散歩者goo 

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山茶花がしおれている

2012年01月30日 17時03分53秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
今朝裏庭の山茶花がしおれているのに気付いた。
水をやっていなかったのが、原因だ。
しかし、山茶花は冬に花が咲き、常緑広葉樹で、いわゆる照葉樹林の代表的な植物だ。
その山茶花が、しおれる事態は、人間の病気なら、瀕死の状態であろう。

それ以前に、昨シーズンも今シーズンもこの山茶花は、花を咲かせていない。
5年前に、下記のブログを書いた時は、美しく咲いていた。
多分、ここ数年手入れもせず放置したのが、山茶花がしおれた原因だ。
地植えでは放置しても大地に根を張るので問題ないが、鉢植えでは、根を伸ばして養分をや水を吸収することが出来ないので、鉢の根に肥料を与える等の手入れが必要である。

今朝早速、山茶花の鉢に水をやったが、葉はしおれたままで、未だに回復していない。
水枯れが原因なら、水をやると数時間で元気になる。
非常に心配である。

この山茶花には、私の思い入れが詰まっている。
様々な想いを、この山茶花と共有している。
下記の一文は、私がこの山茶花について書いたブログ(「村ぶろ」散歩者 2007年9月24日)の抜粋したものを一部修正してある。
(少し長文ですが興味ある方は読んでください)



あるときから、その山茶花は路地に面した戦前からの古い長屋の南端で一人住まいする、元気なおばあさんの住む家の前にあった。
山茶花は細い若木だったが、釉薬のかかった美しい火鉢風の大鉢に植えられ、人の背丈ほどになり毎年暮れから早春になると花を沢山つけ、葉の深い緑と花の真紅との鮮やかなコントラストで通る人を楽しませていた。

大阪市内の各辻には地蔵様があり、この路地も戦後子安地蔵尊をお祭りした。昔は子供が沢山いて地蔵盆のときは、地蔵様の前に子供の名前を入れた提灯をにぎやかにつるした。
そのとき子供達は浴衣に下駄ばきで、子供の好きなお菓子のお供えが沢山積まれたお地蔵さんの前に集まり、夜には親達が集い、子供もはいって盆踊りがあり、にぎやかに踊っていた。
山茶花のある家のおばあさんも、当時は母親として町内の年中行事を楽しんでいた。

山茶花がおばあさんの家に来た時は、既に子供達は大人になり、みんなどこかへ行ってしまい、町内には残ったおばあさん達と、外へ移らなかった少しの独身の男達が残るだけであった。
地蔵盆のとき、路地の子安地蔵尊の前につるされた子供の名前の入った提灯も、殆どなくなりお参りする人もなくなった。

それでも我が子の成長を見届けて残った、長屋のおばあさん達は陽気で、姉妹のように仲が良かった。
おばあさん達は、春夏秋冬に誘い合って桜や牡丹やつつじ見物に行き、紅葉狩りによく出かけた。
そして、皆集まってはその思い出話に花が咲いた。

それから時がたった、おばあさん達はだんだんと体を悪くし、ある人は亡くなり、ある人は入院生活を送るようになり、長屋のある路地は、さびしくなり笑い声も子供の声も消えた。
それでも山茶花のある5軒長屋の端の家のおばあさんはまだ元気だった。
しかし、そのおばあさんの友達が少なくなり、話し相手もなくなり、自分の息子や娘達の家に泊りがけで行くようになり、だんだんと長屋から姿を見かけなくなった。
とうとう、あるとき山茶花のある家のおばあさんは、戦前から住みなれたこの長屋を出て息子の家に転居し長屋の端の家は、空き家になった。

男にとってここは生まれ故郷でもあるが、今は彼の幼馴染も少なくなり、人も風景も変わり寂しかった。
それでも主のいなくなった長屋の前の山茶花は、時が来ると美しい花をつけ路地を明るくした。
男の父は他界し、山茶花のある家のおばあさんとも仲良しでもあった、彼の母は入院生活をしていた。
男は時折母に代わりその家の植木に水をやった。

それから少し経った時、突然ブルドーザーがきて、山茶花のある家と男の隣の10年以上空き家になっていた家の2軒を壊し始め、男の家の隣に大きな瓦礫の山ができた。
路地の見慣れた風景は一変し殺伐とした異様な風景に変わった。
男の住んでいる部屋の壁がむき出しになった。

おばあさんのいた家の前にあった、鉢を割られ枝を折られ根がむきだしになった山茶花と、まだ無傷だった紫陽花が、土ぼこりにまみれて廃材と一緒に脇に置かれていた。  
主のいない山茶花と紫陽花は、なすすべもなく、切り刻まれた廃材と一緒にダンプに積まれる時をまっていた。
長屋の男は、山茶花や紫陽花達を悲しく思った。
男は恐る恐る工事現場の責任者に、この山茶花や紫陽花を引き取らせてくれと申し出た。
責任者は、どうせごみにするから勝手に持っていっていいと言った。
男はとりあえず、無傷のアジサイと、鉢は割れ傷だらけの山茶花を家の前に持ってきた。

男の家に人の背丈に近い山茶花を植えるほどの庭は無く、家の前は植木で一杯だった。
男は仕方なく、大きな山茶花の枝を切り落とし、大きな根を切り、有り合わせの小さい鉢に無理やり植え替え、その鉢を日当たりの悪い裏の坪庭に置いた。
それでも翌年山茶花は花をつけ、美しい花を咲かせたので、男は喜んだ。

しばらくして、戦前からの長屋の北端の大家さんも自分の子供の家に移るため、この長屋から出ていった。
長屋は新しい大家さんに代わったが、新しい大家さんは地主でここには住んでいない。
長屋の北の端にある大家さんの家は無人になり路地は更にさびしくなった。

追い討ちをかけるように、男が幼い頃幼馴染と一緒に遊んだ向かいの戦前からの大きな一軒家も代替わりし引っ越した。
その家にもブルドーザーが入り、すさまじい土煙とともに、いつも家を出るとき男の目の前にあった家が跡形もなくなった。
男が幼いときの路地の風景はなくなり、人のいない殺伐とした光景が広がった。

それから間もなく入院していた男の母も震災の年の初秋に他界した。
幼い頃に病弱だった彼を、ここまで苦労して育ててくれたことや、車がない為母が亡くなる前に大好きだった、桜を見せに連れ出せなかった事が悔やまれた。
残された男は黙って悲しみに耐えた。
冬になると山茶花は孤独な男の心を癒してくれた。

それからしばらく経ったある日、突然山茶花が根元から少し上で数本の小枝を残し自分で割れて折れた、まるで自殺でもするように。
水や肥料をやり木の勢いを回復させようとしたが、山茶花はわずかに根元の幹に残った全ての葉も落として枯れた。
男は悲しかった、ひょっとして山茶花のあった家のおばあさんに何かがあったのではと思ったりもしたが、おばあさんの消息を知りようも無かった。
すぐに男は気を取り直した。
仕事も忙しくなり、寂しさも感じなくなった。

その翌年、枯れた山茶花を植えた鉢は、処分せずに干からびたまま坪庭の片隅に放置されていた。
春になり坪庭に水をやる時、足元のカラカラに干からびた思い出深い山茶花が気になった。
男は山茶花を哀れに思い、供養するように山茶花の枯れた幹に水を掛けた。
その日以降、坪庭に水をやるときは、枯れた山茶花にも水を掛けた。
時が経てば、山茶花の枯れ木を処分するつもりだった。

しばらくたったある日、枯れた山茶花の幹の根元付近が一箇所プツッとふくれてきたのに気づいた。
水をやったので何かの植物の種が生えたのだろうと思った。
ところが、不思議なことに、それは枯れた幹の表面根元近くから、幹とは別の植物のような感じで山茶花の幹の中心から生えて芽を出した。

マッチ棒のようにヒョロヒョロと伸びた芽は、時が経つにつれその芽から一枚二枚と若葉を出してひろげた。
幹についている小さい芽の葉は、紛れもなく山茶花だった。
男は自然の持つ奇跡のような生命力に深く心打たれた。

その年に、やっと5枚の葉をつけた小さな山茶花は、そのまま冬を越した。
春になると更に葉の付け根から新芽を出し、去年開いた葉の根元から芽を出し枝となったり、その枝を伸ばした。
こうして山茶花は少しずつ大きくなった。
新しく生えた山茶花は真直ぐ伸びだんだん太くなり、元の幹の太さに近づいた。
古い折れた幹は、新しく中心から芽生えた幹が太くなったため、新しい幹の脇ににへばりつく形で、斜めに飛び出すような形になった。

しばらくたって、男が古い幹の状態を見ようとして手を触れると元の幹は脱皮するようにポロリと若木から別れた。

今年の冬も男の坪庭では、50cm以上に成長した山茶花が華やかに沢山の花を咲かせた。
春には、深緑の枝先に萌黄色の若葉を勢い良く伸ばしている。
まるでここは私の居場所!と宣言するように。

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