鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その最終回

2010-11-27 07:34:10 | Weblog
数多い浮世絵師の中でも、富士山に登ったことがある浮世絵師はそれほど多くはあるまい。その上、何度も登ったことがある浮世絵師と言えば、五雲亭貞秀(橋本貞秀)以外にはいないのではないか。江戸時代の富士登山と言えば、富士講の人々の富士登山が有名で、中には何度(何十回)も登ったことのある人がいますが、富士山の絵を描くために何度も登ったという絵師はそう多くはいないと思われます。富士講の人々は上吉田口から「吉田口登山道」を利用して登頂し、須走口登山道で下山するというルートが一般的でしたが、貞秀の絵を観てみると、貞秀は吉田口登山道や須走口登山道はもちろん、村山口登山道(東海道吉原宿から大宮を経由して村山口から登っていくルート)も利用しているものと思われる(「富士両道一覧之図」「富士道中一覧其二」など参照)。村山口登山道は富士講のルートではないから、貞秀は富士講のメンバーとして富士山に登ったのではなくて、やはり絵師としての強い興味関心から富士山に登ったものと思われます。貞秀は、「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」も描いているから、大山(おおやま)へも実際に登ったことがあると思われ、江戸市民の間に広がっていた富士講や大山講の信者たちにとっての「信仰の山」とも言うべき富士山や大山に対する強い興味関心を持っていたものと思われます。貞秀の興味関心はしかし富士山や大山にとどまらず、長崎や蝦夷地、そして横浜へも及んでいきます。長崎へははるばると長期旅行を行い、開港地横浜へはひんぱんに足を運ぶようになります。それには貞秀の異国(欧米諸国)に対する強い興味関心が背景にありました。実地踏査による丹念な取材に基づき、富士登山をきっかけとして開眼した鳥瞰的画法をフルに活用し、諸外国の船や人々が続々とやって来て急激に変わっていく開港地横浜を、斬新な手法で描いたのが貞秀の「横浜浮世絵」でした。開港地横浜であるから、そこには和船とは全く異なる外国船が数多くやってきます。貞秀は、「横浜交易西洋人荷物運送之図」などに典型的に見られるように、「横浜浮世絵」において数多くの外国船を描きました。しかも港を描いた絵には、外国船とともに和船もしっかりと描かれているのが印象的。彼が見た横浜は外国船も和船も盛んに出入りする港であったのです(もちろん彼がはるばる出掛けて実地に見た長崎もそうであったはずです)。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その8

2010-11-26 06:44:28 | Weblog
横田洋一さんの「横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀」によれば、貞秀は文化4年(1807年)に下総国布佐(ふさ)に生まれています。「下総国布佐」とは、今でいえば千葉県我孫子市布佐で、JR成田線に布佐駅がある。本名は橋本兼次郎。江戸に出て歌川国貞(三代豊国)の門に入っています。貞秀の出自や世に出てからの私生活などについてはほとんど不明であるという。文政・天保年間には、版本の挿絵を多く制作しており、国貞の門下の有力な絵師の一人として活躍。天保年間には、自作・自画の合巻や団扇絵(うちわえ)、錦絵や武者絵、美人画なども描いています。この貞秀、嘉永年間に入ってから富士登山を始めています。年でいえば40半ばあたりから。横田洋一さんは、貞秀は嘉永2~3年(1849~50年)頃に最初の富士登山をし、それ以後も何度か富士山に登っている、としています。この富士登山を境にして貞秀には、「風景を鳥瞰した作品が大きな比重を占めるようにな」り、また「一方、より抽象化された地図にも興味を抱くようになり、国絵図などの大作にも取り組み始め」るようになりました。「想像するに富士の頂上から眼下に広がる光景はまさにパノラマで、諸方面、例えば箱根の山や芦ノ湖の姿が箱庭のように見えたに違いない。貞秀のそうした体験は俯瞰世界の光景の素晴らしさを知ることになる。一方では遠くまで見渡せ、日本列島の一部を見たという感覚が抽象的な地図の世界に向かわせたのであろう」と横田さんは指摘しています。貞秀は、文久元年か2年の初めに、江戸から大坂・下関を経て長崎まで長期旅行に出掛けていますが、その「海陸道中画譜」(元治元年刊)の序に「大約名所を描くにも親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたし」と記しています。実際にその土地を丹念に歩き、その精密な取材のもとに「真景」や鳥瞰図、絵地図を描くという、貞秀の基本的制作姿勢が示されています。その本領は「横浜浮世絵」で発揮され、「横浜浮世絵の第一人者」といわれるほどになっていきます。では、貞秀の「東都両国ばし夏景色」という特別展のポスターに採用された錦絵はいつ描かれたかといえば、それは安政6年(1859年)のこと。富士登山を契機として盛んに鳥瞰図を描くようになった以後の作品ということになる。江戸に長らく住んできた貞秀にとっては、両国橋界隈を俯瞰的に描くのは自家薬籠中の物であったに違いない。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その7

2010-11-23 07:37:28 | Weblog
この特別展の案内ポスターや垂れ幕などが各所に設置されていますが、それには「特別展隅田川 江戸が愛した風景 栄之、広重、国貞…隅田川を愛した絵師による160余点を公開」と記されており、そして1枚の絵が掲載されています。この絵は、両国の花火見物に群がり集まった群衆を鳥瞰図(ちょうかんず)として描いたもので、両国橋上にはこぼれんばかりの人々が、隅田川には川面を埋め尽くさんばかりに屋根船や屋形船などが描かれています。隅田川は実際とは異なって魚眼レンズでのぞいたように湾曲しており、花火は画面右上に赤々と描かれています。この絵には見覚えがある。隅田川テラスのコンクリート壁(堤防)を利用したギャラリーに掲げられていた多数の絵の中の1枚で、花見見物に集まった群集(江戸市民)のエネルギーを最も感じさせるものであったから。この作者は五雲亭貞秀(橋本貞秀)。横浜浮世絵で知られた人ですが、「江戸隅田川のこういう光景も描いていたのか」とその時は思ったものです。五雲亭貞秀は、『横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀』という図録が、神奈川県立歴史博物館から出ているように、丁寧な取材にもとづいた細密な鳥瞰図で知られた絵師ですが、この両国の花火見物の風景を描いた絵も、両国橋西詰(広小路)の上空やや北側から見た見事な鳥瞰図で、「空とぶ絵師」の面目躍如たるもの。160余の絵の中で最もパワー溢れる絵(つまり観るものに訴える力が強い絵)ということでポスターに選ばれた絵なのでしょうが、ポスターには、「栄之、広重、国貞…」とあっても貞秀の名はどこにもない。「栄之」とは鳥文斎栄之のことで、「国貞」は歌川国貞のこと。「広重」は言わずとしれた歌川広重のこと。葛飾北斎の『絵本隅田川両岸一覧』の各絵は、隅田川の四季折々の景観やそこに生きる人々を丹念に描いた傑作ですが、その北斎の名前もポスターにはありません。3人の絵師の名前を取り立てて挙げる必要はなかったかも知れません。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その6

2010-11-22 07:54:11 | Weblog
この「特別展 隅田川 江戸が愛した風景」は、江戸東京博物館が、開館前から20年以上をかけて収集・保管してきた資料から、隅田川やその周辺のようすを描いた江戸時代の絵を中心に、館外から借りたものも含めて展示するもの。「東京スカイツリー」がその姿を現しつつある中で隅田川周辺の景観が大きく変わろうとしている今、平成の東京にとって隅田川のあるくらしとはどのようなものなのかを再考するきっかけとしたいというのが、この特別展を開いた目的の一つであるようです。展示品の中には、隅田川テラスのコンクリート壁面ギャラリーに超拡大コピーされて展示されていた作品も数多く含まれていました。   . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その5

2010-11-20 06:51:49 | Weblog
「本所深川絵図」(嘉永年間)を見ると、現在の国技館や江戸東京博物館などのあるとこは、「御竹蔵」となっています。もともとは幕府の材木蔵だったが、後には米蔵として使用されたという。現在のJR総武線両国駅も、この「御竹蔵」に沿った武家屋敷地にあることになり、相当に広い敷地をもった施設であったことがわかります。かつての両国橋は、現在のそれよりも50mほど下流に架かっており、したがって回向院は、両国橋からは正面に(東方向)に見えたことになります。この旧両国橋東詰の南側は「石尊垢離場」でしたが、そこには「尾上町」という町名があり、また藤堂和泉守の下屋敷の東側に「横網町」というのがあることもわかります。横網の小路(こうじ)は少年芥川龍之介が隅田川に出るのに通った道であり、「御竹蔵」は子供の頃の芥川の遊び場でした。芥川の「奇怪な再会」という小説には、次のような文章があるという。「お蓮が本所の横網に囲われたのは、明治二十八年の初冬だつた。妾宅は御蔵橋(おくらばし)の川に臨んだ、極(ごく)手狭な平屋だつた。唯庭先から川向うを見ると、今は両国停車場になつてゐる御竹蔵一帯の藪(やぶ)や林が、時雨勝(しぐれがち)な空を覆つてゐたから、比較的町中らしくない、閑静な眺めには乏しくなかつた。」この妾宅は、「本所深川絵図」を見ると、位置的には「御蔵橋」の北側にある「松平伯耆守」の下屋敷のかつての敷地内、南側にあることになりますが、そこからは御蔵橋の架かる堀の向こうに、「今は両国停車場」になっている「御竹蔵」の藪や林が、明治28年の初冬の時点で見えていたことになります。この頃、両国駅のあたりは「御竹蔵」の名残りの藪や林が広がっている閑静なところであったことがわかります。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その4

2010-11-19 06:20:09 | Weblog
広重の『名所江戸百景』では、「浅草川大川端宮戸川」に、船に乗った大山講の人々が描かれています。「梵天(ぼんてん)」という飾りを立てている船が大山講の人々が乗る船で、手前左側に大きく、そして右側やや奥に小さく、2隻描かれています。左側に大きく描かれた「梵天」が印象的ですが、その「梵天」の根元に手拭いを巻いた男たちの頭が密集しているのが見えます。丸いのは被っている笠。これから両国橋東詰南側の垢離場に向かおうとしているのでしょう。それに対して右側の船には、手拭いを巻いた人たち以外に旅人のような人々も乗り、また立って法螺貝を吹いている修験者のような人物も乗っています。左手の「梵天」の柱の向こうに見える川は神田川であり、料亭が建っているのは柳橋界隈であるから、この修験者が乗っている船は今しも神田川に入り、まもなく柳橋を潜ろうとしていることになります。ということは、手前左側の船は、神田川から隅田川に出て来たばかりの船ということになる。隅田川の上流に小さく見える橋は吾妻橋。石尊垢離場は、右端下の延長線上、両国橋東詰(「向こう両国」)の南側にありました。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その3

2010-11-16 05:59:33 | Weblog
葛飾北斎の『冨嶽三十六景』に「本所立川」がありますが、これには材木置場で働く職人の姿が描かれています。「西村置場」という名前がその材木置場に付けられていますが、これは実在のものではなく、版元の「西村屋与八」の「西村」を入れたもので、宣伝を兼ねたご愛敬というもの。材木置場の間から見える川が竪川(たてかわ)で、二ツ目之橋に近い辺りから西南方向を眺めたものであるらしい。右端の上に、立てられた材木の間から雪をかぶった富士山が見えています。中央の職人は鋸(のこ)を使い、左下の職人は、きれいに積み上げられた木材の上に立つ仲間に、角材を「えいやっ」と投げ上げています。よく見ると投げ上げられた角材は2本であり、その2本がまったく分離することなく、上に立つ職人の手元に見事に放り上げられています。竪川沿いの材木が密集している静かなたたずまいの中に、その職人たちの見事な気合いや掛け合いが伝わってくるような絵です。地図で見ると、「二ツ目之橋」は、現在の「清澄通り」が竪川を渡っているあたりに架けられていたもので、現在はこの絵に描かれた材木置場の近くに、両国小学校や両国公園、吉良上野介の屋敷跡などがあります。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その2

2010-11-15 06:46:20 | Weblog
 芥川龍之介の「大川の水」の書き出しは、次のようであるという。「自分は、大川端(おおかわばた)に近い町に生まれた。家を出て椎(しい)の若葉に掩(おお)われた、黒塀の多い横網(よこあみ)の小路(こうじ)を抜けると、直(すぐ)あの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸(かし)へ出るのである。」芥川龍之介が生まれたのは京橋区入船町でしたが、ここでは、生後7ヶ月で引き取られた芥川家のある本所小泉町が生育したところになっています。現在、芥川龍之介生育の家の跡地から入る横丁は、上に掛かっている看板を見ると「横綱横丁」となっていますが、これはもしかしたらほんとうは「横網横丁」であるのかも知れない。次に続く文章は、「幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆(ほとんど)毎日のやうに、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮してゐるあわたゞしい人々の生活とを見た。」隅田川を行き来するおびただしい船、橋の上を行き来する大勢の人々、そして船で暮らし水上生活を送っている人々の姿を、少年の彼は毎日のように見ていたことになります。とうとうと流れる大河は、変わらないようでいて、しかし実は刻々と姿を変える。一日においても、未明→夜明け→昼→夕刻→夜とその景色を変え、一年においても春→夏→秋→冬と季節によって変わる。天候によってもがらりと変化する。大河の流れ自体は変わらないが、そこで生きる人々も、その人々をも含めた景色も刻々と変わっていく、そのような現実の姿に日々接しながら幼少期を過ごした芥川にとって、隅田川は、たしかに「年と共に、親しく思い出される」ものであったに違いない。 . . . 本文を読む
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2010.11月取材旅行「両国界隈~江戸東京博物館」その1

2010-11-14 06:02:15 | Weblog
東京両国の江戸東京博物館で「隅田川 江戸が愛した風景」という特別展が行われていることを知ってはいましたが、他の用事に取り紛れてなかなか行けないままでいました。しかしようやく、会期終了直前に出掛ける機会をつくることができました。午前に観覧を終え、その後は今まで訪れたことのない江戸東京博物館の図書室を利用してみることに。開館前の時間は、ウォーキングを兼ねて両国駅界隈を歩き回ってみようと、いつもの取材旅行と同じように早朝に自宅を出発しました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その最終回

2010-11-08 07:10:04 | Weblog
以前にも触れたことがありますが、田山花袋の『東京の三十年』に、小名木川や高橋(たかばし)が出てきます。小名木川に架かる高橋を渡って、その南詰を左折するとかつて「大工町」というのがありました。その大工町に小名木川に臨んだ2階建ての商家があり、そこには田山花袋の伯母(母の姉)が住んでいました。花袋の本名は録弥(ろくや)。明治4年(1871年)12月13日〈旧暦〉、上州館林に元館林藩(秋元家)の藩士の子どもとして生まれています。父は単身上京して警視庁巡査となり、明治9年(1876年)3月頃、妻子を東京に呼び寄せますが、西南戦争に警視庁別働隊として参加して戦死。いったん一家は帰郷するものの、明治14年(1881年)2月頃、録弥は祖父に連れられて2回目の上京をし、家計の足しにと丁稚奉公に出されることになりました。伯母は亭主に早く死なれ、針仕事などをして一人暮らしをしていました。芝居好きで春水物や近松物などをよく読み、また三味線で常盤津をかなり巧みに弾くことができました。丁稚奉公をしていた録弥は、主人の使いでこの方面に来る時には、しばしばこの伯母の家に立ち寄ったようだ。その伯母の家の2階からは、船の行き交う小名木川の景色を見ることができました。「おりおり帆が大きな家のような影を欄干に漲(みなぎ)らした」というのは、高瀬船であったでしょう。「ゆたゆたと流に漂いながらあさり舟が通って行」き、「午後には、蠣殻町から出て高橋に寄ってそして利根川へと出て行く小さな蒸汽がいつも通って」いきました。花袋は、「この汽船は私にはなつかしかった。何故(なぜ)なら、それは私たちが故郷から乗って都会へ出て来た船であるから……」と記しています。この「小さな蒸汽」とは、通運丸のことに違いない。館林から録弥が祖父に連れられて上京した際、利用したのはこの通運丸であったのです。『新編川蒸気通運丸物語』によると、蠣殻町に発着場ができたのは明治10年(1877年)の6月20日。そして蠣殻町原発場は、同年9月20日から下総境河岸行きが二日に一往復するようになりました。明治14年頃には、蠣殻町から小名木川の高橋原発場に寄って、新川→江戸川→利根川経由で館林付近まで行く通運丸があったのかも知れない。故郷方面へ向かうその通運丸が、午後になると小名木川を通過していき、録弥はそれを伯母の家の2階の窓から眺めていたのです。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その7

2010-11-07 06:41:30 | Weblog
「通運丸」はどういう形状をしていたかというと、時期によって変遷はあるようですが、その形状や色などがよくわかるのは、やはり『新編川蒸気通運丸物語』の表紙カバーの錦絵。基本的に白黒のツートンカラーで、船体中央両側に、上半分が「通運丸」と船名が書かれた半円形のカバーによって覆われた外輪があり、その前部と後部に屋根と窓のある船室があります。船首と船尾には日の丸の旗が掲げられたポールが立ち、両側の外輪の間の屋根からは黒くて太く長い煙突が1本と、煙突ではない短い筒が2本飛び出ています(汽笛だろうか)。この錦絵がいつ頃描かれたのかはよくわかりませんが、P12~13の絵の両国の「発船所」に「笹良橋揚」と記された札が掛けられていることからすると、明治14年(1881年)11月以降に描かれた絵であることは確かなようです。これをP24~25に掲載されている「第二十六通運丸船体図」と比較して見ると、窓の形も数も、外輪の大きさも、煙突の大きさや長さも異なります。第26は明治14年(1881年)12月に石川島で製造されたもので、トン数は20トンで通運丸でも大型の部類に入る。錦絵の方はそれに較べるとやや小型。船に乗ると、板の間にはゴザが敷いてあり、履き物を脱いで上がって、そのゴザの上に座ったり寝転んだりします。上・中・下の3等に分かれ(すぐに上等と下等になる)、上等は舳(へさき)、下等はエンジンの近く、中等は艫(とも)の方。機関部のそばに狭い部屋があり、そこに「会計さん」という船員がいて、事務を執ったり弁当やラムネや駄菓子や佃煮を売ったりしたという。長距離の夜行もあったから、その船室にはカンテラが垂れ下がっており、暗くなってくるとそのカンテラに灯が点(とも)されました。時速はおよそ10kmほどであったらしい。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その6

2010-11-06 07:17:51 | Weblog
『新編川蒸気通運丸』によれば、第一通運丸が造られたところは石川島平野造船場。長さ約21m、幅約3m、深さ約1m余の外輪蒸気船でした。この石川島平野造船場を創立したのは平野富二という人物で、生まれたの弘化3年(1846年)で長崎生まれ。父は唐人屋敷御番所詰およびオランダ船見送出役をつとめていたという。長崎製鉄所に入り、文久2年(1862年)に幕府の「チャールス号」「ビクトリア号」という汽船の乗組機関手となって長崎~大坂~江戸の間を幾度か航海。21歳の時には幕府軍艦「回天」の一等機関士に。興味深いことには、その後、土佐藩に雇われて藩船の機械方を命ぜられ、坂本龍馬とも知り合ったという。その土佐藩の藩船の名前が何というのかは、今のところ私には分かりません。坂本龍馬とどういう機会に知り合ったのかも詳しいことは分からない。明治初年、平野富二は、長崎小菅造船所の所長をしていましたが、本木昌三に請われて長崎活版所の経営を委嘱されたため、これを東京へ移すことを決心し、明治6年(1873年)6月、東京築地二丁目に土地を購入して家を新築して平野活版製造所を設立。仕事が順調に伸びていくと、平野には造船への夢が再燃し、ついに明治9年(1876年)10月、水戸藩石川島造船場跡のドッグを借りて、石川島平野造船場を創立するに至りました。造船場を興した平野が最初にどんな船を造るかと考えて、思いついたのは内陸用の小型外輪蒸気船。これを当時わが国最大手であった民間の運送業者で、利根川水運にも深く関わっていた内国通運会社に売り込んで完成させたのが第一通運丸でした。通運丸は第2、第3、第4と矢継ぎ早に生産され、明治14年(1881年)12月の段階では第26通運丸が製造されています。製造地は石川島以外に深川や越前堀、浜、安宅(あたか)町であったりしています。造船場が東京湾隅田川河口各地に生まれたということでしょう。この通運丸は合わせて40隻ほどが造られたらしい。「石川島平野造船場」は「やがて三菱重工業と肩を並べてその名を全世界の造船界に知られた石川島播磨重工業へと変身を遂げていく」と、同書には記されています。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その5

2010-11-05 07:15:08 | Weblog
『新編川蒸気通運丸物語』によれば、外輪型蒸気船通運丸が営業を開始したのは明治10年(1877年)5月1日のこと。東京深川の扇橋より午後3時に出船。扇橋→小名木川→中川→新川(船堀川)→江戸川→関宿を経て利根川筋を航行するものでした。「野州生井村迄二日より出船致候」(『郵便報知新聞』)とあるからには、2日からは栃木県の思川沿いにある生井(なまい)村まで通運丸は関東の川を遡っていきました。生井村は、古河と小山の間の陸羽街道に近い村だというから、小山方面へ向かう客は終点の生井まで赴き、そこで上陸して陸羽街道に入って小山方面へと向かったものと思われます。蠣殻(かきがら)三丁目から通運丸まで艀(はしけ)が出ていたというから、東京から、行徳・市川・松戸・流山・野田・関宿・境・古河・小山方面へ向かう人々は、蠣殻町から艀に乗って扇橋の通運丸に乗り込むか、直接深川扇橋まで行って通運丸に乗り込んだということになる。小名木川の両岸は、通運丸の通航を一目見ようと黒山のような人だかりであったという。この通運丸の行き先は、思川では生井村からさらに乙女河岸(現在の小山市内)まで延長され、渡良瀬川では明治14年(1881年)11月に笹良橋を経て早川田まで延長され、巴波川では明治16年(1883年)6月になると新波(にっぱ)河岸まで延長されました。行き先は、霞ヶ浦高浜河岸、中山道戸田河岸、武州北河原河岸、下総寒川港、下総銚子港、常州鉾田河岸(霞ヶ浦)、安房の館山(明治17年〔1884年〕12月)、相模の三崎(明治19年〔1886年〕5月)までとどんどん拡大していきました(出船地は、蠣殻町三丁目河岸や両国橋際の米沢三丁目河岸などに移されている)。この通運丸の隆盛に翳(かげ)りが見えてくるのは鉄道網の普及。明治20年代後半の総武鉄道の開通や日本鉄道による常磐線などの開通でした。それでも明治末から大正へと運航はなされていましたが、山本鉱太郎さんによれば、「古老たちの幾つかの証言を考えあわせると、通運丸はどうやら昭和四、五年頃まで気息えんえんのていでも、とにかく江戸川や利根川を走っていたようである」とされ、昭和5年(1930年)頃までは細々と命脈を保っていたものらしい。つまり、通運丸は明治から大正を経て昭和初期まで、およそ半世紀の歴史を生き続け、ついに時代の流れの中で消えていったということになるのです。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その4

2010-11-03 07:36:21 | Weblog
山本鉱太郎さんに『新編川蒸気通運丸物語』という本がある。副題は「利根の外輪快速船」。表紙カバーには、「東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図」という錦絵の部分が掲載されており、そこには黒く長い煙突から煙を吐く「通運丸」が中央に描かれ、左上には隅田川に架かる両国橋が描かれています。その両国橋の東詰の向こうには回向院の屋根も見えています。この錦絵はカラーではないが、同書P12~13にも掲載されており、表紙カラーの部分図では省かれている右側の絵に建物があって、それは東京両国通運会社の発船所であることがわかります。その発船所には行き先が記された札のようなものが軒下にびっしりと掛けられていますが、それには「行徳」「市川」「柴又」「松戸」「関宿」「「新川」「野田」「境」「古河」「藤岡」「銚子」などの行き先が記されています。同書P14~15には、「明治中期頃の通運丸航路図」が載っていて、それを見ると、通運丸の航路は、利根川河口部にある銚子、北浦の北にある鉾田、霞ヶ浦の北にある高浜やその西にある土浦、鬼怒川に入ったところの水海道(みつかいどう)、利根川の上流の別所、その支流渡良瀬川の笹良橋、同じく支流巴波川の新波(にっぱ)まで通じていることに驚かされます。しかもさらに東京湾に出て、三浦半島の浦賀や三崎、房総半島南部の保田や船方、那古、館山などとも繋がっています。同書P16には、「通運丸航路概念図」(明治43年4月現在)が出ていて、それによれば東京の蠣蛎町(かきがらちょう)あたりから、隅田川→小名木川→江戸川→利根川などを経由して、笹良橋までは122km、水海道までは80km(所要時間8時間30分)、佐原までは14時間30分、銚子までは144km(所要時間18時間20分)であることがわかります。ちなみに行徳までは13km(3時間)。この通運丸の航路を見てわかることは、その航路はかつての一大消費都市江戸を支えた「関東地廻り経済圏」を結ぶ水路と重なっているということであり、また、やはり小名木川が、東京の出入り口として依然重要な役割を果たしていたということです。 . . . 本文を読む
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2010.10月取材旅行「小名木川」その3

2010-11-02 07:04:42 | Weblog
広重の『名所江戸百景』の「中川口」で、中央左右に流れる中川を右へと下っていく筏(いかだ)は、どこから来て、どこへ向かおうとしているのか。川を下る筏は、広重の『江戸百』にしばしば描かれる。「綾瀬川鐘か渕」では荒川を下る筏が、手前右に大きく描かれています。解説には「鐘ヶ渕は、隅田川・荒川・綾瀬川の合流地点にあたる」と記されています。「両ごく回向院元柳橋」。櫓の柱向こうに、隅田川を下る筏が描かれています。「御厩河岸」・「駒形堂吾嬬橋」・「墨田河橋場の渡かわら竈」・「千住の大はし」・「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」・「川口のわたし善光寺」・「大はしあたけの夕立」などはすべて荒川・隅田川を下る筏を描いたもの。しかし、この「中川口」の場合は、例外的に中川を下る筏が描かれています。利根川の上流および下流から 江戸へ向かう荷船は、関宿から江戸川へと入り、新川口から新川に入って中川を横断し、中川口(ここに中川船番所がある)から小名木川に入っていくのが一般的ですが、この筏の場合は、新川から中川に入ってきたのではなく、中川の上流からやってきて、中川を下っていこうとしています。では中川の上流はどことつながるのだろう。地図を見てみると、中川の上流は、松伏(まつぶし)→権現堂川を経て、栗橋で利根川とつながっています。ということはこの「中川口」に描かれた筏は利根川の上流からやって来たことになる。利根川の上流は、古河(こが)で利根川と渡良瀬川に分かれます。利根川の源流は上越国境であり、渡良瀬川の源流は現在の栃木県日光市足尾町の奥。ということは上州の奥からやって来たと考えていい。では中川を下ってどこへ向かおうとしているのか。中川の下流は平井新田を経て江戸湾となるのですが、その途中から右折して木場の方へと入って行くルートがあったのでしょうか。仙台堀川あたりが利用されたとも考えられますが、詳しいことは今のところ分かりません。江戸湾に出てしまうことはまず考えられないでしょう。山本鉱太郎さんの『江戸川図志』によれば、江戸川を下った筏は、鬼怒川上流の水海道や下妻、結城地方から来たものや、栃木の奥や上州の奥利根から来たものであったという。途中、栗橋から権現堂川に入り、江戸川ではなく中川を下った筏もあったということでしょうか。 . . . 本文を読む
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