散歩者goo 

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情報社会での忘我と無我と快楽

2012年04月25日 19時26分30秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
SNSは社会情報も個人情報も宝庫だし、その気になればいくらでもチェックできる、というよりその気になれば、ほぼ切がない=無限にあるということだろう。
なぜなら公私共に新しい情報や事件や話題は、人間が活動する限り、常に大量に発生し続けているからだ。
事件や話題の発生は、過去も同様だったが、記録媒体が紙だけで、極めて限定されていた為、社会や個人の文字(時間軸に関係なく、文字という記号を知っているものであれば誰でも、解読し頭の中で再構成できる。)に残る情報も限られていたため、関係者以外の第三者には伝わらなかった。
そのためいくら、事が起きてもその瞬間、関係者の記憶に残るだけで、関係者が消滅すると消えた。
現代は、関係者以外の人も、ニュースとして知り、さらにITのおかげで、個人からもあらゆる音や動画を含む情報が発信され関係者以外も、それを知り体験を共有する事となった。

その意味で、現代は産業革命以上の、歴史上の大情報革命期にあると思う。
現実に、我々の生活環境は、IT導入前と後では、我々は馴れてしまって気付かなくなっているが、革命的に変化している。
例、ネットで大量の現金や物が決済されている、宇宙船との交信(画像も含む)、 気象予報、 分子レベルの薬の開発、 各種シュミレーション技術(地球環境や宇宙や原子レベル及び人間社会のシュミレーションを含む)、 PC・スマフォ関連の情報技術の発達、ロボット技術、その他・・・・・・・
これらは、人類がITの未来を想像したものより、はるかに激しく早く変化しているのではないだろうか。

自分を見失う、 
禅的な無の境地で自分を捨てるのと、自分を見失うのと、意味や状態は正反対である。
無我の境地というのは、意識して自我を捨て悟る事であり、欲望を捨て、ありのままを受け入れることだ。
自分を見失うということは、欲望とか意志が錯綜して、状況に目がくらんで、情報や快楽に振り回され、その時々の情報に振り回されることであり、それは忘我であろう。(忘我と無我と同じだろうが?忘我とは無我夢中のことではないのか。無我の中に夢中が入るともはや、無我の境地ではない。ただスポーツ等の無我夢中はいわゆる、無心=無我の境地に通じるのかもしれない。歌にもあるように、「勝つと思うな、思えば負けよ」はよく雑念の引き合いに出される。)

人間は、誰でも快楽を求める。
快楽そのものは、違法なものや、倫理的に問題のある行為や、薬物のように脳に強制的に作用し強い依存を起こす物を除き、問題ないと思う。
一般的に人間、特に現代人はよく快楽に浸っていると思う。(現代人は、中世の王侯貴族の生活をしているのではないかと思う。例えば、昔は冷房も車も無かったし、王侯貴族しか食べられなかった現代では日常の食物物もある。)
例えば、観光旅行は快楽の塊だろう。
その中身には、くつろぎ、酔うこと、美味を味わうこと、いい音楽を聴くこと、香り、睡眠、温泉、許された人との性的なこと・・・その他個人の数だけ様々な快楽があるだろう。
その中には、ゲームをするといった勝負事に関する快楽(脳科学のほうでギャンブル依存症と快楽の関係が解明されていると聞く)や、物を収集したり様々な情報を得ることで知的好奇心を満たすといった性質の違った、達成感のような快楽があるのかもしれない。

ただ、高齢者や、様々な事情を抱えた人も含め、仕事もせずに必要以上の(分不相応の)快楽を追い求めるということは、経済的に許されない(現実に出来ない)し、それを無理に求めることで、本人は社会的に破綻をきたすことになる。


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