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昨日記151030金(副食製造 西天満 ジム・筋トレ・ラン)

2015年11月01日 13時36分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴れ  最高/最低℃ =21.0  12.7
昨日は午前中昨日記を書いた後、副食11食の製造に取り掛かり、断続的に作業を行い夜までに70%程度仕上げた。

夕方から、西天満に出かけたが、HOTは先週と同じ展覧会だったので、ほうもんしたのは、いつも回る白とOギャラリーの2軒と、久しぶりにギャラリー菊も訪問した。
ギャラリー菊では新制作の作家達のグループ展を行っていた。
久しぶりに団体展の作家の作品を見た。
私がギャラリーを経営していた時代には、いろんな団体展の作家さんとも交流があり、団体展の作家さん達のグループ展も行ったこともある。
展覧会を見ながら、当時の記憶がよみがえってきた。
現在、団体展関係の展覧会はほとんど見に行くことはない。
昨日、再び団体展の作家達の作品と接して何か違和感を感じた。

帰り道、団体展と普段回っている「現代美術」作家たちの作品との違いで、なぜ違和感が出るのか考えてみた。
そしていくつかのキーワードが浮かんできた。
完成度が高い
安心してみることができわかりやすい
新しさがない
指導者の表現手法・傾向に近い
こうした事実を基に、考えを進めると、論点が浮き彫りになりそうだ。

団体展で出品される作品の多くが、過去に使われた表現手法の集大成の形で表現されているので、完成度が高く、わかりやすいのだ。
団体展には、強力な階級があって、上位の先生から指導を仰ぐことが多いし、参考にすることも多い。
そのため、上位の人達の表現手法(文法文脈・記号意味記号内容や感性)を継承したり影響されることになりやすい。
結果的に、過去に使われた表現の集大成ということにならざるを得ないが、逆に言うと、それが過去の作品(数か月数年前という短い過去も含む)を多く見慣れた人にとって理解しやすいのだ。

私がよく見て回る現代美術では、それまで担い表現手法やコンセプトに出会うこともよくある。
また、従来の作品の見方からすると、決して完成度が高いと思われないものも多いが、それは意図的な場合も多く問題ではない。
やはり現代美術はアバンギャルド(前衛)なのだ。
現代美術だから価値が高いということはない。
現代美術の中の多くは、特筆するレベルではないのだろう。
多分その割合は、一般の美術作品と同様と考えている。
逆に団体展の作品にも多くの素晴らしい作品がある。
また現在まで残っている古典作品が素晴らしいことは言うまでもない。
美術芸術は、それぞれの分野がありそれぞれの価値観で表現しているのだ。
団体展の美術はその団体の価値観があり、現代美術でも多数の価値観があって、例えば、コンセプチャルとポップアートでは価値観が全く違うし、昨日ETVで取り上げていたキースへリングのようなヘタウマの価値観もある。

それでは、私が団体展の作品で見た違和感は何だろう。
多分、既存表現手法の羅列に対する苛立ちかもしれない。
既存表現は、現代美術も含めすべての分野で使っている、というより人類の文化芸術学問がすべて過去の財産を継承したうえで成り立っているのだ。
ただ、芸術分野で現代アートというのは、前衛的表現を常に求められていて、既存表現の羅列では陳腐と考える傾向が強い。
しかし、現代アート以外の分野、例えば美術の団体展においても既存表現をさらに進化洗練させることで、価値ある作品になるのではないだろうか。
よく似た例が、科学技術分野で日本は、改善を徹底的に繰り返し創造的製品を作り出したという事例もある。

帰宅後、ジムに行き、筋トレとランニングを行った。
筋トレもランニングも体力低下を防止するための軽い運動にした。
ランニングでは無休で時速8.5km~9.2kmで23分ほど走った。


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参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)

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