鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その15

2019-02-25 07:57:59 | Weblog

  「案内板」にある嘉永6年(1853年)に建立された、坑内作業中に死んだ水替人足(無宿人)の墓は、台石の右端に「江戸 八丁堀」、真ん中に「百組」、左端に「差配人 與吉」と刻まれ、その台石の上に、真ん中に「南無妙法蓮華経」と刻まれ、その両側に上段14人、下段14人、合わせて28名の水替人足(無宿人)の戒名、出身地、俗名、年齢が刻まれたものでした。

 戒名がすべて「〇〇信士」となっているのは日蓮宗の戒名であり、それは真ん中に妙号が刻まれていることからもわかります。

 全員が日蓮宗の信者ではなかったはずであり、おそらく日蓮宗のお寺の僧侶がこの事故死者一人ひとりの戒名を付けたものと思われます。

 出身地はすべての判読はできませんでしたが、越後、信州、常州、上州、三州、伊賀、江戸、板橋、〇〇邑などの、国名、町名、村名などを認めることができました。

 名前は亀吉、常平、半次郎、亀七、寅吉、仙七、萬吉、和助、清蔵、吉次、元八、仙助、金六、友七、三蔵、寅蔵、兼吉、清助、金平などを確認することができました。

 年齢は十七歳からあり、、二十代、三十代が多い。

 台石に「差配人 與吉」とあるのは、当時の「水替人足小屋」の「差配人」(監督監視人)の名前であると思われる。

 台石の真ん中に「百組」とあるのは、これは後でネットによって調べました。

 「いろは四十八組 東京消防庁 東京都」や「江戸東京博物館 レファレンス事例集」によって詳細を知ることができました。

 これは江戸の町火消の組の名前で「いろは 四十八組」があったのですが、「いろは四十七」文字の中で使われなかった文字「へ」「ら」「ひ」のうち、「へ」のかわりに「百」、「ら」のかわりに「千」、「ひ」のかわりに「万」という漢字が使われ、また後に「ん」のかわりに「本」という漢字が使われた(計48組になった)、ということがわかりました。

 つまり「百組」とは江戸の町火消の「組」の名前の一つであったのです。

 では「百組」に属する町はどこであったかと言えば、「いろは四十八組 東京消防庁 東京都」に「二番 百組」としてその町名が列挙されていました。

 それは、南茅場町、南八丁堀、本八丁堀、日比谷町、亀島町、神田塗師町の六町でした。

 以上から考えると、江戸の町火消「百組」に属する八丁堀の町火消たちによって、この墓は建てられたものと考えられます。

 ここからは私の推測ですが、江戸の八丁堀の「百組」に属する町火消たちが、佐渡金山の坑内事故を知って、その事故で死んだ水替人足の墓を建立するための資金を集め、その送られてきたお金で佐渡金山の「水替人足小屋」の「差配人」であった「與吉」が、日蓮宗のお寺の僧侶に依頼して戒名を付けてもらい、相川の石工にこの墓碑を作らせたのではないか。

 ではなぜ江戸の「八丁堀」の町火消たちであったのか。

 この墓碑に刻まれている無宿人28人の出身地はまちまちです。

 しかし彼らのほとんどはおそらく地方から江戸に流れ込んだ無宿人たちであり、治安対策のために奉行所などによって捕えられ、佐渡へ「水替人足」として送り込まれた者たちであったのです。

 「八丁堀」といえば奉行所の役人が居住していたところでした。

 その「八丁堀」の町火消たちが金を集めて、坑内作業中(坑内の火災事故とも言われる)に不慮の事故で死んだ、江戸から送られた無宿人を弔うための墓の作成を依頼したのはなぜなのか。

 このあたりになると、もう推測の域になってしまいます。

 ともかく興味深い墓であったことは確かです。

 さらにもう一つ興味深かったのは、そのお墓の右隣にある、上段がなかば朽ちてしまった墓石のようなものであり、その前面には「浄〇〇信士」と刻まれた戒名と没年月日、および俗名が刻まれていました。

 そしてその下段の石(これは上段に比べると新しい)の前面にも同様に、戒名、没年月日、俗名が刻まれています。

 これは何なのか、これも墓ではないか、と疑問が湧いてきました。

                        続く



最新の画像もっと見る

コメントを投稿