鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その最終回

2014-06-16 05:23:17 | Weblog
『客坐録』に崋山は次のようにメモしています。「銀在所左之通 相州高坐郡早川村幾右衛門女 同國コゾネ村ト云所某家ヘ適 麹町八丁目上州屋万蔵ト云者 此(この)幾右衛門懇意 此銀 文化三丙寅十二月 又春ニ至リシヤ 御暇被下候(くだされそうろう)」。このメモはいつ書かれたものなのか。メモの前後は『毛武游記』の旅に関することであり、天保2年(1831年)の暮れに書かれたものかと推測されます。「小園」は「こぞね」と読んだらしいことが、このことからわかります。「小園」というバス停近くにあった「古東海道」の案内文には、宝暦6年(1756年)の「上小楚根村中」の銘文のある道祖神がある、との記述があり、「小園」の旧呼び名が「小楚根」であったということからも、「小園」は「こぞね」とよんだらしいことがわかります。「銀」(まち)が、いつ御暇を下されたのか、崋山にもはっきりとは分からなかったらしい。文化3年(1806年)の12月か、あるいは翌文化4年(1807年)の春にかけてのことであったらしい、としています。「銀」が三宅友信を江戸田原藩邸で産んだのは文化3年(1806年)の11月のこと。この年2月には世子(せいし)亀吉が逝去し、崋山は世子元吉(康和)の御伽役(おとぎやく)を命じられています。当時崋山は数えの14歳。「銀」は22歳ほどであったでしょう。母の急死により「銀」は大山街道を通って早川村へと帰り、それから二度と江戸へ戻ることはありませんでした。「銀」は藩主康友との間に後の「友信」を産みましたが、実家へ戻って以後、その「友信」に会うことはありませんでした。なぜ江戸の田原藩邸に戻れなかったのか。あるいは戻らなかったのか。その事情はいろいろと推測されるのですが、それはあくまでも推測に過ぎません。いつのまにか突然目の前からいなくなった「お銀さま」。その「お銀さま」と25年ぶりに再会した崋山は、その時の詳しい事情等について「まち」から聞いたりしたのだろうか。 . . . 本文を読む