を持っていて良かったと思っている。


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